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外伝 側近は、皇后陛下の手のひらで転がされる 7

 その後は特段新しい情報を得る事もなく、ルイタスはアンシェーゼに帰国した。


 セディア様の一件についての概略はすでに書面で陛下に報告しており、ルイタスは帰国後すぐにでも突き詰めた話がしたかったのだが、陛下は生憎、コーズという港湾都市に視察に出かけられていた。

 アモンやグルークまでもが視察に同行していると聞き、ルイタスはすっかり肩透かしを食らわされてしまう。


 大人しく帰りを待つしかないかとため息をついたところで、ルイタスはふと、この件は皇后に話を通した方がいいのではと思いついた。


 情に深い皇后ならば、必ずセディア様の苦境に手を貸そうとするだろう。

 勿論、陛下だけでもきちんと対応して下さるとは思うが、皇后からの口添えがあった方が、よりスムーズに事が運ぶ気がする。



 ということで、ルイタスは今、皇后の前にちんまりと座っていた。

 ……普通は、ちんまり、とは座らない。皇后は一応、酒飲み仲間の一人だし(皇后は酒は飲まないが)、割と気軽に会話を楽しんでいる。


 が、今日は何だか勝手が違っていた。

 午後一番の面会をあっさりと許してくれたというのに、途中から、どういう訳か皇后の機嫌が悪くなってきたのだ。

 陛下の妹君の話をしていて機嫌が悪くなるという事は、おそらく原因は陛下だろう。

 ルイタスの見るところ、アレク陛下は大層聡明なお方だが、時々無神経な発言をされる事がある。 


「えっと、ご気分は如何ですか?」

 話を中断して、一応尋ねてみたが、「何ともありませんよ」と返事が返ってきた。

 その言葉を鵜呑みにしてはいけない。明らかに皇后の様子がいつもと違うのだ。きっとアレが、何かをしたに違いない。


 ……それともまだ、妊娠による情緒不安定が続いているのだろうか。 


 思い出されるのは、つい二か月前の出来事だ。

 皇后は今、三人目を妊娠中で、あの頃はつわりがひどく、ほとんど物が食べられない状態だった。

 その様子に当然ながら陛下は心配され、皇后が口にできそうな果物を、金に糸目をつけずにいろいろと取り寄せられていた。


「病気ではないのですから、贅沢ですわ」と言った皇后に、「食べ物の値段など、たかが知れている」と返したまでは良かった。

 調子に乗った陛下は、ついうっかりと、「妾妃を一人囲うよりよほど安いものだ」と、口を滑らせてしまったのだ。


 その途端、皇后の目が大きく見開かれた。

「妾妃ですって?」

 陛下はあっというような顔で口を噤んだが、皇后はこの世の終わりとばかりに両手で口を覆ってしまった。

「そんな事を考えていらしたなんて!」


 妊娠されて不安定な皇后は、そのままポロポロと涙をこぼし始めた。

「い、いや、ちょっと待て……!」

ちまたの調査では、妻が妊娠すると、殿方の三人に一人は浮気をすると聞いておりましたが、本当の事でしたのねっ!」


 身に覚えのない浮気を確定されて、泡を食ったのは皇帝だ。

「おい、待て。巷の調査とは、どこの巷だ!」

 泣き始めた皇后を慌てて抱き寄せながら、皇帝は喚いた。

「私はそんな情報は聞いた事もないぞ!

 と言うか、そもそもその統計に信ぴょう性はあるのか!」

 皇后は、皇帝の言葉なんか、聞いちゃいなかった。すっかり自分の世界に入り込み、さめざめと泣いておられた。


 妊娠による一時的な感情の高ぶりである。

 後に本人が言われていたのだから間違いない。


 ついでに言うと、女性にとって泣くという行為は、精神安定上、とても意味があるものだそうだ。

 現に泣かれた後、本人はものすごくすっきりと爽やかなお顔をなされていた。

 ……身重の妻にひどい事を言ったと、執務室でしょんぼりと項垂れていた皇帝とは対照的である。


 あの時は、ちょっと泣かれただけであんなに慌てなくてもいいのにと少々呆れたものだが、当事者になると陛下の気持ちがよく分かる。

 今だって、ルイタスの心臓はバクバクだ。

 妊娠による情緒不安定とやらで、皇后が急に泣き始めたらどうしよう……。


 冷や汗をかいているルイタスに気付いていないのか、「お話を続けて下さいませ」とやや平坦な声で皇后が促す。

「陛下の妹君のセディア様とは、どういうお方なの?お人柄がよく伝わらないわ」

 手を差し伸べる価値はあるのかと暗に問われた気がして、今度こそルイタスの顔から血の気が引いた。

 

 普段なら、決してこんな事を言われる方ではないのだが、妊娠中で気分が高ぶっておられるのかもしれない。

 けれど、他の人間はともかく、皇后にだけは味方になってもらわないと困るのだ。

 皇后が乗り気になってくれないと、セディア様に対する陛下の立ち位置まで変わってしまう可能性がある。


 という訳で、ルイタスはもう必死になって、セディア様の話を皇后に奏上する事になった。

 初めて会った時のセディア様のご様子や、ご結婚後の経緯、ご夫君との生活や周囲の使用人達の言葉に至るまで、フェンから聞いた情報も含めて、何一つ隠す事なくルイタスは皇后に伝えた。

 それでもまだ皇后の機嫌が直らなかったので、庭園を眺めながら二人で過ごした午後の話までする羽目になってしまう。


 セディア様が手ずからハーブを栽培しているという話に、皇后はようやく興味を引かれた様子で、その話を詳しく聞きたがった。

 また機嫌を損ねられるといけないので、ルイタスはもう必死だ。

 セディア様から教えてもらったハーブの知識をここぞとばかりに披露し、種類や育て方、収穫の仕方や効能に至るまで、学者さながらにご説明申し上げた。


 すると今度は、ハーブの話しかできなかったのですか?と不満そうに聞かれたため、幼少の生い立ちから準騎士時代の悪ふざけまであれこれと喋ってしまった事を、正直に白状する羽目になる。

 幸い、皇后は会話の中身までは聞かなかったので、自分の黒歴史をその場でさらけ出す事だけは免れた。

 

 ここで皇后が、セディア様は聞き上手な方なのねと言われたため、ルイタスはここぞとばかりに、セディア様を猛アピールした。

 その容姿もさることながら、ご気性も申し分なく、その素直で優しい人柄にどれほど癒されるかという事などを、もう切々としゃべり続けた。

 ……あんなに熱心に一人の女性について語ったのは、おそらく人生で初めてだ。


 やがて皇后は、だんだんと楽しそうに相槌を打ってくれるようになり、その後は自然と会話も弾んだ。

 セディア様に対しても好感を持たれ始めたようで、特にハーブの調合を自分でされるというところに、大層感心されていた。


 最後には、「セディア様が帰国されたら、わたくしもハーブを調合して頂きたいわ」と口にされ、ルイタスは思わず、心の中で快哉を叫んだ。

 ようやく皇后の口から、帰国という言葉を引き出したのだ。

 これで一つ、話が前に進む。 


「セディア様は母国に帰りたいと切望しておいでです」

 ここですさかず、そう申し上げると、皇后はほうっと一つ、ため息をついた。

「そうでしょうね。話を伺っただけでも、あまりにひどい話ですもの」


 いつもは穏やかな皇后には珍しく、皇后はカインズ卿への不快をはっきりと口にされた。

 特に、事故で首から下が全く動かなくなった我が子を別邸に追いやり、一度も見舞おうとしなかったという非道さに、激しい怒りを覚えられたようだ。 


「セディア様をアンシェーゼに迎え入れる事については、どのようにお考えでしょうか」

 改めてお伺いを立てると、皇后は変な顔をした。

「迎え入れるに決まっておりますけれど」

「は?」

「陛下ともすでにそう話しています」


 これってもう、最初から決まってた話だったの……?

 ルイタスは呆然と皇后を見た。

 皇后を何とか説得しなければと、必死になって喋り続けた自分の苦労は一体何だったのだろう。


「あら、何か不都合な事が?」

 心底不思議そうに問われて、ルイタスは力なく首を振った。

「何でもありません。いえ……、本当に、大変ありがたいお話です…」


 皇后は小さく微笑した。

「ルイタス様から報告があって、陛下は初めてセディア様の身の上をお知りになり、とてもびっくりされて反省しておいででしたよ」


「左様デスカ」

 そうだろうとルイタスも思っていた。

 ……皇后の情緒不安定に直面するまでは。


 そんなルイタスに気付いた様子もなく、皇后はその美しい面に僅かな憂いを浮かべた。


「セディア様は本当に困難なお立場におられるようですね。

 ルイタス様のおっしゃる通り、婚姻から十五年が経過すると、お命すらも保障できない状況となるでしょう。

 とてもこのままにはしてはおけません」


 手にした扇を閉じ、もの思わし気に皇后は吐息をついた。


「ただどう動くにせよ、まずは安全な場所にセディア様をお連れしてからの事です。

 身柄を保護して、その後にカインズ家を含めた話し合い、と言う形になるでしょうね」


「……しかし、身柄を保護するといっても、カインズ卿がそれを許すとはとても思えません。

 家長権限の強いシーズでは、セディア様に対するカインズ卿の言葉は絶対です。

 許可なく一族の人間を連れ出せば、国を巻き込む騒動になりかねませんし……」


「その点については、カインズ卿を通さずに、王家と皇家の話に持ち込んでしまえばいい事ですよ」

 皇后は安心させるように微笑んだ。

「アンシェーゼには、セルティスという成人皇族がいるのです。

 こんな便利な駒を使わない手はないでしょう」


 ルイタスはあっと顔を上げた。

「セルティス殿下が直接シーズに出向き、その場で王からの許可をいただくということですか」


「ええ。

 姉とゆっくり話をしたいから、自分が滞在する国賓の間に姉を招きたいとでも言えば、王は反対なさらないでしょう。

 王の許可をもらったその足でセディア様を迎えに行き、そのまま国賓の間に匿ってしまえばいいことです」


 そこまで言った後、皇后は「けれど……」と顔を曇らせた。


「無策のまま、ただ保護だけしたのでは、セディア様の未来は閉ざされてしまいます。

 セディア様が何を言おうと、カインズ卿は罪を認めないでしょうし、証拠のないままシーズの貴族を糾弾すれば、シーズ王家も黙ってはおりません。

 王の立場なら、当然そのような不祥事は認めたくありませんし、ましてやカインズ卿夫人は、王の大事な従妹姫ですからね」


 皇后のおっしゃる事は、まさにルイタス自身も懸念しているところで、返す言葉もなく、ルイタスは唇を噛みしめた。


「シーズの国益については、ある程度譲歩できると陛下は言われていましたから、要はカインズ卿の面子ですね。

 アンシェーゼの皇女をここまで不当に貶めたのだから、相応の報いを受けていただきたいところだけれど、証拠がない事には手の打ちようもありません。


 もし帰国できたとしても、これではセディア様は一生幽閉です。

 本当に口惜しいこと……」


 そう呟く皇后の手が、無意識のように腹の子どもを撫でていた。

 ふとお顔を窺うと、目元の辺りに微かな疲労が浮かんでいた。


 部屋の隅で控えていた侍女もまたその様子に気付いたのだろう。

 滑るように近付いてきて皇后の耳元で何かを尋ねかけた。

 「大丈夫よ」と、皇后は小声で答えていたが、長居をしすぎていた事にようやく気付き、ルイタスはさっと席を立つ。


「申し訳ありません。

 この時期はお疲れが溜まりやすいと伺っておりましたのに、長々と話をしてしまいました」


 皇后は何でもない事のように微笑んで、首を振った。

「わたくしはお話を伺っていただけですわ。ルイタス様こそ、喉が痛くなられたのではなくて?」


 言われて、ルイタスは何とも言えない顔をした。

 喉が痛くなる云々よりも、洗いざらい白状してしまった事の方が今更のように気にかかる。

「……確かに喋り過ぎました」

 恨めしげにそう言うと、皇后は思わず笑い出した。


「今日は、色々な話が聞けて有意義でしたわ。

 セディア様の事、いろいろ教えて下さって礼を言います」


 それからルイタスを気遣うように声をかけてきた。

「帰国の件については、あまりご心配なさらないで。

 セディア様の後ろには陛下がいらっしゃるのですもの。必ず何とかして下さいますわ」




 皇后のところを辞した後、回廊から空を眺めると、すでに日は大きく傾いていた。

 自分は随分長い間、皇后の部屋で話し込んでいたようだ。


 皇后のペースに乗せられて、というか、皇后の機嫌を元に戻そうと、喉が嗄れるほどしゃべり続けてしまった。

 あの意味不明な不機嫌状態は、一体何が原因で起こった事なのだろうか。

 ルイタスにはさっぱりわからないが、自分の気力が限界まで擦り切れた事だけは、はっきりと自覚した。


 疲れた……とルイタスはぐったりと天を仰いだ。

 会うのは久しぶりだし、三人の帰りを待っていようかと思っていたが、もうそんな気分にはとてもなれない。

 どうせ陛下は、皇后から今日の話を聞かれる筈だし、後は皇后に任せよう。


 ルイタスはさっさと家に帰る事にした。




 翌日会ったアレク陛下は、開口一番、「ご苦労だった」とルイタスを労ってくれた。

「セディアの事は、昨日ヴィアから詳しく話を聞いた。かなりややこしい話になっているようだな」


 アレクの言葉に、アモンやグルークがどういう事かと聞いてきたので、ルイタスは簡潔にセディア様の事情を話してやる。


「それにしても、十五から四年もの間、一度も公に姿を見せなかったのに、それでよく廃嫡となりませんでしたね」

 呆れたように言うアモンに、アレクは軽く肩を竦めた。


「あの時期、シーズはちょうどばたついていたからな。前王が卒中に倒れ、二回目の発作で王太子が政務を担うようになった。前王妃も病がちになり、結局は亡くなっている。


 グレンは王立学校も卒業して貴族としての要件は満たしていたし、病弱だとごまかしておけば、静養先から出てこなくても廃嫡には直結しない。


 時機が悪かったとしか言いようがない。

 グレンが死んだのは、シーズ前王が亡くなって間もなくだ。

 貴族達の関心は新王即位と新体制に向かっていて、グレンの死はそのまま忘れ去られた。


 あの当時、すでにセディアは十五になっていたから、婚姻契約も正式に結ばれていた。

 カインズ卿にとっては願ったり叶ったりだっただろう」


 もしあのままグレンが生きていたら、カインズ卿夫妻はどうするつもりだったのだろうかとルイタスはふと考えた。


 寝たきりのグレンに貴族位を継がせる事はできないから、いずれ次男のセフェイムを跡取りとしてお披露目しなければならない。

 そのためにはグレンを廃嫡する必要があるが、廃嫡には理由が要る。下手に耳目を集めて秘密が暴かれる事を、彼らは何より恐れていた筈だ。


「そう言えば、王立学校の卒業を以って一人前の貴族と見なすのは、シーズ独自の慣習ですね」


 ルイタスの物思いに気付いた様子もなく、感慨深げにそう言葉を挟んだのはグルークだった。

「他の国は一般に武力を重んじるから、騎士の叙任が貴族の最低条件ですが」


 グルークの言うとおり、同じ聖教を信仰する国で、そのような制度を持ち込んでいるのはシーズだけだ。

 隣国のガランティアや宗教の違うセクルト連邦なども、アンシェーゼ同様に騎士の叙任を貴族の第一義と考えている。


「あそこは信仰と生活が密着した国だからな。貴族としての考え方がそもそも違う。

 シーズでは教養に神学が含まれているそうだ。武に優れる以上に大事な要因らしいぞ」


 現在の聖王庁は、マラカンという独立した地に大聖堂を立てているが、今なおシーズの信仰は他の国に比べて厚い。

 発祥の地と言う自負もあるのだろう。


「そもそも、貴族の子弟が通う幼年学校を、教会が主催しているというのも変わっていますね。

 信仰の国と言われるだけあってシーズは至る所に教会がありますから、国の教育制度を担うには確かにうってつけなのですが」


「ああ、あの制度は本当に面白い」

 為政者の眼差しで、アレクが笑った。

「幼年学校には、貴族の子弟だけでなく、裕福な商人の息子や聖職者の子供なども通っていると聞いたぞ。

 様々な階級の人間と触れ合う事で、幅広い視野を身に着けていくそうだ。

 家庭教師に学び、貴族階級しか知らずに育つアンシェーゼとは大違いだな」


 それを聞いて、グルークが思わず苦笑した。

「私は文院に通いましたけれどね」

 貧しい家庭に育ったグルークは、とてもではないが家庭教師を雇ってもらうお金がなかった。

「お陰で、いい経験はできたと思っていますよ。確かに、あの場でなければ学べない事もたくさんありました」


 そうして四人でひとしきり国の教育について談義した後、アモンがふと呟くように言った。


「幼年期から教会の教えに触れ、あれほど信仰に密着している国なのに、カインズ卿はよくもあそこまで、天に恥じる行為ができたものですね」


 心底不思議そうなアモンの言葉に、ルイタスは軽く肩を竦めた。

「世俗に塗れて信仰も揺らいだのだろう。

 親の教育もあって、グレンの弟妹も湯水のように金を使っているようだから」


「だまし取った金で遊興三昧か。

 自国の貴族なら、家ごと潰して平民に落としてやるんだが」


 アレクがやる気満々でそう続け、ルイタスは心の中で大いに賛同した。


「そう言えば、陛下は一度セディア様にお会いになった事があると聞きました。当時の事を覚えておいでですか?」

 そう問うと、アレクは「いや」と首を振った。


「父のところにいたら、たまたま三番目の妹が挨拶に来た事だけは覚えているんだが」

「あの頃の陛下は、弟妹に全く興味を覚えておられませんでしたからね」

 アモンが、無理もないといった口調で苦笑する。


「昨日、ヴィアに宣言されたぞ。

 私の妹達に関しては、嫁いだからきっと幸せに暮らしてます、なんて幻想はもういだかないって。

 セディアの境遇を知って、よほどショックだったようだ。

 この件が落ち着いたら、セクルトに嫁いだ二人の妹にも連絡を取ると言っていた」


「皇后陛下らしいですね」

 アモンは楽しそうに笑った。

「二人の妹君……、ですか。お名前は何と言われるのでしたっけ?」

 聞かれたアレクは、ん? という顔をした。


 奇妙な沈黙がしばらく流れ、グルークは思わず溜め息をついた。

「きちんと覚えておいた方がいいと思いますよ。

 実の妹の名前も忘れてたなんて皇后がお知りになったら、きっと面倒な事になる」


「……皇帝はする事がたくさんあるんだ」

 アレクがそう開き直ると、グルークは器用に片眉を上げた。

「ごもっともです。

 その言い訳が皇后陛下に通用するとよろしいですね」


 笑顔のまま、アレクの顔がちょっと青ざめた。

 何だかかわいそうになり、教えてやるべきかとルイタスが迷っていると、グルークがあっさり正解を口にした。

「マリアージェ様とリリアセレナ様です」


 答えを聞いたアレクは、慌てて口の中で復唱した。

 どうやら皇后に怒られるのは避けたいようだ。


「つかぬ事をお伺いしますが、昨日、皇后陛下の機嫌は如何でしたか?」

 ふと気になってルイタスが尋ねかけると、アレクは首を捻った。

「機嫌? 普通に良かったぞ。

 話したい事が山ほどあって、私の帰りを待ち侘びていたようだ」


「途中、何だか機嫌が悪そうに感じたんですよ。

 陛下がまた何かやらかしたんじゃないかと思ったんですけど」


「またとは何だ」

 心外だと言いたげに、アレクはルイタスを見た。

「私の帰りを待ち侘びていたと言っただろう。言っておくが、ヴィアは私にぞっこんだぞ」

 アレクはそう言ってふんぞり返り、惚気を聞くのが馬鹿らしくなったルイタスは、これ以上この話題を続けるのを止めた。


 ともあれ、アンシェーゼの皇帝夫妻の仲がいいのは大変よろしい事だ。

 皇后は何だかんだと皇帝を振り回していらっしゃるが、陛下の事を心から愛しておられるのが言葉の端々からも感じられる。


 今回の件も、陛下がきっと何とかして下さると皇后は迷いなくそう言われた。

 愛情と信頼がなければああは言えないだろう。


 そんなルイタスの思いを読み取ったように、アレクがふと強い眼差しでルイタスを見た。

「お前の事だ。

 セディアとの連絡手段は確保してあるのだろう?」

「はい」


 ルイタスが頷くとアレクは笑った。

「セディアに私からの言葉を伝えてやれ。

 必ず、アンシェーゼに迎え入れる。少し時間はかかるかもしれないが、その心づもりで待てと」


 その言葉にルイタスは一瞬瞠目し、それからすぐに破顔した。


 皇帝が断言した以上、セディア様の帰国は確約された未来となる。

 後は、どういう形で決着をつけるかだ。


「仰せの通りに致します」

 早くセディア様に伝えて差し上げたいと、ルイタスは弾む気持ちでそう独り言ちた。


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― 新着の感想 ―
[一言] 好きで購入した電子書籍のその後、外伝や関連を読めて嬉しかったです。 相変わらずの王妃様が大好き。 ここを読んでいて、王やルイタス皇后の情緒不安定にあたふたしてる様子を読ん、完結の最後に1…
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