外伝 側近は、皇后陛下の手のひらで転がされる 6
館に帰り着くや、ルイタスはフェンを自室に呼び入れた。
早速、首尾を聞くルイタスに、「おおよその事は聞けました」といくぶん得意げにフェンが答える。
一日中振り回したのに、今日は珍しく愚痴から始まらないんだなと、ルイタスは妙なところに感心した。
「あの館で働く者は、今現在五名です。
グレン殿が存命の折は医師がおりましたが、亡くなられたのを機に本邸に返されました。
侍女のウィリアを除く残り全員が、グレン殿が幼い頃から仕えていた者達だそうです。
離れて暮らしていたのは、グレン殿が王立学校の寄宿舎に入っていた期間だけとの事でした」
「王立学校……?
ああ、そうか。宿舎に使用人を連れて行けるのは、王族だけと限られているからな」
ここシーズは、アンシェーゼとは貴族教育の在り方が全く異なる。
騎士の叙任を以って一人前の貴族と認められるアンシェーゼと異なり、シーズでは貴族子弟は六歳から幼年学校へ通い、その後は王都にある寄宿制の王立学校に進む。
四年間の寄宿生活の中で貴族としての人脈を築いていき、卒業を機に、社交の場へ顔を出していく事になるのだ。
「幼い頃から仕えていたというが、グレン殿は六歳から五年間は、領地ブルーニャに行っていたのではないのか?」
王都に館を構える領地持ち貴族の子弟らは、自領の幼年学校に通うのが一般的だ。
これは、親元から離れて自立心を養い、自領の文化や産業について学ぶためだと聞いている。
「おっしゃる通りです」
フェンは頷いた。
「グレン様は六歳でブルーニャに旅立たれましたが、身近に仕えていた四人の使用人がグレン様に同行しました」
「では、別邸に今いる者達は、単なる使用人というより、赤子の頃からの守役といった意味合いが強いのだな」
ルイタスは腑に落ちた様子でそう言った。
「はい。
執事であるマルクは、元々グレン様の傅育官でした。グレン殿が一番心許していた者と言えるかもしれません。
先程、唯一の例外として名を出したウィリアは、このマルクの一人娘です。
八つの時に見習いとしてカインズ家に入り、以来セディア様に仕えていました。
グレン様がウズクに行く事になった時、セディア様に侍女は二人も必要ないとカインズ卿夫人が言ったようですが、グレン様のお世話には人手が要るからとマルクが頼み込み、娘のウィリアを一緒に連れて行ったようです。
セディア様とは一つしか年が違わず、一番親しくしている侍女であるという事でした」
セディア様が名前を出したあの侍女だな……と、ルイタスは小さく頷いた。
「今日は館にいる全員から話を聞きました。
先ほどもお伝えしたとおり、グレン様は六歳から五年間を領地ブルーニャで過ごされ、その後、王都の王立学校に進学されています。
王立学校在籍中、十一になったばかりのグレン様のところにセディア様が嫁いで来られました。寄宿舎と本邸に別れての別居生活でしたが、グレン様はひと月に一度は帰省され、セディア様と交流を持たれていたようです。そして、卒業を機に一緒に暮らされるようになりました。
事故が起こったのは、卒業されて二か月後の事です。
カインズ家の本邸には大きな馬場があり、そこで乗馬をしていた際に、頭から落馬されたとの事でした。
すぐに医師が呼ばれましたが、容体は明らかに重篤で、夫人がすぐに緘口令を出したとか。
詳しい経緯は知りませんが、グレン殿が泡を吹いて痙攣している姿を見た馬丁は翌日には殺されたと聞いています。
妻であるセディア様にも落馬事故の事は知らされず、流行り病に罹ったのでしばらく会えないと説明されたようでした。
グレン様の病室に入る事が許されたのは、幼い頃からグレン様に仕えていた使用人達だけだったのだとか。
三、四日後には何とか意識は戻りましたが、その後も激しい熱や痙攣が続き、ようやく症状が落ち着いた頃には、首から下がすべて麻痺していました。
事故から凡そひと月後に、グレン様はウズクに移転させられます。
急に顔を出さなくなったグレン様を心配して、友人達が度々館を訪れるようになり、本邸に置いておけなくなったというのが、その理由のようでした。
本当は、王都から遠く離れた領地ブルーニャに行かせたかったようですが、馬車での長旅にグレン様の体がもちそうにないと判断され、ウズクに決まったようです。
首から下が全く動かせなくなった状態に、グレン様は激しい混乱と恐怖を覚えておいででした。その上、一人で別邸に療養に行かされると聞き、ご両親から見放されたような気分になったのでしょう。
ご両親と激しい口論になり、泣き叫ばれたと聞きました。
グレン様には強い鎮静剤が与えられ、薬が効いて深い眠りに落ちたところを馬車に抱き運んで、そのままウズクへ運んだようです。
セディア様がウズクに発ったのはその翌日です。
グレンが別邸で待っているからそちらに行くようにと言われ、何も知らずにウズクに連れて来られました。
再会後に初めて事実を知り、床に座り込まれたと聞いています」
「惨い事を」
ルイタスは頬を歪めるように呟いた。
「話は戻りますが、ウズクでマルクが命じられていたのは二つです。
誰がグレンの許を訪れても決して会わせず、それがグレンの望みだと伝える事。
そして、文のやり取りは必ず本邸を通して行う事、だそうです」
「私はセディア様からの文をここで受け取っているが?」
苦笑混じりにルイタスが問うと、
「あれはマルクの与り知らぬ事だそうですよ」
フェンはすました顔でそう返した。
「セディア様に仕える侍女が知り合いに文を託す事までは管理できないと、マルクが言ってましたから」
「そう言えば、グレン殿が事故に遭ってしばらくして母君が亡くなったとセディア様は話されていたが、母君とのやり取りの文も押さえられていたという事なのだろうか?」
ふと気になって確かめてみると、「いえ」と、フェンは首を振った。
「事故について書き記せば、本邸に握り潰されるのがわかっていたため、マルクがセディア様を説得したようです。
病で寝ついている母君を心配させるような事は書かない方がいいと。
セディア様はそのようにされたので、手紙はきちんと本国に届けられ、母君からの手紙も最後まで受け取れていたと言っていました。
母君が亡くなられた時、セディア様はアンシェーゼに帰りたいと言って激しく泣かれたそうです。
勿論、カインズ卿が許す筈もなく、それを知ったセディア様は悲しみのあまり、部屋に引きこもるようになってしまわれました。
セディア様が自分の許を訪れなくなり、それでなくても荒んでおられたグレン様は激怒されました。
引き摺ってでも自分の許に連れて来いと大層な剣幕だったそうです。
今のセディア様をこれ以上追い詰めるべきではないと思ったマルクは、意を決して、グレン様に真実を伝える事にしたと言っていました」
「真実を?」
「ええ。
グレン殿の友が何度もグレン殿を見舞おうとしている事、けれどご両親がそれを許さず、友が書いた手紙も本邸で握り潰されている事。
セディア様共々、ウズクに幽閉されたのは、事故が公になることを恐れているからだという事などです。
セディア様との婚姻の条件を覚えておいでですかとマルクが尋ねた時、グレン様はようやく全ての事由に気付かれたようです。
白藍の利益が目当てだったのか、とそう呟かれたそうですから。
……その日を境にグレン殿は変わられたと、マルクは言っていました。
自身の不幸ばかり嘆かれていたのが、セディア様の境遇を少しずつ気遣われるようになったと聞いています」
「そんな事があったんだな……」
ルイタスは深く溜め息をついた。
「ただ、セディア様を気遣われるようになったとは言っても、まだ、十四、五の子どもです。
癇癪を起されるのは日常茶飯事でしたし、ままならぬ人生に何度も泣き叫ばれたり、守役らを言葉で攻撃したり、などという事も多かったようです。
ただ、周りの人間を抉る言葉の刃で、ご自身も傷ついておられたと、ウィリアはそんな風に話していました。
親兄弟から見放されたグレン様にとって、セディア様は残されたたった一人の家族でした。
その明るく穏やかな人柄に救われて、少しずつ心を開いていかれたそうですが、半面、グレン殿の心を一番苦しめていたのは、セディア様に対する申し訳なさだったとも聞いています。
セディア様がご不在の時、自分はセディアにひどい事をしていると、グレン様は何度も自分を責めておられそうですから」
「あのような事態を引き起こしたのはカインズ卿だ。グレン殿が自分を責める必要はないと思われるが」
ルイタスが眉宇を寄せると、フェンは「おしゃる通りです」と頷いた。
「グレン殿にはどうしようもできない事でした。
ただ、その真実を伝え、カインズ家がセディア様に対して行った非道を謝るという選択肢もあったのです。
グレン殿には、それがどうしてもできなかったのです。
この婚姻が無効である事を知られれば、セディア様は自分を恨み、今までのように笑いかけてくれなくなるかもしれない。
グレン殿は、それを一番恐れておられたそうです」
「それは……そうだろうな」
その気持ちが理解できて、ルイタスは大きく嘆息した。
「聖教の祈りを一心に唱えておられるグレン様を、ウィリアはよく見かけたと言っておりました。
信仰に頼る事で少しずつ気持ちも落ち着いてきたのか、寝付いて二年が経過する頃には、穏やかな眼差しでセディア様と笑い合う事も多くなったと聞いています。
……どのようにお二人が過ごされていたかは、セディア様から伺っておいでですか?」
「ああ。花を愛でたり、一緒に刺繍を考えたりして過ごしたと聞いている。悪くない日常のようだった」
「グレン殿は刺繍の図案を考えるのに長けていたようですよ。色選びも絶妙だったとか。
お二人で仕上げられた作品を、使用人達は皆、もらっているそうです。宝物だとマルクは言っていました」
「そうか」
その光景が目に浮かび、ルイタスは思わず口元を綻ばせた。
「亡くなった当時の事については何か聞いたか」
問い掛けると、フェンは僅かに顔を険しくした。
「別邸に来られるなり、カインズ卿はまず、セディア様を別室に監禁されたそうです。弔問客に余計な事をしゃべられると困るからでしょう。
その上、訪れた親族や他の貴族らの前で、これ見よがしにグレン様の遺体に取り縋って泣き崩れたとか。
グレン殿の無念と恨みを知るウィリアなどは、その姿を見るに堪えなかったとこぼしておりました。
葬儀が済むや、カインズ卿夫妻はセディア様に対し、今後、この別邸から外に出る事は許さないと申し渡されたそうです。
シーズでは家長の権限は絶対ですから、セディア様は命に従うしかありませんでした」
その仕打ちがよほど腹に据えかねたのか、フェンにしては珍しく、吐き捨てるような語調で言葉を続けた。
「騙して世話をさせた挙句、用が済んだら幽閉してその後の人生も踏み躙るのですから、本当に血も涙もない人間です」
フェンを労って下がらせた後、ルイタスは行儀悪く卓子の上に肘をついて、ぼんやりと窓の方を見つめていた。
取り敢えず事情は掴めたが、どうすれば婚姻が無効であった事を立証できるのかと考えると、ルイタスにはまるでその方法が思いつかなかった。
事故の証人となり得たグレンは死に、セディア様以外で真相を知るのは、別邸に暮らす使用人だけだ。
彼らに貴族を告発できよう筈もなく、勇気を持って直訴しようにも、主家を裏切った罪で裁かれるだけだ。
証拠は何もない。
グレン殿は手記を残せるような体ではなく、セディア様の証言だけで今の状況を覆す事は不可能だった。
ルイタスはこめかみを揉み、疲れたように吐息を零した。
国同士の話し合いでセディア様を帰国させる事だけならば可能かもしれないだが、その代わりカインズ家は、セディア様を絶対に表舞台に戻さないよう、条件を突き付けてくる筈だ。
それでは、幽閉先が変わるだけで、セディア様にとってあまり意味がない。
いや、とルイタスは思う。事実を知るセディア様を、カインズ卿が外に出す筈がない。国同士の話し合いに持ち込んだ時点で、おそらくセディア様は消されるだろう。
取りあえず、当時のグレン殿の周辺については、情報を集めてもらうよう知人に頼んでいた。
カインズ卿の目にとまるような行為は極力慎むべきだが、状況を何も知らぬままでは手の打ちようもない。
ルイタスが頼ったのは、先日、急遽茶会を欠席させてもらったバルド夫人だった。詫びと共に、知りたい情報について書き記し、助力を頼んでいた。
外遊することの多いルイタスは、こんな風に何かあれば力になってもらえるような知り合いを、国ごとに見つけていた。
選ぶのは、幅広い人脈を持ち、金に汚くなく、人当たりがよくて、バランス感覚に優れた女性だ。
話し上手である事は外せないが、口にしてはいけない事には、きちんと口を噤める人でなければならない。
ぶっちゃけて言えば、ヴィア皇后の小型版である。
シーズで見つけたのがこのバルド夫人で、貴族としての格は、中の上から上の下といったところだが、相手から警戒心なく話を聞き出すのが非常に得意な貴婦人で、かつ聡明な女性だった。
ルイタスにとって渡りに船だったのが、アレク陛下が即位する半年ほど前に、バルド夫人の娘がアンシェーゼの中流貴族に嫁いでいたことだろう。
バルド夫人はアンシェーゼに嫁いだ娘のために、アンシェーゼの高位の貴族と親しくなりたがっており、ルイタスの方はシーズの外交における情報源のような人間を欲していて、双方の利害が結びついた。
波長も合うため、シーズに来るたびに懇意にさせてもらっている。
頼んだのが一昨日の朝で、夫人と会えるのは明日の晩だ。
叶うなら、人目につかぬ形でグレン殿の友人と話がしたいと伝えてはいるが、たった二日やそこらで根回しができるかどうかは微妙なところだった。
取りあえず、当時の様子を夫人から聞けるなら、それだけで良しとすべきかもしれない。
翌日の晩、ルイタスは予定通り、ヨドム卿の邸宅へ向かった。
この時期は社交シーズンなので、毎日、どこかしらの邸宅で茶会や夜会などが開かれるが、シーズの宰相であるヨドム卿が開く今日の夜会は別格だ。
名立たるシーズの貴族はほとんど招待されているし、国外の貴族も多く招かれている。王宮主催の夜会に匹敵するほどの規模と言えた。
主催者であるヨドム卿に挨拶を済ませた後、それとなく辺りを見渡すと、他の貴婦人らと談笑をしていたバルド夫人が、人垣の向こうから軽く手を振ってきた。
ルイタスの事を探してくれていたのだろう。
他の知り合いと挨拶を交わしながらゆっくりと夫人に近付くと、夫人も話の輪から離れて近付いてきた。
「先日は急にご招待をお断りすることになってしまい、申し訳ありませんでした。突然、本国からの用事が入りまして」
ルイタスが真摯に頭を下げると、バルド夫人は開いた扇の向こうでくすりと笑った。
「来られるのを楽しみにしておりましたから、欠席と聞いて残念でしたわ。
けれど、言付けて下さったヴィシーの焼き菓子は、サロンの皆にとても好評でしたの。ですから、どうぞお気遣いなく」
軽くルイタスの肘に手を置きながら、夫人はさりげなく長廊下の方へルイタスを誘導する。
このような大広間では、誰が聞き耳を立てているかわからないので、込み入った話ををする訳にはいかない。
その点、バルド夫人はその辺りをよく心得ていた。
大広間を抜けると人の姿もまばらとなり、更に長廊下の中ほどまで来たところで夫人はようやく足を止めた。
ヨドム家の長廊下は、片側がガラス張りになっていて、柱の間から広々とした庭が眺められるようになっている。
見渡す限り人もおらず、密談をするにはうってつけた。
「文にあった例の方ですけれども、わたくしなりに一応調べてみましたわ。
かなり古い話ですので、少し驚きましたけれど、確かにラダス卿が興味を示されてもおかしくないお方ですわね」
ルイタスは何も答えず微笑した。否定しないことで、暗に夫人の言葉を肯定する。
「内密にということでしたので、貴方のお名前は出しておりません。
大した情報は拾えませんでしたが、取りあえずは、お一人の方とは繋ぎがとれました」
ルイタスはほっとしたように笑みを浮かべた。
「助かります。何とお礼を申し上げたらいいか」
「あら、お礼を申し上げるのは、こちらの方ですわ」
夫人はいたずらっぽくそう言葉を返した。
「先日は、娘の出産祝いに大層なものを送って下さったとか。娘婿の家では、それはもう大騒ぎだったようですのよ」
貴族社会では、格上の貴族との人脈をどれだけ持つかで、将来が大きく変わってくる。
夫人の娘が嫁いだブライト家は、アンシェーゼでは中流貴族だ。
皇帝の側近から直接、出産祝いが贈られるような家柄ではなく、さぞ人目を引いた事だろう。
「今日ご紹介するお方は、グレン様が王立学校で一番親しくされていたご友人です。
ジェイス・ブローグン様とおっしゃるのだけど、御存じかしら」
「ジェイス・ブロークン……。確か、一度挨拶をした事があると思います。カインズ家に繋がる方であったと覚えておりますが」
「その通りです。グレン様の父方の従兄弟に当たりますわ」
「……夫人は、グレン殿の事をどの程度ご存知ですか」
改めてルイタスが問い掛けると、夫人は僅かに首を傾げた。
「あの方は王立学校を卒業されたばかりでしたし、遠目にお顔を拝した事があるだけです。直接言葉を交わした事は一度もありません。
ただ、わたくしが親しくお付き合いをさせていただいている方のご子息が、王立学校で同じ学年でした。
ですから昨日はその方とお会いして、学校でのお話をいろいろ伺いましたの」
「学生時代に病弱であったというような事は?」
「お元気そのものでいらっしゃったそうですわ。不思議ですわね。卒業後に、急に病弱になられたみたい」
意味深にそう言って夫人は笑う。
「その事について不審に思う者はいなかったのでしょうか」
「噂になったような時期もあったようですが、母君は王族に繋がるお方ですから。
正面切って、何かを言えるような者はおりません」
「なるほど」
「それに当時が当時でしたし……」
夫人は言葉を濁したが、その言いたいところを知り、ルイタスは苦笑して頷いた。
事故の起こった十年前と言えば、シーズの前国王がちょうど中風で倒れた頃だ。一度目の発作はさほどひどくなかったと覚えているが、半身に軽い麻痺が残って大騒ぎになっていた事を覚えている。
その後も発作を繰り返し、亡くなられる二年前からは、今の国王、当時の王太子が国王としての政務を代行しておられた筈だ。そんな時期であれば国全体がばたばたしていて、一貴族の話題が霞んでしまったとしても無理はない。
「ところで今日、ジェイス殿はこちらの夜会に来ていらっしゃるのでしょうか?」
気を取り直して問い掛けると、夫人は「ええ」と微笑んだ。
「実は、ヨドム卿の奥様に頼んで休憩室の一つを開けていただいておりますの。そちらに来ていただくよう、ジェイス様にもお伝えしてありますわ。
白藍の間なのですけど、お分かりになる?」
貴族の邸宅には、馴染みの友人とカードに興じたり、酒を酌み交わしたりできる、こじんまりとした部屋がいくつか用意されている。
女性を連れ込む事は許されておらず、男性用の社交の場とも言える場所だ。
部屋の名を表わすものが扉に使われている筈で、白藍の間というからには、白藍の磁器がどこかに使われているのだろう。
相変わらずの手際の良さに、ルイタスはもう苦笑するしかない。
「多分、分かります。このご恩はどのようにお返ししましょうか」
いたずらっぽく尋ねると、バルド夫人は楽しそうに口角を上げた。
「良かったら、今度アンシェーゼの皇宮で行われる舞踏会で、ハンクに声を掛けてやって下さる?」
ハンクとは、夫人の娘婿の名だ。
「仰せのままに」
ルイタスは笑い、感謝を込めて夫人の手に口づけた。
白藍の間に行くと、すでにジェイス・ブローグンが待っていた。グレン殿と同い年だから、二十四になる筈だ。
そのジェイスは、ルイタスの顔を見るとはっとしたように背筋を正した。
カインズ家に繋がる者とはいえ、ブロークン家はさほど家格が高くない。そしてジェイス自身も国の要職とは無縁の身だった。
大国アンシェーゼの名門貴族で皇帝の執務補佐官を任じられているルイタスは貴族としての格が違うため、ジェイスは瞳を伏せてルイタスの言葉を待った。
「突然お呼び立てして、申し訳ない」
ルイタスは相手を警戒させないようにもの柔らかな口調でジェイスに話し掛けた。
「カインズ家のグレン殿について少し伺いたい事があり、バルド夫人に仲立ちを頼みました」
バルド夫人からある程度の話は聞いていたのだろう。ジェイスは僅かな困惑を見せながらも、「はい」と頷いた。
「ブローグン卿はグレン殿とかなり親しい関係であったと聞いておりますが」
「その通りです。
私はグレンの従兄弟に当たりますので、幼い頃から見知っています。
六歳から互いに領地住まいとなりましたので交流は少し途絶えましたが、その後、王立学校で同室になり、再び親しく交わるようになりました。
私もグレンも体を動かす事が好きでしたから、余計気も合ったのだと思うます」
「卒業後も親交があったのですか?」
「はい。グレンのお披露目会には勿論呼ばれましたし、王家主催の馬上球技大会では一緒のチームで出場しました。クラブでも良く顔を合わせていて、ずっとそんな関係が続いていくと思っていたのですが……」
「ある日突然連絡が取れなくなったと?」
「ええ。流行り病にかかったとかで、館に行っても、今は会えないの一点張りです。仕方なく文を託けたのですが、代筆で返事が返ってきました。
文章もグレンが考えたようには思えず、どういう事かと困惑しているうちに、今度は静養のためウズクの別邸に行ったと知らされたのです」
「不自然だと思われませんでしたか?」
「勿論思いました」とジェイスは答えた。
「急に連絡が取れなくなった事がとにかく不安で、友人達とウズクまで会いに行った事もあります。けれど、その時も会わせてもらえませんでした。
こうなったら、こっそり別邸に忍び込むしかないと友人達と冗談交じりに話していた時、母がカインズ卿夫人に呼ばれたのです。
他の友人達も、同じように母親がお茶会に呼ばれ、グレンが嫌がっているのに度々押しかけてきて迷惑だと、はっきり釘を刺されました。
ご存じのように、カインズ卿夫人は王陛下の従姉に当たります。言う事を聞かない訳にはいきませんでした」
「まるで詮索しないように、圧力をかけてこられたようですね」
「ええ。何故こうまでグレンと接触させまいとするのか、全く理解できませんでした。もしかしたら、グレンはもう死んでいるのかもしれないと、友人と話した事さえあります。
でも五年前、葬儀に参列したら、当たり前の事ですがグレンが棺に安置されていました。
五年分、大人びた顔つきになっていて、随分痩せていた」
「その時、セディア夫人とはどんなお話を?」
違和感を植え付けるためにわざと話題を振ってみると、ジェイスは首を振った。
「お会いしていないのです。
ずっとグレンに付き添っていたと伺っていましたから、お話を聞きたかったのですが、グレンの死に衝撃を受けて寝ついていらっしゃるとの事でした。
親の自分達でさえ這うような思いで出てきているのに、あの嫁は夫の葬儀にも出てこないとカインズ夫人が嘆かれていて、周囲の者達が口々にセディア夫人を悪く言われていたから、よく覚えています」
思わぬ言葉に、ルイタスは息を呑んだ。
セディア様を無理やり部屋に閉じ込めておきながら、よくもそのような言葉が吐けたものだとルイタスは歯噛みする。
礼儀を弁えない人間としてセディア様を周知させ、今後も社交界に出させない道筋を作ったのだろうが、長男を看取った相手をあそこまで踏み躙れるとは、大した神経だ。
結局セディア様は、グレン殿と最後の別れをする事さえ許されなかった。
あれでは、グレン殿も浮かばれないだろう。
無言になったルイタスを見て、ジェイスは躊躇いがちに口を開いた。
「もしかすると、セディア様の件で調べておられるのでしょうか?」
「ええ」
ある程度の事情は伝えておいた方がいい、そう判断したルイタスは真っ直ぐにジェイスを見つめた。
「グレン殿がカインズ卿の不興を買っていたと、そのような噂を聞きました。
グレン殿は、我がアンシェーゼとも縁のあるお方です。不当な扱いを受けておられたのなら、何故そのような事になったのか知るべきだと思いました」
ルイタスの言葉にジェイスは瞠目した。
「何か、グレンについて知っていらっしゃるのですか?」
「いえ」
ルイタスは首を振った。
「今はまだ、お伝えできるだけのものはありません」
そして、やや厳しい面持ちでジェイスを見た。
「もし何かがあったのであれば、グレン殿のためにも真実を知る必要があると私は思っています。
ただ、下手に動けば耳目を集め、セディア様の名誉も傷つきかねません。
この件についてはジェイス殿は一切関わらず、今日、私と会った事も誰にも言わないでいただきたい」
ジェイスは驚いたように顔を上げたが、ルイタスの言う事に理があるとすぐに思い直したようだった。
「おっしゃる通りに致します」と頷いた。
「グレンについては、これ以上私の方では調べません。
その代わり、もし何か事実が分かったら、私にも教えて下さると約束していただけませんか?」
ルイタスは真っ直ぐにジェイスを見つめ、軽く顎を引いた。
「わかりました。そのように致しましょう」