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外伝 側近は、皇后陛下の手のひらで転がされる 3

 カインズ家の別邸は、王都の中心部から馬車で凡そ一時間離れた、周囲を緑に囲まれた場所にあった。

 最初の門をくぐってから暫く、馬車で木立の中の小径を進み、突然視界が開けた先にその瀟洒な建物は建っていた。


 正面には噴水が配された庭園があり、その奥に建つ二階建ての邸宅は白を基調としていて、薄いブルーの屋根瓦とのコントラストが美しい。

 貴族の別邸としてはかなり小ぶりだが、石柱やアーチ部分には細やかな彫刻が施されていて、装飾にはかなりのこだわりが見受けられた。

 

 周囲を深い森に囲まれているため、辺りはひっそりとしている。

 鳥の鳴き声や、風が木々を揺らす音が時折聞こえるばかりで、ここがまだ、王都の一角だということが信じられないくらいだ。


 馬車から降り立ったルイタスは、到着を待ち侘びていたかのように別邸の執事に丁寧に迎え入れられ、すぐに夫人の待つ客間へと通された。


 重厚な扉を開けると、まず目に飛び込んできたのは、鮮やかな色彩で描かれた見事な天井画だった。

 部屋には、二人掛けのソファーや肘掛け椅子などがバランス良く配され、白いレースのカーテン越しに差し込む柔らかな光を背にする形で、セディア夫人は静かにルイタスを待っていた。


 初めて会ったセディア夫人の印象は、随分と華奢だなというものだった。

 長く豊かな金髪を宝玉のついた髪留めで緩く結い上げているため、きれいな弧を描く頬のラインとすっきりとした首元が露わになっている。

 身に纏っているのは、胸元部分に縦のギャザーがとられたピンクベージュのドレスで、ウエスト部分で切り替えられたシンプルなデザインが、ほっそりとしたセディア夫人に大層似合っていた。

 

 皇后の一つ年下だから、年は二十一だった筈だ。

 アレク陛下と同じ琥珀色の瞳を長い睫毛が縁取り、鼻梁がすっと通り、淡く紅を刷いた小さな唇も大層愛らしい。

 白い肌は健康的な若々しさに満ちていて、面立ちは申し分なく美しいのに、贅に慣れた姫君たちが当たり前のように持している華やかさには欠けていた。

 いかにも控えめで慎ましやかといった佇まいで、ルイタスが社交の場で出会う、どの姫君たちともまるで違う。

 眼差しから人柄が滲み出るような、そんな柔らかな雰囲気を持っていた。


「セディア・シェレ・カインズと申します。本日はようこそお越し下さいました」

 印象にたがわぬ柔らかい声だった。


「初めてお目に掛かります。ルイタス・ジリオ・ラダスと申します」


 ルイタスが胸に手を当てて軽く会釈すると、セディア夫人は躊躇いながら右手を差し出した。

 その手を取ったルイタスは、セディアの手の甲にそっと唇を寄せる。

 緊張をしているのか、握ったセディアの指は少し冷たかった。


 顔を上げたルイタスは、相手の警戒を解すように柔らかく微笑みかけた。

 ルイタスの笑顔につられたように、セディアが控えめな笑みを頬に浮かべる。

 笑うと、目元の辺りが少しアレク陛下に似ている事にルイタスは気付いた。


「カインズ卿夫人」

 そう呼びかけると、セディアの笑顔がたちまちかげった。


「その名はあまり好きではないのです。できれば名前で呼んでいただけないでしょうか?」


 ぶしつけな頼みごとに困惑したものの、ルイタスは即座そくざに頷いた。

 今、対応を誤まれば、セディア夫人がこのまま心を閉ざしてしまうように感じられたからだ。


「承知致しました。

 ではセディア様。私の事も、どうぞルイタスとお呼び下さい」


 セディアは小さく頷いた。


「ルイタス様、今日はわたくしのために時間を割いて下さり、本当にありがとうございました。

 改めてお礼申し上げます」

 

 侍女に文を言付けたものの、会ってもらえる可能性は薄いだろうと、セディアは半分以上諦めかけていた。

 あのまま捨て置かれることも覚悟していたのに、文を受け取ったラダス卿はすぐに言伝を侍女に託してくれた。

 それがどれほど嬉しく心強かったか、言葉にはできぬほどだ。

 

「こちらこそセディア様には謝らなくてはなりません」

 ルイタスは静かに言葉を返した。 

「六年前にご夫君が亡くなられたとお聞きしました。

 お悔やみを申し上げるのが遅れましたこと、この場を借りて深くお詫び申し上げます」


「そのことは、もう……」

 セディアはゆっくりと首を振った。

「こうして来て下さっただけで十分です。

 こんな風に外の方と会えて、わたくしはとても嬉しいのです。もうずっと、ここに仕えている使用人以外と会っていませんでしたから」


 自分の現状をそのまま伝えると、ルイタスは驚いたように瞠目した。

「セディア様は、気晴らしに街の方に出掛けられたりはなさらないのですか」


「……わたくしは、この別邸から出かけることを許されておりません」

「許されていない?」

 ルイタスは、一瞬、意味を計りかねた。

「……それはカインズ卿がそうおしゃったということですか?」


 セディアは「ええ」と瞳を伏せた。

「許されているのは、この敷地内だけです。使用人たちは自由に外へ行き来できますが、わたくしはこの敷地から出る事を許されておりません」


「……もうずっと使用人以外とは会っていないと先ほどおっしゃられましたが、それはいつ頃からの事でしょうか?」


「十二の時、グレンと……亡くなった夫とこちらの別邸に移されて、それ以来ですわ。

 もう、九年になります」


 理解しがたい状況に、ルイタスは眉宇を寄せた。何故そのような状態になっているのかが分からず、ルイタスは思いつくままに問いを重ねてみる。 


「ご夫君は三年以上こちらで療養されていたと聞いています。

 ご親族や友人の方がお見舞いに来られても、セディア様はお会いになられなかったということでしょうか」


 その瞬間、セディアの瞳に隠しようのない険が走り抜けた。

「会うも何も、寝付いていた夫の下を訪れる者は誰もおりませんでした。

 夫の父も母も弟も妹も、グレンが生きている間は、一度としてウズクを訪れることはありませんでしたから。


 ……ああ、そうでしたわ。グレンが亡くなった時、三年半ぶりにカインズの両親とお会いしました。

 生きている間に何故見舞って下さらなかったのかと、あの時は本当に口惜しかった…」

 セディアはそのまま言葉を詰まらせ、しばらく感情の波に耐えるように唇を引き結んでいた。


 ややあってセディアは顔を上げた。

「申し訳ございません。

 ですが、グレンを訪れる貴族は、本当に誰もおりませんでしたの。

 グレンには仲の良い友人がいた筈なのですけれど、その方たちもこちらに顔を見せることはありませんでした。

 ……今考えますと、グレンはその事を寂しく感じていたかもしれませんわ」


 当時のセディアは日々の生活に手いっぱいで、夫の友人の事にまで気が回らなかった。

 けれど、グレンはどうだっただろうか。

 縫い付けられた寝台の上で、グレンは友の訪れをずっと待っていたのかもしれないと、不意にセディアは思った。


 最後まで友の事を口にしなかったのは、家族ばかりでなく、友にも見放されたような気がして辛かったからだろうか……。

 改めてグレンの寂しさが胸を衝き、セディアは滲みそうになる涙を必死に堪えた。


 そんなセディアの表情を、ルイタスは厳しい目でじっと追っていた。

 一体カインズ家で、何が起こっていたというのだろう。


 今のセディア夫人の話だと、グレンという嫡男もセディア夫人も、一度もこの別邸から外へ出てはいない。

 そして病に寝付いていたというその嫡男を、親兄弟を含めた親族や友人は、一切訪れる事がなかった。

 別邸に留め置かれ、完全に孤立させられていたその状況を、一言で言い表すならそれは監禁だ。

 紛れもない悪意がそこには存在していた。


「グレン殿は何故、ウズクへ?

 今のお話では、病気療養のために転地されたとは、到底思えません。一体グレン殿に、何が起こったというのでしょう」

 

 ルイタスの問いに、セディアは訝し気に顔を上げた。 

「病気療養……? 失礼ですが、ルイタス様。貴方はわたくしの夫について、どの程度御存じなのでしょうか?」

「あまり多くの事は……」

 ルイタスは正直にそう答えた。

「ただ、ご病弱であられた事と、亡くなられる三年ほど前からこちらの別邸で静養されておられた事はお聞きしております」


「病弱ですって……?」

 思い掛けない言葉に、セディアは大きく息を呑んだ。

「グレンが病弱であったなど、誰がそのようなでたらめを……!」


 ルイタスは大きく眉根を寄せた。

「違うのですか……? 私はカインズ卿から直接そうお聞きしておりますが」


 その瞬間、セディアは怒りのあまり、目の奥が真っ赤に染め上がった気がした。

 事故でグレンがあのような体になった事が、あの両親にはそれほど恥に思えたのだろうか。

 グレンを切り捨てたばかりか、そのような嘘で周囲を塗り固めていたなど、今の今までセディアは思ったこともなかった。


 ……だから、あの夜、義父母はわたくしを部屋に閉じ込めたのだ。

 セディアはようやく合点がつき、叫び出しそうになるのを堪えようと、握り合わせた手にぎゅっと力を入れた。


 グレンの傍にずっと付き添っていたセディアは、当然グレンがどういう状態であったか知っている。

 余計なことをしゃべられないために、あの日セディアは、どうしても隔離されていなければならなかったのだ。


 そこまで考えた時、それまで隠されていたもう一つの事実にセディアは気付いてしまった。


 グレンが寝たきりであった事実を隠すためにどうしても必要であった事。それは、療養していたグレンを誰とも会わせない事だ。

 見舞いの客を許せば、グレンが寝たきりである事に気付かれてしまう。だから長患いの間、誰もグレンの許を訪れなかった。

 

 何と惨い事を……とセディアは思う。

 グレンが過ごしたあの壮絶な三年半を、絶望と怒りと悲しみにのたうった地獄のような時間を、あの人達は何だと思っているのだろう。

 訪れる者の誰もいない別邸で、グレンがどれほど寂しい日々を送っていたかを知るセディアには、到底許せる事ではなかった。


「グレンは病弱などではありません!健康なお体でした!」 

 堪え切れずに、セディアの瞳から涙が溢れ出た。

「グレンが別邸に閉じ込められたのは、落馬事故で首を損傷したからです!

 首から下は全く動かなくなって、歩く事は無論、手も動かせなくなって、ずっと寝たきりの生活を送られていました……」


「落馬事故? 寝たきり……?」

 我慢できずにしゃくり上げるセディアを見つめたまま、ルイタスは呆然とその言葉を繰り返した。

 

「グレンはその時、まだ十五でした。今のわたくしよりも六つも小さい、まだほんの子供だったのです。

 ルイタス様、貴方にお分かりになるでしょうか。

 健康で思う未来をいくらでも望めた子どもが、いきなり四肢の自由を奪われ、自分では何一つできなくなったのです。

 遊んだり、歩いたりができなくなるだけではありません。

 食べる事も下の始末をする事も、悔しさに涙しても、その涙を自分で拭う事もできないのです……!」


 セディアはその口惜しさに嗚咽し、頬を流れる涙を手の甲で何度も拭った。


「グレンはよく死にたいとわたくしに言いました。

 誰よりも家族の慰めを必要としていたのに、グレンには自分より三つも幼い、子ども同然の妻しか傍にいなかったのです。

 カインズ夫妻は、体の不自由になった我が子を別邸に隔離して、見舞いにすら来ようとしませんでした。

 すべてを失った十五の子どもです。

 親を必要としている事くらい、誰にでもわかることなのに……。


 そんな風に見捨てておいて、挙句に病弱だから静養に出したなどと、グレンの苦しみを踏みにじるような真似をよくも……!」


 一度言葉に出してしまえば、セディアにはもう止められなかった。

 三年半に及んだ闘病生活のグレンの苦しみと絶望。どれだけ辛く寂しかったか、どれだけ親を恨み、自分を呪ったか。


 子どものように泣きながら、セディアはひたすら訴え続けた。


 ルイタスは黙ってセディアにソファーをすすめ、その傍らの椅子で組んだ手の上に顎を乗せるようにして、静かに聞き入ってくれた。


 ある日、全くグレンに会わせてもらえなくなり、ひと月後、急に別邸に呼ばれて、初めてグレンの怪我を知らされた事。

 行き場のない苦しみを、セディアや周りの人間にぶつけて、ようやく精神の均衡を取ろうとしていた幼いグレン。

 隔絶された世界で誰にも助けを求めることができず、追いつめられて一人泣いていた寒い夜。

 そして、突然母国から知らされた母の死。


 ルイタスが真摯に耳を傾けてくれたから、セディアはしゃくりあげながら当時の状況を一生懸命話し続けた。


 初めてグレンに花を持っていった日に、ようやく家族としての絆を感じた事。

 母から教わった刺繍をしながら、グレンの枕辺で過ごした日々。


 図案をグレンが考えてくれて、一緒に糸の色を選んでいた事を話していると、静かに相槌を打っていたルイタスが、「見せていただけませんか?」と静かに言葉を挟んできた。

 だからセディアは仕上げた作品を、侍女に頼んで持ってこさせた。

 そして作品を見せながら、一つ一つ思い出を話していく。


 鳥の形が難しくてどうしてもうまくいかず、完成した歪な鳥を見て、グレンに思わず噴き出された事。セディアが軽く睨むと、「ごめんごめん」とグレンは笑いながら謝ってきた。

 花びらの色が気に食わなくてしょげていた時は、別の色を重ねるように助言された。グレンは色彩感覚が優れていたから、その通りに色を足すと、見違えるほど花が生き生きとしたものだ。


 グレンとの思い出はたくさんあって、話すうちにセディアはようやく、グレンが思った以上に笑っていた事や、セディアとの時間を楽しんでくれていた事に改めて気が付いた。


 枕辺に飾られた花瓶の花を嬉しそうに見つめていたグレン。手ずから育てたハーブを初めて淹れて、二人で香りを楽しんだ午後。

 グレンは音楽も好きだったから、セディアはよくグレンの前でチェンバロを演奏した。


 語り始めると、話は尽きなかった。

 泣いていたセディアの瞳から憂いが消え、やがて口元を綻ばせながら日々の出来事のあれこれを口にし始める頃には、日はすでに大きく傾き始めていた。

 にこやかに話に聞き入っていたルイタスも、さすがにこれ以上の長居はできないと窓の方をちらりと眺める。


 セディアもそれに気付き、夢から覚めたように笑みを消した。

「申し訳ありません。わたくし……」


 謝罪の言葉を口にするセディアに、ルイタスは笑って首を振った。

「楽しいひと時でした。

 こんな言い方はおかしいかもしれませんが、セディア様の傍は心地良い。きっと言葉の一つ一つに心が籠っているせいでしょう」


 思わぬ賛辞に、セディアは頬を赤くした。

 十二から別邸に籠っているセディアは、実のところ、若い男性に余り免疫がない。

 唯一、年の近い男性はグレンだったが、グレンはセディアにとって家族のような人間だった。

 今更ながらに、初対面の男性の前で、散々泣いて醜態をさらした事に気付き、いたたまれなくなったセディアは床に視線を彷徨わせた。


 そんなセディアを穏やかな眼差しで見つめ、けれどこれ以上時間に余裕が取れなかったルイタスは、申し訳なさそうにソファーから立ち上がった。

「セディア様、申し訳ありません。今日はこれから、どうしても顔を出さなければならないところがあるのです」


 セディアは一瞬、寂しさを隠しきれずにルイタスに見上げたが、すぐに、そんな自分を恥じるように瞳を伏せた。

「お忙しい事は重々承知しております」


「……ですので、また明日こちらに伺ってもよろしいですか?」

 思わぬ言葉を耳にして、セディアはえ? と顔を上げたが、実のところ、口にしたルイタスの方も驚いていた。

 寂しそうなセディアの表情を見た途端、つい口が滑ってしまったのだ。

 まあ、明日の午後ならば、多少の不都合はあるが、時間を作れない訳でもない。


「明日……? 明日も来て下さるのですか?」


「セディア様さえ構わなければ」

 自分自身に苦笑を覚えながらルイタスは答え、それからいたずらっぽく付け加えた。


「実のところ、私をこちらに呼ばれたご用件をまだお聞きしておりません。

 慌ただしくお聞きするのも無粋ですし、宜しければ明日は、外の庭園でゆっくり話を伺わせていただけませんか。

 ……叶うならば、セディア様お勧めのお茶を、明日こそは味わいたいものですし」


 言われてセディアは、お茶の一杯もルイタスに勧めなかった事に、今更ながらに気が付いた。

 侍女のウィリアはきちんとお茶の用意をしてくれていたのに、テーブルの上ですっかり冷めきっている。


「ごめんなさい、わたくし……」

 今度こそ真っ赤になったセディアを見て、ルイタスはくすりと笑みを滲ませた。

 それから、セディアの手を取って、椅子からそっと立ち上がらせる。


 まるで物語の王子様のよう……。

 洗練された優美な立ち居に、セディアは思わず気恥ずかしさを覚えた。

 それに比べて、世事に疎くもの慣れない自分の、何とみやびさに欠ける事か……。


 思わず逸らした視線の先に、刻一刻と朱色を増していく西の空がカーテン越しに見えた。

 早く帰るように促そうと思ったのに、セディアの唇から零れたのは別の言葉だった。


「明日はいつ頃に……?」

 ルイタスは軽く微笑んだ。その顔がどこか嬉しそうに見えたのは、セディアの錯覚であったのかもしれない。

「今日と同じくらいの時間帯に参ります」


 早く明日が来ればいい…。そんな風に考えている自分に気付き、セディアは恥じらうように瞳を伏せた。

 もう何年も、次の日が来る事を楽しみに思った事などなかったのに、今は明日の事を思い描いただけで、胸の奥がくすぐったくなっていく。


「お待ちしておりますわ」

 ざわつく心を抑え、精一杯の言葉を返したセディアに、ルイタスは小さく笑って頷いた。



 玄関ホールでセディアと別れた後、馬車止めの処で、ルイタスは見送りに来ていた初老の執事を振り返った。

 今日ここを訪れた時、待ち侘びていたようにルイタスを館に迎え入れてくれた男だ。


「お前の名は?」

 ルイタスの問いに、執事は僅かに瞳を上げた。


「こちらの別邸の執事をしております、マルクと申します」

「ではマルク、一つ聞いておきたい。今日、私がここを訪れた事を、お前はカインズ卿夫妻に報告するのか」


 ルイタスが何を聞きたいのか分かったのだろう。

 マルクは一瞬瞠目し、それからすぐ、何気ない表情を取り繕った。


「私が命じられておりますのは、シーズの貴族がこちらを訪れた際には、丁重にお断りするようにということでございます。

 ラダス卿はアンシェーゼの貴族でいらっしゃいますので、それには該当しないかと」


「ならば、セディア様が私と接触した事は、カインズ卿には伝わらないのだな」

 今一度、念を押したルイタスに、マルクは「はい」と答え、意を決したように口を開いた。

「……少し、お話をさせていただいてもよろしいでしょうか」


 別邸の実情を知りたかったルイタスに否やはない。促すように頷くと、マルクは静かに口を開いた。 


「セディア様がこちらに移された時、あの方はまだ十二の子どもでした。

 その後三年以上ご夫君の介護に明け暮れ、亡くなられてからは、もう用が済んだとばかりにそのまま捨て置かれておいでです。

 このままではセディア様はこの館から一歩も外に出る事なく、一生を終えられる事でしょう。

 それでは余りに惨いと、私どもは思っております」


「そうだな」

 ルイタスが短く同意を表わすと、マルクは更に言葉を続けた。


「……私どもは、セディア様にご恩があるのです。

 ここに仕える者のほとんどが、グレン様が幼少の折より傍でお仕えしていた者です。

 あのような事故に遭われてお身体が不自由になった上、ご両親や弟妹君からも見捨てられ、若君はそれはお辛い毎日を過ごしておいででした。


 そんな若君をセディア様は救って下さいました。

 家族を恨み、運命を呪い、呪詛の言葉を周囲に吐き散らしておられた若君が、セディア様の優しさに心を動かされ、時には笑みも浮かべられるようになったのです。


 若君は亡くなる前に、ありがとうとセディア様に言われました。

 それが最後のお言葉でした。

 辛酸を嘗められた末のご最期でしたのに、あの方は感謝を胸に抱いて逝く事ができたのです。わたしどもにとってこれほど嬉しい事はございませんでした」




 ゆっくりと動き出した馬車の中で、ルイタスは先ほどの執事の言葉をぼんやりと反芻していた。


 館の者達は皆、セディア様の行く末を心底案じているのだろう。このまま別邸に閉じ込められて一生を終えるのはあまりに惨いと、執事ははっきりと口にした。

 三年にもわたるセディア様の献身を思えば、無理からぬ話だ。

 話を聞いただけのルイタスでさえ、カインズ卿夫妻のやりように、抑えようもない怒りが湧き上がってくる。


 だが一方で、この状況を動かす事がいかに難しいか、ルイタスには痛いほどわかっていた。

 寡婦になったとはいえ、セディア様は未だカインズ家の嫁だ。家長であるカインズ卿の言葉は絶大で、一族の一人であるセディア様に逆らう事は許されていない。

 

 ……焦る事はない。

 馬車の背もたれに深く身を預け、ルイタスは自分に言い聞かせるようにそう心に呟いた。

 シーズの滞在は、まだ三日残っている。その間にできるだけ情報を集め、まずはアレク陛下にこの件を持ち帰る事だ。

 セディア様の窮状を知れば、陛下は必ず動いて下さるだろう。



 目を閉じれば、小さなえくぼを浮かべて笑うセディア様の姿が浮かんだ。


 僅か十二で寝たきりになった少年に添わされて、運命を恨む事なく、穏やかな愛情で夫君を支え続けたセディア皇女。

 その真摯な生き様には、ひたひたと胸を打つような確かな温もりが息づいていた。


 わだちの音に身を任せ、閉じた瞳の向こう側で、ルイタスはその優しい温もりにそっと手を伸ばす。

 虚飾に満ちた華やかさの中でルイタスがとうに見失っていたそれは、ルイタスにはどこか眩く、ほっこりとした面映ゆさを感じさせた。


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