外伝 側近は、皇后陛下の手のひらで転がされる 2
シーズ王家主催の舞踏会から帰ったばかりのルイタス・ラダスは、困惑していた。
先ほど、水差しを取り換えに来た侍女が、高貴な方からの文を預かっておりますと、グラスの脇にそっと一通の封筒を置いていったからだ。
恋文の類をもらう事が少なくないルイタスだが、こんな渡され方は初めてだ。
普通は馴染みの貴婦人からすれ違いざまに文を手の中に落とされるか、あるいは主から文を預かった顔馴染みの侍女に直接手渡される。
勿論、邸宅に直接届けられる文がない訳ではないが、その場合は執事、もしくは秘書官の手によってルイタスの手に渡されるものだった。
間違っても、館の侍女から直接ルイタスに届けられるような事はない。
卓子の上を見れば、茶会や晩餐会などへの正式な招待状が、きちんと仕分けされて置かれている。シーズに同行させている秘書官のフェンがしてくれたものだ。
こうした社交は重要で、選別には特に気を遣わないといけない。
王族や高位の貴族からの招待は必ず受けなければならないし、社交界で注目を集めている貴婦人や、個人的に親しくしている貴族からの誘いは、都合がつく限りは出席する。
それ以外の招待状については、丁重にお断りさせていただいていた。
ルイタスは多忙の身だし、一々付き合っていては身が持たないからだ。
ルイタスは、グラスの横の封筒を手に取った。
正規の手続きを踏まずにこういう形で渡されたのだから、人目を忍ぶ文であるということは間違いないのだろう。
あるいは、出席を断った貴族からの奇を衒った招待状なのかもしれないと、封筒を裏返してみたが、そこに差出人の名前はなかった。
「余興でここまでするか?」
ルイタスは白けた気分になり、封筒を投げるように卓子の上に戻した。
シーズの滞在は今日で二日目だ。
夕刻から始まった舞踏会は、主役の王夫妻が退席してからも続き、今もまだ多くの貴族が舞踏会場に残っている。昨日シーズに着いたばかりのルイタスは流石に付き合いきれず、日付が変わる少し前にようやく帰ってきた。
旅の疲れもまだ完全に抜けきらず、ルイタスは一つ大きく伸びをする。
タイを取り、襟元を緩めると、着ていた夜会用のジャケットを無造作にソファの背に脱ぎ捨てた。
ルイタスの身分を考えれば、侍女か従僕がついて世話を焼くのが一般的だが、準騎士時代は身の回りの事すべてを自身で行っていたルイタスは、使用人がいなくても別に支障はない。
特にここは、シーズにおける外交用の拠点として、アンシェーゼの王家が保有している邸宅だ。
雇われている使用人の身元自体は確かだが、顔馴染みなどほとんどなく、そんな者達に四六時中侍られるより、一人でいる方がよほど気楽だった。
人当たりもよく、物腰の柔らかいルイタスは、こんな風によく国外に出される事が多い。この度も皇帝の意を受けたシーズ国訪問で、十日少し滞在する予定になっていた。
因みに今回のシーズ来訪は、シーズ国の王妃の懐妊祝いだ。アレク陛下とヴィア皇后からの祝意を預かり、四日前に国を出た。
両陛下からの親書や贈り物も無事、王家に届け、今は国を挙げての祝祭行事や、各方面からの午餐、晩餐の招待を順調にこなしている状態だ。
ついでに言えば、自国の皇后も懐妊中なのだが、アンシェーゼではシーズほどの盛り上がりは見せていない。
すでに皇子も皇女も生まれているし、三人目はどっちでもいいかなみたいな、ぬるい空気が広がっている。
一方のシーズの王妃はと言えば、国内外の注目を華々しく集めている状態だ。
何しろ今の国王には、王位を継ぐべき男児がいない。
前王妃との間に生まれた四人の御子はいずれも王女殿下で、二年前、ガランティアから嫁いできた現王妃が昨年生み参らせたのも、やっぱり王女殿下だった。
今回が二度目の懐妊となり、今度は是非とも男児をと、国中が固唾を呑んで見守っている。
そのため、どこの夜会に顔を出しても、今は必ずこの話題で盛り上がる。
王子と同じ年の男児を生んでおけば、将来の側近候補となるし、女児ならば王太子妃候補だ。貴族らの子作りにも俄然、熱が入り、ここ最近はあちこちの家でめでたい報せが目白押しだ。
ルイタスには全くの他人事なので、面白おかしくその様子を眺めていられるが、これほど盛り上がられては、渦中の王妃はさぞ気苦労が多いことだろう。
王妃稼業も楽ではないなと、ルイタスなどはつい心に呟いてしまう。
……言っておくが、ルイタスが王妃に稼業などというふざけた言葉をくっつけるようになったのは、自国の皇后陛下のせいだ。
断じてルイタスの発想ではない。
国に関わる重要な案件で、アレク陛下が難しい顔をされていた時、皇后が「皇帝稼業も大変そうですわねえ」と、のほほんと声を掛けられて来られたのだ。
皇帝って稼業だっけ? とルイタスは本気で首を捻ったが、陛下自身はその言葉が大層気に入られたようだ。
それから何か嫌な問題が起こる度に、稼業だから仕方ないなと、鬱憤混じりに呟いておられた。
そう言えば、アンシェーゼでも皇后が初めて懐妊された折には、あちこちで慶事が続いていたことをルイタスは思い出した。
つい眉間に皺が寄ったのは、ルイタスがいきなり結婚させられたのも、ちょうどその時期であったからだ。
相手の女性はアンシェーゼの重臣の娘で、絵に描いたような政略結婚だった。それなりに関係は悪くなかったと思うのだが、半年も経たぬうちに妻が事故で死んでしまった。
夜会の帰り道に、崖崩れに巻き込まれたのだ。
当時ルイタスはセクルトを訪問していて、早馬で妻の死を知らされて、急遽アンシェーゼに帰国した。
あまりに唐突な報せであったため、ルイタスには悲しみよりも戸惑いの方が大きかった。
両親はと言えば、子を孕んでいたかもしれない嫁が事故死したことに大きく落胆していた。
葬儀を終えた翌日に、両親から再婚を仄めかされたあの日のことは、今でも忘れられない。
彼らにとってルイタスは、家を繁栄させる道具だった。改めてそれを再認識し、ルイタスは嫌悪感を顔に出さないようにするのが精いっぱいだった。
両親の事を考えると、未だに苦い思いがこみ上げてくるのをルイタスは止められない。
もうずっと子どもの時分から、ルイタスは自分の親が大嫌いだった。
彼らはルイタスを何かにつけて支配しようとする。
嫡男として確かに大切にされてはきたが、それはルイタスを愛しているからではない。ルイタスが彼らにとって役に立つ人間だったからだ。
親に反発を強めていた十代の頃と違い、今はルイタスもきちんと感情を抑えられている。けれど時に、どうしようもなく心が荒んでしまうことはあった。
いつだったか、ひどくむしゃくしゃしていた時、皇后にそれを感付かれてしまった。
何に苛立っているのかまではわからなかったようで、当時、貿易問題で散々アンシェーゼを手こずらせていたタルスの大使が原因だと、皇后は思われたようだ。
ある日ルイタスを見かけた皇后は、あの大使の綽名を教えてあげましょうかと、扇の陰でこっそり囁いてきた。
……皇后は、気に食わない貴族にこっそりと綽名をつけるのが趣味である。
「わたくしは、噛みつきガメと呼んでいるのだけれど」という皇后に、なるほどと思いつつ、「いっそ薄毛卿で如何ですか」とルイタスは言ってみた。
例の大使には、かなりうんざりさせられてきたからだ。
「薄毛はちょっとそのまま過ぎやしないかしら」と皇后は真剣に首を傾げ、「まばら卿の方がいいと思うわ」と提案してきた。
……直接的ではなくなったが、そこはかとなく、薄毛よりも失礼度が上がった気がする。
それにしても、髪をまばらと表現するなど、皇后は何と斬新なセンスをしておられるのだろう。ルイタスは心から感服した。
以降、まばら卿に何を言われてもさほど腹が立たなくなったので、あの会話はとても有意義だったと思っている。
その後、自分にも綽名がつけられていないか心配になったルイタスは、直接皇后に尋ねてみたが、家族と陛下のご友人にはつけませんと神妙な顔で答えられた。
なのでルイタスは、もう一歩踏み込んでみた。
では、私の父親はどうでしょうと聞くと、皇后は笑顔のまましばらく固まった。
「ルイタス様の御父上にまさか綽名など、ほほほほほ」
とごまかされたが、あれは絶対に何か愉快なあだ名をつけている。
そう思うと、それまで巣くっていた苛立ちが嘘のように消えていくのをルイタスは感じた。
皇后の傍にいると、何だか気分が明るくなる。のびやかで明るい皇后に支えられて、陛下も日々幸せそうだ。
家族仲もすこぶる良く、この前などは、陛下の姿を見つけたロマリス皇子が、「兄上」と嬉しそうに叫んで、飛びついて行っていた。
因みに、陛下を取り巻く悪友三人のうち、アモンは、芯のしっかりした一族筋の娘を妻に迎えて、すでに男児をもうけ、グルークもつい昨年、中堅どころの貴族の娘と結婚した。
今現在、独身なのはルイタスだけだ。
家を継ぐべき貴族としては、かなり出遅れている感じはあるが、自分を縛る妻がいない生活は、実のところルイタスの気に入っている。
遊び相手には不自由していないし、何よりも気楽だからだ。
妻の葬儀の翌日には再婚を勧めてきた両親が、あれから沈黙を守っているのはどうにも不気味だが、どうせよりよい縁組でも探して、決めかねているのだろう。
自分で言うのもなんだが、ルイタスは理想の婿候補だった。
アンシェーゼの名門出身、かつ皇帝の側近で出世も順調ともなれば、そりゃあ、目をつけたくもなるだろうとルイタスは思う。
内面とか人間性はどうであれ、名家の血筋と地位と財力は、姫君たちにとって魅力的だ。ついでに、年頃の娘を持つ貴族連中らにとっても。
ラダス家の嫡男として、いずれ結婚はしなくてはならないが、今暫く猶予があるならば、この自由を楽しんでいたい。
それが今のルイタスの偽らざる本音である。
ルイタスはソファに座すと、グラスに注いだ水を一気に飲み干した。酔いが軽く残っているせいか、やたら喉が渇く。
シャツの釦を更に二つほど外し、ふと思い出して、徐に先ほどの封筒に手を伸ばした。
中に入っていたのは、一枚の便せんだった。
文章は一行だけ書かれていて、下にセディア・シェレ・カインズと署名がある。
カインズというからには、シーズ国王の従妹を夫人に迎えているあのカインズ卿縁の者だろう。それにしても、あの家系にセディアなんて名前の娘がいたか?
ルイタスは首を捻り、次の瞬間、それが陛下の異母妹の名前だと気付いて、椅子からずり落ちそうになった。
パレシス皇帝の第三皇女だったセディア皇女だ。確か、アレク陛下より六つ年下になる。
因みに第四皇女ヴィアトリスは、セディア皇女が生まれて後にパレシス帝の養女となったため、年齢はセディア皇女より一つ上だが、系図上は妹という扱いになっている。
そして、今はアレク陛下の皇后となっているため、セディア皇女の兄嫁でもあり、義妹でもあるという、ややこしい関係の女性だ。
まあ今は、皇后のことはどうでもいい。
何で今頃、自分に繋ぎをとってくるかなと、ルイタスは首を傾げた。
セディア皇女については、実はルイタスはあまり情報を持っていなかった。アンシェーゼにとってあまり重要な皇女ではなかったからだ。
母親が皇帝の愛人という立場だったため、王族に嫁ぐことは難しく、七つか八つで、シーズの名門カインズ家の嫡男に嫁いだ筈だ。
婚姻相手の名前までは憶えていなかった。確か病弱で、成人後すぐに空気の良い別邸に引きこもったと聞いている。
ようやくアレク陛下の治世が落ち着いて、ルイタスがシーズを訪れた頃には、その夫君もすでに亡くなられていた。
社交デビューもしないまま夫君を亡くし、子にも恵まれなかったという立場では、社交界に出る機会もなかったのだろう。
ルイタスはその後、何度かシーズを訪れているが、社交の場でこの皇女と顔を合わせた事は一度もない。
ルイタスは、文をしみじみと眺めた。
便せんには香も何も焚かれておらず、紙にはカインズ家の印すら刻まれていなかった。紙だけは一応上質なものを使っているが、透かしの類も入っていない。
白い紙片にはただ一言、義父母に内密でお会いできないか、とのみ書かれていた。
何か自分に頼みごとがあるのだろうなと、ルイタスはぼんやりとそう考えた。
シーズでは、夫を亡くした妻は一生、婚家に残ることが義務付けられている。
一応、嫡男の未亡人にあたるわけだから、社交の場を与えるという選択肢もカインズ卿にはあった筈なのだが、セディア皇女は一切公の場に出てきていない。
かなり粗略な扱いを受けている可能性があった。
とにかく会って話を伺うことが大事だが、明日からも予定はほぼ埋まっていた筈だ。いや、確かテデス卿の夜会の前は、午後が丸々空いていたのではなかったか。
フェンが用意していた予定表をざっと確かめ、ルイタスはこの日ならば時間が取れるなと心に呟いた。
取り敢えず、セディア皇女についての情報をできるだけ集めておいた方がいいだろう。明日の朝一番に本国に伝書鳩を出し、こちらに資料が届けられるのは四日後か、五日後か……。
皇女が何を望んでおられるにせよ、できるだけ意に沿えるよう、心づもりだけはしておいた方がいい。
手紙を丁寧に卓子に戻した時、もし、皇后が陛下の元に嫁いでおられなければ、自分はこの文をどうしていただろうかと、ルイタスはふと、自分に問い掛けた。
皇国にとってあまり益のない皇女だ。
アレク陛下も、弟妹には全く関心を持っておられなかった。
カインズ家からの正式な文であるならともかく、このようにこっそりと運び込まれた文など、おそらく自分は相手にもせず、その場で握り潰していた気がする。
一応、帰国後に陛下に報告はするだろうが、アレク陛下もまた、それで良しと言っていた筈だ。
ルイタスは大きく息をついた。
今は、そんなことは恐ろしくてできない。……皇后が激怒するからだ。
それに今は、アレク陛下自身も、家族に対する考え方が変わって来られた。
もしセディア皇女が助けを求めておられるのなら、できるだけ手を尽くしたいとアレク陛下もお考えになるだろう。
シーズの滞在予定はあと九日だ。
今回は、祝賀を兼ねた招きが多いため、むやみに断り辛い状況だが、状況によっては誘いを断る事も視野に入れていく必要がある。
ルイタスは呼び紐に手を伸ばした。
取りあえず六日後の午後を開けておく事と、皇女についての情報を集めたい事を、フェンに言っておかなければならない。
顔を出した先ほどの侍女に、フェンを呼んでくるよう告げ、手紙の主に伝言が託せるかどうかを尋ねてみた。
カインズ卿に知られるのをセディア様が恐れているなら、先触れの使者を遣わす訳にもいかない。六日後の午後に伺うと伝えてくれとルイタスが直接、伝言を頼むと、侍女はほっとしたように頷いた。
侍女が下がった静かな部屋で、ルイタスはセディア皇女からの文をもう一度開いてみた。
字はのびやかでてらいがない。
会ってみたいと思わせるような、そんな優しい手跡だった。