外伝 側近は、皇后陛下の手のひらで転がされる 1
今回の主人公は、アレクの側近の一人です。
アレクや側近たちの準騎士時代の思い出や、その後のヴィアやアレクの様子についても、少し触れていきたいと思います。
一話目には、今までの登場人物がほとんど名前を出さないので、一話と二話を続けて投稿します。
もうずっと、自分の人生を諦めていた。
どれほど望んでも願いに手は届く事はなく、このまま周囲から忘れ去られて、いつか消えてしまう身なのだと。
けれどある日、故国から一つの報せがもたらされた。その報せを耳にしてから、自分はもう一度夢を見てもいいのかもしれないと淡い希望を抱くようになった。
だって、皇帝に刃向かったロマリスでさえ、未来が与えられたのだ。
ならばこの自分にも、慈悲の手が差し伸べられるかもしれない、と。
カインズ家のセディアは鏡を見てため息をついた。
柔らかな弧を描く眉と、長い睫毛に縁どられた琥珀色の大きな瞳、小さくふっくらとした紅い唇と、その横に浮かぶ淡いえくぼ。
美しく着飾った貴婦人たちの輪に入っても、決して埋没するような容姿ではない。見た目だけを言うなら、きっと自分の容姿はそう悪くない筈だ。
それも道理だろうと、セディアは鏡を見ながら皮肉っぽくそう心に呟く。
父はそれなりに顔立ちの整った皇帝であったし、母もまた、その皇帝から見初められる程度には人目を引く美しい女性だった。
それなのに、自分は何故このような所で、一人鬱々と日を過ごしているのだろう。
それとも、母が皇帝の目にとまった時点で、自分の運命は端から決まっていたとでもいうのだろうか。
セディアの父親は、気に入った女性を見つけるや否や、すぐに自分の閨に呼び入れるような節操のない男性だった。
セディアの上にも二人姉がいたが、母親はいずれも皇帝宮付きの下級侍女で、懐妊するや、興が削がれたとばかりに皇帝から見向きもされなくなった。
皇位継承権を持つ皇子ならともかく、皇女を生んだだけでは、下級侍女風情が側妃の称号をいただく事は叶わない。
そして、母親が皇帝の愛人であるという不安定な立場の皇女は、国家的にもあまり意味がなく、嫁ぎ先も自ずと限られた。
異母姉二人は、七つか八つになるかならないかのうちに、セクルト連邦の公国の貴族にそれぞれ嫁がされた。
売られたと言った方がいいのかもしれない。
双方の国家にとって、互いに利をもたらす何かがあって、その道具として皇女はそれなりに役に立ったのだ。
セディアもまた八つで、シーズ国の重鎮であったカインズ卿の嫡男グレンに嫁すことが決まった。
まだ幼いセディアには、婚姻の意味など分からず、ただ優しかった母と引き離される事がとても辛かったのを覚えている。
夫となったグレンはシーズ国王の従妹を母に持った十一歳の少年だった。
セディアと年があまり変わらないため、次姉の母親がその縁を羨んだという話は、侍女達の口からおぼろに聞かされた。
姉達の婚姻相手は、一回り以上も年の離れた貴族であったからだ。
だから、セディア自身も申し分ない縁なのだと思っていた。その当時は。
グレンは自分の家柄と血筋に高い矜持を持つ少年だった。母譲りの青い瞳と酷薄そうな薄い唇を持ち、声を上げて笑う事はあまりない。
この婚姻がカインズ家に富をもたらすと知っていたから、政略結婚の相手であるセディアに対しても、最初から礼儀正しく接してくれた。
すべてに恵まれた少年であったから、その分やや傲慢なところはあったが、セディアの顔立ちは気に入ってくれたようだ。
十一と八つの幼い二人はままごとのような夫婦生活を送り、周囲はそれを優しく見守っていた。
状況が大きく変わったのは、その四年後の事だった。
乗馬中、大きく傾いだ馬から振り落とされ、グレンは生死にかかわる大怪我を負ったのだ。
命を取り留めたのは奇跡だったと、セディアは後になってそう聞かされた。
激しい熱を出し、痙攣を繰り返すグレンの命を何とか取り留めようと必死に手が尽くされ、そして何とか命だけは助かった。
助かったのがグレンにとって幸運だったのか不運だったのか、今となってはセディア自身にもわからない。
助かったのは本当に命だけで、グレンはその後、首から下は全く動かない状態になってしまったのだ。
それまでのグレンは、カインズ卿夫妻にとって自慢の息子であった筈なのに、四肢が麻痺したとわかった途端、夫妻の態度は一変した。
外聞を憚ったカインズ卿夫妻は、跡取りであるという立場はそのままに、グレンを病気療養という名目で王都内の別邸に移した。
何も知らないセディアは、グレンが待っているのでウズクの別邸に行くようにと義父母から言伝を受け、そして行った先で寝たきりとなった夫と再会した。
別邸へ遠ざけられた時点で、グレンは自分が両親から見放され、愛情や関心や期待のすべてが、心身共に健康な弟の方に移ってしまった事を感じ取った。
グレンは絶望し、父母や弟を、そして己の運命を深く恨んだ。
別邸には訪れる者とておらず、使用人が数名と、あとは形ばかりの幼い妻がいるだけだ。
手足は動かず、好きなものを食べようにも消化能力も落ちていて、思うように食べられない。
頑健だった体は見る間に痩せ、寝返りさえも打てないため、体重がかかる部分がすぐに赤くなり、床擦れもできた。
グレンにとっては耐えがたい状況であっただろう。
「死んだほうがましだ」とグレンはよく泣き叫んでいた。
自分を見捨てた父母を怨み、人生を呪い、その憤りや憤懣、悲しみや絶望を、周囲にまき散らすしかグレンには救いがなかった。
勿論、首から下は動かないので、暴力を振るう事はできない。けれどその分、辛辣な言葉で周囲の者達を貶め、傷つけ、やり場のない鬱憤を晴らそうとした。
罵倒され、悪意ある言葉を毎日のようにぶつけられて、幼いセディアはよくグレンに隠れて泣いていた。
慰めようとしても自分の心は届かず、傷つけられるだけの毎日に、セディアは疲れ切っていた。
そしてそんな生活に追い打ちをかけるように、ある日母国から、母の死の報せが届けられた。
長患いの末の、静かな死だった。
セディアは部屋に閉じこもった。
母の好きだった花が恋しくて、窓辺から庭園をぼんやりと眺めて日がな一日を過ごし、母を懐かしむように、母に教えてもらった刺繍を刺し始めた。
そうして一月近くが過ぎた頃、セディアはようやくグレンに会いに行こうと思うようになった。
セディアは庭園の花を庭師に摘んでもらい、その花を両手に抱えて、ひと月ぶりにグレンの病室を訪れた。
自分を罵ってくるだろうと思っていたグレンは、セディアを見ても何も言わなかった。
セディアは黙って、枕辺に花を活けた。グレンからよく見える位置に色とりどりの花を飾り、グレンが瞠目する様子をぼんやりと眺めた。
「きれいだ」とグレンが呟き、あの事故以来、初めてセディアは微笑んだ。それから小さな声で、「母が亡くなりました」とグレンに告げた。
グレンは静かな目でセディアを見つめ、「つらかったな」と一言、呟くように言った。
その言葉には確かないたわりがあった。
セディアは「ええ」と答え、そしてグレンの枕元で静かに泣いた。
自分を愛してくれていた母を失って、家族はもうグレンしかいないのだとセディアは思った。遠い他国にいる父も兄も姉も、セディアにとっては見知らぬ他人も同然だった。
セディアは下男のヨーシュの手を借りて花の種や株をたくさん植え始めた。シーズはアンシェーゼと違ってハーブが嗜まれていたため、ハーブの苗を取り寄せて手ずから育てもした。
空いている時間は、グレンの枕辺で刺繍をして過ごす。グレンが絵柄を考えてくれ、千色を越える色の中から一緒に糸を選び、セディアが刺していった。
花が咲けば、それを摘んでグレンの枕元に飾り、摘みいれたハーブでお茶を淹れ、二人で香りを楽しんだ。
時代から取り残されたような別邸で、穏やかに過ぎていた時は、三年半後に唐突に終わりを迎えた。グレンが死んだのだ。
床擦れもなかなか完治せずに熱も度々出ていたし、首から下の麻痺のせいか、グレンは咳がうまくできなかった。
痰を詰まらせる事も多く、最後は肺炎になり、高熱が三日続いてそのまま亡くなった。
亡くなる間際、枕辺に付き添っていたセディアに、グレンは一言、「ありがとう」と苦しそうに言葉を絞り出した。
それが最後の言葉だった。
報せを聞いたカインズ夫妻は別邸に駆け付けた。
三年半ぶりに会ったセディアにいたわりの言葉一つかける事もなく、セディアはそのまま二階の奥室に閉じ込められた。
やがてカインズ家の跡取りの死を聞きつけ、別邸には多くの弔問客が詰め掛けたようだった。
時折、泣き叫ぶような夫人の声が漏れ聞こえ、親族達が必死に慰めているような様子がおぼろに窺えた。
グレンと最後の別れをする事も許されず、隔離された部屋の中で、セディアは一人泣いていた。
悲しみ以上に、カインズの義父母への怒りが大きかった。
わざわざ人前で泣き崩れるくらいなら、何故グレンに会いに来なかったのだと、それが口惜しくてならなかった。
事故に遭った時、グレンはまだたったの十五だった。
どれほどつらく苦しかっただろう。涙が溢れても、手で拭う事もグレンにはできなかった。
使用人相手に弱音を吐く事もできず、当たり散らす事でようやく精神の均衡を保っていたような子供だったのだ。
父親や母親からの愛情を一番必要としていた時に、あんな残酷な形でグレンを見捨てておいて、今になって嘆くふりをする義父母が、セディアにはどうしても許せなかった。
セディアはもう、こんな家にはいたくなかった。
シーズでは未亡人になれば、そのまま婚家に留まるのがしきたりであったが、この義父母と一生縁を繋いでいくなどセディアには耐えがたかった。
だから父皇帝からの使者がカインズ家を訪れる日をひたすら待った。
いくら自分に無関心な父親とはいえ、この度ばかりはさすがに弔意の使者をセディアに寄こしてくるだろう。
一生、小さな別邸での幽閉でも構わない、修道院へ行けと言うのなら喜んでいく。とにかく、このシーズから離れる事ができるなら、どこでも良かった。
グレンが亡くなったのは年の瀬で、セディアはじりじりとした思いで父帝からの使者を待った。
やがて年が明けて数日が経った頃、セディアは義父母の訪問を受けた。
その口から伝えられたのはパレシス帝の死で、セディアは俄にはその事実が受け止められなかった。
父帝はまだ五十前であった筈だ。そんなに早く急死するなど、どうして信じられよう。
呆然としているセディアに、カインズ卿夫妻は淡々と語った、
アンシェーゼの皇帝は世継ぎを決めずに亡くなり、今は一時的に皇后がアンシェーゼの覇権を握っているのだと。
グレンの死を伝えられるような状況では到底なく、セディアはこのままこの別邸で待機するようにと命じられた。
セディアの希望が指から零れ落ちた瞬間だった。
母国は内乱状態となっていた。
皇后の息子で第一皇子のアレクと、マイアール側妃の産んだ第三皇子ロマリスが皇位を巡って争いを始め、大国の弱体化を狙う列国は慎重にその様子を窺っていた。
じりじりと時ばかりが過ぎてゆき、皇帝の死から二か月弱が過ぎようとする頃、第一皇子であるアレクが、ロマリス皇子を擁立するセゾン卿を制して皇帝に即位した。
セディアはそれを風の便りで知り、その後、新皇帝からの使者がセディアを訪れる事もついになかった。
セディアは母国から忘れられた皇女だった。
兄妹とは名ばかりで、セディアは一度しかアレク皇子の姿を見た事がなかった。
ずっと離宮に隔離されて育ったセディアは、嫁ぐ前に初めて父皇帝との目通りを許された。皇帝がおられる部屋に向かう途中、広い回廊で偶然、兄皇子とすれ違ったのだ。
脇に控えていた皇帝の執務補佐官が「第一皇子殿下です」と耳打ちしてきて、セディアは慌てて頭を下げた。
セディアの六つ上だから、兄は当時十四だった筈だ。きれいという言葉がぴったりの秀麗な顔立ちの皇子だった。
にこやかに微笑んではいたが、兄はセディアの事を家族と認めていなかった。
無関心と冷ややかさが、その眼差しに透けて見えた。
未亡人となった自分に一切の関心を寄越そうともしない兄に、自分から手紙を出す勇気はセディアにはなかった。
手紙を出したとしても義父母に握り潰される気がしたし、無事に届いたとしても、あの兄がセディアの窮状に手を差し伸べてくれるとは思えない。
このまま薄暗いこの場所でひっそりと一生を終えるのだと、セディアはその時点で自分の運命を哀しく見切った。
シーズでは女性の立場は特に弱く、義父であるカインズ卿に別邸を出るなと命じられれば、セディアは従うしかない。
敷地内を歩く事は許されていたから、セディアはよく庭園内を散歩した。
こじんまりとした別邸の全てを探索し、敷地の端から端まで歩いて、そこから外の世界を見ようとした事はある。
けれど、周囲は深い木立に囲まれていて、人ひとり見かける事はなかった。
訪れる者も誰もいない別邸で、けれどセディアはそう孤独を感じずに過ごしていた。別邸に仕える使用人達が皆、セディアに優しかったからだ。
セディアの気を紛らわせようと、使用人らは外の世界の情報を色々仕入れてくれるようになった。
下男のヨーシュは買い出し係でもあったから、出かける度に王都の面白い噂を集めてくれたし、侍女のヘヴンや従僕のサム達も、家族や知り合いから文をもらう度に、その内容をセディアに聞かせてくれた。
そんな風にしてセディアにもたらされたのが、遠い母国の噂話だった。
アレク皇帝に謀反を起こして蟄居、幽閉させられていた弟のロマリスが復権を許され、表舞台に返り咲いたのだという。
最初にそれを聞いた時、セディアはその噂が眉唾物だと思った。
アレク皇帝は三年前に皇后を迎え、皇子と皇女をもうけている。世継ぎにも恵まれている兄が、今更ロマリスを皇家に迎え入れる理由などなかったからだ。
迎え入れた本当の目的は何なのだろうと兄を疑いつつも、もしかしたら兄は罪のない弟を哀れんだのかもしれないという思いが、日増しにセディアの中で強くなっていった。
もしそうならば、この自分にも慈悲をかけてもらえるかもしれない。
セディアは、自分に希望を持つ事を止められなくなった。
セディアのそんな鬱々とした思いを、傍で一番感じ取っていたのが、ウィリアという同い年の侍女だった。
ウィリアは執事であるマルクの一人娘で、この館で唯一の未婚の使用人だ。
セディアにとっては、使用人というより友達や姉といった感覚が強かった。
そのウィリアが、ある日、皇帝の側近の一人がシーズ国を訪れていると教えてくれた。
シーズを訪れる来賓は、王族であれば王宮内の離宮に泊まるが、それ以外の要人は、自国が所有する館に寝泊まりする慣例がある。
その館に、どうやら伝手を持ったらしい。
もしセディアが望むなら、その側近に直接文を届けるくらいはできると告げられ、セディアは最初躊躇った。
希望を抱くのが怖かったのだ。
兄の側近というからには、おそらく高位の貴族である筈だ。
そんな人物が、一面識もない自分からの文を受け取ってくれるとも思えず、仮に目を通してくれたとしても、セディアに興味を覚えてくれるかどうかは別の話だ。
そして、もし兄に繋ぎを取ってくれたとしても、冷ややかな目でセディアを見つめていたあの兄が、セディアのために手を差し伸べようとするものだろうか。
羽ペンに手を伸ばしかけては指を握り込み、何度となく躊躇った末に、セディアはとうとう文をしたためることを決意した。
万に一つでも希望があるなら、諦めずにできることをやっていきたいと思ったからだ。
長々と自分の窮状を伝える事は止めた。その貴族が自分に興味を示さないなら、何を書いても無駄なことだ。
一文だけ簡潔に記すと、あとは自分の名前を書き入れて、セディアは丁寧に封をした。
あとは、相手次第だとセディアは思った。力になってもらえるのか、それともそのまま捨て置かれるのか。
握り潰されるのなら、それも仕方ない。
自分の運はその程度のものだったというだけだ。