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外伝  皇后陛下は、弟を見つける 6

 ヴィアはそのまま皇后宮へと抱き運ばれ、侍女達の手に渡された。体を清めて寝衣に着替えさせてもらった後、もう一度しっかりと水を飲まされ、ほんの少し、スープを口元に運ばれた。

 髪が気持ち悪い、と侍女に訴えると、濡れた布で髪の汚れを一房ずつ丁寧に拭ってくれた。その感触が気持ち良くて、うとうとと微睡んでいると、いつの間にか眠りに落ちていた。


 気付けば、外はもう薄暗く、一日が終わったのだと知る。


「陛下は?」

 寝所まで食事を運んできた侍女に尋ねると、「ゼルクの大使と会食されています」と答えが返ってきた。

「皇后陛下をここまでお運びになって、それからすぐに執務室へと向かわれました」


「陛下にご心配をかけたわ」

 ヴィアの言葉に、エイミは微笑んだ。


「わたくし達は何も知りませんでしたの。昨日も、急な公務が入ってこちらには帰られないとだけ伺っていましたから。

 ですから今日の昼間、皇帝陛下が陛下を抱き上げてこちらに渡られた時は、本当に驚きました」


「そうね」

 ヴィアは苦笑した。皇后が行方不明になったなど、迂闊に口にできる事柄ではない。

「起き上がれますか?」と、聞かれて頷いた。

 あの時は脱水を起こして動けなかっただけだ。十分に水分をとった後、ゆっくりと休んだせいで、すっかり体調も良くなっていた。


 柔らかな紅色と薄い黄色で統一されたやや小さめの寝室は、皇后宮にあるヴィアのためだけの寝所だ。いつも陛下と過ごす皇帝宮の寝所とは、隠し通路で繋がっている。


 ここで過ごすのは、お産の時以来だとぼんやりとヴィアは思った。自分の体調が優れないため、こちらの寝所に通されたのだろう。


「子ども達は変わりない?」と聞くと、「お元気過ぎるほど元気です」と答えが返ってきた。

「明日、会いに行くわ」


 もう会えないかもしれないと覚悟していた。その顔を見て、しっかりと抱きしめたい。


 そしてヴィアはふと、誰も私の話を聞かないんです、と言っていた小さなロマリスの事を想い出した。

 あの闇から救ってやらなければならないと、ヴィアは心に呟く。

 あそこは暗くて、寒すぎる。



 夜もかなり更けてから、アレクは居室棟に帰ってきた。ヴィアはどうだ、と尋ねると、夕食もきちんとおとりになり、休まれていますと返事が返ってくる。


 昨日はほとんど執務が手につかず、そのため昼過ぎからは溜まっていた案件を片付けるのに専心した。

 徹夜なので体は疲れ切っていたが、ヴィアが無事でいるなら疲れなど大して気にならなかった。

 絶望に呑まれるようなあんな夜は、二度と経験したくない。


 休む前にどうしても顔が見たくなり、通路を通って皇后の寝所を訪れた。傍についていた侍女に、しばらく席を外すように言い、寝台の傍らに座る。


 投げ出されていたヴィアの手を取り、無事を確かめるように口元に押し当てていると、微睡まどろみから覚めたらしいヴィアが、「陛下」と嬉しそうに呼んできた。


 寝台から起き上がろうとしたヴィアをアレクは手で制する。

「体はどうだ」

「もう、何ともありません。わたくしは丈夫ですもの」

 いつもの明るい答えに、アレクはほっとする。


「陛下、ごめんなさい」

 ヴィアが謝って来るので、アレクは、お前のせいじゃない、と笑った。

「でも、心配をおかけしたわ」

「そうだな」

 アレクは小さく頷いた。

「生きた心地もしなかった。でも、お前は無事だった。それだけでいい」


 心底ヴィアを案じる柔らかな言葉だったが、寝台から見上げるアレクは相変わらず椅子に座したままで、ヴィアとしては、妙な距離感を感じてしまう。


 ヴィアは僅かに眉根を寄せた。自分はこんな風に、アレクとお行儀よく、皇帝と皇后の会話を交わしたい訳ではない。

 アレクはそれで満足なのかもしれないが、ヴィアは余り嬉しくなかった。

 こういう時は、良く帰って来たと胸にしっかりと抱きしめて、甘えさせてくれる事が、夫としての本分なのではないだろうか。


 なので、我慢せずに言ってみる事にした。

「しばらく、わたくしの話し相手をして下さるおつもりはございまして?」


 唐突なヴィアの質問に、アレクは面食らってヴィアの顔を見下ろした。

 きちんと愛情を伝えたつもりでいたのに、妻が急に不機嫌になったように思えるのは、気のせいだろうか。


「勿論。……何が話したい」

 慎重に問い掛けると、ヴィアは有無を言わせぬ口調で言った。

「では取りあえず、わたくしの傍に来てください」


 ヴィアは上掛けをめくり、アレクに横になるよう促した。

 アレクは言われるままに寝台に入って来た。ヴィアはその体にすぐさましがみつき、ごそごそと居心地のいいところに顔を埋めて、満足そうに丸くなる。


「おい。そっちが目的か?」

 笑みを含んだ声でそう言うと、ヴィアはきっと顔を上げた。


「わたくしはここに帰りたかったのです! わたくしは陛下の腕の中が大好きなのです。なのに、抱きしめても下さらないなんて!」


 アレクはこみ上げてくる笑いを噛み殺して、すぐにヴィアの体を抱き寄せた。しっかりと腕に抱いて甘やかせてやらないと、ヴィアは本気で拗ねそうだ。


「よく歩いて帰って来たな」

 腕の中に抱きしめ、子供のようにそう褒めてやると、ヴィアが嬉しそうに笑うのが分かった。


「陛下の元に帰りたくて、一生懸命頑張りましたの」

 ちょっと自慢気に、ヴィアはそう言ってみる。


「倉院から紅玉宮までは、かなりの距離があった筈だ。諦めずに、よく帰ってきてくれた」


 アレク自身、打てるだけの手は打ったつもりが、あれ以上はもうどうしようもなかった。

 ヴィアが紅玉宮まで歩いて来てくれなければ、自分はあのまま永遠にヴィアを失っていただろう。


 ヴィアが寒くないよう上掛けをそっと引き上げてやり、その温もりを愛おしみながら、アレクは慌ただしかった二日間に、ふと思いを馳せる。

 もう二度と、あんな夜を過ごすのはごめんだ。


 アレクは瞳を閉じて、柔らかな吐息をそっと零した。

 ヴィアの頭に顎をつけ、腕の中にヴィアを抱く幸せをただ享受した。 



 ややあって、余りに声がかからない事を不審に思った侍女が、そっと扉を開けると、皇后を腕に抱いたまま、皇帝もぐっすりと深い眠りに落ちていた。

 一応声をお掛けしたが、目覚められる気配もない。なので侍女は、そのままお二人を眠らせる事にした。

  



 優しい陽の光が、カーテンの隙間から薄く差し込んでいた。

 ああ、もう朝か、と光を遮るように目の上に腕を持ち上げたアレクは、目に飛び込んできた見慣れぬ調度に、一瞬ここはどこだと目をしばたく。

 腕の中にいたヴィアが小さく身じろぎ、ようやくここが皇后宮の寝所だとアレクは思い出した。


「寝てしまっていたのか」

 熟睡だった。いつ寝入ったのかさえ、覚えていない。


「陛下」

 名を呼ばれ、腕の中に目をやると、ヴィアが幸せそうにアレクの顔に手を伸ばしてきた。

 両手でアレクの頬を包み、額や頬に小さな口づけを落としてくる。


 朝から甘えてくるヴィアに、アレクは内心驚いた。夜はどんなに甘えてきても、朝は侍女達の目を気にして、ヴィアはいつもアレクの腕から逃げ出そうとしていた。


 何だかいつもと様子が違うので、アレクはヴィアの髪を撫でつけながら、慎重に顎を引き寄せて口づけてみた。

 ヴィアは逃げようとせず、そればかりか口を少し開いて、自らアレクを受け入れてくれる。

 気をよくしたアレクは、もう少し試してみる事にした。上体を起こし、息が上がる程ヴィアの唇を楽しむ事にする。 


「今日は何故、逃げない」

 ややあって、確かめるようにそう尋ねてきたアレクに、ヴィアは思いのたけを込めてアレクの顔を見上げた。

「もう二度と、お会いできないかもしれないと思ったのですもの」

 頬を上気させ、潤んだ瞳で囁くように言う。

「本当にお会いしたかった」

 

 そこまで言われたら、アレクももう遠慮はしない事にした。髪を撫で、頬や耳元に口づけを落とし、思う存分愛おしむ事にする。

 いつ侍女が来てもおかしくない時間帯にこうして甘えてくれるなど、多分この先ないだろう。

 いや、一生ないとアレクには断言できた。


「陛下、入ってよろしいでしょうか」


 やがて、おそるおそるといった口調で侍女が声を掛けた時、すでにアレクの理性は遠いところに離れていた。

 いつものように、「少し待て」という言葉を予測していた侍女は、別の言葉を言われて、当惑する。

 皇帝曰く、「呼ぶまで邪魔をするな」


 因みにこの日は午前中の公務が何も入っていなかった。

 皇帝だって、一生に一回くらいは寝坊が許されてしかるべきだと自分に言い訳をし、アレクは皇帝となって初めて、皇后の寝所でゆっくりと朝を過ごした。



 その日、日も高くなってからアレクが渋々と執務に出掛けていった後、ヴィアは侍従長を部屋に呼んだ。


「お呼びでしょうか」

 ややあって顔を出してくれた侍従長に、まず昨日の顛末を詫び、その後ヴィアは表情を改めて、紅玉宮の事を口にする。

「信頼のできる侍女を、取り急ぎ四、五人すぐに選んで欲しいの。紅玉宮付きとします」


 侍従長は僅かに瞠目した。

 あの政変以来、紅玉宮の名は王宮において禁忌となっていた。


 昨日、その紅玉宮から皇后が助け出された事は当然、報告を受けていたが、その紅玉宮に今更手をつけようとする皇后の真意が侍従長には見えなかった。


「人数を増やされるわけですか?」

 慎重に問い返すと、ヴィアは首を振った。


「いいえ。今の侍女達は、別の部署に異動させて。

 貧乏くじを引かされたと、ロマリスに暴言を吐くような侍女は不要です」

「わかりました」


 一拍躊躇った後、侍従長は口を開いた。

「昨日、陛下がロマリス殿下に向かって、兄と呼べと言葉を掛けた事は私も聞き及んでおります」


 ただ、この先どのように遇するつもりなのかは、侍従長には全く見えていなかった。


 ロマリス殿下が表舞台に戻れば、当然、謀反が懸念される。おそらく一旦皇家に迎え入れた上で、改めて臣籍降下させるのではないかと、思っていたのだが。


 そんな侍従長をヴィアは静かに見つめて言った。

「わたくしはあの子がいなければ今頃生きてはおりませんでした」

「伺っております」


「ですから今度はわたくしがロマリスを守ります。

 そのように心得ておいてください」


 侍従長が驚いたように目を上げると、皇后は強い意思を瞳に浮かべ、にっこりと微笑んだ。


「先程、陛下のご了承もいただきました。

 陛下は、ロマリスを弟として遇することに、何の異存もないとおっしゃいました」


 つまり皇后は、ロマリスを臣下に下ろして捨て置くつもりは微塵もないという事だ。


 ロマリス皇子を守るとはっきり口にした皇后の言葉は、この先、王宮において何より優先される事になる。

 皇帝の寵も厚く、民からも慕われているこの皇后の意に、表立って逆らえる者などいないからだ。


「承知いたしました」

 侍従長は深々と頭を下げ、顔を起こした時には柔らかな笑みを浮かべていた。


 情の厚いこの皇后ならば、懐に入れた幼い弟を決して粗略に扱うことはしない。もう、あの小さな皇子殿下は、二度と孤独に泣く事はないだろう。


 御前を辞しながら、侍従長は穏やかな行く末を、皇子の未来に感じ取った。


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