外伝 皇后陛下は、弟を見つける 5
「私はロマリス皇子です。皇帝陛下に会わせて下さい! 皇帝陛下に会わせて下さい! 皇帝陛下に会わせて下さい!」
出入り口の警備兵らに何度追い払われそうになっても、ロマリスは構わず声を張り上げた。
姉の声は弱っていた。あの子猫のように、姉上もやがて動かなくなって冷たくなってしまうのだ。
「私はロマリス皇子です! 皇帝陛下に会わせて下さい!」
取り縋った手を、警備兵に振りほどかれた。
「陛下はお忙しい!」
「姉上が閉じ込められているのです! 姉上が死んでしまいます!」
追い払われても追い払われても、ロマリスは諦めなかった。このままこうして叫び続けていれば、いつか皇帝陛下にお声が届くかもしれない、そう思って、一生懸命に叫び続けた。
やがて、泣きながら叫び続けるロマリスの周辺に人だかりができ始め、それをたまたま通りかかった皇后の護衛騎士が見咎めた。
突拍子もない話だったが、確かに皇后はロマリス殿下の義姉だ。もしかしたら、本当に皇后の事を言っているのかもしれない。
護衛騎士はロマリス殿下の前に膝を折り、話を聞こうとした。ところが殿下は、皇帝陛下に直接会いたいと繰り返すばかりで、話の要領を得ない。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになり、それでも同じ事を繰り返す小さな殿下が、下らない悪ふざけをしているようには見えなかった。
護衛騎士は覚悟を決め、皇帝陛下にこの事を奏上すべく踵を翻した。
「ロマリス皇弟殿下が会いたがっておられます」
「ロマリスの事は、後だ!」
奏上してきた護衛騎士を、アレクは苛々と遮った。
結局、近衛も騎士団もヴィアを見つけることができなかった。丸一昼夜経ったというのに、救出の手掛かりさえ全く掴めていないのだ。
焦燥のあまり、神経が焼ききれそうだった。捨てておいた弟の事まで考える余裕は、アレクにはなかった。
「ロマリス殿下の事は、後で私が聞こう」
傍にいたルイタス・ラダス卿が取りなすように声を掛けてくれたが、護衛騎士は首を振った。
「どこまで信用していいかわかりません。
ただロマリス殿下は、姉上が閉じ込められていて、皇帝陛下に助けを求めておられると繰り返し叫んでおられます」
思わぬ言葉に、アレクは瞠目した。
「姉上が閉じ込められている?」
あり得ないと思った。皇后とロマリスは面識がない。
それでもその言葉を戯言として聞き流す事はできなかった。
迷うようにルイタスを見ると、ルイタスもまた真剣な表情で護衛騎士を見つめていた。
「殿下は、他に何と言われている?」
ルイタスが問い質すと、護衛騎士は厳しい顔で口を開いた。
「私はロマリス皇子です。皇帝陛下に会わせて下さい。姉上が閉じ込められています。姉上が死んでしまいます。
殿下は、この言葉を繰り返し叫んでおられました」
ヴィアかもしれないと思った。アレクは椅子の肘置きをぐっと握りしめた。
「ロマリスをここへ呼べ」
ロマリスは、見た事もないような豪奢な部屋に通された。
正面の玉座には、若くてハンサムな男の人が座っていて、やや青ざめた顔で自分を見つめていた。
「私に用か?」
ロマリスは正面の男の人をじっと見上げた。
「貴方は皇帝陛下ですか?」
「そうだ」
他の人には絶対に渡さないで、と姉上から頼まれていた。だからロマリスは、しっかりと確かめようと思った。
「私は本物の皇帝陛下に会いたいのです。貴方が本当の皇帝陛下ですか?」
「この国で、皇帝を名乗れるのは私だけだ。他の者が名乗れば、首が飛ぶ」
その言葉を小さい頭で一生懸命考えて、ロマリスは手に握りしめていた物を皇帝陛下に差し出す事にした。
「姉上がこれを皇帝陛下にお渡ししてと言っていました」
とことことロマリスが皇帝に近寄ろうとするのを見て、近衛がすっと体を割り込ませる。
「構わぬ」
アレクは立ち上がり、自分からロマリスに近付いた。アレクの掌に、小さな髪留めが落とされる。
「これは……」
アレクは息を呑んだ。少し歪んでいたが、見間違う筈がなかった。自分が下町で買ってやり、ヴィアが大層気に入っていた髪留めだ。
ルイタスの顔色も変わった。カミエが、皇后は例の髪留めを拾おうとして、隠し通路に落ちたと言っていたからだ。
アレクは感情を落ち着けるように、一つ大きく息を吐いた。
「お前の姉はどこにいる」
日頃閑散とした、時代から取り残された紅玉宮に、突然、騎士を大勢従えた皇帝陛下が現れ、宮殿内は瞬く間に大騒ぎになった。
その一番前を、小さなロマリスが走っている。
「ここです」
回廊に飾られた壁絵が僅かに動き、隙間ができていた。その隙間を覗くと、緑色のドレスと散らばった金髪が見えた。
「ヴィア!」
壁絵を押し開けようとして、アレクは思わず罵声を吐いた。
大きな樫の飾り棚が、壁絵が動くべきところを塞いでいたからだ。しかもご丁寧に、飾り棚は金具で固定してある。
「絵を破れ!」
壁絵は、木の板に頑丈に固定されていた。その木の板に、騎士らが体当たりを始める。
何度か体ごとぶつかり、やがてメキメキという音と共に割れ目ができ始めたところで、倒れている皇后に当たらないように注意を払いながら、一人の騎士が足で大きく蹴り上げた。
カミエがすぐに入り込み、倒れていた皇后を慎重に抱きあげて、外へと運び出す。皇后の体は、すぐに皇帝へと渡された。
回廊に横たえ、上半身を抱く形で、アレクはヴィアの頸動脈を探る。弱い鼓動が触れ、アレクは安堵の息をついた。
「ヴィア」
何度も名を呼び、体を揺さぶると、ヴィアはゆっくりと瞳を開いた。
騎士の一人が、清潔な布に水嚢の水をたっぷりと染み込ませ、皇帝に渡す。
「ヴィア、最初は口を湿らせるだけだ。わかるな」
アレクは声を掛けながら、慎重にヴィアの唇を濡らし、口の中が湿る程度のほんのわずかな水を流し込んだ。
いきなり水を飲ませても、噎せるだけだと分かっていた。下手をすれば、噎せる事もできずに窒息してしまう。
口に溜まった水をヴィアはゆっくりと飲み込み、まだ欲しがるように口を開いたので、アレクは水嚢から一口水を含んだ。ヴィアの上に屈み込み、口移しで飲ませてやる。
こくりともう一度喉が鳴り、アレクは安心したようにヴィアの体を抱き直した。そして、今度は直接、ヴィアの唇に水嚢を当てる。
「少しずつ飲むんだ。いいか」
ヴィアは頷き、傾けた水嚢から流れる水を一口、二口と飲み下していった。
半分ほど飲んだところで、疲れたように目を閉じる。
「怪我は?」
ヴィアは首を振った。滑るように落ちただけだ。ただ、喉が渇いて動けなかった。
「良かった」
アレクはようやく笑みを浮かべた。とにかくヴィアが無事で手元に戻ってきた。それだけで十分だった。
ヴィアは二、三度目をしばたいていたが、限界だったのだろう。疲れたように、アレクの胸に顔を埋めた。
眠ってしまったのか、抱いていたヴィアの体が重くなる。
ぐったりとしたヴィアの体を大事そうに抱え直し、アレクは起こさないよう気をつけながらゆっくりと立ち上がった。
そのまま皇帝宮に連れて帰ろうとして、アレクはふと、自分を取り巻く大勢の騎士達の後ろに、心配そうにじっとヴィアを見上げている小さなロマリスに気付いた。
隅の方へ追いやられ、所在なさげに立ち尽くしている。
「ロマリス」
声を掛けると、ロマリスとの間に立っていた騎士達が、潮が退くように二人の間に道を作った。
「よくやった、礼を言う」
日頃、周囲の人間から無視される事に慣れていたロマリスは、声を掛けられた事に驚いて、嬉しそうに小さな顔を綻ばせた。
「はい、皇帝陛下」
上気したその面を静かに見下ろし、わずかな間を開けて、アレクはもう一度ロマリスに言葉を落とした。
「私の事は、兄上と呼べ」