外伝 皇后陛下は、弟を見つける 4
埃の舞う回廊を、いつものようにロマリスは一人探索していた。
ロマリスの暮らす宮殿は大層広く、小さい部屋、大きい部屋、だだっ広い回廊といくつも探検する場所がある。
四人いる侍女は皆、ロマリスの事が好きではない。太っちょ、いばりんぼ、やせぎす、そばかすと、ロマリスは心の中で勝手に名前を付けていた。
貧乏くじを引かされた、とこの四人はよく口にする。セゾン卿が野心を抱いたばかりに、ひどい目に遭ったと。
意味はよく分からなかったが、悪口を言われているのはわかったので、知らない振りをした。
口ではひどい言葉をぶつけられても、手を上げられる事はなかったからだ。
ただ四人に逆らったり、癇癪を起したりすると、しつけと称してご飯を抜かれてしまう。ロマリスはお腹が空くのは嫌なので、四人にはあまり逆らわないようにしていた。
やせぎすは、どうやら家庭教師というものらしい。ロマリスに文字を教え、礼儀とやらを教え込む。
でも、時々意味が分からない。ロマリスは皇子殿下なのだとやせぎすに教えられた。けれど物語の皇子様はみんな大切にされている。
きちんと父上と母上がおられて、優しい乳母がいて、皆から大切にされている、それが物語の皇子様だ。
だから、やせぎすが嘘をついているのかなとも思う。
誰も五つのロマリスの相手をしないので、ロマリスはいつも一人で宮殿内を探索していた。
宮殿内は薄汚れていて、外れかけているカーテンとか、鎧戸のしまった窓だとか、まるで幽霊屋敷だ。壁に飾られている額から、絵が引っぺがされている所もある。
いばりんぼうの言う、セゾンとかいう奴の絵が飾られていたらしい。
いつものように城内を走り回っていて、回廊まで差し掛かった時、ロマリスはふと、この場所がいつもとどこか違う事に気が付いた。
ゆっくり辺りを見回していくと、睡蓮の描かれた大きな額が、少しだけ動かされているのがわかった。
樫の木でできた大きな飾り棚と、睡蓮の額の間は、何もない壁があった筈なのに、額が少し横にずれて、飾り棚にぴったりとくっついている。
睡蓮の絵の額がどうして勝手に動いたのだろうと不思議に思いながら近づくと、本来なら額で隠れていた壁に、ぽっかりと筋のような穴が開いているのが分かった。
ロマリスの小さな頭が、ようやく突っ込めるか突っ込めないかといった、縦長の隙間だ。
壁絵がもう少し横に動いていれば、大人だって簡単に出入りできるだろう。
「何これ」
思わず呟くと、穴の奥から声が聞こえてきた。
「誰かいるの?」
か細い声だった。
ロマリスはびくっとしたが、余りに弱々しい声だったので、自分にひどい事はできないだろうと思って、逃げない事にした。
ロマリスはおそるおそる中を覗き込んだ。中は薄暗く、白い顔と緑色のドレスがぼんやりと見えた。
「どうしてそんな所にいるの?」
「動けないの」
"声"は答えた。
「閉じ込められてしまったの。誰か呼んできてくれる?」
ロマリスは首を振った。
「無理だよ。誰も私の言う事は聞かないもの。寒いって言っても、暑いって言っても、ああそう、って面倒くさそうに言われるだけだよ。
私は邪魔な人間なんだって。いない方がいいから、知らない振りをされるの」
”声”は驚いたように黙り込んだ。ややあって、”声”は尋ねてきた。
「貴方の名前は何と言うの?」
「ロマリス」
”声”が息を呑むのが分かった。
いばりんぼややせぎすと一緒だと、ロマリスは思った。この”声”も自分が邪魔なのだ。
「貧乏くじを引かされたって思っているんでしょ」
ロマリスは穴に向かって話しかけた。話しかけるとみんな邪魔そうに自分を見るから、人としゃべる事はあまりない。
でも、”声”ならここから逃げる事はない。さっき動けないと言っていたからだ。
「思ってないわ」
”声”は答えた。
「そう。ではここは紅玉宮なのね」
「紅玉宮?」
「そう、貴方が暮らしている宮殿の名前よ。ここで貴方は暮らしていたのね」
”声”は何事か考えている風だった。
何となく離れがたくて、隙間を挟んで小さなロマリスもしゃがみこんだ。
「寂しかったわね」
不意にそう言葉を落とされて、ロマリスは戸惑った。
「寂しくないよ」
「誰も貴方の言葉を聞こうとしないのでしょう?いない方がいいみたいに言われて、知らない振りをされるのでしょう?
それを寂しいと言うのよ」
”声”はひどく辛そうで、ロマリスはびっくりして穴の中を覗き込んだ。
「どうしてそんなに悲しそうに言うの?」
「貴方がとても寂しいから」
”声”は答えた。
「貴方は何も悪い事はしていないのにね」
優しい言葉を掛けられたのは初めてで、ロマリスは何と答えたらいいのか分からなかった。
「貴方はわたくしの弟なのね」
やがて”声”はそう言った。
「弟? 貴方は私の姉上なの?」
手袋を外すような気配がして、隙間から手が伸びてきた。白くてほっそりとしたきれいな手だった。やせぎす達の手とは全く違う。
「貴方に触っていい?」
「いいよ」
わからなくなってそう答えると、手は優しくロマリスの手を握り、それから上へと伸ばしてロマリスの頭を撫でた。
ロマリスにとって、初めての経験だった。
「姉上」
心の中がぽかぽかとくすぐったくなって、ロマリスはそう呼んでみた。
「なあに?」
「……呼んでみたかっただけ」
ロマリスの姉が笑った気配がした。それから何度もロマリスの頭を撫で、「いい子ね」と囁いた。
「ロマリス、お願いがあるの」
「うん。何?」
「これを皇帝陛下にお渡しして欲しいの」
渡されたのは、壊れかけた髪留めだった。
「とても大事な物なの。貴方の手から陛下に渡して」
「私は会ってもらえないよ」
悲しくなってロマリスは答えた。言う通りにしてあげたかったけど、自分には無理なのだ。きっと誰も、自分の言葉を聞いてくれない。
「貴方は皇子なの。この紅玉宮の警備兵らに向かって、貴方の名前を言ってごらんなさい。私はロマリス皇子ですって」
「私はロマリス皇子ですって言えばいいの?」
そうよ、と姉は答えた。
「貴方の声が届けば、陛下はきっと会って下さるわ。そしたら、この髪留めを渡して。
……他の人には絶対に渡さないで」
「うん」
ロマリスは掌の中の小さな髪留めを握りしめた。
姉の声はか細くて、とても弱っているのが分かった。
ロマリスはふと、この前、腕の中で死んでいった小さな白い猫を思い出した。雨の中、ぼろ雑巾のように蹲っていた子猫を見つけ、ロマリスはこっそり部屋に連れて帰ったのだ。
濡れた体を拭いてやり、お水も飲ませてやった。ロマリスのご飯を食べさせてやろうと思ったけど、子猫は何故か食べなかった。
子猫はにいにいと小さく鳴いていたが、いつの間にか静かになって、だんだんと体が冷たくなっていった。
「姉上」
ぐったりと壁に凭れていた姉は、壁から背を離して小さく微笑んだ。
「必ず渡してきます。待っていて」
ぐずぐずしていたら、姉上が死んでしまうと思った。ロマリスは小さな手で髪留めを握りしめ、宮殿の出入り口に向かって駆け出した。
遠ざかっていく小さな体を、ヴィアはぼんやりと見送った。
壁に凭れているのもつらくなり、そのまま石の上に倒れ込む。床はひんやりしていた筈なのに、今は何も感じなかった。
ロマリスは自分が何を言っても、誰も相手にしてくれないと言っていた。だからいくらロマリスが叫んでも、どれだけの人間がロマリスの言葉に耳を傾けてくれるか、分からなかった。
誰も、ロマリスの言葉に耳を傾けなければ、自分は死ぬだろう。
けれど、それも仕方がなかった。ロマリスをそういう立場に追いやったのは、他ならぬ自分達であったからだ。
「気が付かなかったわ」
ヴィアは薄闇の中で小さく呟いた。
「貴方は生きて大きくなっていたのに、貴方の存在を忘れていた。ごめんね」
ひっそりと紅玉宮で暮らしていた小さな弟。
陛下よりも、セルティスよりも寂しい子がここにいた。
仕える侍女にさえ馬鹿にされて、邪魔者のように扱われていた。どれほど寂しい思いで生きてきたのだろう。
それでも、最後に一度だけ撫でてやれたとヴィアは思った。
このまま命が尽きるとしても、最後に小さな弟の頭を撫でてやる事ができたのだから、悪くない最期と言えるのかもしれない。
隙間から差し込む光が、ヴィアにとっての最後の慰めだった。柔らかな光を瞳の奥に感じて、ヴィアは小さく微笑んだ。
やがて安らかな微睡みが、ヴィアの最後の意識を奪っていった。