寵妃の連れ子は、ほっとする
まだ朝も早いうちから、皇女ヴィアトーラを訪れた第一皇子の姿に、いつもは静寂に包まれている紫玉宮は瞬く間に大騒ぎとなった。
「大変ですわ、姫様。あのアレク殿下が姫様を訪ねていらっしゃいましたのよ!」
「そんなに大変なこと?」
艶やかに背に流れる金髪を侍女のセイラに梳きほぐしてもらいながら、鏡の中のヴィアはかわいらしく首を傾げる。
「どれ程の貴婦人や姫君が、あのアレク殿下に夢中かご存じありませんの?」
セイラは悲鳴のような声を上げた。
「すらりと背が高くて、精悍な面立ち。馬術や剣技にも優れ、大層英明な方だともっぱらの評判ですわ。
ああ……、お近くで拝見できるだけでも天にも昇る気持ちですのに、まさかこちらにお渡りになるなんて」
「うちのセルティスだって、賢いし、優しいし、顔も申し分ないと思うわ」
ヴィアはきっぱりと言い返した。
何と言っても自慢の箱入り弟だ。
「あまりに顔が整っているから、他の姫君に見せるのが心配なくらい」
「どうぞ、ゆっくりご心配下さいませ」
忠実な筈の侍女は、おざなりの返事をするばかりだ。
「それにしても、どこで姫様を見初められたのでしょう。
姫様は滅多に紫玉宮を出られておりませんのに」
そういえばあの日、貴方は休暇を取っていたわね、と、ヴィアは鏡越しにセイラを見た。
「この前、お母様の日記を見つけたと言ったでしょう?
お母様が寝ついておられた時、アレク殿下が珍しい異国の詩集を、お見舞いに言づけて下さっていたらしいの。
一昨日、偶然その詩集を見つけたので、取りあえずお返しすべきかと思って、ルーナを連れてお会いしに行ったのよ」
実を言えばその詩集は、一、二年前、ヴィアが市場で見つけて、気に入って手元に置いておいたものだ。
面識のない第一皇子を訪問するにあたって、適当に作った口実だが、そのお陰で無事、第一皇子に取り次いでもらうことができた。
もっとも逡巡する彼らに向かって、ヴィアが笑顔の大盤振る舞いをしたことは否定しない。
第四皇女であるという身分と、母譲りのこの美貌だけが自分の武器であるのだから、活用しなければもったいないとヴィアは思っている。
「結局、その詩集は差し上げますと言われたので、持って帰ることにはなったんだけど」
と、言う事にしておこう。
「それで、他にはどんな話をなさいましたの?」
「陛下とお母様のお話なんかを。
結構興味深く聞いていただいたわ」
爆弾発言をしてきたことはおくびにも出さず、殊勝にそう答えておいた。
そうして手早く身支度を整えてもらいながら、さすがにヴィアは心がざわついてしまうのを止められなかった。
今日になって自分を訪ねてきたということは、第一皇子はあの件について、心が定まったということだろうか。
自分を召し上げると言ってもらえますように。今はただ、祈るしかないのだけれど。
「ご準備はよろしいでしょうか?」
声を掛けてきたルーナに小さく頷き、ヴィアは鏡の中の自分を見つめる。
口角をちょっと上げると、母ツィティーに似た美貌の少女がにっこりと自分に微笑み掛けた。
大丈夫。
ヴィアは自分に言い聞かせるように、唇だけで呟いた。
「相変わらず美しいな」
アレクの言葉に、ヴィアはふわりと微笑み返す。
面倒なので、謙遜はしない。なのでそこは、さくっと無視する。
「お会いできて嬉しいですわ」
アレクもそれに気付き、面白がるように片眉を上げたが、言葉に出しては何も言わず、ヴィアが差し出してきた手に優美な仕草で口づけた。
ヴィアがふと後ろに目をやると、皇子を見つめるセイラとルーナの目が、何だか無駄にきらきらと輝いている。
この紫玉宮にはセルティス以外、若い男性が一人もいないので、突然訪れた見目麗しい皇子に舞い上がっているのだろう。
ヴィアだって、ただ観賞用にこの皇子を見れるのなら、少しは胸もときめいたかもしれない。
でも、今はそれどころではないし、この前見た皇帝と風貌がどことなく似ている気がするのは、あまりよろしくなかった。
でも、評判はあの皇帝とは雲泥の差だ。民の暮らしにもちゃんと心を砕いていて、必要な施策も行っていた。
伝え聞く人柄も悪くない。
しばらくは、当たり障りのない世間話を続けていたが、とうとう我慢できなくなり、ヴィアは思い切って聞いてみる事にした。
「それで今日はどんなご用件でいらっしゃいましたの?」
この前の返答を暗に促すと、アレクも侍女たちの手前、切り出しあぐねていたのだろう。
少しほっとしたように息をつくと、真剣な眼差しでヴィアを見た。
「それを答える前に、少し付き合ってくれないか?」
その日、アントーレ騎士団は、いつもとは違う、妙に浮足立ったようなざわめきに包まれていた。
第一皇子が見たこともないほど美しい姫君を伴って、訓練の視察に訪れたからだ。
「お前もやはり来ていたか」
言葉を掛けられたアモンは、はい、と小さく頷いた。
「ルイタスの甥の事を聞きましたから」
アモンの目は、気遣わし気に若い騎士らに向けられている。
アントーレ騎士団は、アモンが生涯を掛けて背負う名であり、アモンはこの騎士団を家族のように大切に思っていた。
そもそも、王宮に存在する三つの騎士団、アントーレ、ロフマン、レイアトーは、それぞれ三千人を超える正騎士と、まだ叙勲を受けない準騎士から形成される。
貴族の子弟は十二になれば、いずれかの騎士団に入団しなければならなかったが、皇室の三大私設騎士団と呼ばれているこの三つの騎士団は、特に入団が難関であることが知られていた。
十二で入団した彼らは、五年間を基本的に宿舎で過ごして勉学と鍛錬に明け暮れ、そうして正式に騎士の叙勲を受けて後、ようやく貴族の一員として認められるのだ。
叙勲後の進路はそれぞれだが、いずれにせよ、十二から十七までの多感な時期を、寝食を共にして競い合う生活を送った団員達の結束は固く、その騎士団を受け継ぐアモンにとっては、アントーレの団員はどれも身内同然だった。
「まだ、事故は起こっておりません」
「ならば間に合うな」
アレクは頷き、傍らに立つヴィアに目を落とした。
ヴィアの美しい金髪が風で乱れ、アレクは指でそっと髪を直してやる。いかにも親密そうなその様子に、団員らが大きくざわめいた。
「ヴィアトーラ」
何故自分がここに連れてこられたか、気付けぬほど愚鈍なヴィアではない。にっこりと微笑み、アレクを振り仰いだ。
「どうぞヴィアとお呼び下さい」
「では、ヴィア。
お前が夢で見た騎士の顔はわかるか?」
「近くで見ればわかると思います。確か、若い金髪の騎士でした」
「槍を構える時、一度腕を上げる癖があると言われましたね。該当するものが一人おりました。見てやっていただけますか?」
口を挟んだのは、アモンだ。朝早くから鍛錬場に来て、団員達と稽古をつけていたらしい。
やがて連れてこられた若い騎士は、ひどくどぎまぎした感じで二人の前に立ち、右腕を胸の前に折る最上級の礼をとって頭を下げた。
二十歳をようやく超えたくらいの若い騎士だった。
問い掛けるようなアレクの視線にヴィアは頷いた。
間違いない。この若い騎士だった。
槍に串刺しされた血だらけの目に手を当てて咆哮し、のたうち回り、やがて動かなくなった。
その時の光景がまざまざと蘇り、ヴィアは僅かに足元をふらつかせた。
昔から、血を見る事も、人間の苦悶の声を聞くのも苦手だった。
指先から冷たくなっていく気がする。
「ヴィア」
異変に気付いたアレクが、そっとヴィアの腰を抱く。
「無理をするな、私に凭れていろ」
顔を覗き込むように抱き寄せると、ヴィアは逆らわずにその胸にもたれかかった。
夢が訪れる自分が忌まわしく思えるのがこんな時だ。望む、望まないに関わらず、夢は細部まで見せつける。
やや呼吸が落ち着くと、ヴィアはゆっくりと体を離した。
「落ち着いたか?」
ヴィアはええと答え、目の前の騎士に目をやった。
アレクが騎士に誰何する。
「お前の名は?」
騎士は再び最敬礼した。
「サイス・エベックと申します」
「こちらは、皇女ヴィアトーラだ」
紡がれた名に、エベックが弾かれたように顔を上げる。
周りを取り囲んでいた団員達からも、大きなどよめきが広がった。
今まで、一切表舞台に出てこなかった皇女だが、現皇帝の寵妃であったツィティー妃の美しさは、未だ民の間にも語り継がれている。
その美貌の寵妃の忘れ形見を、第一皇子が我が物顔に連れ歩き、エスコートしているのだ。
その意味するところは明白だった。
と、それまで、魅入られたようにヴィアの顔を仰いでいたエベックが、ようやく不敬を悟ったように瞳を落とした。
「信頼できる者に、ヴィアの警護をさせたい。できるか」
エベックは、確認するように傍らに立つアモン・アントーレを仰いだ。
「皇子の命だ。拝するように」
「はっ……!」
こうしておけば、しばらく馬上で槍を持つことはない。アレクとアモンがほっとしたように目を交わしたことを知る由もなく、エベックはただ頬を紅潮させ、新しい主人となった美しい姫君を、憧憬を込めて眩しそうに仰いだ。