外伝 皇后陛下は、弟を見つける 3
グルークが案じていた通り、ヴィアは未だにその場に蹲っていた。
ただでさえ暗闇は恐ろしく、何の展望もなくただ助けを待つだけの時間は、気が遠くなるほど長かった。
全き静寂が、ここまで恐ろしいものだとは知らなかった。この世界に自分一人だけが隔絶されたようで、恐怖が募る度に嫌な汗が背を伝い、息が荒くなる。
「陛下」
泣きそうになるのを必死に堪えた。
泣いた分だけ体力を消耗する事は、ヴィアにもわかっていた。待っているしかないのなら、少しでも体力を残しておかなければならない。
今頃陛下は心配しているだろうとヴィアは思った。
朝はどんな言葉を交わしただろうか。現実から少しでも目を背けたくて、ヴィアは膝に顔を埋めて朝の事を思い出そうとした。
今日はレイアトーが出陣する日なので、アレクは朝食を済ませるや、慌ただしく出かけて行った。見送るヴィアの頬にアレクは軽い口づけを落とし、いつもと変わらぬ穏やかな朝の風景だった。
その後ヴィアは、水晶宮の子ども達に会いに行き、いつもよりたくさん子ども達と遊んでやった。
今思えば、陛下や子ども達とそれなりに別れを済ませたと言えるのかもしれない。
だめだ、とヴィアは首を振った。何という事を考えているのだろう。諦めてはダメだ。陛下はきっと助けて下さる。
このまま死にたくない、とヴィアは切に思った。
十九の時、ようやく皇后としてアレクの傍らに寄り添う事が許され、まだ三年も経っていない。
陛下は寂しい方だった。家族の温もりを知らずに育ち、寂しいと口にすることも許されない方だった。
だからヴィアはアレクの皇后となった時、温かくて明るい家庭を絶対にアレクにあげるのだと誓ったのだ。
まだ逝けない、とヴィアは思った。
幼い子供たちは、ビエッタ夫人やエレイア夫人がきっと愛情をかけて育ててくれることだろう。
けれど、陛下は孤独なままだ。子ども達はまだ幼くて陛下の支えには到底なり得ない。
その場に蹲ったまま、どれだけの時が経ったのか。やがて、僅かな明かりさえもなくなっていき、ヴィアは今度こそ漆黒の闇の中に残された。
夜が来たのだとヴィアは思った。一人きりで過ごす、恐ろしい夜だ。
目覚めれば、何かが変わっているだろうか。
アレクは一人執務室にいた。
アンシェーゼの皇后が事故に巻き込まれた事を公にする訳にはいかず、捜索は秘密裏に進められていた。
皇后の護衛騎士があらゆる場所を必死に探し、セルティスやグルークは文官らを使って地下通路に関する文献や伝承を必死に集めている。
あの後アレクは、アントーレ、ロフマンの両騎士団長、レイアトーの騎士団長代理を召喚した。
アンシェーゼの皇宮は、かつてベーゼと呼ばれていた街に建てられた事からベーゼ宮とも呼ばれているが、この広大な宮殿は三大騎士団と皇宮警備騎士団が持つ四つの城塞によって守られている。
皇宮警備騎士団はそれほどの機能を持っていないが、三大騎士団は独自の隠し通路をそれぞれ持っている筈で、アレクは皇后が事故に巻き込まれた事をこの三名に伝え、各騎士団の隠し通路を厳重に探索するよう命じた。
近衛にも探らせている。アマリウス帝が作った通路は知らなかったが、諜報、暗殺に使う独自の路を近衛は持っている。朝までには、全ての通路を確認できると報告を受けていた。
自分はただ、待っているだけだ。皇帝としての最低限の職務を執り行い、目を配れぬ部分はルイタスが補佐してくれている。
城内の構造に対する文献を取り寄せ、片っ端から目を通しているが、役に立ちそうな事は何一つ見つかっていなかった。
ヴィアは今頃、一心に助けを待っているだろう。隠し通路を落ちたなら、おそらく怪我はしていない。
けれど、その場からはほとんど動けていない気がした。
「ヴィア、死ぬな」
自分が閉じ込められた方がまだ良かった。自分ならば、対応できる。
だが、ヴィアはどうしていいか分からないだろう。ただ怯えて蹲る姿が脳裏に浮かび、アレクは唇を噛みしめた。
助けに行かなければ、乾いて死ぬしかない。そう思った瞬間、錐で刺されたように胸が痛んだ。
何もできない自分が悔しくて、アレクは拳でテーブルを叩きつけた。
「ヴィア…」
アレクは頭を抱え込むように、肘をテーブルについた。
漫然とただ過ぎていく時がやり切れなかった。
気付けば、僅かな明かりが通路にさし込んでいた。音一つ聞こえない場所で、ヴィアはぼんやりと辺りを見回す。
膝に顔を埋めたまま、自分はいつの間にか微睡んでいたようだ。
力を入れ過ぎたのか、握りしめていた髪留めは金具が曲がっていた。
壊れた部分を指先でたどりながら、朝が来たのだとヴィアはぼんやりと心に呟き、次の瞬間、一晩経っても何の助けも来なかった事を知って、ぞっと背筋を強張らせた。
このままここに蹲っていても助けは来ないのだと、ようやくヴィアは悟った。陛下にももう、どうしようもできない事なのだ。
陛下に会いたいならば、自分の足でここを出ないといけない。ここに留まっていても死ぬだけだ。
ヴィアは覚悟を決め、壁を支えにふらつく足で立ち上がった。
あれから全く水を飲んでいない。地下通路はひんやりとしているからまだ耐えられるが、渇きは喉元にまでせり上がっていて、ヴィアは一生懸命唾を飲み込んだ。
左右に続く道のどちらが正しいのか分からなかったから、取りあえず右に進んでみた。
二、三歩歩きかけ、ヒールのある靴が邪魔になって脱ぎ捨てる。そして壁沿いに一歩一歩ゆっくりと進んでいった。
かび臭い道を進みながら、ヴィアは自問した。間違った道を来たと分かった時、自分に引き返すだけの体力はあるだろうか。
脱水からか頭がかすみ、何もない所で幾度も転んだ。それでもヴィアは歩き続けた。時折握りしめた髪留めを胸の所に寄せ、陛下、と呟く。
体全体が重たく、ただ歩いているだけで息が切れた。疲れ切ったら座り込み、また立ち上がってひたすら歩いた。
どのくらいの時間が過ぎたのか、機械的に足を動かしていたヴィアは、少し周囲が明るくなってきたような気がして立ち止まった。
目を凝らすと遠くで小さな光が見えた気がした。
ヴィアは最後の力を振り絞って歩き始めた。
この道が行き止まりだとしても、引き返して別の道を探す体力はすでになかった。