外伝 皇后陛下は、弟を見つける 2
「大丈夫です。傍にいますから、取りあえずご覧になりたい書物をお選びになって下さい」
カミエに促されて、ヴィアは書架の本を見た。
今日は皇后として調べておかなければならない事があって、ここを訪れたのだ。するべきことを済ませて、早くここを出ればいいだけの話だ。
本を手に取る前に、ヴィアはまず手袋をはめた。ここに保管されている本は貴重な物ばかりなので、素手で触る事は許されていないのだ。
今度、セクルト連邦のシエナ公国の公女が、アンシェーゼに長期滞在する事になっていた。
セクルトはカナ教を信じている国なので、長い期間を過ごされるなら、その心づもりというものがある。
何と言っても今度来られる公女は、セルティスの妃となる可能性がなくもない姫君なのだ。
それにしても……とヴィアはため息をつきたくなる。
その秀麗な顔立ちからセルティスは大層、姫君達にもてていたのに、ある一言を言ったために、妃候補が皆無となった。
おそらくは確信犯だとヴィアは思っている。セルティスはまだ十七だ。結婚を嫌がる気持ちはわからないでもないのだが。
ただ、ヴィアにまで飛び火するとは思ってもいなかった。
「姉上至上主義という言葉がアンシェーゼで流行り始めました」と侍女から聞かされた時の脱力感を、何と表現していいものかわからない。
確かにセルティスは可愛い弟だ。セルティスが生き延びるためなら何でもしてやろうと思っていたし、セルティスもまた自分にとても懐いていた。
何と言っても、世間から隔絶された世界で、二人で手を取り合うように生きてきたのだから。
「素直過ぎるほど素直な子だったのに、どこで育て方を間違ったのかしら。
それともアントーレが悪かったって事?」
勝手に責任転嫁していると、傍で聞いていたカミエが笑い出した。誰の事を言っているのか、すぐに分かったらしい。
「素直かどうかは存じ上げませんが、とにかく頭のいい方のようですね」
一を聞いて十を知る、いわゆる天才肌の皇子殿下だと、アントーレにいる知り合いからカミエは聞いた事がある。
どちらかというと策略家タイプで、十三、四歳の頃には、アレク皇帝の敵対勢力となりそうだった貴族をえげつないやり方で失脚させていた。
「きれいなお顔立ちをされているのに、けっこう性格は苛烈ですよね。
今回の事だって、自分の妃となる女性ならば、皇后陛下と並んで見劣りがしない程度には顔の造作が整っていないとみじめですよねって、並み居る廷臣らの前でおっしゃったらしいですからね」
その発言で、見事に場は凍り付いた。
セルティス皇子の妃候補と言われていた姫君たちは、あの後、そんなみじめな立場にはなりたくないと、こぞって父親に泣きついたらしい。
「あんな事を言って、大丈夫なのかしら」
さすがにヴィアは弟の行く末が気になるが、
「大丈夫なんじゃないですか」
カミエは肩を竦め、躊躇なく即答した。
邪魔な結婚相手がいなくなっただけで、遊び相手には事欠いていないのだ。
セルティス皇子は十分に人生を謳歌している。
もしこの先、本当に手に入れたい姫君が現れたなら、皇子殿下は少々強引な手を使ってでも、欲しいものを手に入れようとするだろう。
「カミエがそう言うなら、まあ、信じてあげてもいいわ」
ヴィアは笑い、ちょうどカナの密教について記されている本を見つけて手を伸ばした。
少し高い所にあったため、その時、軽く書架にぶつかってしまい、つけていた髪留めが小さな音を立てて落ちてしまう。
髪留めは、そのまま書架の隙間に入り込んだようだ。
「私が取りましょう」
言葉を掛けてきたカミエに、大丈夫、とヴィアは答えた。屈まなければならない高さではない。こんな所に隙間がある事が不思議なくらいだ。
「この髪留めは特別なのよ」
隙間に手を伸ばしながら、ヴィアは楽しそうにカミエに話しかけた。
「一緒に出掛けた時のお忍びを覚えてる?」
「勿論です」
忘れようがない。宝玉を換金して来てと頼まれたのも、下町で買い食いなるものをしたのも、人生で初めての経験だ。
「あの時、陛下に買っていただいたの。目の前でお金を払って贈り物をされたのは、あれが初めてだったわ」
うっとりと思い出に浸る皇后を見ながら、それはそうだろうとカミエは心で呟く。
皇帝(当時は皇子殿下だったが)が財布からお金を出して物を買うなど、常識から言ってまずあり得ない。
そしてまた、当時の事をカミエはよく覚えていた。まるで従者か何かのように皇子殿下を傍に待たせて、ヴィア側妃は思う存分買い物を楽しんだのだ。
とんでもない奴だと、皇子殿下が呆れたようにヴィア側妃に言っておられたのを今でも覚えている。
「あら、思ったより奥が深いみたいね」
なかなか髪留めに手が届かず、奥を手で探っていたヴィアは、ようやく髪留めに手が届いてほっとする。
久しぶりにつけてみようと気軽にこの髪留めをつけてきてしまった事を、後悔し始めていたからだ。
大切な髪留めをしっかりと握りしめ、手を引き抜こうとして、ヴィアはふっと眉根を寄せた。
「困ったわ。袖のレースが何かに引っかかってしまったみたい」
大丈夫ですかと近寄ろうとするカミエに、ヴィアは言った。
「何がどうなっているのかしら。カミエ、そこの燭台をとってちょうだい」
何とか外れないかと手を動かした時、何かべきっという何か硬いものが折れるような嫌な音がした。そして音と共に何かが動いた。そんな気がした。
「え…………」
不意に体がぐらついた。床がいきなり傾いだのだ。ぽっかりと穴が現れ、その穴に吸い込まれるようにヴィアの体が滑り落ちていく。
何が起こったのかわからなかった。ヴィアをのみ込んだ床は、すぐに反転して元通りになる。
闇に落ちる前に、「陛下!」というカミエの叫び声が聞こえたが、床が閉じると共に声は途絶え、ヴィアはするすると闇の中を滑り落ちた。
隠し通路を開けてしまったのだ、と辛うじて分かったのはそれくらいだ。
どこまで落ちたのかわからない。気が付けば薄闇の中でヴィアは一人蹲っていた。僅かな光が差し込んでいて、暗闇に目が慣れると、ここが細長い通路なのだとようやくわかった。
「カミエ!」
何度も必死に名を呼んだ。だが、向こうからの返事は聞こえない。
「カミエ!助けて!」
声が反響して、ヴィアの恐怖をいよいよ煽る。ヴィアはとうとう蹲り、両手で腕をかき抱いた。
どうすればいいのかわからない。命の危険はなさそうだが、まるで何十年も人の出入りがなかったようなかび臭さが、恐怖と不安を募らせた。
ここにじっとしていようとヴィアは思った。カミエが自分の名を呼ぶのを聞いた。ヴィアが落ちているところを、カミエは確かに見ているのだ。
カミエが必ず助けてくれる。万が一助ける方法が見つからなければ、すぐに陛下に連絡を取って下さるだろう。
「陛下」
名を呼ぶと、心細さが募ってきて、涙が溢れ出した。
「陛下、助けて…」
ここは、暗くて怖くてどうにかなってしまいそうだ。うつむく頬を、涙が幾筋も伝って落ちた。ヴィアの言葉に返事をくれるものは、ここには誰もいなかった。
「どうなっている!」
報せを聞いたアレクはすぐに倉院に駆け付けた。
皇后が通路に落ちるところを目撃したカミエは、すぐさま扉の外にいた護衛騎士らを内部に入れ、皇后が作動させたと思われる仕掛けの部分を念入りに確認した。
わかった事実は最悪だった。あの仕掛けはおそらく、戦に明け暮れていたアマリウス皇帝の時代に作られたもので、仕掛け部分は半ば朽ち、誤作動によって元となる柱が完全に折れていたのだ。
これでは再び作動させることは不可能だ。重い石床は完全に閉じられ、開けるすべはない。
駆け付けて自ら仕掛けを確認したアレクも、思わず絶望の呻き声を漏らす。倉院の中からは、ヴィアを救えない。
石床を叩いていてどこかが崩れれば、下にいるヴィアが生き埋めになる可能性があった。
アレクは皇宮内にある昔の隠し通路について、かつてそのようなものがあったという事くらいしか聞いた事がなかった。傍に控えている近衛にも目で問うが、首を振るばかりだ。
アレクはすぐにパレシス皇帝の元侍従長を呼びつけた。先代の皇帝に仕えていた者ならば、何か知っているかもしれないと思ったからだ。
だが、奏上されたのは信じがたい言葉だった。
「戦乱の時代に作られた隠し通路について書かれていた書類は、パレシス陛下がすべて燃やされました」
その場にいた者達は絶句した。
「燃やした、だと?」
「他の者に知られて、ご自身が殺される事を恐れられました。陛下自らが火をつけて紙が燃え落ちるのを確認し、これで安心だと」
アレクはあらん限りの罵倒の言葉を吐き捨てた。自分さえ良ければいい、まさにパレシスのやりそうな事だ。
確認のように仕掛けを調べていたグルークが立ち上がった。
「作動した事自体がまぐれのようです。
おそらく第十代アマリウス皇帝が作られたもので………、あれから二百余年が経っています。その後の歴史を振り返っても、倉院の隠し通路が使われるような事態は起きていません。
陛下、一つお伺いしますが、皇后は、皇宮の建造物やその歴史にお詳しい方ですか?」
アレクは束の間考え、首を振った。
「ヴィアは詳しくないと思う。ヴィアが知るのは、貴婦人としての一般教養だ」
「騎士であれば、建物の造りやその歴史については徹底的に教え込まれます。
カミエがすぐに気付いたように、騎士ならば隠し通路に墜ちた時点で、二百余年前の仕掛けが間違って作動し、そしてその仕掛けが既に古びて壊れかかっている可能性を考えるでしょう。
壊れた仕掛け部分から助けが来る可能性が低いと判断したら、我々ならばすぐに動きます。
水のない所でじっとしていたら乾くだけなので、体力のあるうちに移動しなければなりません。
取りあえず壁沿いに進んで、出口に辿り着くまで進む。もしそちらが行き止まりなら、引き返して逆方向に進む。
あるいは二股に分かれている所に着いてしまったら、目印を置いて進むでしょう。騎士はそういう訓練を受けていますから。
けれど皇后はそういった知識もなく、訓練も受けておらず、体力もありません。ましてや倉院を怖がっていたとカミエが言っていました。
気丈で庶民的なたくましさがあるお方とはいえ、一方で、暴力的な行為や暗闇を怖がられる非常に弱い面も持っていらっしゃる。
おそらく助けが来ると信じて、その場から一歩も動かずにおられる可能性が高い。あるいは動こうにも、体がすくんで動けなくなっている可能性があります。
一刻も早く助けに参らなくてはなりません。あのアマリウス帝が作られたのなら、隠し通路の地図は一つではない筈です。
手分けをして探されるべきです」