外伝 すべて世はこともなし
ヴィアの一日は、アレクと二人きりの食事から始まる。
アレクが皇子時代からしてきたように、侍従長以外の人間をすべて下げ、アレクの斜め向かいに座ったヴィアが給仕一式をして、二人でおしゃべりしながら朝のひと時を過ごすのだ。
アレクが執務へ向かった後は、母としての時間だ。
するべき用事を片付けてから水晶宮で暮らす子供達の所へ行き、昼食も一緒に取る。レティアス皇子は一歳五か月、アヴェア皇女は三か月を過ぎたところだ。
アヴェアはまだ幼いので一緒に食事はとれないが、レティアスはヴィアと一緒のテーブルに着く。皇子の公式乳母であるビエッタ夫人も同じテーブルに座る。実際にこまごまとした世話をやく侍女は皇子の傍らに控えている訳だが、食事は必ず皇子と一緒の席でするようヴィアは夫人に頼んでいた。
ヴィア自身、そうやって育てられたからだ。
母ツィティーは午後から夜にかけて紫玉宮を留守にしていることが多かったが、そんな時は侍女頭が母の代わりに席についてくれ、ヴィアやセルティスと食事を一緒にしてくれた。
世間から忘れ去られた紫玉宮で、ヴィアは確かに家族の温もりに包まれていた。
因みにその席には、午前中の勉強を済ませたマイラとその母セクトゥールもやってくる。ヴィアとセクトゥール、レティアス、マイラ、ビエッタ夫人、そしてアヴェアの乳母であるエレイア夫人が加わり、賑やかな昼食会となる。いずれここにアヴェアも加わるようになるのだろう。
因みに夕食はどうしても公務が入る事が多いが、何の予定もない時は、ヴィアはアレクと気の置けない夕食を二人で楽しんだ。
ヴィアにとっては、皇帝であるアレクを寛がせ、疲れを癒して差し上げることが、妻である皇后の一番大切な務めだと思っている。
そういった意味では、子供たちは二の次だ。
午後は皇后としての公務に忙殺される事が多いが、何もない日は水晶宮で子ども達とのんびりと過ごす事もある。
アレクはヴィアの予定を知っているから、そんな日は自分も手が空けば、水晶宮を訪れる。そうすると、水晶宮は大騒ぎだ。
マイラが「お兄様」と叫んで飛びつき、レティアスも「ちちうえ」と胸に飛びついていく。
幼いアヴェアは小さいながらも一生懸命アレクに手を伸ばすが、結果的に後回しになり、エレイア夫人の腕の中でいじけて泣き始めたところを、ようやく父親に抱いてもらえるという寸法だ。
因みに子ども達三人はセルティス皇弟殿下の事も大好きだが、セルティスは皇帝宮にヴィアやアレクを訪れる事はあっても、水晶宮には滅多に近づかない。
あいつらは人間の言葉が通じません、と言うのがセルティスの言い分だが、ヴィアに言わせれば、セルティスだって幼い頃は、意味不明な言葉を叫んでいた。
テルマの巫女の血を引くせいか頻繁に訪れていた夢は、ヴィアが子を身籠ったあたりから見なくなった。感情が安定したせいかもしれないし、そろそろ力が枯れる時期でもある。
その事にヴィアはほっとしていた。何度となく夢に助けられたのは事実だが、残虐な夢はやはり耐え難い。
今日は公務はないが、護衛騎士カミエの父親が領地から出てくると聞いたので、非公式に水晶宮の方に招いていた。
因みにカミエの旧姓はエベックである。
市井に下りていたヴィアにエベックが徽章を捧げた功績を皇帝が重く受け止め、それが世襲を許された爵位授与に繋がった訳だが、世間的にはヴィア側妃の皇后立后に合わせて筆頭護衛騎士であるエベックにカミエ卿の名が与えられたということになっている。
いろいろと表に出てはまずい秘密を抱えているヴィアなのであった。
さて、カミエの父親は、ヴィアがアレクの側妃に上がる一年前に嫡男に爵位を譲って引退した老貴族だ。
お父様と随分年が離れているのね、と聞くと、結婚が遅かったそうです、とカミエは苦笑した。
待ち望んでいた嫡男を授かったのは父が三十の時で、その後、女の子が四人続き、兄と末っ子のカミエとでは十三、年が離れている。
因みにカミエは、自分よりもよほど生まれ育ちがいいと、ヴィアは常日頃よりも感じていた。
エベック家と言えば、アンシェーゼ建国以来の歴史を持つ名家だし、年の離れた末っ子として可愛がられてきたカミエは、アントーレに入団するまでは何不自由のない暮らしをしてきた、正真正銘の貴族の坊ちゃまだ。
一方のヴィアは、踊り子であった母が、同じく庶民の夫との間にもうけた子だし、いずれ市井に下りて暮らすようにと、幼い頃から下町へのお忍びを繰り返してきた。
カミエはヴィアを知ってから、楚々とした美しい女性を見るや、本性はどうなのだろうとつい勘繰ってしまう習性がついてしまった。
未だに結婚しないのはそのせいだろうかと、少々気になるヴィアである。
やがて老エベック卿の来訪が伝えられ、息子のカミエに伴われる形でエベック卿が入って来た。
「レティアス、マイラ、ご挨拶をなさい」
ヴィアが声を掛けると、八つのマイラがドレスの裾を捌き、見事なカーテシーで礼をした。レティアスもマイラを見習って、神妙な顔で騎士の礼をとる。
エベック卿は恐縮したように二人に挨拶を返したが、その時、屈み込んだエベック卿の頭部を確認したマイラが「ちゃんと生えてる」と声を出さずにヴィアに言ってきたため、ヴィアは危うくふき出すところだった。
マイラの暮らす碧玉宮の侍従長は、おでこから頭頂部にかけて禿げ上がっているので、マイラはいまだにハゲに大きな関心を抱いている。
それにしても……と内心ヴィアは首を傾げる。マイラがやたら、ハゲについて造詣が深いのは何故だろうか。
つい先日などは、レティアスに向かって、「貴方のおじいさまは毛がふさふさしていたから、お父様も剥げないし、貴方も大丈夫よ」などと教えていたし、ハゲには、頭のてっぺんだけが剥げるタイプと額から順々に剥げていくタイプがあると、うんちくを傾けていた。
皇妹のマイラにそんな下らない知識を与えたのは誰だろうと、秘かに疑問に思うヴィアである。
まぁ、おいおい確かめてもいいが、取りあえず今は、エベック卿のもてなしを最優先しなければならない。
「どうぞこちらへ」
ヴィアは穏やかな笑みを浮かべて、エベック卿をソファに誘った。
「父が皇后陛下の事を大層しとやかで上品な方だと勘違いしているので、その路線で猫を被っていただけますか」と、事前にカミエから頼まれていた。
大事な護衛騎士の頼みとあらば、その願いを聞くのにやぶさかではない。
皇后とエベック卿は、終始和やかに、礼節を持って楽しく語り合い、やがてエベック卿は満足した様子で水晶宮を辞していった。
「素晴らしいお方だった」と、館に帰ってから、エベック卿は何度も息子のカミエに言い、カミエはひとまずほっと胸を撫で下ろす。
「私のお仕えしている方をご覧になられて、安心されましたか?」
実は、第一皇子の側妃殿下にお仕えするようになったと父に報告した時、父親はあまり嬉しそうな顔をしなかった。
あの時分は、パレシス皇帝が存命であり、アレク皇子の立場も不安定だった。このまま順当に皇位が第一皇子に移譲されるとは到底信じられない状態で、それを案じていたのかもしれない。
だが、それを言うと、意外にも父は否定した。
「お前を皇子殿下と同じアントーレに入れた時点で、政変に巻き込まれる覚悟はしていた」
「では、側妃殿下にお仕えするのが嫌だったのですか?」
そう聞くと、エベック卿は渋々と頷いた。
「ヴィア皇女はパレシス陛下の養女となっておられたが、十六年間、全く表舞台に出てこられない方だった。
何の情報も外に漏れていないのが、まず気に掛かった。
それにヴィア皇女は、当時、アレク殿下の政敵になりえるセルティス殿下の実の姉君だ。関われば、お前の身動きが取れなくなるかもしれないと思ったのだ」
カミエは視線を膝に落とした。
「私は……、考えが甘かったのかもしれません。そういう事は全く考えませんでした」
ただ、見た事もないほど美しい方だと思った。
そして、第一皇子から直々に言葉を掛けていただいて、皇女の護衛を頼まれて舞い上がっていた。
「当時のヴィア皇女は、セルティス殿下の庇護を求めてアレク皇子の側妃となられたのだったな」
確認するような父親の問いに、カミエはええ、と答えた。
「もっとも、その事実を知ったのは、随分後になってからの事です。皇子殿下は、私の目から見ても側妃殿下を大層大切に思っていらっしゃる風でした。
まさか、政治バランスを考えて迎え入れられた側妃殿下であったとは……。実を言うと、今でも信じられません」
エベック卿はしばらく無言でいた。そしてぽつりと呟くように言った。
「パレシス陛下と、今のアレク皇帝は似ておられるな」
カミエは思わず、眉宇を顰めた。
「どこがです。私には、まるで似ておられないと思いますが」
現皇帝アレクとその父パレシス陛下は、全く性格の異なる皇帝だとカミエは思う。パレシス陛下は兄を殺して皇位を簒奪した後、権力が自分一人に集中する事だけに腐心しておられた。
「パレシス陛下は政治にも無関心であられた。
尊い方のなされようを判ずる立場にはいませんが、パレシス陛下がご存命の折は、政治が確かに停滞していたように思います」
「そのくらいの事は、儂とて知っている」
エベック卿は苦く笑った。
それに比して、現皇帝が英明な君主であることは疑うすべもない。すでに皇子であった頃より、皇都ミダスの改革に乗り出していた。
パレシス皇帝の急死後、ロマリス皇子を旗印にしたセゾン卿と皇位を巡って争い、皇宮を制圧、その後も真摯に国政に取り組んで、凡そ二年でアンシェーゼを掌握した。
「パレシス陛下と似ておられる点は二つだ。
パレシス陛下も容姿だけは整っていた。ただあの方の場合、内面の卑劣さや残虐さがどことなく顔に現れていたから、現皇帝と似ているという者はいないようだがな」
「もう一つは何です?」
エベック卿はため息をついた。
「一人の女性に執着される点だ」
ツィティー側妃に対するパレシス陛下の執着は常軌を逸していた。
踊り子であったツィティーを見初めた皇帝は、娘の命と引き換えに、ツィティー妃を無理やり自分の閨に引き入れた。
皇后に皇子を一人生ませた後、下級侍女に次々と手を出して、その中の三人にそれぞれ皇女を生ませた皇帝であったが、ツィティーを愛妾にしてからは別人のように変わった。
昼も夜もツィティー妃を寵愛し、ツィティー妃存命の時は、他の女性に目を向ける事もしなかった。
エベック卿の見る限り、アレク陛下にも同様の面がある。
十代後半のアレク皇子を知るエベック卿は、皇子の事を現皇帝パレシスの血を引く遊び人だと思っていた。
ただ精悍と言うのではなく、皇子には女性を引き付ける色香のようなものがあり、皇子に声を掛けられた貴婦人が顔を赤らめる姿を、エベック卿は何度か目にしていた。
そしてそうした状況を皇子が楽しみ、多くの貴婦人と浮名を流していた事を、当時の臣下なら誰でも知っている。
そんな中で、皇子が二十一歳で側妃に迎え入れたのが、ツィティー妃の忘れ形見である義妹のヴィアトーラ皇女だ。
ツィティー妃の面影を色濃く残し、パレシス皇帝が秘かに欲しがっていたのを、横から掠め取る形で迎え入れた側妃だと噂に聞く。
パレシス皇帝がツィティー妃に溺れたように、アレク皇子もまたヴィア側妃に夢中となった。
その寵愛があまりに眩しかったことから、このままでは皇后を迎えた時の障りになると、側近の手によってガラシアに静養に出された程だ。
ヴィア妃を遠ざけられた皇帝は黙々と政務に取り組み、皇帝としての務めは果たしたが、皇后を決して迎えようとしなかった。
このままでは血が途絶えると、困り切った側近がガラシアからヴィア側妃を呼び戻し、皇后に立后させたのが、今から凡そ二年前の事だ。
皇后にはすぐに子が授かり、ほどなく生まれたレティアス皇子はすぐに立太子され、翌年には皇女アヴェアも授かった。
「それの何が悪いのですか?」
十六歳でアレク皇子の側妃に上がったヴィア皇后は、御年まだ二十一歳。その美貌はアンシェーゼ一とも囁かれ、内側から輝くような艶がにじみ出ている。
皇帝が夢中になるのも無理はないとカミエは思う。
「愛妾に溺れるならともかく、皇后を大事にしておいでなのですから何の問題もないでしょう」
皇后は、気品と教養を兼ね備えた申し分ない貴婦人として臣下から慕われ、皇后の務めを果たす傍ら、慈善事業にも力を尽くし、民からの評判もいい。
「一歩間違えれば、国が傾いていたぞ」
エベック卿は諭すように言った。
「パレシス陛下の時はツィティー妃が分を弁えておられた。アレク陛下の場合は、寵妃を皇后に推挙した側近の功績だ」
とはいえ、エベック卿とて皇后に何の不満もある訳ではない。
君主が若く美しいという事は、それだけで国の力になるとエベック卿は思っている。
皇后もまた、例外ではなかった。その美しさに魅了され、多くの崇拝者が現れた。それを端的に現したのが、皇帝があるお触れを騎士団に出した時のことだ。
「そう言えば、皇后陛下の護衛騎士を募集した時はすごかったようだな」
父の言葉に当時の騒ぎを思い出し、カミエは思わずため息をついた。
あの時は、とにかくものすごい数の騎士が応募してきたのだ。
身元のしっかりした者という条件が付いていたので、アンシェーゼの三大騎士団の中から募集した訳だが、アントーレ、ロフマンからだけでなく、かつてロマリス殿下を担ぎ上げていたレイアトーからも、応募が殺到した。
「お前が選別したのだろう?」
聞かれてカミエは、はいと疲れたように言った。
筆頭騎士はカミエにすると皇后が言われたため、カミエが中心となって、ようやく二十人余を選び出した。
一番脱力したのはロフマン騎士団だ。一時期、ヴィア妃がロフマンの城塞に身を寄せていた事もあり、凄まじい数の騎士が応募してきた。
平騎士なら、まだ理解できる。だが、ヴィア妃と親交のあった騎士団の大幹部までが名乗りを上げたのはいただけなかった。
そんな大物を部下にして、若輩の自分がどう指揮をとれというのだ。
その方々には丁重にお断りした。
「四百人近い応募があって、私だけでは捌ききれませんでした。
家柄や能力、人柄などを各騎士団の団長に判じてもらって、同じ人数ずつ取りました」
「無理もない。あれほどしとやかで気品に満ちた女性はなかなかおられないからな」
言われてカミエは遠い目をした。
しとやかで気品に満ちた女性を演じるなんて、皇后には朝飯前だ。
「疲れませんか」といつか聞いたら、「わたくしは楽しんでいるわ」とにこやかに返された。
庶民的な図太さをほどよく持ち合わせていて、いつも明るく人生を楽しんでいる。それに大層、人たらしだ。
ヴィア殿下が皇后に立后された時、皇帝陛下の最も有力な結婚相手と囁かれていたガランティアの第三王女が王家の代表としてアンシェーゼを訪れた。
王女の気性の荒さを知っている周囲ははらはらしていたが、皇后は終始、穏やかに笑んで王女をもてなし、帰国する頃には何故か王女は皇后の信奉者になっていた。
……お姉さまと呼んでいいですかって、アレ何だろう。
カミエには理解できない世界だ。
「お前が皇后陛下の筆頭護衛騎士となって、儂も鼻が高い」
そう父に褒められて、カミエは背筋を伸ばし、「ありがとうございます」と礼を述べた。
何にせよ、“すべて世はこともなし”である。
ロバート・ブラウニングの「春の朝」(海潮音 上田敏)の詩が好きです。