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そして皇后は、一生皇帝を振り回す

 夕食が終わってから、アレクがいつものように居室でヴィアと寛いでいると、側近の三人の方々がいらっしゃいましたと報せが上がってきた。


 週に一度程度、酒を酌み交わしながら、日中は忙しくて詰められなかった事柄を話し合うのは、四人にとっての日常で、今はそこにヴィアが加わる形になっている。

 というか、皇帝がヴィア妃と寛いでいるところに三人が押し掛けるので、どうしてもそういう形になってしまうのだ。


「わたくしは席を外しましょうか」と、一応ヴィアは言ったのだが、ルイタスに、「妃殿下に聞かれて困るような話はしませんから、どうぞお気遣いなく」と言われ、結局、四人が酒を飲む傍らで、ヴィアはお気に入りのお茶を飲んでいる。


 実のところ、三人ともこの妃殿下と時を過ごすのは嫌ではなかった。

 朗らかで楽天的な妃殿下といると、少々の事がどうにかなると思えてくるし、いい方に物事を受け取ってくれるので、傍にいると癒される。

 皇帝が手元から離したがらない気持ちはよく理解できたが、下手に褒めて焼きもちでも焼かれたら面倒なので、黙っているだけだ。


「最初は、皆さまがお集りの所に、わたくしがお邪魔をしたのですよね」


 ある時、政治の話に一区切りついたところで、ふとヴィアが呟いた。

 あの日の出来事が、今更ながらに懐かしく思い出されたからだ。


 あの時からすべてが動き始めたのだと、ルイタス達もまた、特別な感慨を覚える。


 当時は、セルティス皇子殿下の事も、アレク殿下にとって厄介な、扱いに困る皇位継承者だとしか認識していなかった。 


 皇帝の側妃が子を身籠り、いよいよ面倒な事になったと四人が顔を突き合わせて話していた時、このヴィア妃が突然、水晶宮に主を訪ねてきたのだ。


「初対面でいきなり、殿下の愛妾にして下さいとおっしゃったのですよね。あれには本当に、度肝を抜かれました」


 ルイタスが当時を思い出しながら言うと、

「おまけに妃殿下は、伝説のツィティー妃の偶像を、見事にぶち壊していかれましたし」

 ため息交じりにそう付け足したのは、隣に座るアモンだ。


 聡明で分を弁え、従順かつ可憐な皇帝の寵姫のイメージは、あの日、がらがらと崩れ落ちた。

 おまけに、病弱で寝込んでいると噂されていたヴィア皇女は、そのツィティーの性格を色濃く受け継ぎ、合理的かつ行動力のある、心身共に頑健な姫君だった。


「そう言えばあの日妃殿下は、、王宮での暮らしは退屈だとおっしゃっていましたね。鳥かごに閉じ込められたまま、一生を過ごしたくないと。

 皇后になられれば、殊の外制約の多い暮らしになってしまいますが、それでもよろしいのですか?」


 グルークの言葉に、アレクがはっとしたようにヴィアを見た。

 心配そうに表情を曇らせるアレクを見て、ヴィアは安心させるようにアレクの手を握りしめた。


「市井に下りた二年間、わたくしはいろいろなところを旅しましたの。縁あって旅座の者に拾われて、そこで雇ってもらえましたから」


 思わぬ事件に巻き込まれて蓄えもつき、路頭に迷い掛けた頃、偶然にテルマの旅座に会ったのだ。


 テルマの民の結束は強く、ヴィアは幼い頃から、母の繋がりでミダスを訪れるテルマの民達と交流があった。

 アンシェーゼの皇帝に横恋慕され、その後、後宮に入って息子を産んだツィティーを知らぬ、テルマの民はいない。

 訳あってアンシェーゼの宮廷を出たとヴィアが話すと、テルマの旅座は快くヴィアを引き取ってくれた。


 今振り返っても、悪くない生活だったと思う。

 元々テルマの血が流れているせいか、ヴィアはすんなりと生活に溶け込めたのだ。


「王宮では見た事もない珍しいものや不可思議な事、驚くような暮らしも、たくさん目にいたしました。アンシェーゼだけでなく、シーズやガランティアにも参りましたわ」


 ヴィアの言葉に、グルークは身を乗り出す。

「それは是非とも教えていただきたい事です」


 他国の情報を持つ事は、アンシェーゼにとって何よりの武器となる。また、ヴィア妃が民の視点で見た国内の様子も、グルークはぜひ知っておきたかった。


「喜んで」

 ヴィアは微笑み、アレクの手を握ったまま言葉を続けた。


「旅をするのは嫌いではありませんでした。毎日働きづめでしたけれども、それほど苦ではありませんでしたし。

 けれど、どんなに楽しくても、傍に陛下がいらっしゃいませんでしたもの。

 わたくしにとっては陛下のお傍が一番刺激的ですわ。

 陛下のいらっしゃらない自由よりも、わたくしは陛下のいらっしゃる日常の方がよほど大切です」


 ヴィア妃の言葉に、皇帝は満面の笑みを浮かべ、傍らで見ていた側近三人は、皇帝陛下はこの先一生、ヴィア妃の掌の上で転がされるに違いないと確信した。


「危険な目には遭われませんでしたか?」

 アモンが尋ねると、一度だけ、とヴィアは視線を落とした。


「トウアを去る時、乗合馬車を利用しましたの。陛下はタイスル峡谷をご存知ですか?」

「トウアとミシャの境だな。

 あそこは治安が悪い筈だ。峡谷ではなく、迂回路を通った方が安全だと聞いているが」


「わたくしは知りませんでしたの。

 護衛を連れた急ぎの商人などが峡谷を使うらしく、乗合馬車は商人の一団に混ぜてもらって、そこを進むらしいのです。

 そういう事情も知らず、安易に馬車に乗ってしまって」


「盗賊団に襲われましたか?」

「ええ。

 気が付いたら、馬の嘶きや怒号や悲鳴が飛び交っていて。

 みんなが散り散りに逃げて行ったのですけど、彼らは面白がるように追いかけてきて人を殺すのです」

 

 ヴィア自身、もう駄目かと思った。

 何とか馬車からは飛び降りたが、恐怖で喉は強張りつき、凄惨な光景に意識が遠くなった。


「隣にいた人の血しぶきがわたくしの顔や衣服に飛んで、そこからは記憶がないのです。

 気が付いたら死体と間違われて焼き場に運ばれるところで、あの時は恐ろしかったですわ」


 話を聞いた三人はぞっとしたが、皇帝の方は心配を通り越して怒りが湧いてきたらしい。

「私の傍を離れるから、そういう目に遭うんだ」

 

 タイスル峡谷の馬賊は殲滅させようと、アレクは心に誓った。

 危険なところだと報告は受けていたが、優先順位を考えて後回しになっていた事案だ。

 だが、ヴィアを殺そうとした以上、八つ裂きにしても気が済まない。


 怒りを滾らせる皇帝を見て、ヴィアはしゅんとした。

「わたくしは本当に血が苦手ですの。こればかりはきっと一生治りませんわ」


 あの時助かったのは、奇跡だと言われた。死体と間違われたから、殺されずに済んだのだろうと。

 だが、安全な宿屋に運んでもらった後も、恐怖はなかなかヴィアを去らなかった。寝ても覚めても、あの時の悲鳴が頭から離れない。

 宿屋に閉じこもり、誰ともしゃべらず、ヴィアは幾日も、ただ部屋の中で膝を抱えて震えていた。


「もし戦になっても、わたくしは貴方の足手纏いになるばかりです」

 それを聞いたアレクは笑った。


「お前は皇后となるんだ。もし戦になったら、お前は後宮の一番奥の、最も安全な場所で守られていろ。

 それがお前の仕事だ」


 正面に座していたルイタスも同意する。

「皇帝陛下が戦で王宮を留守にした場合、代わって王宮を仕切るのは皇后です。

 誰よりも御身の安全が優先されなければなりません」


 それからいたずらっぽく言い添えた。

「ですから万が一にも、馬を駆って陛下の元に駆け付けようなどとはなさらないで下さい」

「ルイタス様!」


 ルイタスが何のことを言っているのかを知って、ヴィアは真っ赤になった。アモンやグルークまでが笑いを噛み殺す。


 実はアレクと夜を過ごすようになって数日後、ヴィアはセルティスをアントーレに訪ねた。

 なかなか弟が会いに来ないので、不審に思って顔を見に行ったのである。


 セルティスは喜んでこれを迎え、姉と弟は久しぶりに仲良くおしゃべりに興じた。

 その時、ふと思いついたヴィアが乗馬の練習をしたいとセルティスに言い、セルティスが付き添ってやったのだが、これが後に大変な騒ぎを引き起こす結果となった。

 ヴィアが落馬したのである。


 本当に恐ろしかったと、後にセルティス皇子は何度も側近に語ったと言う。


 何にもない所で、馬を走らせている訳でもないのに、急にバランスを崩して落ちたんだ。あんな怖い乗馬をする人間を、自分は見た事がない。


 落馬したヴィア妃の元にセルティス皇子が真っ青になって駆け付けて名を呼び、アントーレは瞬く間に大騒ぎとなった。

 ヴィアは肘を擦りむいたくらいだったのだが、すぐに侍医団が呼ばれ、あろうことか皇帝までが泡を食ってアントーレに駆け付けた。 


 肝を冷やした皇帝は、二度と馬に乗ってはならないと厳命した。


「頼むから、もう二度と危ない事はしないでくれ」

 手を握りしめ、真剣な顔で頼んでくるアレクに、ヴィアは神妙に頷く。

「お約束いたします。この後は、貴方にふさわしい皇后となれるよう、誠心誠意努力してまいりますわ」


 立后の戴冠式典は明後日だ。

 身に纏う衣装合わせを何度も繰り返し、儀礼官との打ち合わせも済み、後は当日を待つばかりだ。


「そう言えば、陛下からプレゼントがあるんですよ」

 ルイタスが楽しそうに言い、ヴィアはびっくりしてアレクを見る。


 ドレスも靴も装身具も、ヴィアが必要とする何もかもが、最高級の物で揃えられていた。

 これ以上、何を贈られる物があるのか、見当もつかない。


「以前セルティスに聞いていたんだ。その時からずっと、お前に返してやりたいと思っていた」


「皇后に立后されるにあたり、妃殿下のお名前が改められます」

 グルークから渡された紙を見て、ヴィアは息を呑んだ。


“皇后ヴィアトリス”


 ヴィアは信じられないという風にアレクを見上げた。その瞳が潤み、一筋の涙が頬を伝って下りる。

 父親が残してくれた、たった一つの大切な名前だった。


「陛下」

 微笑みながら名を呼ぶと、アレクは琥珀の瞳を細めて満足そうに笑った。


「この名で一生、私に仕えてくれ」



 皇后ヴィアトリスの清楚な美しさは民の間で語り継がれ、自国出身の聡明で美しい皇后の誕生に、民は沸き返った。

 やがて、立后からひと月も経たない内に、皇后は体の不調を訴えるようになり、ほどなく皇后懐妊の報が国中にもたらされた。


 生まれたのは、琥珀の瞳と太陽のような髪を受け継いだ皇子殿下だった。

 レティアスと名付けられたその子は、国中の期待を背負い、生後一か月で皇太子の称号を身に受けた。


 アンシェーゼ歴代の皇后の中でも際立って美しいと後の世に評された美貌の皇后ヴィアトリスは、この後も皇帝の寵を一身に受け、更に一男四女を皇帝との間にもうける事となる。


 名君と名高い皇帝アレクであったが、この皇后だけには頭が上がらなかったと、もっぱらの噂だった。

 この回で、本編は終了です。長い間お付き合いくださいまして、ありがとうございました。


 その後について、いくつか付け加えたいと思っています。

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― 新着の感想 ―
[一言] コミックを読ませていただいて、原作が気になり読ませていただきに来ました。 とても面白くて、読み始めたら、止められず一気に読みました。 今から外伝のほうもじっくり楽しませていただこうと思い…
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