側妃は、皇帝を振り回す
その後目を覚ましたヴィア妃は、皇帝陛下とセルティス殿下の顔は暫く見たくないと、のたまわれたらしい。
ただ、体調は順調に回復し、三日後、歩けるまでに元気になられたヴィア妃は、その足で元の住まいである水晶宮へと帰られた。
セルティス殿下危篤説は、その日のうちに撤回された。
宮中ではその後、セルティス殿下重病の知らせを聞いたヴィアトーラ側妃殿下が、静養先のガラシアから急遽戻られ、三日間殿下の看病をなさった後、水晶宮にお入りになったという噂が、真しやかに駆け巡った。
「うまく辻褄の合うものね」
感心したように呟くのは、静養先のガラシアから戻ったとされるヴィア妃本人だ。
静養ではなく失踪だったと知っているのは、侍女頭のエイミだけで、そのエイミは二度と会えないと悲しんでいた主にもう一度仕える事ができて、大層浮かれていた。
「それにしても、先ほども皇帝陛下のお渡りをお断りされていましたが、本当にお会いしなくてもよろしいのですか?」
水晶宮には、何度となく皇帝からの手紙が届いている。
その度に、お会できないとお伝えしてとヴィア妃は答えるばかりで、ヴィア妃はもしかして皇帝陛下の事を嫌っておられるのだろうかと、さすがにエイミも心配し始めていた。
「お会いしたくないの」
ヴィアの言葉に、エイミは悲しそうに呟いた。
「妃殿下はもう、皇帝陛下の事がお嫌いになったのですね」
「まあ、違うわ」
侍女達に髪を手入れしてもらっていたヴィアは、びっくりしたように鏡の中のエイミを見つめた。
「陛下のことを嫌いになってなどいないわ」
「ではなぜ、お会いにならないのですか?」
「お会いするのが怖いの」
ヴィアは、艶を失った金髪を指で一房摘み、しょんぼりとエイミに訴えた。
「水晶宮に帰って、鏡の中の自分を見て愕然としたわ。肌の色つやも良くないし、髪も何だかパサついていて……。
それにこの指…」
ヴィアは膝の上に置いた自分の両手を見つめた。
二年もの間、水仕事を毎日してきた指は、指先が荒れ、とても姫君の手とは言い難かった。
「この二年間、片時も陛下の事を忘れる事はできなかったの。ずっとお慕いしていたわ。
なのに今はこんな姿になってしまって…」
この前はだまし討ちのような形で会ってしまったけれど、あの時はまだ部屋が暗かったから良かったのだ。
明るい日の光の下で再会すれば、アレクにもきっとわかってしまうだろう。
「せっかくお会いできても、二年の間に容色が衰えたと思われでもしたら、わたくし耐えられないわ」
妃殿下のこの言葉に、エイミを含めた水晶宮の侍女たちは、女性として大いに共感した。
今でも妃殿下は十分にお美しいが、爪も肌も髪も完璧に手入れされていた往時の美しさには、格段に劣る。
かくして、侍女達による、水晶宮の総力を挙げての、“妃殿下を元の麗しいお姿に磨き上げる” 大作戦が始まり、皇帝は水晶宮から完全に締め出された。
側妃に会ってもらえない皇帝は、可哀そうなくらい落ち込んだ。
滞りなく仕事はこなしているが、どこか悲しみの漂う背中に、側近三人はまだ会ってもらえないんだと、内心でため息をつく。
ルイタスは顔馴染みの水晶宮の女官に、何とかとりなしてもらおうとしたこともあったのだが、今は無理です、の一点張りだ。
「妃殿下の気持ちもお考え下さいませ!」と、妙に気合の入った顔で宣言され、退くしかなかった。
一方のセルティス殿下は姉の怒りを恐れて、さっさとアントーレに帰ってしまった。
一月もすれば怒りは収まるから、その時まで気長に待ちます、とはどこかお気楽な弟の弁だ。
こちらは姉との絆を疑った事もないし、すぐさま顔が見たいと切羽詰まっている訳でもない。
放っておけなくなったルイタスは、侍従長を呼び出し、最近の陛下の様子を聞いてみた。
「どこか元気のないご様子です」と言われ、ううむと腕を組む。
「酒の量は?」と聞くと、「最近は飲んでおられません」と意外な返事が返ってきた。
「妃殿下がガラシアから帰られた日より、お酒は飲まれなくなりました」
取りあえず、行方の分からなかったヴィア妃が手元に戻り、ほっとしたのだろう。
これでまた失踪されると事なので、アモンは水晶宮の警備を強化していた。
警備と言うより、逃亡の警戒に重点が置かれている。だが、今のところ、逃げ出される様子はないようだ。
「侍従長は、妃殿下の事をどう思っているの?」
ふと思いついて、ルイタスは尋ねてみた。
まだ公ではないが、次回の円卓会議で、グルークはヴィア妃を皇后に推挙する段取りになっていた。
そうなれば、ヴィア妃は皇帝宮で暮らす事になる。妃殿下が、皇帝宮でどのように受け止められているか、知っておきたかったのだ。
「妃殿下が傍におられると、皇帝陛下はよくお笑いになります」
侍従長は微笑んだ。
「私は陛下が御幼少の頃からお仕えしておりますが、陛下は孤独なお子様でした。
父君からも母君からも愛されずに育ち、母のように慕っていた乳母は、八歳の時に遠ざけられました」
ルイタスもその事は聞いていた。
皇子殿下が乳母に甘えているのを見た皇后は、皇子のためにならないと激怒し、乳母を遠い地へ追いやったのだ。
「アントーレで、ルイタス様やアモン様やグルーク様とお知り合いになられて、ようやく楽しそうな姿を拝するようになりましたが、長じるにつれ、声を上げて笑う姿はほとんど見なくなりました」
ただ、作り笑いは見事だった。
精悍な面に魅惑的な笑みを浮かべて見つめられた貴婦人は、皇子殿下に夢中になったし、廷臣らも品位ある振る舞いと穏やかな物腰に、申し分ない皇子殿下と褒め称えた。
「ヴィア妃殿下を側妃に迎えられた辺りから、陛下は楽しそうな表情を浮かべられるようになりました。
殊の外気に入られて、毎日伽にお呼びになり、時間が合えば夕食や朝食を共にされ、そんな時の陛下はとても楽しそうでした」
その矢先、事件が起こった。
当時の真相を知る数少ない一人である侍従長は、皇后からヴィア妃を守るために、皇子殿下がわざと側妃を遠ざけた事にすぐに気付いた。
そして、パレシス帝の死、戴冠、皇后の死……。
いくつもの転機が訪れ、ようやく皇后宮にヴィア妃を迎えた翌日、側妃は唐突にガラシアへと発ったと発表がなされた。
「皇帝陛下にとって、ヴィア側妃殿下はなくてはならないお方です。
ただ、一つ案じられるのは、ご寵愛が深すぎる事です。皇后をお迎えになれば、必ず災いの種となるでしょう。
妃殿下は、それを恐れて、多分お隠れになったのだと思いますが」
「それは問題ない」
侍従長の言葉に、ルイタスは晴れ晴れとした顔で笑った。
「これはまだ、侍従長の心に留めておいて欲しい事だけれど」
ルイタスが耳元で何か囁くと、侍従長の顔が綻んだ。それを楽しそうに見やり、ルイタスはもう一つの懸案を片付けるべく、水晶宮へと足を向けた。
「お久しぶりでございますわ」
妃殿下への面会はあっけなく許された。
どうすれば会っていただけるか、あの手この手を考えてここまでやって来た自分が馬鹿に思えるほどである。
「はっきり言って、会っていただけるとは思っておりませんでした」
ルイタスの言葉に、ヴィアは不思議そうに首を傾げた。
「どうしてそうお思いなのですか?」
「怒っておいでなのでしょう?皇帝陛下の事を」
「怒ってなどおりませんけれど」
ヴィアは困惑を隠せずに答えた。その表情に嘘はなく、ルイタスは思い切って踏み込んでみた。
「では何故、皇帝陛下に会っていただけないのです?」
ヴィアは答えを言い淀んだ。繊細な乙女心を、皇帝の側近の前で言葉にするのは、やはり気恥ずかしい。
「理由を言わなければなりませんか?」
「是非とも」
ヴィアはため息をついた。
「ルイタス様は、わたくしの髪の毛をどう思われます?」
「髪?」
意表を突かれて、ルイタスはまじまじとヴィア妃の髪を見た。
そう言えば、昔はもっと長かっただろうか。
「短くなっておられますね」
口にできる感想はそれくらいだ。
「長さではなくて」
ヴィアはもどかしそうに言った。
「随分傷んでおりますでしょう?髪に全く艶がありませんの」
その言葉をじっくりと吟味し、ルイタスはようやくある答えに辿り着いた。
「もしや髪に艶がないとか、肌が荒れたとか、爪の手入れがされてないとか、そういう………理由ですか?」
馬鹿げた、と言う言葉を咄嗟に外す事ができた自分はすごいと、ルイタスは思った。
「わたくしは一番きれいな姿で陛下にお会いしたいの」
ルイタスはため息をつきたくなった。
自分が目通りを許された理由が分かった。
つまり、陛下以外は眼中にないので、本人曰く、まだ手入れ途中の姿で、ヴィア妃は会ってくれたわけである。
「もう十分お美しいですから、陛下にお会いになって下さい」
「でも、陛下に愛想を尽かれたら…」
「あり得ません!」
ヴィア妃に嫌われたと思って、皇帝は心底落ち込んでいる。それはもう、可哀そうなくらいに。
「それにもし、指や爪が荒れておられたとしても、苦労させたとかえっていたわしく思われて、ご寵愛が増すと思われますが」
それはもう、間違いがない。
けれど、ヴィア妃は首を振った。
「わたくしは、陛下の同情を引きたいわけではありません」
「なるほど」
ルイタスは何だか、どうでもいいような気がしてきた。
皇帝はヴィア妃に嫌われているどころか、一途に愛されている。考えようによっては、お預けを食らわされた分、陛下は天に上るような気持を味わえるだろう。
この一件には関わるまいと、ルイタスは賢明に判断した。
「それよりも、今日は少し重要な話をしに来たんです」
表情を改めてそう言うと、ヴィアも真面目な顔になった。ヴィアもまた、ある事がずっと心に掛かっていたからだ。
だからヴィアは、自分から口を開いた。
「わたくしはまだ、こちらにいてもいいのでしょうか」
「陛下には妃殿下が必要です」
即座にルイタスは答えた。
それだけは、妃殿下に忘れていただいては困る事だ。
ルイタスはヴィア妃の目を真っ直ぐに見つめ、静かに言い切った。
「陛下はヴィア側妃殿下を皇后に迎え入れるとお決めになりました」
ヴィアは瞠目した。ルイタスの言葉が信じられず、ややあって、ヴィアは弱々しく首を振った。
「無理です。わたくしには後ろ盾がありません」
「陛下はすでに国を掌握されました。立場を強固にするために、皇后を迎え入れる必要はないんです。
今、陛下に求められているのは、一刻も早くお子をもうけられる事です。
陛下は妃殿下を失って以来、皇后を娶る事を拒み続けられました。そればかりか、この二年、誰も伽に呼ばれていない。
このままでは皇国に世継ぎが生まれません。だからこそ我々は、貴方を皇后に推挙する。
ただし、一つだけ約束をさせて下さい」
ひどい事を言っているという自覚はあった。だが、皇帝の側近として、どうしても言っておかなければならない事だった。
「貴女を皇后として迎え、もし二年たってもお子が生まれなかったら、その時は妃殿下の口から、陛下に愛妾を勧めて下さい。
愛妾にお子が生まれ、そのお子が皇太子となっても、貴方が皇后であることに変わりはない。
貴女のお立場を守るために、我々は全力を尽くします」
ルイタスの言葉を、ヴィアは黙って聞いていた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「陛下のお傍にいられる正当な理由を下さると言うのなら、わたくしは喜んでお受けいたしますわ」
それがヴィアの望みだった。
共に在ること、それが許されるなら、皇后としての義務だけは、どんなにつらくても果たすだろう。
「ルイタス様、お約束いたします。
もし二年経ってわたくしに子ができなかったら、必ず陛下に愛妾を勧めます。
陛下にはお子が必要ですから」
ルイタスはほっと溜息をついた。
自分達から陛下に言っても、多分聞き入れては下さらない。
だが、ヴィア妃が頼めば、陛下は動く。かつてヴィア妃の命を守るために、ヴィア妃を遠ざけたように、皇后としてのヴィア妃の立場を守るためならば、愛妾を受け入れて下さるだろう。
「感謝いたします」
ルイタスは深々と頭を下げた。
「どうか陛下をよろしくお願い申し上げます」
あと二話で、本編は終了します。あと少しですので、よろしくお付き合いくださいませ。