第一皇子は考える
ヴィアがいなくなった後、室内は奇妙な静寂に包まれた。
余りに型破りな皇女の登場で、毒気が抜かれたような感じだ。
アレクはじわじわと、腹の底から笑いがこみ上げてきた。
「大した女だ」
たった一人の弟を守るために必死なのだろう。後ろ盾もなく、しかも皇位継承権を持つ皇子と言うのは、確かに一番厄介だ。
「それにしても、あの容姿であの性格か。
あんな面白い女が義妹にいたとは知らなかったな」
「あれならうっかり見初められますね。
どうです?据え膳を食いますか?」
まぜっかえすようなルイタスの言葉に、グルークはあからさまに顔を顰める。
「あの容姿は殿下のど真ん中だろう?夢中になられても困る」
アレクは脱力した。
「お前はここで、そっちの心配をするか」
確かにあの容姿にそそられない男はいないと思うが。
「毒か薬か、判断がつかん」
アモンは何も言わない。
元々寡黙な男だが、別のことに心を囚われている様子だ。
おそらくアントーレ騎士団の馬上稽古の件が気になっているのだろう。
「消去法でいくと、ヴィアトーラ皇女が陛下の愛妾となられて、しかもセゾン卿と手を組むというのが、一番避けなければならない選択ですね」
「では、陛下の思い人をとるか」
面白半分に言うと、ルイタスもおふざけに乗ってきた。
「貴方なら、陛下も表立っては反対できないでしょう。
それでなくても、一旦養女とした女性ですからね。自分の後宮に入れるには、余りにも外聞が悪い」
普通であれば、皇帝が欲している女を、皇子が妾妃に迎え入れるなどおよそ考えられない。
が、ヴィアトーラ皇女の場合は、事情が事情だ。
母娘揃って後宮に入れるなどあまりに不謹慎だし、その上今は、マイアール妃が懐妊したばかりだ。
「しかし、私が願い出たとして、そう簡単に許しはもらえないだろうな。
あの皇女は母親のツィティー妃に生き写しだ。陛下はかなり執着される気がする」
と、ずっとそれまで黙っていたアモンが、不意に口を開いた。
「もし、ヴィアトーラ皇女を愛妾に迎え入れられるなら、先ず皇后陛下に話を通した方がいいのでは?」
「何だ、お前は賛成なのか?」
アレクが苦笑すると、いいえ、とアモンは否定した。
「あの皇女殿下をどこまで信用して良いものか、私にはまだわかりません。
ただ、皇后陛下に間に入っていただいた方が、事がスムーズに運ぶ気がしただけです。
陛下は、皇后陛下には一目置いておいでですから」
愛妾にのめり込んで、皇后を顧みなかった皇帝だが、二十年以上皇后の座についているトーラ妃にはある程度の信を置き、意見にも耳を傾けている。
それだけの権力基盤を、皇后は長い年月をかけて築きあげていた。
政治を見渡す視野も広く、国内だけでなく国外にも、かなり幅広い人脈を持っている。
ひときわ優れているのは、目先の理に惑わされず、数十年後を見据えて一手を打とうとする堅実さだろう。
アレクにしたところで、そもそもこの三人を自分に配してくれたのは皇后なのだ。
懐刀と言うべきグルーク、軍閥の嫡子アモン、情報収集に長けたルイタス。
皇后の読み通り、この三人は今や掛け替えのないアレクの腹心となっている。
「皇后陛下、ねぇ」
自分を、役に立つ駒としてしか見ようとしない母親を知っているアレクは、やや気が進まなそうに頬杖をつくが、そんなアレクに、グルークは窘めるように言葉を足した。
「はっきり言っておきますが、もし皇女を妾妃に迎え入れたいと思われるなら、一番気を遣わなくてはいけない相手は皇后陛下です」
「それはわかっているが」
「殿下」
グルークは、アレクの言葉を遮った。
「皇后陛下は、今もツィティー妃を憎んでおられますよ」
ひんやりとした手で、首筋を撫で上げられたような気分だった。はっと顔を上げるアレクに、グルークは更に言葉を重ねた。
「ツィティー妃に生き写しの皇女を、再び皇帝が求め、息子である殿下も欲したと知れば、皇后陛下は激怒なさることでしょう。
きちんとした事情を、先ず皇后陛下にお伝えするべきです。
マイアール妃が懐妊したことで、セルティス殿下を早急に取り込んでおきたいこと、皇帝がヴィアトーラ皇女に目をつけたことも、隠さずにお話し下さい。
皇后陛下は、皇帝がこれ以上の醜聞を起こすことは避けたい筈です。
それよりは、殿下が妾妃に迎え入れることを望まれるでしょう」
アレクは我知らず、詰めていた息を吐きだした。
グルークの言う通りだった。皇后がツィティー妃を憎んでいない筈がない。
ただの色好みなら、皇后の面子は潰れなかった。だが当時、皇帝は周囲から失笑を買うほどに、ツィティー妃に執着した。
「ったく、あの方は厄介な問題ばかり引き起こす」
アレクは頭を掻きむしりたい気分だった。自分の父親ながら、あまりに節操がない。
「まあいい。
ルイタスはマイアール妃懐妊で貴族達の動きに変化はないか、情報を集めてくれ。
ヴィアトーラ皇女の事は、もう少し考えてみよう。陛下は明日から三日、タイアックの交易使節団の接待で手一杯だから、どうせしばらく皇女には手が出せない筈だ。
それと、グルーク、明日の接待の席にはセルティスも必ず来るよう、使いを出してくれ」
「わかりました」
今までほとんど気に掛けたこともない弟だった。
病弱と信じ込んで何の働きかけもしてこなかったが、姉の様子を見る限り、弟の方もまた、病弱のふりをしていただけかもしれない。
今回の件で鍵となるのは、皇位継承権を持つセルティスだ。
セルティスが本当に、手を差し伸べるに値する弟なのか、見極めておく必要がある。
病弱と称して、紫玉宮から出てこなかった弟は、アレクの呼び出しにあっさりと顔を出した。
思った通り、隠れ暮らしていただけのようだ。
姉ほどはツィティー妃に似ていないな。
久しぶりに見掛けた弟に対し、アレクが先ず一番に覚えた感想がそれだった。
きれいな面立ちをしているが、姉のように人目を惹く艶がない。
十二にしてはか細く、同年代の子供と比べても、幼い感があった。
「お前の姉が、私の所に来たことは知っているか?」
他の者達に気付かれぬよう、小声でそっと囁くと、セルティスは頷いた。
「どう思う?」
「私は姉上がいるなら、市井で暮らしても良いと言ったのです。でも、お前には甲斐性がないからと断られました」
「……………」
あの姉にしてこの弟だと、アレクは力が抜けた。そこはかとなく、どこかずれている。
「まあ、どこに隠れても、この身に皇帝陛下の血が流れている限り、どこに逃げても探されて殺されるでしょうし」
「そうだな」
アレクは否定しなかった。
下手に逃げれば、謀反を疑われて近衛が放たれるだろう。
「姉上が、父上か兄上のどちらかの愛妾にならなくてはいけないなら、私は兄上の方がいいと思いますよ」
セルティスは今更のように兄の容姿を見て、そう言い切った。
「たとえ、デブでハゲで年寄りでも、妻になれるならいいでしょうと母上はおっしゃっていたけれど、やはり見目麗しい方の所へ行っていただきたいし、それに兄上はモテそうだから、姉上にあまり執着されないでしょう?
姉上が自由になりたいと言ったら、いつでも手を放して下さりそうな気がします」
そこを心配するんだなとアレクはおかしくなった。
「お前、帝位に執着はないのか?」
尋ねると、初めてセルティスは笑った。
「有能で腕の立つ腹心もいないし、後ろ盾も全くありません。治める力のないものが皇帝になっても国が荒れるだけです。
ただ、第二皇子としてなら、私にも何かできることがあると思うのです。
私は、姉が市井に下りた時、苦労せずに暮らせる、そんな国を作るために心を砕いていきたい。
それがきっと、私が姉にできるただ一つのことですから」
「弟か」
執務室の窓から外を見下ろしながら、アレクは独り言ちた。
今まで自分に弟妹がいると、アレクはあまり考えたことがなかった。
すぐ下の三人の異母妹達は、ほとんど会話を交わすことがないままに他国に嫁いでいったし、一番下の異母妹はまだ幼く、顔を見たこともない。
セルティスと交わした会話を、アレクはぼんやりと思い起こす。
馬鹿ではないなとアレクは思った。
立場を知り、弁えている。姉の立ち位置もわかっていた。
予知夢の事は知っているかいないのかわからないが、知っていたとしても口に出さない慎重さは持ち合わせているということなのだろう。
「ルイタス、どうした」
ふと、声を掛けたのが、グルークだ。
いつもなら朝から楽しそうに喋りかけてくるルイタスが、今日に限って妙に寡黙だ。
アレクもようやくその不自然さに気付き、ルイタスに目を向けた。
「実はわざわざお知らせすべきことなのかどうか、わからないのですが」
「何だ」
「私の姉に五歳の男の子がいるのです。名をロランと言いまして」
「よくある名だな」
答えながら、最近どこかで聞いた名前だと思った。
「昨日の夕方、木登りをしていて、木から落ちて右足を骨折したと、姉が」
その頃になって、アレクにもようやく、ルイタスが何を言いたいのかわかってきた。
グルークが、まさか、と一言呟く。
「夜会に出かける前で、姉はタフタで作られた緋色のドレスを着ていたそうです。
何か、ネックレスをしていたのかと聞いたら、昼前に夫から送られたという碧玉のネックレスをつけていたと」
「………」
ヴィアトーラがその夢を話したのは、昨日の昼過ぎだった。
あの時あの皇女は何と言っていたか。
回避できる可能性のある未来、確か皇女はそんな風に言った…。
「そういえば、アモンはどこに」
「その話をしたら、血相を変えてどこかへ行きました」
皇女が明かしたもう一つの未来。
アントーレ騎士団の若い騎士が、馬上稽古の途中、槍で左目を突かれると、皇女は言っていた。
「どこに行かれます」
踵を返したアレクに、グルークが慌てて声を掛ける。
アレクは大きく息をついた。
「ヴィアトーラを、アンシェーゼ第四皇女を、私の愛妾に迎える」