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側妃は、皇帝の身を案じる

 その日エベックは、久しぶりの休暇でミダスの街に出ていた。

 ミダスには、アントーレ騎士団御用達の店があり、夜会用の高級な生地や騎士の装身具、得物などが幅広く取り揃えられている。

 そこで、いくつか買い物を済ませ、そのまま騎士団の仲間と合流して、どこか馴染みの店にでも行く予定だった。


 店に入ろうとした時、「エベック」と女に名を呼ばれた気がした。

 が、エベックは構わず、その店に入ろうとした。

 騎士仲間になら、敬称をつけずに呼び捨てされるのが当たり前だが、女にそう言う心当たりはない。別の人間を呼んでいるのかと思ったからだ。


 けれど、店の扉の手を掛けた時、もう一度強く名を呼ばれた。

 エベックは歩を止めて怪訝そうに振り返り、視線の先に思い掛けない人物の姿を見つけて驚愕した。


「妃殿……」

 言い掛けて、慌てて口を閉じる。

 下層の女達が着るような粗末な衣装を身に纏っていたが、それはまさしくヴィア妃だった。


 トウアで姿を消して以来、アントーレ副官が必死になってヴィア妃の行方を追っている事をエベックは知っていた。

 皇帝の側妃を大っぴらに探す訳にはいかず、捜査は難航し、エベック自身、もう二度と会う事が叶わないのではと、半分諦めかけていた。


「よく、御無事で」

 エベックは足早に駆け寄ると、通りに面した街路樹の下にヴィアを誘導した。護衛騎士の習性で、無意識にヴィアを人から庇う位置を取る。


「その恰好は…」

 そうして改めてヴィア妃を見下ろして、エベックは痛ましげに言葉を呑み込んだ。


 おそらく髪の手入れができなかったのだろう。腰の下まであった艶やかな金髪は背の中ほどで切られ、リボンで後ろ一つに括られている。

 顔立ちはさほど変わっていないが、身に着けているドレスは下町の女達が着ているようなものだ。 

 生地はすっかり色落ちしており、華やかに着飾った往時の姿を知っているだけに、生活に苦労している様子に胸が詰まった。


「何か勘違いしているようだけど」

 ヴィアは困ったように笑う。

「わたくしは今の生活に満足よ。元気にしているし、ちゃんと毎日を楽しんでいるわ。

 ただ今日は、どうしてもエベックに用があって、貴方を待っていたの」


「私を?」

 思い掛けない言葉に、エベックは驚いてヴィアを見た。

「ならば、アントーレの方に訪ねて下されば」


 言い掛けてすぐに気付いた。

 このような姿のヴィア妃が騎士団の門を訪れて自分に会いたいと願い出ても、門番が取り次いでくれる筈がない。

 余程、身分を証明するような物を持っていれば別の話だが。


「無理でしたね。けれどどうして、ここが分かったんです?」

「以前アモン様に伺ったことがあるのよ。アントーレ騎士団御用達の店があって、騎士団の者達はよくそこを訪れるって」

「それで張り込んでいらしたのですか?」


 面白がるように片眉を上げると、ヴィアは笑った。

「今日で六日目よ。

 これであなたが来なければ、誰でも騎士の人を捕まえて、私の妹が貴方に弄ばれて子どもができたと、泣き落として貴方に繋ぎをとらないとならなかったわ」


「勘弁して下さい!」

 思わずエベックは、悲鳴のような声を上げた。


「本当に良かったわ。今日貴方が来てくれて」

 しみじみと感慨深そうに言われて、エベックは眉をへの字にした。

 それはどちらかと言うと、自分の弁である。


「それにしても、何か困られている事でも?」

 わざわざ自分を待ち伏せておられたくらいだから、何か用があったのだろう。

 改めてエベックは問い掛けた。


 エベックにとってヴィア妃は命の恩人だ。いや、恩人でなくても、エベックはこのかつての主に心酔し、今なお深い忠誠を覚えていた。

 何か困った事があるのなら、少しでも力になりたかった。

 だが、ヴィアが口にした事は、エベックの想像をはるかに超えるものだった。


「アモン様から陛下に伝えて。陛下が馬ごと濁流に呑まれる夢を見たの」


 エベックは驚愕し、厳しい目でヴィア妃を見つめた。

「いつです!」


「二週間ほど前になるわ。

 知らせようとようやくミダスにたどり着いたのだけれど、どうやって陛下に繋ぎをとればいいかわからなくて。

 貴方がミダスの店を利用する筈だと思い付いて、それで待っていたの」

 

 エベックは我知らず、詰めていた息を吐いた。

「詳しい内容を教えて下さい」


 ヴィアは瞳を閉じた。夢の記憶を辿るように、ゆっくりと言葉を選んでいく。


「どこか大きい河沿いを馬で進んでおられるの。隣にグルーク様がいて、治水がどうとかと言われていた気がするわ。

 雨が上がって間がないのかもしれない。河は泥水の濁流が流れていて、足元もぬかるんでいた」

「場所に何か特徴は?」


「そこからとても大きな岩が見えたの。人の顔のように見えない事もないわ。

 それからその隣に、ひときわ高い木が三本生えていた」

 ヴィアは心配そうに両手を握りしめた。

「それだけなの。場所がわかるかしら」


「人の顔のように見える大きな岩と、隣に高い木が三本あるのですね。陛下はビゼ河の治水工事の視察で、近々そこを訪れる予定でおられます。

 ビゼの河流を辿って行けば、おそらく場所は特定できます」


「絶対に行かないでと陛下にお伝えして」

 泣きそうな顔でヴィアは頼んだ。


「私より、貴女が直接ご説明された方がいい。一緒に王宮に戻って下さる訳にはいきませんか?」


 エベックの言葉にヴィアは首を振った。

 二度と王宮に足を踏み入れるつもりはない。


 エベックは迷うように瞳を彷徨さまよわせ、それから真っ直ぐにヴィア妃と目を合わせた。


「陛下がずっと探しておいでです」


 無事でいるかどうかだけでも知らせて差し上げたいと、アントーレ副官が苦渋の顔で呟いていた。副官にとっては、それほどの懸念だった。


 だが、ヴィアは首を振った。

「陛下にはお会いしないわ」


 エベックは束の間、黙り込んだ。


「……もうご結婚をされたのですか?」

 エベックの問いに、ヴィアは警戒するようにエベックを見上げた。

「どうして、そんなことを聞くの?」

「ご結婚されていれば、生活も安定されていると思うので」

 もっともらしくエベックが答えた。


「してないけど、ちゃんと生活できているわ」

「……では、ご結婚の予定は?」


 ヴィアはため息をついた。呆れたようにかつての護衛騎士を見る。

「どうしてそんな事を知りたいの?」

「ご結婚の予定があれば、生活も安定するかと思いまして」

 生真面目にエベックが繰り返す。


「予定はないけど、いつかはするわ。なかなか出会いがないだけよ」

「トウアで裕福な商家の跡取り息子と出会ったのに?」


 思いがけない逆襲に、ヴィアは耳まで真っ赤になった。

「どうして知ってるの!」

「貴女を探しに、わざわざトウアまで行ったのは私ですから」


「…どうして来るのよ」

 ヴィアは視線を落とし、ぽつんと呟いた。


「文句は皇帝陛下に言って下さい。

 因みに今は、アントーレの騎士団が貴女の捜索に駆り出されています。余計な任務が増えて、可哀そうだと思われませんか?」


 アレクの事を考えると、ヴィアは何だか泣きたくなる。

 気弱な顔を見られたくなくて、ヴィアは俯いた。


「忘れてくれていいのに」

 アレクにもちゃんとそう言った。陛下を忘れて幸せになると。


 息を吐きだし、ついでのように問い掛ける。

「…みんなは元気なの?」


「セルティス殿下は、公の席に積極的に出席なさるようになりました。背も伸びて、随分大人びてこられました。

 お姿を見たら、きっと驚かれる事でしょう。


 アントーレ副官、グルーク様、ルイタス様もお元気ですね。とても精力的に陛下を支えておいでです。


 ロフマン卿からは、静養中の妃殿下はお元気かと、先日聞かれました。口調から察するに、どうやら妃殿下が別邸におられない事を感付いておられるようです。


 それから…」


「……どうして陛下の事を教えてくれないの?」


 横を向き、拗ねたように呟くヴィア妃を見て、エベックは笑った。

「気になりますか?」

 

 ヴィアは感情を振り切るように、いいえ、と首を振る。

「お元気でいらっしゃるわ。何かあれば、噂は届くもの」


 一筋縄ではいかない。エベックは小さくため息をついた。


「私が簡単にお会いできる方ではないので、ご様子はよくわかりません。

 ただ、降る程の縁談が来ているのに、全く耳を傾けようとなさらないとは聞いています。

 何かあったらセルティスがいると陛下がおっしゃられたとかで、セルティス殿下が鳥肌を立てて嫌がっていらっしゃいました。

 

 陛下はお元気ですよ、表面上は。

 ご満足ですか?」


「嫌な言い方をするのね」

 アレクの様子を聞いて、つんと鼻の奥が痛くなった。

 涙が滲まないように懸命に瞬きを繰り返して、ヴィアは怒ったように呟いた。


「嫌な奴だと自分でも思います。

 どうしようもない事だと分かっていても、私は妃殿下がいらっしゃらなくて、寂しく思っています」


 ヴィアはしばらく無言だった。

 

 あの腕の中にもう一度帰れたら、とヴィアは思う。けれどそれは未練だった。

 帰っても結局は、互いを傷つけるだけだ。


「もう行くわ」


 エベックは辛そうにヴィアを見たが、もう引き留めようとはしなかった。

 ヴィア妃を傷つけないために、皇帝は近衛を動かさなかった。ならば自分もその心に従うだけだ。


 ただ、そのまま行かせてしまうのは躊躇われた。その身なりから生活に苦労されている事が透けて見えたからだ。


 エベックは、僅かでもお金を手渡したいと思ったが、そのような事をしても受け取ってもらえる筈はなく、かえってヴィア妃の心を傷つけるだけだともわかっていた。


 だからはエベックは、咄嗟に胸の隠しから徽章を取り出し、それをヴィア妃の手に握らせた。

「これを」


 エベック家の紋章と渡された年度が刻まれたそれは、この徽章を持つ者がエベック家縁の者であると証しするものだ。

 

 思わず受け取ったヴィアは、裏表を確かめて、慌てたようにエベックに返そうとした。

「これは徽章でしょう?こんな大事な物、もらえないわ」


 徽章は、嫡子でない息子が騎士の叙任を受けて独り立ちする時、親から渡されるものだ。

 他家の養子や、結婚によって妻の家名を名乗れる者はまだいい。

 だが、それさえも叶わない者は、自分が正しく貴族の血筋を受け継いでいると証明するこの徽章だけを持って、この先一人で生きていく事になるのだ。


 自分が死ねば、その長子に、更にその長子へと受け継がれ、どんな境遇に堕ちたとしても、貴族の流れをひくという誇りだけは、目に見える形で受け継いでいく事ができる。

 

 無論、金に困れば売る事もできた。名家の末裔であることを証しする徽章は、高額な値で買い取ってもらえるからだ。


「何か本当に困った事があった時は、この徽章を使って下さい。私には、アントーレ騎士団の徽章もありますから」


 アントーレの騎士は一代限りの貴族位を与えられるため、エベックはアントーレの徽章も持っている。

 だが、役職を表す騎士団の徽章と、家紋入りの徽章では、その価値は比べ物にならなかった。


「だめよ。貴方に子供が生まれた時、きっと貴方に必要になる物だもの」

 

「妃殿下」

 エベックは徽章を返そうとするヴィアの手を取り、忠誠を誓うように、その甲に軽く口づけた。

「貴女にお会いしていなければ、とっくになくしていた命です」

 

 仕えた期間は長くはなかったが、この方のためなら命を落としても惜しくないと思えるほどの、深い忠節と敬愛を抱いてきた。


「お仕えできて、本当に嬉しかったのです。

 妃殿下も、私と過ごした時間を少しでも大切に思って下さるなら、私に繋がる物をどうぞ受け取っていただけませんか?」


 ヴィアは、エベック家の紋章と年度が刻まれたそれをじっと見つめた。


 名の知れた貴族の子弟しか持つ事を許されない、家名入りの徽章。

 誇りとも言うべきそれを、エベックはヴィアのために差し出そうとしているのだ。

 

 受け取りを拒否する事は、エベックの気持ちを否定するのと同じ事だった。


 ヴィアは諦めたように柔らかな吐息を零し、徽章を大事そうに握り込んだ。

「ありがとう。エベックも体を大事にして」


 最後にもう一度微笑み、ヴィアはそのまま背を向けた。


 この足で自分はミダスを出ていくだろう。

 そして、二度と戻る事はない。



 人ごみの中を遠ざかって行くヴィア妃の後ろ姿を、エベックは見えなくなるまでじっと見送った。

 それから、与えられた情報を速やかに上官に伝えるべく、アントーレ騎士団への道を急ぎ始めた。

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