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皇帝は、側妃を想う

 ヴィア妃は、亡き皇太后の元領地で、今はアレクが所有するガラシアの地に静養に行かれたと、公式には発表された。

 ガラシアはミダスから遠からず近からずといった距離で、皇太后の避暑の別邸があった所だから、皇帝の側妃がそこで過ごす事は不自然ではない。


 皇太后の死でざわついていた宮廷も、次第に落ち着きを取り戻し、新皇帝の下、アンシェーゼは国としてのまとまりをようやく見せ始めていた。


 新皇帝に準ずる形で注目を集め始めたのが、皇帝の異母弟、セルティス皇子だった。

 ここ一、二年で身長も伸び、すらりとして秀麗な面立ちの十四歳の弟皇子は、幼少の病弱という噂が嘘のように、アンシェーゼの宮廷行事には必ず出席し、過不足なく皇族としての務めを果たすようになっていた。

 皇帝は殊の外、この弟皇子を可愛がっており、仲睦まじく回廊を歩く姿や、一緒に遠乗りをする姿も度々見られている。


 一度、野心を持った貴族がセルティス皇子をそそのかし、自分の手の内に取り込もうとしたこともあったのだが、その話を持ち掛けられたセルティスはその場では何食わぬ顔でやり過ごし、しばらく後に、廷臣らが集まった会議の間でその話を暴露するというえげつないやり方で、その貴族を失脚させてしまった。

 以来、皇帝を差し置いて、弟皇子を玉座に持ち上げようという、命知らずの勘違いは出ていない。


 やがて、前皇帝と皇后の一年の服喪が終わろうとする頃、アレクはずっと心に掛かっていた事を確かめてみようと思い立った。


 いつものようにアモン、グルーク、ルイタスが部屋を訪れ、それぞれが忙しく懸案事項に取り組んでいた時、アレクは唐突に口を開いた。

 お前たちに聞きたい事があるがいいか、と。


「いきなり何事です」

 一山ほどもある皇帝への釣書への駄目出しと断る理由を書き込んでいたルイタスは、うんざりしていた作業から顔を上げ、訝し気に問い掛ける。

「ヴィアの事だ」

 しんと場が静まった。


「以前からヴィアはお忍びと称してミダスの下町には出かけていたが、皇帝の死後は警備も強化され、ヴィアの知るやり方では王宮を抜ける事はできないんだ。


 時間稼ぎのために紫玉宮での泊りを口実に使ったのは確かだが、それだけでは城外には出られない。

 誰かがヴィアの出奔に手を貸した筈だ。


 ヴィアが王宮を出る必然を感じていて、ヴィアが心を許して相談でき、王宮を出る許可証を偽造できる者。

 私はお前達のうちの誰かがと思う。

 責めるつもりはない。だが、どうしても知りたい。言ってくれ」


 三人は押し黙り、誰も目を上げようとしなかった。

 迷うように視線を床に滑らせていたルイタスが口を開こうとした時……。


「私です」

 静寂を押し破るように、グルークが答えた。瞳は恐れず、主の方へ向けられている。 

「お前、か」

 アレクは感情を抑えるように、大きく一つ息を吐く。


「皇太后が亡くなられた頃より、妃殿下から相談を受けておりました。自分は陛下の傍から離れた方がいいと妃殿下はおっしゃられ、私も同意致しました。


 あの日、妃殿下から今日出ますと報せを受けて、許可証を用意したのは私です。

 自分が何をしたかはわかっているつもりです。私を罪に問いたいのであれば、謹んでお受けいたします」


「お待ち下さい!」

 凍り付いたように固まっていたアモンが、慌てたように一歩前に出た。

「罪を問うなら、私も一緒です。

 私も薄々気づいていました。ルイタスかグルークか、どちらかが手を回したのだろうと。

 知っていて黙っていました。ですから私も同罪です」


 友を庇おうと必死で言い募るアモンを、アレクは黙って見つめる。そのアレクの横で、ふと柔らかなため息が落とされた。

「私も何となくそう思っていましたよ」

 緊迫感のない声で口を挟んだのはルイタスだった。


「気付いたのは随分後でしたが、ヴィア妃だけではこれほど完璧に足取りを隠せないだろうなと。

 陛下も気付かれてずっと黙っていらしたわけでしょう?

 今になって蒸し返されるとは、一体何がお望みなんです?」


 ルイタスの落ち着き払った口調に、アレクは拗ねたようにそっぽを向いた。

「お前は落ち着き過ぎだ。少しは焦ってみせろ」


 主が怒っている訳ではないらしいと判じたルイタスは、くすりと笑って書類をテーブルに置いた。

「ヴィア妃を手元に戻したいと?」

 あまり賛成できませんが、と言葉を濁しながらも、ルイタスはある程度覚悟を決めていた。

 妃殿下が去ってから、主があまり笑わなくなった事を、ずっと気にかけていたからだ。


「そうじゃない」

 アレクは柔らかく否定した。

「無理やり戻しても、幸せにしてやれる訳じゃない。私はただ、知りたいんだ。ヴィアが元気にしているか。

 ヴィアを逃がした者なら、それを知っているんじゃないかと思った」

 アモンとルイタスがグルークを見た。


「場所は知っています」

 アレクの目を真っ直ぐに見つめ、グルークは答えた。


「セクルト連邦との国境に近いトウアの街です。

 あそこは交易が盛んで、貴族に準じる爵位を持った成り上がりの商人が多く、妃殿下が暮らされるのにちょうどいいと思いました。

 ミダスに邸宅を持つ貴族の姫君の家庭教師をしていたという偽の紹介状を、私の名で書いて渡しました。


 妃殿下は、礼儀作法一般に優れていらっしゃいますし、家庭教師ならば主人夫妻や執事、侍女頭に次ぐ身分ですから、相応の敬意を持って迎えられます。 

 そう、辛い思いはなさらないのではないかと思いました。


 紹介した先の、準貴族の家名は控えてあります。二度と連絡はとらないというお約束を妃殿下と致しましたので、一切連絡はとっておりませんが、多分そちらにおられる筈です」


「家庭教師、か。よく思いついたな」

 思わず、感嘆の声を上げるのはアモンだ。

 それならばある程度収入ももらえ、危険な事もない。王宮仕込みの作法が身についておられるお方だ。難なくこなされるだろう。


 アレクもほっとした様子だった。

「元気にしているか、知りたいんだ」

 アレクの言葉にグルークは頷いた。

「すぐに、調べてみましょう」


「私に任せていただけませんか?」

 言葉を挟んだのはアモンだ。

「アントーレの騎士ならば、トウアまで往復四日で行けます。それにある程度事情を知り、妃殿下の生活を壊さぬ配慮ができる奴がいい。

 こちらで手配させて下さい」

「誰を行かせるつもりだ?」

 アレクの問いに、アモンは笑った。

「エベックです。あいつも心配していましたから、この任務を喜ぶでしょう」



 エベックが帰ってきたという知らせを受けたのは、その五日後の事だった。

 晩餐会に出席していたアレクは、セルティスにも声を掛けてやり、二人で執務室へと向かった。


「姉上はどんなご様子だった?」

 開口一番、目を輝かせて尋ねるセルティスを、エベックは何とも言えない顔で迎え入れた。

 皇帝と皇子殿下に取りあえず帰還の挨拶をするが、その顔にはいつもの覇気がない。不審に思ったアレクが三人の側近の顔を見れば、こちらもどこか苦い顔をしている。


「エベック。話せ」

 アモンの命に、エベックはようやく口を開く。


「妃殿下は、アガシと言う準貴族の家で、確かに家庭教師をされておりました。作法も申し分なく、教養も深く、雇い主の信頼も確かに厚かったそうです。

 が……」


「が、どうしたのだ」


「その家を訪れた裕福な商人の跡取り息子が、妃殿下を見初められたそうです。恋煩いで寝込んでしまう程ののぼせようだったそうで。

 顔立ちも良く、商才もあり、若く、博打ばくちとかの悪い癖もなく、申し分ない縁談だとその雇い主も大層喜ばれ、あっという間に縁談が決まり…」


「嫁いだのか」

 アレクは息を呑んだ。


 愛している女性が幸せになったというのなら、自分は祝福しなければならないとアレクは思った。それを知るために、自分はヴィアの様子を調べさせたのだから。

 けれどヴィアが他の男と結婚したのだと思うと、まるで心臓に杭を突き立てられたような気がした。祝福の言葉を口にしなければならないと分かっていても、言葉が出ない。


 だがエベックが続けた言葉は、アレクが予想もしないものだった。

「縁談を嫌がって、失踪されました」

「は……?」

 思わず声を上げたのは、アレクではなくセルティスだった。


「結婚を人生の目標にしていた姉上が、結婚から逃げた?」

 信じられない、とセルティスは首を振った。

「もしかして、事件に巻き込まれたとかではないの?姉上はきれいだし、あるいは誰かに妬まれていたとか」


「雇い主への書き置きがあって、筆跡もヴィア様のものでした。荷物もきちんと片付けられていたと言いますから、御覚悟の失踪だったのだと思われます」

 アレクは呆然とした。思いがけない展開で、さすがに何をどう考えていいのかわからない。


「ハゲで、デブで、年寄りでもいいと言われていませんでしたっけ?」

 何とも間の抜けたルイタスの問いに、何の話?という顔で、エベックが首を傾げた。

「うん。姉上はそう言ってた。でも、嫌だったんだ」

 セルティスは独り言のように呟き、ちらりと兄の精悍な横顔を盗み見た。

「比べちゃ、駄目だよね」

「と言うか、忘れられなかったのでは?」

 ルイタスがひそひそとそれに答える。

「しかし、まずいですね。ここできっぱりご結婚されていれば、陛下の諦めもついたのに」


 わざわざ声を潜めても、同じ部屋なので丸聞こえである。アレクは複雑そうな顔で、ルイタスを見た。

「言いたい事はわかるが、私自身、喜んでいいのかどうかもわからない」


 ヴィアがまだ自分の事を想ってくれているらしいというのは、舞い上がる程に嬉しかった。

 が、だからと言って手に入れられるわけではない。それにこれで、無事でいるかどうかも分からなくなってしまった。


「他に情報はないのか?」

 アモンが厳しい声で言い、エベックは首を振った。

「その後の足取りは全く掴めませんでした」


 さすがにグルークは青ざめていた。

 妃殿下との約束を守って、律儀に連絡を取らなかったことが、今更ながらに悔やまれた。

「そういう形で失踪すれば、二度と紹介状はもらえません。まともな職に就く事は不可能です」


「近衛を使って追わせたら」

 言い掛けて、主の表情に気付いたアモンは賢明に口を閉ざした。

「申し訳ありませんでした。軽率でした」


「何がいけないのですか?」

 エベックは上官に尋ねかけた。

「陛下直属の近衛なら、我々よりも上手に妃殿下の足取りが追えるでしょう」


「確かに近衛なら、見つけられるかもしれないけどね」 

 ひどく皮肉気な笑みを浮かべて、そう答えたのはセルティスだった。

「前皇帝が同じように、ツィティー妃を追わせたんだ。

 ツィティー妃と姉の前で姉の父親を殺し、後宮に連れて行った。同じように兄上が近衛を使って姉上を追わせたら、姉上は二度と兄上を許さないと思うよ」

 エベックは絶句し、うろうろと視線を床に這わせた。


「エベックに一つ聞きたいんだけど」

 セルティスは真っ直ぐにエベックを見た。


「何でしょうか」

「姉上は向こうで何と名乗っていた?」

 アレクは眉宇を寄せて弟を見た。何が言いたいのか、分からなかったからだ。

「ヴィアトリス・セイゼです」

「そうか」

 セルティスは嬉しそうに顔を綻ばせた。では姉は、一つだけ欲しいものを取り戻したのだとセルティスは思った。


「ヴィアトリス?」

 アレクが不思議そうにその名を呼ぶのへ、セルティスは笑って頷いた。


「姉の父がつけた、姉の本来の名です。父に繋がるものはそれしかなかったから、姉はとても大事にしていた。

 アンシェーゼにそぐわないと無理やりヴィアトーラと改名させられて、母も姉もヴィアトーラと言う名前をずっと嫌っていたんです。

 ですからずっと、ヴィアとしか自分を呼ばせなかったでしょう?」


 父親を殺した男につけられた名前を名乗らなければならなかった姉の悔しさを知っていたから、ずっと気になっていた。


「多分、姉は大丈夫ですよ」

 セルティスは明るい声で言った。

「自分の欲しかった名前をようやく取り戻し、絶対に幸せになると自分に言い聞かせて、きっとどこかでたくましく生きている筈です」




 結局、ヴィアの足取りも全く掴めぬまま、一年以上が過ぎて行った。

 縁談は相変わらずアレクの元に届き、廷臣らもことある毎に勧めてくるが、アレクは決して首を縦には振らなかった。


 周囲から説得を試みようにも、まさかヴィア妃の弟君に口添えを頼む訳にもいかず、皇帝宮の侍従長といえば、賄賂がきかないことで有名だ。

 そして皇帝の側近は、揃いも揃って、皇帝の意に染まぬことに対しては、のらりくらりと返答を濁す者ばかりだ。

 そうなると接触も思うに任せない。


 かと言って、周囲から不満の声が上がっているかと言うとそんなこともなく、国を富ませるために、皇帝は精力的に政治に取り組んでいるため、そちらを評価する声の方が高かった。

 アレク自身、急進的な改革は反発を招くと知っているので、無理はせず、着実に民の利を考えた治世に専心した。


 隙があればアンシェーゼに攻め込もうとしていた列国もつけ入る隙がなく、シーズもついに小競り合いを仕掛ける事もなくなった。下手に手を出せば、大火傷を負うのはシーズの方だからだ。

 それほどアンシェーゼは国としてのまとまりを見せ始め、若い皇帝の下、盤石の体制を築きつつあった。


 今、アレクが心を傾けているのは、国の治水工事だ。毎年雨期にビゼの河が氾濫し、多くの死傷者が出ている。

 去年は幸い雨が少なかったが、今年はまだ春先と言うのに、何度か激しい雨が降っていた。


 度重なる民からの嘆願があったのに、それを放置しておいたのは、前皇帝だ。数年の歳月をかけて行う大規模な事業なので、手を出したくなかったのだろう。


 アレクはため息をついた。

 工事の規模を試算し、予算を出しておかなければならない。一、二か月のうちには、一度視察を行った方がいいだろう。


 日中は公務に追われ、夜は私室に書類を運ばせて、眠るまでずっと資料をめくっている事もある。


 こんな風に根を詰めるのは、一人きりで過ごす夜が寂しいからだ。

 ヴィアと過ごした歳月は、決して長くはなかった。なのに、忘れられない。せめて無事でいる事が分かれば、とアレクは思う。

 傷つけると分かっているから、近衛は動かせなかった。アモンに探させてはいるが、正規のやり方でヴィアが見つかるとはとても思えなかった。


「もう、私を忘れたか」

 書類を捲る手を止め、アレクは小さく呟く。

 自分を忘れ、幸せになると言った。その強さも愛していたが、気丈に振舞う陰で、ヴィアは一人泣いていた。

 子供のように声を上げて泣いていたという侍女頭の言葉に、胸が詰まる。

 ヴィアが去って一年半、いや二年が来るのか。


「お前は忘れていい」

 覚えている事が辛いなら、私を忘れる事でお前が幸せになれるなら忘れていい、とアレクは心に呟いた。

「だが、私には無理だ」


 この部屋で一晩だけ、ヴィアと夜を過ごした。一晩中ヴィアを腕に抱き、その温もりを愛おしんで朝を迎えた。

 じゃれ合っているところに女官から声を掛けられ、恥ずかしがっていたヴィアの姿を思い出す。 

 たわいのない事で笑い、時には拗ね、ヴィアといると時間を忘れた。その明るさに救われ、温もりに癒された。もう二度と、自分には手に入れる事が叶わぬものだ。


 居所を知らない方がいいのかもしれないと、アレクは思った。

 知ればきっと、連れ戻してしまう。恨まれても憎まれても、ヴィアをこの皇帝宮に閉じ込めてしまうだろう。


 狂っているな、とアレクは自分を嘲笑った。

 書類をテーブルに投げ、どさりと寝台に身を横たえる。アレクは腕で顔を覆った。


「ヴィア……」

 会いたい、どこにいる…。

 呟きは闇に呑まれていく。


 慣れ親しんだ孤独の中で、アレクはヴィアの面影をひたすら追った。

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