側妃は、皇帝のもとを去る
カーテン越しに漏れてくる柔らかな光に、ヴィアはゆっくりと頭をもたげる。片肘をつき、安らかな眠りを貪っているアレクの精悍な横顔をじっと見つめた。
こうして逞しい胸に抱き込まれていると、自分の体がひどく華奢で、頼りないもののように思えてくるのが、ヴィアには不思議だった。
実際の自分は多分、たくましい。笑っていれば何とかなると思うし、辛いことがあっても、それだけで心を満たす事はしない。愛する人間を守るためならいくらでも強くなれるし、そのために傷ついても恐らく後悔はしない。
腕を伸ばし、アレクの精悍な頬のラインに沿って指を滑らせていると、その手首を掴まれた。いつの間にか、目を覚ましていたらしい。
「いたずら好きな指だな」
起きている気配もなかったから、ヴィアは少し慌てた。
「眠っていらしたのではないの?」
「少し前に目が覚めて、お前が私の顔に見惚れているのを楽しんでいた」
「……!」
気恥ずかしさで顔が赤くなる。手首を振りほどこうと抵抗したら、体勢を変えたアレクにあっという間にのしかかられていた。
「お前にばかり主導権を握られているのは面白くない」
おそらく昨夜の事を言っているのだろう。そのまま口づけようと近付いてくる唇を、もう片方の手でとっさに遮った。
「手をどけろ」
不満そうに言うアレクに、眼差しだけで微笑む。
「もうすぐ女官達が来るでしょう。そろそろ身支度しなければ」
「……焦らす気か?」
「わたくしにとっては深刻な状況です。貴方と違って、わたくしには恥じらいがございます」
こんな事をしていれば、そのうち女官達が寝所に踏み込んでくるだろう。あられもない姿を初日から晒すのだけは絶対に避けたい。
「私にとっても状況は深刻だ」
「貴方の状況は知りません。さあ、手をお放しになって」
手を放すどころか、もう片方の手首まで拘束されて、呆気なく唇を奪われた。そのまま息が上がるまで、執拗な口づけを繰り返される。
「今日は一日、ここで過ごしたい」
腕の中に抱き込み、唇を触れ合わせる距離で、アレクが甘く囁く。
「気持ち的には賛成ですが、却下です」
「賛成なのか?」
嬉しそうに叫ぶアレクから、何とか体を離した。
腰に絡みついてくる手を外させようと格闘していると、扉の外から咳払いが聞こえた。
「陛下、お目覚めでしょうか?」
凍り付くヴィアを見下ろして、「まだ開けるな」とアレクが声を上げた。
ヴィアは真っ赤になった。中で何をしていたのか、皇帝宮の女官達はきっと察している。
「何をそんなに恥ずかしがるんだ?伽に呼ばれた時点で、する事は決まっているだろう?」
無神経な男の理論に、ヴィアは毛を逆立てた。
「そういう問題ではございません!」
形ばかり寝衣を整えると、すぐに女官らが入って来た。
「朝はヴィアと食べる。ヴィアの支度を急いでくれ」
今日は午前中から、使節団との謁見が待っていた。悠長にヴィアを着飾らせている時間はなかった。
手早くドレスを纏い、アレクの元に行くと、既にアレクは朝のお茶を口にしていた。
ヴィアの席は斜め前に用意されている。水晶宮と同じように設えてくれたものらしい。
椅子に座り、ドレスの裾の乱れを女官に直させながら、ヴィアは傍らに立つ侍従長にちらりと視線を走らせた。
水晶宮にいた頃から見知った侍従長だから、顔はよく見知っているが、頭頂部をはっきりと観察した事はなかった。大丈夫だ。生えている。
やがて、食卓の準備を終えた侍女らは下がっていき、一人残った侍従長にヴィアは問い掛けた。
「今日の陛下のご予定は?」
侍従長は、先ほどのヴィア妃の視線を不審に思いながらも律儀に答えた。
「午前中は使節団との謁見を。夕方からは、セクルト連邦の公国の公子の方々と晩餐が入っております」
「セクルト連邦の方が?」
ちなみにセクルト連邦はカナ神を信じているので、一夫一婦制だ。側妃や愛妾の存在を公に認めているアンシェーゼとは、一線を画している。
それで自分の耳に入らなかったのだと、ヴィアは納得した。
ガランティアやシーズの国の皇族をもてなす際には、ヴィアは側妃として臨席するが、この度ばかりはヴィアがいてはまずいのだ。
「セクルト連邦の方々は、しばらくご滞在なの?」
「十日ばかり、こちらに滞在される予定です」
「そう」
アレクが困ったような自分を見つめているのに気付いた。何か言いたそうな眼差しに、大丈夫とヴィアは笑いかける。
ふと、思いついて尋ねてみた。
「セルティスは出席するのですか?」
そう尋ねたのは、セルティスが公式行事に出席する晩は、アントーレの宿舎に戻らず、紫玉宮に泊まる事が多いと知っていたからだ。
もう一月以上前から、ヴィアはその日を待っていた。
「セルティスも無論、出席するが」
「では、今宵は紫玉宮に泊まるのですね」
アレクは不思議そうにヴィアを見た。
「何かあるのか?」
「母の形見をいくつか整理したいのです。けれど、セルティスがいない間に、紫玉宮に行くのは憚られて。
でも、今日セルティスが戻って来るなら、わたくしも向こうに泊まってもよろしいでしょうか?あの子がアントーレに属してから、余り話ができていませんので」
「わかった。そうするといい」
朝食を共にしながら、ゆっくりとアレクと話すのも久しぶりだった。話したい事はたくさんあるが、多過ぎて話しきれない。
許される時間はあまりに短かった。
「そう言えば一昨日、マイラが水晶宮を訪ねてきましたのよ」
「マイラ、か」
突然紹介されて焦った日の事を思い出して、アレクは苦笑する。
「どんな様子だ。元気だったか?」
「元気ですわ。ただ、色々な事に疑問を覚える年頃になったようで」
困った事、とヴィアは唇に手を当てる。
「わたくしの侍従長にはどうして髪の毛がないの、と真面目な顔で聞かれましたわ」
アレクは噴き出した。
碧玉宮の侍従長が禿げているとは、初耳だ。
「お前は何て答えたんだ」
笑いながら聞くと、ヴィアは困ったようにため息をついた。
「そんな難しい質問、答えられませんわ。お姉さまにはわからないから、今度お兄様達に聞いてみてと言っておきました」
「は?」
カップを手にしたまま、アレクは間抜けな顔で固まった。
「ですから、教えて差し上げて下さいね。どういった場面でマイラが貴方に聞いてくるのか、わたくしもとても興味がございます」
「何でそんなくだらない論争に、私を巻き込むんだ!」
思わず叫んだアレクに、ヴィアはにっこりと笑う。
「だって、答えようがなかったんですもの。
どうして髪の毛がないところはテカテカなのかだとか、何故横だけ残っていて真ん中は生えないのだとか、わたくしに分かる訳がございませんでしょう?」
「私にだってわかるものか!」
侍従長は必死に笑いを堪えていた。どうりで先ほど、自分の頭を確認したわけだ。
苦虫を潰したような顔のアレクに、ヴィアは笑い声を立てる。その後、ひとしきり男性の毛髪についての談義を重ね、二人で笑い転げる頃には食事も終わっていた。
やがて次官がアレクを呼びに来て、アレクは名残惜しそうにヴィアを一瞥して席を立った。
戸口までアレクを見送り、ヴィアはよろしければ、と伝言を頼んだ。
「わたくしが今日、紫玉宮に泊まる事を、陛下の口からお伝え願えませんか?」
アレクは穏やかにヴィアを見下ろした。琥珀の瞳が優しく狭められる。
「そうしよう」
アレクは、ヴィアの頬に口づけを落とし、次官と共に去って行った。
遠ざかるその姿をじっと見送りながら、ヴィアは傍らに立つ侍従長に尋ねた。
「陛下はいつも笑っていらっしゃる?」
侍従長は束の間、黙り込んだ。
「いえ。声を立ててお笑いになる姿は、皇帝になられてから初めて拝見しました」
「そう」
痛みを覚えたようにヴィアは眉根を寄せ、呟くように続けた。
「いつも笑って下さるといいわね」
それから、気持ちを切り替えるように、窓辺から見える晴れ渡った空を眩しそうに見やった。
今日はヴィアにとって、最も慌ただしい一日になりそうだった。
晩餐の宴を終え、セルティスは浮き立つような気分で紫玉宮への回廊を急いでいた。姉が今日、紫玉宮に泊まると伝言をくれたからだ。
紫玉宮で一緒に夜を過ごすのは、本当に久しぶりだった。話したい事は山のようにある。姉が紫玉宮に泊まってくれるのなら、時間はいくらでもあるだろう。
だが、紫玉宮に足を踏み入れ、出迎えた馴染みの侍女、セイラとルーナが目を泣き腫らして自分を迎えた時、セルティスは恐れていたその日が、ついに来てしまった事を知った。
「姉は、いつ?」
溢れ出る涙を抑えきれずに尋ねると、セイラもまた手で涙を拭いながら答えた。
「昼過ぎです。こちらをセルティス殿下にお渡しするよう、お預かりしています」
渡された白い封書を、セルティスは握りしめる。頬を伝って落ちた涙が、封書の字を滲ませた。
セルティスは乱暴に涙を拳で拭い、姉からの最後の文を読むために、ゆっくりと封を開けた。