側妃は、皇帝と夜を過ごす
皇太后が、あの日アレクが皇太后宮にまで足を運んでまで乗馬を止めようとしていた、本当の理由を知っていたならば、ガランティア公国の大使が献上した馬を、試し乗りしようなどとは思わなかったかもしれない。
ガランティアのシルエス産の黒馬は列国でも最高級の名馬と言われ、皇太后の乗馬好きを知っていた大使が、この先色々と便宜を図ってもらおうと、わざわざシルエスから名馬を取り寄せたのだ。
一目見て気に入った皇太后は、すぐに鞍をつけるよう馬丁に命じた。
他国の大使からの献上である以上、その乗り心地を試す事もなく厩舎にしまうのは、儀礼上好ましくなかったからだ。
前日の雨で馬場はぬかるんでいたが、この程度の足場の悪さには皇太后は慣れていた。
乗馬服に着替え、馬場をほんの一周ばかりしようと、皇太后は黒馬に騎乗した。
そして、起こるべくして悲劇は起こった。
シーズの大使と謁見していたアレクは、急遽謁見を中止して皇太后の元へ駆けつけた。
皇太后は即死だった。頭から落馬し、首の骨を折っていた。
ガランティアの大使は色を失い、地面に額をこすりつけるようにして、皇帝にひたすら詫び続けた。皇太后を振り落とした馬はその場で殺され、馬を献上した大使は罪を問われて軟禁された。
前皇帝が亡くなって、三月も経たぬ間の弔事だった。
アレクは二日間の服喪を臣民に宣言した。
元凶となったガランティアの大使は、一応国賓である為、無傷で母国に送り返したが、強い不快の念を正式に伝え、今度の両国関係についても言及した。
発端は善意であったとしても、アンシェーゼが払った代償は余りに大き過ぎた。
度重なる不幸に廷臣らは動揺した。
何より皇国で、皇帝に次ぐ権限を持った皇太后を失った事は、発足したばかりの新政権にとっては足元を揺るがしかねない大きな損失だった。
果ては、殺されたセゾン卿の呪いではないかと騒ぎ出す者まで出てきて、ルイタスらが人脈を使って宥めに回っている状態だ。
時を同じくするように、ミダスの街でも不穏な噂が出回り始めた。
前皇帝はロマリス皇子の即位を望んでいたのに、今の皇帝が皇位を簒奪したため皇家が呪われたという、悪意に満ちたものだ。
伝え聞いたグルークは、そこに作為を感じ取り、すぐ手を打つようアレクに進言した。
アレクは近衛を放ち、一月後、チェリトで家令をしていた男が、川底から死体で見つかった。セゾン家の廃絶によってすべての財を失い、ミダスまで流れ着いていたらしい。
近衛から報告を受けたアレクは、そうかと小さく頷いた。
どんな男だったか、どのように始末されたかなどには興味がない。大切なのは、国を乱す噂がこれ以上出回らない事だ。
アンシェーゼの政情不安を好機と見たか、軽い小競り合いを仕掛けてきたシーズ国は、警戒を強めていた辺境騎士団が追い散らした。
この時期、健在な軍力を列国に見せつけることができたのは、国にとってこれ以上ない収穫であったと言えるだろう。
そうして日々の政務に忙殺され、気付けば二月余りが経っていた。
アレクは時折、政務の合間を縫って、ヴィアを水晶宮を訪れるが、まるであの日の気まずい別れはなかったかように、ヴィアは明るくアレクを迎え入れる。
とりとめのない事をしゃべり、笑い合い、抱きしめて口づけてもヴィアは抵抗しない。
アレクに摘み取られるためだけに存在する、従順で愛らしい妾妃だ。
だからある日、アレクは使いを出した。夜、皇帝宮を訪れるようにと。
新皇帝が即位して、初めて寝所に迎え入れられる女性だった。
皇帝宮は夕刻からざわめき、やがて夜の帳が訪れる頃、侍女達を従えた側妃がひっそりと皇帝宮に入って来た。
執務を早めに終え、皇帝宮に戻ったアレクは、着替えを手伝おうと寄ってくる女官達を下げて、そのまま寝所へと向かう。
中に入ると、窓辺でぼんやりと夜空を眺めていたらしいヴィアが、驚いたように立ち上がった。
物思いに耽り、扉を叩く音が聞こえなかったのだろう。
ヴィアは湯あみした体に、薄紅色の寝衣を纏い、その上から錦糸の刺繍が縫い取られた豪奢なローブを羽織っていた。
陽の色の金髪は艶やかに背に流されて、唇には薄く紅をはき、その輝くような美しさにアレクは言葉を失った。
「お帰りなさいませ」
柔らかく微笑んだヴィアは、アレクの手から剣を受け取り、剣を置く台座に乗せる。
そうしてアレクの背に回ると、慣れた手つきでジャケットをアレクから脱がせた。
「何か、召し上がりますか?」
「いや…」
「では、御酒でも?」
アレクは少し考え、ぽつりと言葉を落とした。
「お前の淹れてくれるお茶が飲みたい」
戸口に控えていた侍女にヴィアが一言、二言命じ、ややあって茶器のセットが運ばれた。
ヴィアはカーテンを閉め、窓辺から離れた小卓子でお茶を淹れた。ゆっくりと蒸らし、茶葉の甘味と香りを引き出していく。
茶器に注いだお茶を一口毒見してから、器をアレクに渡す。
束の間の静寂が二人を訪れた。
ヴィアの淹れたお茶は、金木犀の香りがした。
柔らかく甘い香が、疲れた体に染み渡っていく。
「私を拒まないのは、私が皇帝だからか?」
卓子の上に置かれたヴィアの白い指に掌を重ね、アレクはそう尋ねかけた。
ヴィアはそっとアレクを見上げる。
「まるで拒んで欲しいようなおっしゃりようですわ」
「私が欲しいと言えば、命令となる。だから言いたくない」
言葉には、疲れが透けて見えた。
皇太后が亡くなったせいで、難しいかじ取りを強いられている今の政治状況を、ヴィアも聞き知っていた。
今おそらくアレクに必要なのは、強い権限で皇帝を支える皇后の存在だった。皇国内の有力貴族の姫君か、あるいは皇国に益をもたらす他国の王女でもいい。
足場が固まれば、アレクは今ほど神経をすり減らす必要はなくなるだろう。
けれどそれでも、アレクは頑なに皇后を迎える事を拒んでいた。その気持ちが泣きたくなるほどに嬉しく、反面ひどく哀しかった。
だから、せめて名を呼んだ。
「アレク」
アレクは驚いたように瞠目した。
「一緒にお忍びをした時に、こんな風に名前を呼びましたわね」
「ああ、あの時か」
アレクも思い出し、懐かしそうに、瞳を細めた。
「お前がまだ側妃になる前の事だったな。もう、随分昔の事のような気がする」
「あの時、わたくしが散々あなたを振り回して、小さな髪留めを買ってもらったのを覚えていらっしゃる?」
「勿論だ。女の買い物が、あれほど時間の掛かるものだとは思わなかった」
アレクは思わず喉の奥で笑った。
「貴方はすっかり退屈なさって、そこの髪留めを一列、全て買えばいい、何ておっしゃるし」
「その方が、早く済むだろう?」
「わたくしは、そんな雑な選び方は絶対にごめんです」
あの時は、たった一つ、アレクとの思い出の品が欲しかったのだ。
それなのに、あんな無粋な事を言うから、ヴィアは絶対に譲らなかった。
ヴィアは、ですから、と楽しそうに続けた。
「ちっとも貴方の思い通りになんてなっていませんでしょう?
貴方が何を言われようと、嫌ならば嫌と言っておりますわ」
言われてアレクは、ヴィアが先ほどの自分の問いに答えてくれたのを知った。
「それも、そうか」
子供のように拗ねて絡んでいた自分が急に馬鹿らしくなり、思わず笑った。
「確かにお前は私の思い通りにはならないな。いつも私の想像の斜め上を行く、奇怪な女だ」
「分かればよろしいのです」
ヴィアは笑った。
ヴィアといると、アレクは日常の煩わしさが忘れられた。
ここではアンシェーゼの皇帝でいる必要はない。どこにでもいる、その辺の男の一人になれる。
「お前に名前で呼んでもらうのは、悪くない」
お茶を一口飲み、どこか遠くを見つめるような眼差しでアレクは呟いた。
「もうずっと、誰も私をそんな風に呼んだ事はなかったから」
ヴィアは黙って瞳を伏せた。
名前を呼ぶ事くらい簡単な事だった。この先も好きなだけ貴方の名前を呼ぶと、本当は笑ってそう言いたかった。
けれどヴィアは、何も約束できない。
広大なアンシェーゼを統べる若き皇帝の下に、降るような縁談が舞い込んでいるのをヴィアは知っていた。
皇国内では、家柄に優れた三人の姫君が皇后候補として名を連ね、更にはシーズ、ガランティア、セクルト連邦の公国のいくつかの国からも、打診が来ていた。
国境にまたがる港の使用権を提示してきた国もあれば、鉱石の取れる領地を持参金に持ち出してきた国もある。
それぞれに、アンシェーゼの国益に繋がるものをアレクに差し出そうとしていて、根回しに重臣達に金をばらまいていた。
ヴィアには差し出せるものは何もない。アレクにとって益となるような物は、何一つ持っていなかった。
それが寂しいとヴィアは思う。これほど近くにいるのに、ヴィアにとってアレク程、手の届かない存在はなかった。
ヴィアは静かに立ち上がり、羽織っていたローブを肩から滑らせるように落として、アレクの正面に立った。
透けるように薄い薄紅の寝衣は、寝所を訪れる皇帝を誘惑するために作られたものだ。
自分がアレクの目にどう映るか百も承知で、ヴィアは両手でアレクの頬を包み込み、ゆっくりと上体を傾けた。
ただ、一途に愛おしかった。慕わしくて、恋しくて、胸がつぶれそうだった。
陽のような髪が肩から滑り落ち、白い肌に零れていく。甘い香がふわりとアレクを包み込んだ。
「ヴィア……」
卓子に投げ出されていたアレクの腕が伸び、ヴィアの腰を強く引き寄せる。
もうずっとヴィアに触れていなかった。
狂おしいほどの飢餓が喉元にせり上がり、アレクは夢中でヴィアの体をかき抱き、荒々しく唇を奪った。
その腕の中でヴィアは身を仰け反らせ、閉じた瞳の奥で束の間の夢を見る。
抱き上げられて寝台に運ばれる時、ヴィアはうっすらと微笑んだ。
柔らかな闇が心地よく、これで欲しいものは全て手に入れたのだとヴィアは思った。