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皇太后は、側妃を疎む

 祝賀式典も恙なく終わり、ようやく平穏な日々が王宮に戻って来たかのようだった。


 新しい皇帝を頂点として、アンシェーゼの新たな時代が始まっていく。

 セゾン卿の残党がどこかで燻っているという噂もあるが、差し当たって気にかかるのはガランティアの動きだった。


 シーズ国と港の使用権を巡って揉めていたのが、一応の決着を迎え、ほぼ同時期に、穏健派の大臣が次々と失脚し、強硬派のセガ卿が宰相の座について国の実権を握ったのだ。


 セガ宰相は、アンシェーゼと国境を接するエクレト地方の州官であった頃、国境を巡って諍いを起こしたことがある。


 エレクトと国境を分かつバナマ州は塩の産地であり、ガランティアは安定した塩の確保のため、喉から手が出るほどに塩田を欲していたのだ。


 アンシェーゼで皇位継承争いが起き、国がガタついている中で即位した皇帝がまだ二十歳代の若造だと知り、セガはこれを塩田を奪う好機とみたようだ。



 ガランティアが攻めてくるかもしないという噂に、ヴィアは心を痛めた。

 内乱を経て政権が誕生したばかりの国は、好戦的な国の格好の餌食となる事を知っていたからだ。


「大丈夫ですよ」

 事もなげに言うのは、エベックだ。


「この度の内乱で、アンシェーゼの軍隊はほとんど死者を出していません。

 三つの騎士団がほぼ無傷で残っているアンシェーゼに、簡単に戦は仕掛けられませんよ」


「そういうもの?」


「まあ、ちょっかいを出してくるくらいはするかもしれませんが、エレクト周辺にも騎士団が常駐していますし、少々の小競り合いなら、陛下が私設騎士団を動かさなくてもことは収まる筈です」


 それよりも、とエベックは笑う。

「少し落ち着かれたようですし、また乗馬の訓練をなさった方がよろしいのではありませんか?」


「乗馬?」

 ヴィアは鼻の上に皺を寄せ、それからふと、自分が何か重大な事を忘れていた気がして、視線を床に落とした。


 突然足を乱した馬にバランスを崩して、女性が落馬する。タフタのついた濃紺の乗馬服が空を舞って……。


 ヴィアはガタリと立ち上がった。

 皇太后陛下だ!

 夢を見たあの夜、皇帝陛下の死が突然伝えられて、夢の事はすっかり忘れていた。


「何て事!」

 ヴィアはエベックの腕を掴んだ。


「パレシス陛下が亡くなった夜に夢を見てたの。

 あれからどのくらい日にちが経ったの?二か月?それとも二か月半?」


「妃殿下?」

 ヴィアは叫んだ。


「お願い、エベック!

 アモン様にならすぐ繋ぎが取れるわね!

 どうかアモン様に伝えて。皇太后陛下をお止めして!」



 アモン・アントーレは厳しい顔で回廊を駆けていた。


 エベックがヴィア妃の夢見の事まで知っていた事には驚かされたが、それ以上に驚愕したのが、ヴィア妃が見た夢の内容だった。


 皇太后陛下が乗馬中に落馬して、命を落とされると言う。前皇帝が亡くなられた日に見たというなら、もういつ成就されてもおかしくない。


 今まだ、政権が不安定な時期に皇太后という後ろ盾を失う事は、陛下にとって大きな痛手となる。


 が、乗馬好きの皇太后をどのように止めればいいのか、アモンには皆目見当もつかなかった。

 ヴィア妃が見た夢の事を話しても一笑に付されるだろうし、万が一信じたとしても、かえってヴィア妃に対する警戒と反感を強め、ヴィア妃を害そうとするかもしれない。



 知らされたアレク達も一様に言葉を失った。


「乗馬なら、それこそ毎日のようにされていますからね。趣味の乗馬を控えろと言っても、耳を傾けて下さらないでしょうし」

 ルイタスは緩く首を振って、吐息を滲ませた。


「ともかく、皇太后にしばらくの間、乗馬を自重してもらえば済む話です」

 束の間考えていたグルークが、きっぱりと顔を上げて言った。


「パレシス皇帝が亡くなって間がない訳ですから、乗馬を控えていただきたいと単刀直入にお伝えすべきです。

 実際、列国の弔問団もまだ我が国を訪れている訳ですから、その手前もあると言えば、耳を貸して下さるでしょう」




 皇太后宮を訪れたアレクは、取りあえず当たり障りのない世間話から、母后と話を始める。


 パレシス皇帝が亡くなって、皇太后の機嫌はとみによい。

 自分を蔑ろにし続けた夫は死に、権力を掠め取ろうとした目障りな側妃は牢獄に収監されたのだ。

 これほど気分の良い事はない。


 パレシスの死後、一時的に権限を移譲された事で、一気に存在感を国に示すようになった皇太后の元を、訪れる廷臣は引きも切らなかった。


 国が割れ、おびただしい血が流されてもおかしくない状態であったのを、声一つでまとめ上げたのは、皇太后だ。


 あの政変で、アレクは皇太后に大きな借りを作った。

 老獪な政治家である皇太后は、皇帝となったアレクがその恩を忘れる事を決して許さないだろう。


 それにアレク自身、自分の若さや政治経験の薄さが、皇国の弱みとなる事は自覚していた。


 この母からはまだ、貪欲に学んでいかなければならない事はたくさんある。

 皇国に皇帝は二人も要らないし、権力を奪われる気もなかったが、今は馬車の両輪のように、皇太后の存在は必要だった。

 十年先、三十年先を見据えた政治を行うならば、この母の手を今は切り捨てる訳にはいかない。


「お前はパレシスでなく、ディレンメルの血を多く受け継いだようですね」


 ひとしきり政治について語った後、皇太后は満足そうに口角を上げた。

 アレクにとってはどちらも嬉しくない血筋だが、まさか皇后に面と向かってそうとは言えない。


「あの無能なパレシスの血筋を余り受け継がなくて良かったこと」


 確かにパレシスは、宰相であったディレンメル亡き後、新しい施策も法令改正も何一つ行っていない。

 問題が山積しても先送りにするだけで、政治に一切関心を向けようとせず、お陰でアレクが今、その尻拭いをしているところだ。


「その無能な父上の事ですが」

 取りあえず皇太后の機嫌を損ねないよう、アレクは慎重に言葉を選ぶ。

「まだ亡くなって日も浅く、列国の弔問団もアンシェーゼに留まっている状態です」


「それで?」

「即位の祝賀式典は一応済ませましたが、しばらく娯楽や祝賀の類は自重したいのです。

 皇太后陛下の乗馬好きは有名ですし、人の目が落ち着くまでは、しばらく控えてはいただけないでしょうか」


「何か文句が出ましたか?」

「まだ、出ておりません。

 けれど人の口の端に上がってからでは、皇太后陛下の威光に傷をつけかねませんので。

 前皇帝の死を悼む振りまでは結構です。取りあえず、二、三か月でも乗馬はお控え下さい」


「わかりました」

 それが筋が通っていると思えば、皇太后は我を通す事はない。アレクがほっと息を吐いた時、皇太后がすっとアレクに視線を向けた。


「ヴィア妃を静養に出しなさい」

「……!」

「お前がわたくしとの約束を守って、伽に呼んでいない事は知っています。 

 けれどあの側妃は、存在自体がお前の災いとなります」


 アレクは感情を落ち着けるように、大きく息を吸った。

「何を以て、そう言われます」


「パレシスが死んだ時、いち早くロフマンに繋ぎをとったのはヴィア妃だと聞きました。

 わたくしでさえ、あの当時はロフマンの事まで考えが回らなかった。


 その後も、セクトゥール共々ロフマンの城塞に身を寄せるようになったのは、ヴィア妃が進言した事だとも聞いています」


「ヴィアが動かなければ、私は身動きが取れなくなっていた。その行動をお責めになるのですか」


「とっさの判断ができる、機転がきいて行動に移せる。

 その上、あの癖の強いロフマン卿が、あの側妃には膝を折りました。

 それだけ、臣下に慕われる素養を持っているという事です」


「その何が悪いのです」


「それが正妃ならば、お前の皇后ならば申し分ない!

 けれど、あの側妃は皇后にはなれない。

 後ろ盾が全くなく、今のお前の政治を安定させるだけの力を一切持たない!


 美しさに優れ、臣下にも慕われ、聡明な側妃が既に皇帝の傍らにあると知って、心穏やかにいられる皇后はいないでしょう。


 力を持った皇后と、皇帝であるお前が対立すれば、国は乱れます。

 そんな簡単な事もわからぬくらい、お前はあの側妃にのぼせているのですか!」


 アレクは言葉を失った。


「ツィティー妃は国の災いとならなかった。

 もしお前がそう考えているのなら、ツィティーとヴィア側妃の決定的な違いを教えましょうか」


 皇太后が何を言いたいのかわからず、アレクはのろのろと頭を上げる。

「何が違うのです」


「ツィティーは皇帝を愛していなかった。

 今思えば、憎んでいたのかもしれません。二人の子供を宮殿に閉じ込め、一切皇帝に会わせようとしなかったのですから。


 お前に同じ事は無理でしょう。

 ヴィア妃に子ができても一切会おうとせず、家臣らの口の端に上らぬよう宮殿に閉じ込めて一生飼い殺しにできるというなら、このままヴィア妃を留めなさい。


 おそらく側妃はお前を憎むでしょうね」


 皇太后の言葉が突き刺さった。


 暗くなった回廊を、アレクは近衛だけを従わせたまま、一人歩いて行く。

 俯きそうになる頭をしっかりともたげ、アレクは再び執務を取るために、皇帝宮へと向かって行った。





 その夜遅く、突然水晶宮を訪れた皇帝に、寝支度を始めていた水晶宮はにわかに慌ただしくなった。


 すでに寝衣に着替えていたヴィアは、ローブだけを上に羽織り、急ぎアレクの待つ部屋へと向かう。


「どうなさったのですか?」

 皇帝が側妃を伽に呼ぶなら、先触れだけを遣わせばいい事だ。それをせず、わざわざ訪れたのは、何か話があるという事だろう。


 侍女を下げ、ヴィアはアレクの手を取ると、一緒にソファに座らせる。


「少し、顔が見たくなった」

 微笑む顔には、いつもの覇気がない。


「そうだ、皇太后の乗馬の件、礼を言う。昼間に少し話をした。父が亡くなってまだ日も浅いので、しばらく乗馬は慎んでいただく事にした」

「良かったですわ」


 ヴィアの手を握ったまま、アレクはそのまま押し黙る。


 何か話があるというより、辛いことがあったのだとヴィアは察した。

 だからヴィアも何も言わず、ただ黙って傍にいる。


「皇帝になる事は、私にとっての義務だった。だから願う地位を手に入れた事を後悔はしていない。

 けれど今になって、失うものも大きかったのだと初めて気付いた」


「……人は大きなものを手に入れた時、その代償に何かを失うものですわ」


 ヴィアの言葉に、アレクはそうか、と頷いた。

 自分だけわかっていなかったのかもしれない。

 皇太后の目さえごまかせば、ヴィアはずっと手元に置いておけると、そんな甘い考えを持っていた。


「お前はいつか、私から離れるのだな」

 アレクの問いに、ヴィアは表情を曇らせる。

「ええ」


 それは避けようのない未来だ。最初から知って、それでも自分はここにいる事を望んだのだ。


「私を……思い出す事はないのか?」

 寂しそうな問いに、心が揺らぎそうになる。

 けれど、未練を引き摺るべきでない事もわかっていた。


「忘れますわ、陛下」

 ヴィアはきっぱりとそう答えた。


「陛下もお忘れ下さい。わたくしは必ず幸せになりますから、陛下もお幸せにならないといけませんわ」


「お前は忘れればいい」

 アレクは、諦めの滲む笑みを見せた。


「お前は忘れられるだろう。

 私を離れ、しばらく泣いたとしても、いつかお前は私との日々を思い出に変え、前を向いて笑って生きていくだろう。

 だが……、私には無理だ。お前を思い出などにはできない。

 誰かを守りたいと思ったのも、人を愛おしいと思ったのも初めてだった。きっと一生、お前に捕らわれる」


 家族など、最初からいなかった。


 両親と食事をとる事は、公務と同じだった。寒々しく、温もりのない会話を儀礼的に交わすだけだ。


 騎士団に入って友人はできたが、帰る家はどこにもなかった。

 どうせ帰っても、水晶宮で一人で過ごすだけだ。

 だから公式行事が入らない限り、一度も水晶宮には戻らなかった。


 だが、ヴィアが来て、何もかも変わった。


 食事の時は侍女を下げ、間近に座ってたくさん喋った。ヴィアはよく笑い、自分を笑わせた。

 食事が終わっても話は尽きず、ヴィアが入れてくれるお茶を楽しみながら、一緒に時を過ごした。


 アレクにとって、初めて知った家族の温もりだった。

 伽に呼べなくても、同じ水晶宮にいるというだけで癒された。

 人づてにヴィアがどう過ごしたかを聞き、ヴィアもまたアレクがどう過ごしたか知っていた。

 水晶宮はアレクにとって、初めての家となった。


 初めての恋人で、初めての家族だった。ヴィアがいて、初めてアレクの世界は完結した。


「お前が私を忘れても、お前を諦める事などできない。お前を失えば、また暗い世界へ、私は取り残される」


 ヴィアは心が引き千切られる思いがした。


 今までアレクがどれほどの寂しさを抱えて生きてきたかを知っているから、皇帝となって更に孤独を深めていくであろうアレクを、またあの暗くて寒い場所へ追いやるのかと思うと、切なくて苦しくて心が叫び出しそうだった。


 俯いたまま何も答えないヴィアを見て、アレクは切なそうに微笑み、その頭を引き寄せて、そっと額に口づけた。


「突然訪れて悪かった」


 立ち上がる気配に、けれどヴィアは動くこともできなかった。

 自分もつらいのだと、ずっと傍にいたいのだと縋る事ができれば、どんなに良いだろう。


 けれど、それを口にする訳にはいかなかった。

 皇后を迎える事はアレクの義務で、その義務を放棄する事はアレクには許されていないのだ。


 だから、自分は決してアレクを引き留めない。離れていく背中を静かに見送るだけだ。


 扉が閉まった時、ヴィアの瞳から涙が溢れ出た。

 最初は声を殺し、けれどもう完全に行ってしまったと分かってからは、声を上げて泣いた。


 エイミが入ってきて、すぐに他の者を締め出すように扉を閉めると、ヴィアの傍らに駆け寄ってきた。


 エイミの胸に顔を埋めて、ヴィアは子供のようにしゃくりあげた。

 涙が枯れるまで泣き続け、泣き疲れたヴィアはそのままエイミの腕の中で眠りに落ちた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 少なからず、皇后はツィティーのことを気に掛けていてくれたこと。
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