政変の夜 2
「私がセゾン卿と知った上での狼藉か?」
扉の外は大騒ぎになっていた。
女官や侍従達の前で入室を断られたセゾン卿は、阻んだ護衛騎士達に怒り狂い、今にも自分の騎士をけしかけようとするところだった。
「何事です」
廊下に出て来たルイタスは、後ろ手にしっかりと扉を閉めると、何食わぬ顔でセゾン卿と対峙した。
かちりと背後で小さい音がした。控えの間にいる騎士が、鍵を閉めたのだろう。
ルイタスは、扉の前に仁王立ちする護衛騎士らを宥めるように彼らの正面に立った。
剣の柄に今にも手を掛けようとしていた双方の騎士達の空気が、ふっと緩む。
「皇帝陛下が崩御されたばかりなのに、このように騒がれるとは」
セゾン卿の騎士らを牽制しつつも、ルイタスは穏やかな口調で言葉を紡ぐ。
「アレク殿下は今、父君と最後のお別れをなさっております。一臣下に過ぎぬものが、その中に立ち入れるとお思いですか?」
相手が悪いと、セゾンは歯噛みした。
円卓会議でも上席を占めるラダス卿の嫡男で、アレク皇子の側近として名高いルイタス・ラダスだ。
護衛騎士らは、側妃の威光で何とかなっても、ラダスは動かせない。
分け入るならば、剣を抜く覚悟がいる。
だが、セゾンにとっても、これが最後の機会だった。
このまま寝所を第一皇子に占拠されれば、ロマリス皇子に未来はない。
「陛下の寵愛を受けておられたマイアール側妃殿下には、その権利がある。ご寵愛も深く、先日、皇子殿下を出産されたばかりだ!」
周囲に響き渡るような大声でセゾンは言い放ち、護衛騎士の後ろに隠れるように立っていたマイアール妃を無理やり前に押し出した。
寝ていたところを叩き起こし、そのまま連れて来たのだろう。
簡素なドレスに、髪を結っただけで化粧もできていないマイアール妃は、人目を避けるように扇で顔半分を隠し、いつもの高慢さの欠片もなかった。
「これは妃殿下。
お越し頂いて、陛下もさぞお喜びになられるでしょう。
ただし、ご入室はまだお控えください。
直に皇后陛下が来られます。皇后陛下より先に、お通しする訳には参りませんので」
慇懃無礼にルイタスが断ると、セゾン卿は怒りに顔を赤くして喚き散らした。
「マイアール側妃殿下は、皇位継承権を持つ皇子殿下を生み参らせた身ぞ!臣下の分際で、妃殿下をお止めする権利があると思うか!」
セゾン卿の後ろに控える騎士らも、そうだ!と口々に声を張り上げる。
「申し訳ございません。皇后陛下より先に側妃殿下をお通しする事は、礼に反します」
ルイタスは笑みを浮かべたまま、同じ言葉を繰り返した。
両者の空気が瞬く間に剣呑になっていき、おろおろと様子を窺っていた侍従達がそろそろと後ずさる。
「陛下は、心底マイアール妃殿下を愛しておられた!
そのマイアール妃を通さぬというのなら、こちらにも覚悟がございますぞ!」
ルイタスを睨みつけるセゾン卿の目に、狂気にも似た苛烈な光が浮かんだ。
突破する気だと、ルイタスは思った。
この場で、第一皇子を殺し、皇帝の寝所を占拠する。ここで退けば自分に未来がない事を、セゾン卿も知っているのだ。
「皇帝は、ロマリス皇子殿下こそが、次代の皇帝にふさわしいと私におっしゃった!」
大音声でそう叫び、セゾンは剣を引き抜いた。
それが合図だった。セゾンの背後に控えていたレイアトーの騎士達が、一斉に剣を抜く。
女官達の悲鳴が上げる中、ルイタス達も剣を抜いた。
こちらの手勢は僅か六名だ。嬲り殺しにされるのはわかっている。
勝ち目はないが、一人でも多くの騎士を倒して、力を削いでおかなければならなかった。
「第一皇子殿下に剣を向ける気か!」
ルイタスの怒号は、部屋の中に聞こえている筈だ。
控えの間にいる騎士達が、家具でも調度でも何でも動かして、障壁を築いてくれる事をルイタスは願った。
ここにいる騎士のすべてが殺されたとしても、アレク殿下さえ生き残ってくれれば、最後まで希望は繋げる!
両者が今にも切り結ぼうとしていた時、地響きのような足音が回廊の向こうから聞こえてきた。
どちらの軍服か見極めようと、双方は抜身の剣を振りがぶったまま、目を凝らす。
ルイタスの口から、期せずして安堵の息が漏れた。
近付いてくるのは、濃紺の軍服の集団だった。アモンが間に合ったのだ!
武装した一個小隊が場に駆けてくるのを見て取ったセゾンは、己の敗北を悟って、呻き声を上げた。
思い描いていたすべての未来図が霧散していった瞬間だった。
一刻の猶予もならなかった。セゾンは「退け!」と叫ぶや、マイアール妃の腕を引き摺るようにして遁走していく。
レイアトーの騎士らも、ルイタスらを威嚇しながらも、一人、二人と踵を返し、セゾン卿の後を追って逃げて行った。
第一皇子の側にも、追いかけるまでの余力はない。
一番に友の元に走り寄ってきたアモンに、ルイタスは「助かった」と呟くと、荒い息のまま剣を鞘にしまった。
今回ばかりは、もう駄目かと思った。
アントーレの到着はすぐに室内に知らされ、数人の騎士がそのまま皇子の護衛にと入っていく。
アモンは中に入らず、そのまま扉の入り口を守った。
もしセゾンが兵を率いて引き返してくれば、ここは戦場となる。アモンが場を離れるわけにはいかなかった。
回廊には少しずつ、噂を伝え聞いた廷臣らが集まり始めていた。
突然の皇帝崩御の報せにどうして良いかわからない貴族達は、アントーレの軍勢を意識してか、当たり障りのない事を低い声で言い合っている。
ルイタスもアモンと共に場に残り、廷臣らの反応をそれとなく観察した。
万が一にも、セゾン卿の方に流れを扇動しようとする者がいれば、排除しなくてはならない。
いつの間にか外はすっかり明るくなっていた。
やがてざわめきが波のように近付いてきて、誰からともなく、貴族らが道を開けていく。
一分の隙もなく着飾った皇后陛下が、その中をゆっくりと歩いてきた。
これほどの身支度をしていたなら遅れるのも道理だとルイタスは心に呟いたが、その威厳ある立ち居姿に圧され、居並ぶ廷臣らが、一人また一人と跪いていく姿は壮観だった。
後ろに従うのは、ディレンメル卿をはじめとした、生粋の皇后派の重鎮だ。
皇帝の寝所の扉を取り囲むアントーレ騎士団の面々を、満足そうに眺めやった皇后は、礼を取るアモン・アントーレに小さく頷き、その横で平伏する侍従長の前でゆったりと立ち止まる。
息を呑んで見守る廷臣らの前で、皇后は既に答えを知る問いを改めて口にした。
「陛下は昨晩、どなたと寝所を共にされていたのか」と。
「どなたもご一緒ではございません。昨晩は一人でお休みでした」
「では、夕食は誰かと共にしましたか?」
侍従長は、落ち着きなく視線を彷徨わせた。
皇后が自分に何を言わせようとしているのか、そして誰を選ばせようとしているのか、分かったからだろう。
「隠さなければならないような者か?」
皇后の口調がきつくなる。
「滅相もございません」
侍従長は平伏した。皇后の怒りを感じ取り、望まれる言葉を言うしかない。
「マイアール妃殿下にございます」
マイアール妃を拘束せよという命令が皇后の口から放たれたのは、その直後だった。
陛下の死に大きく関わっている可能性がある。すぐに身を確保して、取り調べよ、と。
皇帝が崩御し、皇太子すらも定まっていないアンシェーゼで、今、権力の頂点にいるのは皇后だった。
皇后の命を受け、伝令がすぐさま、アントーレ騎士団の本陣へと向かっていく。
そして皇后は、徐に寝所の中へと入っていき(皇后が皇帝の寝所に入ったのは、二十年ぶりではないかと後に散々揶揄されたものだが)、皇后派の貴族らが、我が物顔で寝所の扉の近い場所に陣取った。
この後は、暫定的に皇后が皇国を動かし、順当にアレク殿下が皇帝に即位する事になるだろう。
二十二年前と同じ流れだ、とルイタスはふと思った。
皇帝が亡くなったばかりの混乱の中、皇太子までが命を落とし、その間隙を縫って、予め根回しを済ませていた宰相が形ばかりの選定会議を開いた。
あの時、ディレンメルが皇子パレシスを皇帝に押し上げたように、今度は皇后が会議を主導する。
アモンの父は、無事、マイアール妃を拘束できただろうかと考え、時間的に厳しい筈だとルイタスは結論付けた。
マイアール妃とロマリス殿下は、セゾンにとって最後の命綱だ。何としても守ろうとするだろう。
一方、ルイタスには列国の動きも気になっていた。
今日明日中には、パレシス皇帝の死は全ての国々が知る事となる。弔問に訪れる者達は、皇太子の定まっていないアンシェーゼが荒れる事を半ば想定して、様子を窺ってくる筈だ。
グルークの言っていた策が、うまく機能するとよいのだが。
と、ほどなく小さなざわめきが回廊の間に広がり、皇帝の第五皇女マイラが、母セクトゥール妃に連れられて姿を現した。
皇帝宮が落ち着いたと聞き、皇帝陛下に最後の挨拶をしにやって来たのだろう。
ルイタスが重大な事を見落としていたと気付いたのは、その瞬間だった。
「セルティス皇子は?」
動揺のあまり、口調から感情がすっぽりと抜け落ちた。
アモンは何を分かり切った事を、といった目でルイタスを見た。
「アントーレで保護している」
当たり前の事だ。
アンシェーゼの覇権を取るために、一刻も早く皇帝の寝所に駆け付けなければならなかったアレク皇子と違い、セルティス皇子にはそれ程の必然性はない。
むしろ、御身の安全を考えて、アントーレの奥深くに囲い込んでいる筈だ。
ならば、水晶宮はどうなっている?
今更ながらに、背筋が凍り付く思いがした。
あの場で皇帝宮から追い払われたセゾンが、報復に水晶宮に向かったとしたら?
僅かな警備兵しかいない水晶宮なら、先ほどセゾンが連れていた手勢でも襲撃は十分可能だ。
皇子が愛情を傾けるヴィア妃共々、宮殿内の人間が皆殺しにされたとしたら、たとえ帝位を手に掴んだとしても、皇子の受ける傷は計り知れない。
すぐさまアモンに騎士を分けてもらい、その足で水晶宮へと急ぎ向かったルイタスだが、水晶宮に近付く頃には、あり得ない光景に自分の目を疑っていた。
多くのロフマン騎士団員が、そこらじゅうを闊歩していたのだ。
剣を佩き、宮殿全体を警護している。
アレク殿下は、ロフマンの事を一切口にしていなかった。ロフマンに伝令を送るような、そんな余裕もなかっただろう。
独自の判断でロフマンを呼び寄せたのは、殿下が信頼を寄せる侍従長か、あるいはヴィア妃か…。
とにかく助かったと、ルイタスは思った。
立ち止まったルイタスに、連れて来た騎士が不審そうに声を掛けてくるが、安堵のあまり言葉も出なかった。
自分はすっかり余裕をなくしていたものらしい。
今の今までロフマン騎士団の事を思い出さなかったとは、ルイタスは自分の馬鹿さ加減につくづく嫌気がさした。
アントーレ騎士団はアレク殿下の救援要請を受け、レイアトー騎士団もまたセゾン卿に武力を請われた。
そんな中、第一皇子側についたとされるロフマンが、この大事に声すら掛けられず放っておかれたとしたら、ロフマン騎士団はそれを侮辱と受け取り、最悪寝返る可能性すらあった。
声を掛けられたことで、ロフマンはきちんと面目を保ったのだ。
警護をしていたロフマンの騎士がようやくルイタスらに気付き、駆け寄ってきた。
幹部とみられる騎士に「どうなりましたか」と尋ねられ、「皇帝宮はアレク皇子殿下が制した」と笑って伝えた。
途端に周囲から歓声が沸き起こり、歓喜の雄叫びが連鎖しながら広がっていく。
伝え聞いた水晶宮の人間らが、涙を流して皇子殿下の無事を喜び合う中、ルイタスは侍従長の姿を認めて、何気ない顔で近寄った。
ロフマンに声を掛けたのはお前の判断か?と耳元に問い掛けると、側妃殿下です、と侍従長も囁き返した。
ルイタスは頷き、先導されるままに歓談の間へ向かった。
部屋に入ると、ヴィア妃の傍らにはエベックが控え、ロフマン卿と幹部騎士らが、揃ってルイタスを迎え入れた。
「ご心配をおかけいたしました。アレク皇子殿下が無事、皇帝宮を制しました」
礼を交わした後、まずはルイタス自身の口から、ヴィア妃とロフマン卿らに状況を報告する。
「ご無事でほっと致しました。
怪我をした者などいませんか?」
ヴィアが心配そうにそう問い掛けるのへ、ルイタスは頷いた。
「衝突しそうになりましたが、アントーレが間に合いました」
そしてルイタスは、改めてロフマン卿に向き直る。これほどの軍勢を動かして駆け付けてくれた事を感謝し、心から深く頭を下げた。
「こちらに駆け付けて下さって感謝いたします。アレク殿下に代わり、お礼申し上げます」
ロフマンの存在を失念していたことなど、おくびにも出さない。
一方のロフマン卿も、ルイタスが皇子の名を出したことで、今回の要請が皇子によるものだったと、何の疑いもなく信じた様子だった。
「殿下のお役に立てて光栄です」
ロフマン卿は嬉しそうに顔を綻ばせた。
「それで今、状況はどうなっているのです?」
待ちきれない様子でヴィアが口を挟み、ルイタスは表情を改めてヴィアに向き直った。
「真っ先に到着された殿下が、皇帝の寝所を封鎖されました。その後、セゾン卿が手持ちの騎士を引き連れて寝所を突破しようとしましたが、アントーレが間に合い、セゾンは兵を退きました。
今は、皇后陛下とアレク殿下のみが、陛下のお傍におられます」
予想通りだったのだろう。ロフマンの幹部らが小さく頷いている。
「皇帝陛下を診察した侍医団ですが、こちらは別室にて拘束されている状態です。
また昨日、陛下と最後の夕食を取られたマイアール側妃殿下にも、皇后陛下から拘束の命令が出されました」
さすがにこの報告には、場にいた者達が一様に息を呑んだ。
「では、マイアール側妃殿下は捕らえられたのか?」
ロフマン卿の問いに、いいえ、と首を振る。
「セゾン卿共々、皇帝宮から退散されました。おそらくは、一旦紅玉宮に立ち寄ってロマリス皇子殿下の身を確保し、レイアトー騎士団に逃げ込まれたのではないかと」
皇帝を看取った侍医団は、アレク殿下と皇后が拘束した。すなわち、侍医団の証言はいくらでも歪められるという事だ。
罪を免れたい侍医団は、夕食を共にしたマイアール妃が皇帝に毒を持った恐れがあると皇后に進言するだろう。
それ以外の言葉を、皇后が欲していないからだ。
「セゾン卿は抵抗するでしょうな」
ロフマンの言葉に、ルイタスはええ、と呟く。
マイアール妃を差し出せば最後、自分共々断罪されると、セゾンは見切っている。アレク殿下に剣を向けたという事実がある以上、すでにセゾン卿には後がなかった。
「ある程度血が流れるのは、覚悟しないといけないでしょう。
けれど、今叩かねば禍根となります」
ルイタスは、既に明るくなった窓の外を眺めやった。
そろそろ侍医団が、マイアール側妃の罪を暴露している頃だろうか。
ロマリス皇子が生まれなければ、セゾンは皇位を簒奪する大義も野望も持ち得なかった筈だ。
帝位は滑らかに第一皇子へと引き継がれ、ここまでの対立は生まれなかった。
マイアール妃が男児を生んだ事こそが、アンシェーゼ皇国にとっては惨劇の幕開けになったのかもしれない。
どちらにせよ、もう引き返す事はできなかった。
すでに戦いは始まったのだ。
ルイタスは眩しそうに庭園の向こうの空を眺め、静かに口を開いた。
「長い一日が始まりそうです」