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政変の夜 1

 その夢を見たのは、それから五日後の事だった。 


 見事な栗毛色の馬に横乗りし、優雅に乗馬を楽しんでいた皇后が、突然足を乱した馬に大きくバランスを崩し、悲鳴を上げた。

 身に着けておられるのは、タフタリボンのついた濃紺の乗馬服だ。驚愕に目を見開き、恐怖の表情を浮かべた皇后が空に放り出されていく。


 それは恐ろしい光景だった。


 地面に頭から叩きつけられた皇后の体は一度大きく跳ね上がり、どさりと地面に落ちていく。首を変な風に曲げたまま、皇后はもうピクリとも動かない。

 口の端からは赤い血が流れ、恐怖に見開かれた碧の瞳はぽっかりと大きく空を見つめていた。


 悲鳴を上げて寝台から飛び起きたヴィアは、両腕で自分の体を抱くようにして、荒い息を繰り返した。

 背中にはびっしょりと汗をかいている。縋るように寝衣を掴んだ指は細かく震えていた。


 我に返り、とっさに案じられたのは殿下の身の上だった。今、皇后陛下を失えば、アレク殿下の足元が完全に揺らいでしまう。


 まだ、猶予はある。ヴィアは、自分を落ち着かせるように、そう心に呟いた。


 朝になればすぐにこの夢を殿下の元に伝えよう。殿下はすぐに手を打って下さる筈だ。 


 今日はもう眠れそうもないと、諦めて寝台から足を下ろそうとしたヴィアの耳に、どこからか遠く、喧噪が聞こえてきた。

 こんな真夜中にと思うが、確かに宮殿がざわめいている。


「妃殿下、起きておいででしょうか?」


 やがて遠慮がちにかけられた侍女の声に、ヴィアは「ええ」と答える。乱れた髪を手で撫でつけ、扉に歩み寄った。


「入って。何があったの?」

 侍女の顔は真っ青だった。扉の向こうでは、混乱して泣き咽ぶような声や怒号のような声さえ聞こえてくる。

「大変でございます。陛下が……」

「陛下が?」


 水晶宮が襲撃されたのかと一瞬思った。皇帝陛下はともかく、セゾン卿なら名を騙って、殿下を襲うくらいの事はやりかねない。


「胸を急に押さえてお苦しみになり、先ほど身罷られたと」

「………!」


 思い掛けない報せに、ヴィアは言葉も出なかった。信じられないという思いばかりが、頭の中をぐるぐると回る。

 五十間際とはいえ、子をもうけたばかりの皇帝だ。持病があったという噂も耳にしていない。


「死因は?」

 掠れた声で、侍女を質した。

 侍女は動揺を押させきれないまま、小さく首を振った。


「今、調べがなされているそうです。夕刻にマイアール妃と食事を共にされ、今宵は一人でお休みになっていたと」


 では、毒殺も疑われているのだ。

 ヴィアは忙しく頭を巡らせた。

 おそらく、マイアール妃は陛下を毒殺などしていない。ミダスで行われる祝祭行事の日取りさえまだ決まっていないのだ。今、皇帝を殺しても、マイアール妃に利は一つもない。


 それでも、最後に皇帝と一緒に食事をしたという事実は、この先、マイアール妃に重くのしかかる事だろう。

 智謀に優れたあの皇后が、この好機を見逃すとは思えなかった。

「神よ」

 思わず言葉が口をついて出た。祈るのは、テルマの民が信仰する神だ。


 これから政局は一気に動くだろう。

 あのセゾンが、この不利な状況に甘んじている筈がない。暫定的に権力を振るう皇后から身を守るために、あの男は何をするだろうか。


 寝衣の上にガウンだけを羽織り、ヴィアは侍従長の下に、急ぎ自分を案内させた。とにかく情報が欲しかった。


「殿下は今、どこに?」

 ヴィアを出迎えた侍従長は、真夜中だというのに身だしなみを整え、襟元まできっちりと釦を留めていた。

 その表情は落ち着いており、一切の動揺をヴィアに悟らせない。


「護衛騎士を七人ほど連れて、そのまま皇帝宮へと向かわれました」

「皇帝宮……。

 皇帝宮には何があるのです?」

 ヴィアには、アレクがただ父親の死を悼むためだけに、皇帝宮に足を運んだとは思えなかった。


「皇帝の寝所には、皇家の宝物庫の鍵が保管されております」

「宝物庫に何が……。あ…」

 尋ねようとして、ヴィアにもようやくその意味が分かった気がした。


 ヴィアは震える手を握りしめた。 

「戴冠に必要なものがある、そういう事なのですね」

「はい」

 侍従長は頷いた。


「宝物庫には皇冠と錫杖がしまわれております。

 そしてこの鍵は、たとえ皇族であっても、勝手に持ち出す事は許されません。

 七人の儀典官が揃って初めて、持ち出しが許されるものですから」

「では即位するためには、皇帝の寝所を押さえておかなければならないと?」

「その通りです」

 ヴィアは唇を噛みしめた。


 アレクが瞬時に、皇帝宮を押さえるために動いたように、セゾンもまた同じような事を考えた筈だ。


「七人……。今、七人の護衛騎士しか、殿下の傍にいないのですね」

 恐怖に崩れそうになる体を、ヴィアは必死に支えた。

「アモン様に連絡は?」

「護衛騎士の一人がアントーレ騎士団へ向かいました」

「そう」


 ヴィアは瞳を閉じ、大きく息を吐いた。

 間に合いますように。

 ヴィアにはもう祈ることしかできなかった。セゾンがレイアトーの軍を動かす前に、アントーレが殿下の元に集結するようにと。


「エベックをすぐに呼んで下さい。

 後、この事をロフマンには知らせましたか?」

 ヴィアが問うと、侍従長ははっとしたように顔を上げた。

「いいえ。まだ知らせておりません」


「水晶宮の守りをお願いしようと思います。侍従長は、どう思われますか?」

「それがよろしいかと。すぐに手配いたします」

 ヴィアは小さく頷いた。


「それから、もう一度アントーレに使いを。

 アレク殿下の指示があるまで、決してアントーレを動かないようにと、セルティスに伝えて欲しいのです」

「わかりました」


 アントーレ騎士団にいる限り、セルティスの安全が脅かされる事はない。

 第二皇子として父親の亡骸に会いに行くのは、政情が落ち着いてからでいいのだから。


 侍従長が前を下がると、ヴィアは付き従っていた侍女を振り返った。

「着替えるわ。わたくしを手伝って」




 その頃、ルイタスは端正な顔を強ばらせ、供一人を連れて夜の回廊を駆けていた。


 皇帝崩御の知らせがもたらされたのが、ちょうど半刻前。

 あと四半刻もすれば夜も白み始めるのだが、この時間帯はまだ深い闇に覆われて、回廊に置かれた燭台の灯りがどこか不気味に揺れ動いている。


 報せを受けた時、ルイタスは最初冗談にしか思えなかった。ルイタスの知る限り、皇帝に持病はなかったからだ。


 殿下は直接皇帝宮に向かわれた筈だと当たりをつけ、駆け付けたルイタスだが、その読み通り、ルイタスが皇帝宮に着いた時、皇帝の寝所は既に第一皇子によって封鎖されていた。

 護衛の騎士を連れて駆け付けた第一皇子が寝所に入り、その場で侍医団を拘束したのだと言う。


 宮殿の中は異様な雰囲気に包まれている。


 皇帝崩御という恐ろしい事態に、仕える者達は完全に浮足立ち、怯えたように女官達がすすり泣く声が、闇に浮かぶ皇帝宮を更におどろおどろしくさせていた。


 他の貴族達の姿はまだなかった。

 皇帝崩御の知らせは、手順を踏んで、身分の高い順から知らされていく。今はようやく、皇帝宮の侍従長から皇后陛下の元へ奏上された頃だろうか。


 ただ、正式な使者が皇后宮を訪れる前に、すでに皇后陛下はこの情報を掴んでいると思われた。

 アレク殿下が時を置かず皇帝の死を知ったように、皇后もまた、自分の息のかかった者を皇帝宮に送り込んでいる筈だった。


 皇帝の寝所に近付くと、扉の前で警護をしていた馴染みの護衛騎士が、ルイタスの姿を認めるやすぐに中に通してくれた。


 控えの間に入ると、侍医団が床に座り込み、それを二人の騎士が見張っている。

 こちらも皇子の護衛騎士で、ルイタスを見ると敬礼してきた。

「グルークは?」と聞くと、護衛騎士は「おいでです」と答える。

 どうやら自分は、グルークに後れを取ったようだ。


「遅くなりました」

 寝所に入ると、皇子は今後どう動くべきかグルークと詰めているところだった。


 ルイタスの姿を認めると、ほっとしたように軽く頷いてくる。

 真夜中とはいえ、皇子はきちんと身だしなみを整え、正装に近いジャケットをすっきりと着こなしていた。

 ただ、やはり慌てていたのだろう。殿下には珍しく、シャツの襟元の飾り釦が二つ外れていた。 


「外はどうだ?」

 聞かれて、「まだ他の貴族は誰も姿を見せておりません」と答える。

 そしてどうにも殿下の襟元が気になったので、手を伸ばしてシャツの釦を嵌めた。皇子はルイタスにされるがままだったが、面倒くさそうに顔は顰められた。


 これからの数刻で、生き残れるかどうかが決するだろう。

 父親の死にも心を乱さず、平然と前を見据えている皇子の姿に、ルイタスは取りあえずほっとした。 


「セゾンもじきに駆け付ける筈だ。

 どちらが先に軍を動かせるか…、賭けだな」

「そうですね」

 皇子の言葉にルイタスは頷く。


 皇帝の寝所はひとまず第一皇子が掌握した。だが、ほどなく、手勢を連れたセゾン卿もやって来るだろう。

 いや、レイアトーの軍が到着するのを待って、こちらに来る心づもりなのかもしれない。


 アントーレの軍勢とレイアトーの軍勢。

 早く到着した方が、アンシェーゼの覇権を握ることになる。


「アモンが来るまで、何としても持ちこたえなければなりませんね」

 寝所にいるのは、皇子とグルークと自分だけだ。あと、控えの間に二名と外に五名。いずれも腕に自信のある騎士だが、たった十名でどこまで粘れるかわからない。

 内側から鍵を掛けて時間稼ぎをするしかないが、扉ごと押し破られてしまえばおしまいだ。


 こんな風に漫然と待っている時間が一番堪えがたかった。


 ふと皇子を見ると、こと切れている皇帝を無表情に眺め下ろしていた。思いついたので、聞いてみた。

「どのようなご最期だったのですか?」

 あれだけ権勢を振るっていた男が、今は土気色の塊となって寝台に転がっている。

 それがルイタスには不思議な気がした。


「夜中に突然、胸の辺りを押さえて苦しみ出したらしい。駆け付けた侍医団が手当てする間もなかったようだ」

 何の感慨もなく言い捨て、「呆気ないものだ」とアレクは端的な感想を漏らす。


「こちらにとって幸運だったのが、昨晩たまたま夕食を共にしたのが、マイアール妃だという事です」

 グルークは、ちらりと控えの間に続く扉を見やった。そこには、診察した侍医団が拘束されている。

「しかもそれを頼み込んだのがセゾン卿だ。陛下の寵愛を見せつけようとしたセゾン卿の目論見が裏目に出たな」


 アレクが皮肉げに唇を歪めた時、不意に扉が激しく叩かれた。

 グルークが扉を開けると、顔を強張らせた護衛騎士が駆け込んできて、皇子に敬礼した。


「申し上げます!マイアール妃殿下とセゾン卿が、ただ今お越しになりました!」


 室内の三人は、すっと表情を硬くした。皇子が鋭く問い質す。

「護衛はどのくらい連れて来ている」

「三十名近いかと」


「まずいな」

 ルイタスは思わず呟いた。

 火急の時にも拘らず、セゾンはよく人数を集めたものだ。逆に言えば、それだけの人数を揃えていたから、動きが鈍かったのだとも言えるが。


「寝所には絶対に入らせるな」

 アレクが厳しい声で命じ、騎士がはっと敬礼して出ていく。


「私が足止めをしてきます」

 ルイタスはさらりとそうアレクに告げると、剣を片手に戸口へと向かった。


 アモンが来るまで、何としても時間稼ぎをしないといけない。

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