側妃は、乗馬に挑戦する
「妃殿下、よろしいでしょうか」
その二刻前、セルティスの言う庶民はひどく憂鬱そうな顔で、お稽古の時間を待っていた。
「ああ、乗馬服が届いたのね」
エイミが持ってきた衣装に目を留め、ヴィアはため息交じりに笑う。
「エベックはもうすぐ迎えに来るのよね」
問うと、エイミは「はい」とにっこり笑った。
これから初めての乗馬服を身に着け、エベックに乗馬を教えてもらうのだ。
何といっても、病弱な皇女という設定であったため、ヴィアは乗馬の練習だけはできていなかった。
セルティスもアントーレに入って初めて乗馬を習ったようだが、元々運動神経は良かったらしく、今は難なく馬を乗りこなしている。
「わたくしに乗馬の才能はあると思う?」
エイミに聞くと、困ったように、さあと首を傾げられた。
別に馬など乗れなくても構わないと流していたのだが、よりによって皇后から、内輪での遠乗りに誘われる羽目になってしまった。
皇后の趣味が乗馬だとは聞いていたが、付き合わされる身には堪らない。
それともこれは、嫌がらせの一環なのだろうか。
「落ちたら痛そうだわ」と呟くと、「危ないので、落ちないで下さいね」と真剣な顔で返された。
それは自分ではなく、馬の方に言ってもらいたいものだとヴィアは思う。
乗馬の訓練は、アントーレの馬場を貸してもらえるらしい。
定刻通り迎えに現れたエベックは、その後、付きっきりでヴィアに乗馬を教えてくれたが、思ったより馬の背は高く、手綱をしっかり引いてもらっていても、ヴィアにはただ怖いとしか感じない。
聞くところによると、皇后はとても優美に馬を乗りこなされるそうだ。
乗馬服にも拘り、様々な意匠の乗馬服を作らせて、乗馬を楽しんでいると人の噂に聞いた。
「妃殿下も乗馬服がとてもお似合いですよ」とまずは見掛けからエベックに称賛してもらったが、全くやる気は出なかった。
半刻ほど練習し、上達の気配がほとんど見られないヴィアは、心底嫌になってしまった。
エベックに強引に訓練を中断させ、木陰に置かれたベンチに座り込んでしまう。
「何か、飲むものをもらって来ましょう」
気遣ったエベックがそう言ってくれたので、ヴィアは大人しく待っていることにした。
考える事はたくさんあるのに、よりによって、こんな時に乗馬に誘ってきた皇后がつくづく恨めしい。
結局、マイアール妃が産み落とした皇子は、ロマリスと名付けられた。
宮中での祝賀行事は三日三晩続き、ヴィアもアレクと共に祝賀の宴に出席したが、決して気分のいいものではなかった。
皇后は気分不良を理由に全ての祝賀を欠席したが、アレクは内心の陰りも見せずに、堂々と列国の要人らと談笑していた。
ヴィアもまた、日に四、五回ドレスを変え、華やかに着飾ってすべての行事に赴いた。
美しさは武器になるとは、母からよく聞かされた言葉だ。清楚だが、気品を感じさせるヴィアの美しさに列国の貴族男性は群がってきて、彼らに周囲を取り巻かれるまま、気の利いたやり取りで場を盛り上げ、請われれば微笑んでその手を取り、ダンスに付き合った。
権力のあるところには、様々な人間の欲が渦巻く。
母ツィティーは政治から一歩身を引いていたので、貴族らが欲に翻弄される姿を他人事として面白がっていたようだが、ヴィアは違う。
アンシェーゼの宮廷が、第一皇子派と第三皇子派、そして日和見主義で様子を窺う一派に分かれていく構図に、ただアレクの身が案じられた。
一番苛立たしいのが、その対立をわざと煽っている皇帝だ。
一応義父なので挨拶には赴いたが、「ヴィアトーラ」と猫なで声で名を呼ばれて、鳥肌が立った。
母ツィティーはどのような思いで、あの男に身を任せていたのだろうか。
自分やセルティスを守るために耐え抜いた母の無念を思うと、今更ながらに胸の塞がれる思いがする。
母は、侍女やセルティスにも、決してヴィアの事を「ヴィアトーラ」と呼ばせなかった。
せめてもの抵抗であったのだろう。
「ヴィア」
突然覚えのある声がヴィアの耳朶を打ち、ヴィアは驚いて顔を上げた。この場で聞く筈もない声だった。
宿舎のある南の方へ視線を向けると、案内の騎士を押し留めるように歩み寄ってくる青年の姿があった。
「殿下?一体どうなさったのです?」
「それはこちらのセリフだ。何故、こんな所にいる」
ジャケットを脱ぎ、剣を片手で持ったアレクが、ヴィアの姿を見咎め、大股で近付いてきた。
アレクの後ろを見ると、セルティスやアモンの姿もあって、二人ともちょっと驚いた様子でヴィアを見つめている。
「乗馬の稽古です」
「乗馬? まさか乗れないのか?」
半刻以上も必死で練習して、ほとんど上達の見られなかったヴィアは、呆気にとられたようなその言葉に、何だかものすごくムカッと来た。
「馬なんて人間の乗るものではありませんわ!」
ヴィアが癇癪を起こす姿など見たことがないアレクは、びっくりしたように瞠目したが、すぐに余程下手なんだと思い当たったらしい。
何でも完璧だったヴィアの、思いもかけない弱点を見つけて、口元が緩むのを止められなくなった。
「人間以外の何が乗るんだ」
「存じません!」
少なくともヴィアにとっては、人間の乗るものではない。乗り慣れない馬に乗り続けていたせいで、お尻も赤くなっている気がする。
伽に呼ばれない身で良かった…と、ヴィアは変なところで安堵した。
「馬は賢い生き物だ。
怖がるから向こうも怯える」
そう言ったアレクは、いきなりヴィアの手を掴んで歩き出した。
「何をなさるのです!」
騒ぐと人目を引くので、引っ張られながら小声で尋ねかけるしかない。
いいからついて来いと、問答無用で引き摺られ、ヴィアは思わず後ろのセルティスを振り返った。
セルティスは何故か楽しそうに唇の端を上げていた。目が合うと、セルティスは「頑張って下さい」と唇の動きだけで伝え、小さく手を振ってきた。
アレクは自分の愛馬に鞍をつけ、自分の前にヴィアを乗せた。ヴィアの体を抱く形で手綱を取り、ゆっくりと並足をさせる。
「怖いなら私に凭れていろ」と言われたが、ヴィアは首を振った。
背中にアレクの温もりがあるから、今は怖くなかった。
一方のアレクはこの状況を楽しんでいるのか、妙に機嫌がいい。
「馬にも乗れないなんて、貴方の側妃失格ですわね」
ため息交じりにそう言うと、
「おかげで堂々とお前を抱いて馬に乗れるから、悪くない」と、楽しそうに返された。
「ようやくお前と二人きりで話ができる」
言われて、最近二人で会話らしい会話をしていない事にヴィアも気が付いた。
公の場では顔を合わせても、私的な語らいなどできないからだ。
「こうしてのんびりお話しするのも久しぶりですわね」
アレクが部屋を訪れた時は、問答無用で抱きしめられて口づけされたりするので、話をする暇がない。
まあ、その原因の半分は自分にあるので(ヴィアもアレクを挑発しているという自覚は多分にあった)、ヴィアは賢明にその事については触れなかった。
「これでは早駆けなんてとても無理だろう。私から皇后に言ってやろうか?」
「最初の四回までは自分でお断りしますから、ご心配なく」
「四回?理由は?」
「一回目は頭痛。二回目は眩暈。三回目は腹痛。四回目は単なる気分不良」
「それでいいのか?」
聞かれてヴィアは肩を竦めた。
「多分わたくしが乗馬ができないことは、ご存じだと思いますのよ。
どちらにせよ、断りの返事が続けば、気付かれるでしょうし。
それなのに貴方に庇われでもしたら、余計皇后陛下のご機嫌が悪くなりそうですわ」
こうやって地道に練習していれば、そのうち上達しますわよと、ヴィアは笑った。
余りに下手すぎて、気のいいエベックにまで可哀そうな目で見られた事は今は黙っておこう。
「そうだ」
ふと思い出したように、アレクがヴィアを見下ろした。
「面白い事をセルティスに言っていたようだな。
お前が言うように、ミダスで種を蒔いておこう。ミダスの祝賀ムード如何によって、セゾン卿が野心を抱き、ミダスが戦場になるかもしれないと、な」
「芽は出ますでしょうか?」
「ああいう陰険なのは、グルークの得意分野だ」
その言葉に、ヴィアは笑った。ならば民の方は問題ない。
「アンシェーゼに内乱が起きると、列国がこの機に乗じて戦を仕掛けてくるという噂がありますが、本当ですの?」
「ない、とは言えない」
だが、させるつもりも勿論なかった。
「ルイタスが列国の情報を集めている。いくつかの弱みを握って、今暫く動けないようにしておけばいいだけだ。
あるいは、騒乱の芽を列国に植え付けておくか」
すでに策は考えてあるという事なのだろう。
「パレシス皇帝が政権をとった時、皇帝が代替わりしてもすぐに国が機能するよう、あらかじめ根回しをされていたのは、故ディレンメル宰相と聞きました。
外交と内政と軍事力。この三つの舵取りができていれば、取りあえず国は立ちゆくのだと」
「誰がそんな事を?」
「ディレンメル家の当主、リゾック様ですわ」
皇后は、ツィティー妃とその娘ヴィアを敵視しているが、当代の当主リゾックに、ヴィアに対する蟠りはない。
老獪な政治家であった祖父や父親のような賢しさはなかったが、穏やかな誠実さに溢れていた。
「それを聞いた時、思いましたの。どうして皇后陛下が、殿下の友となる三人の側近を選ばれたか。
外交面は、人当たりがよく、機微を見るのに長けたルイタス様、内政面は知識と情報収集能力に優れ、政治を動かす才に長けたグルーク様、そして軍事力を有する、誠実で信頼のおけるアモン様。
そう気付いた時、皇后陛下は恐ろしい方だと思いましたわ。
皇帝がツィティー妃に現を抜かしている間に、着実に覇権への手を打っていらした」
「セルティスの事を案じているのか?」
「いいえ。今はセルティスの事など、皇后陛下の眼中にはないでしょうから」
今の皇后の関心は、ロマリス皇子とセゾン卿だ。
何かが起こった時、あの皇后なら時を逃さず、どんな残忍な手を使ってでもこのアンシェーゼを手中にしようとするだろう。
それが心強くもあり、怖くもある。
そのツケを支払うようになるのは、アレク殿下なのだから。
「わたくしが、いつか殿下から離れると言った言葉は覚えておいでですか?」
「その話は聞きたくない」
アレクは嫌そうにその言葉を遮った。
「殿下には正妃様が必要です」
ヴィアは構わず、しっかりとした声で言い切った。
考えたくなくて、ずっと目を逸らしてきた。
だが、マイアール妃が男児を生んだ今、足踏みしている時間は殿下にはない。
「皇后陛下以外にも、殿下をお支えする方が必要です」
「聞きたくないと言った筈だ!」
アレクは声を荒らげた。
正妃を迎えれば、ヴィアは去っていくだろう。わかっていて口にするヴィアに、アレクは怒りすら感じた。
ヴィアを失う事は耐えられない。
伽に呼ぶ事ができなくても、その姿を見て、声を聞き、僅かでもこうして二人きりで過ごせるなら、アレクにはそれで満足だった。
「わたくしは紫玉宮で泣いた事はないのです」
ふっと声を和らげて、ヴィアは語りかけた。
「泣いてはいけなかったのです。
一番つらいのは母でしたし、セルティスもまた、暗殺を恐れてずっと紫玉宮に閉じ込められていました。
自由にさせてもらったのは、わたくしだけ。
だから、あの二人の前で泣く事はできませんでした」
「お前は、私の前ではよく泣いた」
「初めて伽に呼ばれた時、それまで自分がとても寂しかった事に気が付いたのです。
殿下の腕の中は温かくて、とても心地良くて、ずっとこのまま守られていたいと思いました。
けれど半面、殿下の庇護を受けるために体を売ったのだと思っていましたから、自分がひどく醜く思えて、わたくしはとても混乱しました」
「ヴィア」
あの晩の事を、アレクも静かに思い出していた。
涙を零すヴィアに戸惑い、泣いているのなら宥めてやればいいと、おそらくその程度の気持ちでヴィアを腕に抱いていた。
けれど今ならば、ヴィアの気持ちが少しはわかる気がした。ヴィアは本当に、どうしていいかわからなかったのだろう。
「夢に魘されて泣く日があっても、一人で布団を被って泣いていたから、誰にも気づかれる事はなかったのです。
泣き止むまであやしてもらったのも、初めてでした。
わたくしが怪我をして殿下としばらく会えなかった時、仕方がないと分かっていたのに、寂しくて堪りませんでした。
楽しい事を考えようとしても楽しい事が心に浮かばなくて、何もかも辛くなって泣いていたら、殿下が来て下さったのです。
殿下に抱きしめてもらっていたら、寂しい事もつらい事もいつの間にか消え去って、笑うことができていました」
ヴィアは腰に回されたアレクの腕に、自分の手を重ねた。
「殿下。わたくしは貴方を失う事が怖いのです。
殿下を取り巻く環境は余りに過酷で、殿下にもしものことがあったらと思うと、わたくしは怖くて堪りません」
「私は殺されるつもりはない」
アレクの言葉に、けれどヴィアは首を振った。
「わたくしの命を守るように殿下がわたくしを遠ざけられたように、殿下のお命が保障されるなら、貴方が正妃を迎え入れてもわたくしは耐えられます」
「苦しめているのは、結局、私だな」
アレクはため息を零した。
「お前には何もしてやれない。泣かせるばかりだ」
ヴィアは小さく微笑んだ。
「貴方が生きていて下さるなら、どんなことでも我慢できますわ」
いつも誤字報告をありがとうございます。「荒げる」は「荒らげる」の間違いではないかと報告を受け、調べてみましたところ、「荒らげる」が正しい表現であるものの、最近は「荒げる」という使い方をしている場合が多く、間違いとは言い切れないと書かれておりました。そのため訂正はしなかったのですが、混乱させてしまったかもしれません。丁寧に読んで頂き、ありがとうございました。報告を下さった方に直接お返事ができれば良かったのですが、やり方がわからないため、この場を借りてお礼申し上げます。