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側妃は、順調に回復する

 マイアール妃のお腹は日増しにせり出していき、それに伴い、ピリピリとした空気が宮廷中に広がっていた。

 皇帝の関心は既にマイアール妃から離れていたが、皇后を煙たく思う皇帝は、宮廷内におけるセゾンの面子を保ってやるために、時折、マイアール妃と夕食を共にしているようだった。


 結局、皇帝の関心を引いた十四の侍女は、子を身ごもってほどなく流産した。

 セゾン卿に毒を盛られたという噂もあるが、確かな事はわからない。

 アレク自身は、噂を流したのはおそらく皇后あたりだろうとあたりをつけていた。


 ヴィアの体は一日、一日と回復し、ほぼ普通通りの生活を送れるようになってきた。

 公式の場にも再び顔を見せるようになり、皇子との仲の睦まじさを周囲には見せているが、アレクがヴィアを伽に呼ばないことは、水晶宮では周知の事実だった。


 この日もアレクに手を取られて内輪の晩餐に出席したヴィアは、紹介された人々の中に、三大騎士団の一つを統括するロフマン卿を初めて目にした。


 ロフマン卿の姪と、ディレンメル家の当主リゾックが婚約したことはすでに宮廷中の噂で、その縁で来られたのだろうと、ヴィアは推測した。


 二十二年前の事件については、ヴィアは噂で知る程度しか把握していなかったが、初めて見るロフマン卿は四十代半ばの、ちょっとくせのありそうな御仁で、けれどヴィアには一目で好感の持てる人物だった。

 セルティスをロフマン騎士団に入れようかと悩んだ時期もあったヴィアは、特別な感慨を持って、ロフマン卿と対峙する。


「お人柄はよく耳にしておりました。お会いできて、嬉しく思います」

 その口調に、親愛の響きを感じ取ったのだろう。

 ロフマン卿はおやっという風に目を見開き、慇懃にその手を取って甲に口づけた。

「こちらこそ、拝謁できましたことは、望外の喜びです」

 そして、片眉を跳ね上げると、いかにも心外と言った口調で付け加えた。

「セルティス殿下が、我が騎士団に来られなかったことは、返す返すも残念でなりません」

 ヴィアは思わず笑いだした。

 何となく波長の合う人間というものはお互いに分かるもので、ヴィアはこの短い挨拶の間に、すっかりこの中年の騎士団長が気に入ってしまった。


「行きたくても行けなかったのですわ」

 ヴィアはそう返し、別の貴婦人と話をしているアレクの姿を目で追った。

 「もし、殿下とのご縁がなければ、あのままセルティスはどこの騎士団にも所属せず、紫玉宮で日々を過ごしていたように思います」


 率直に言葉を返すと、さすがにロフマン卿は驚いた様子だった。

「どこにも?

 騎士の叙任を受けなければ、一人前の皇族として認められないでしょうに」

 皇族の末端に名を連ねるどころか、アンシェーゼの貴族としての未来も閉ざされる。

「ええ。けれど、その方が良いと思われませんか?

 余計な災いを引き寄せずに済みますから」


 少し声を潜めてそう言うと、ロフマンはなる程、と言葉を返して苦笑した。


 騎士の叙任も受けていない皇子を、次代の皇帝に担ぎ出そうとする酔狂な貴族はいない。


 そう言えばセルティス皇子は、病弱という触れ込みでほとんど公の場にも姿を見せず、皇子を担ぎ出そうとしていた貴族らもどうにも手が出せない状態だったと、今更のようにロフマンは思い出した。


 だからこそセルティス皇子は、今までずっとその存在を忘れられていた。

 今思えば、皇位継承争いから身を引くために、故意にそのようにしていたのだろう。


 それはアントーレ騎士団に入団したセルティス皇子が、今は心身ともに健やかで、騎士団の訓練にもきちんとついていっているらしいという噂からも窺える。

 異母兄のアレク殿下の絶対的な庇護と監視下に置かれ、隠れ暮らす必要のなくなったセルティス皇子は、つい先日、回廊ですれ違った時も闊達な様子で笑っていた。

 

 アレク殿下がヴィア側妃を見初めたのは、セルティス殿下にとって何よりの僥倖だったとロフマンは思う。

 もし、ヴィア皇女がアレク殿下の側妃とならずに、弟をロフマンかレイアトーに入れていれば、今頃セルティス殿下は皇位継承争いの真っただ中に身を置いていた事だろう。


「確かに妃殿下のおっしゃるとおりかもしれませんな」

 頷くロフマンに、ヴィアは改めて祝福の言葉を贈る。

「先日、シシア様とディレンメル卿とのご婚約が整ったと伺いました。

 心よりご祝福申し上げます」


 先代のロフマン卿の無念はヴィアには推し量る事しかできないが、現当主にとっても今回の婚約は苦渋の決断だったのだろうと思われた。


「我々は皇室の血筋と交わることは許されておりません。

 ですがこの度の婚約によって、ロフマンは晴れて殿下の縁戚に名を連ねる事になりました。

 今後ともよろしくお導き下さい」


「殿下はこの度の婚約を大変喜んでおられました。

 わたくしもロフマン卿が殿下の縁戚になられると聞いて、本当に心強く、嬉しく感じております」


 すっと心に染み込んでくる柔らかな物言いだった。

 人によってはいくらでも気難しくなれるロフマンだったが、ヴィアのこの言葉は素直に信じられて、有難いお言葉です、と礼を述べた。


「ところで先ほど私の人柄を聞いたとおっしゃいましたが」

 ロフマンはその褐色の瞳にいたずらっぽい光を浮かべた。

「差し支えなければどのような噂だったか教えていただけませんか?」


「実は、水晶宮に迎え入れられてからは、あまり噂はお聞きしなかったのです」

 ヴィアも楽しそうに微笑んだ。

「ただ、紫玉宮に住んでいた頃、侍女がよくミダスの噂を拾って参りました」

 実際にはヴィア本人がお忍びをしていた訳だが、まさかこの場でそれを言う訳にはいかない。


「ミダスの噂とは?」

「まだ街道の整備がされておりませんでした頃、盗賊に襲われかけていた旅の一座を、たまたま通りかかったロフマン卿が救って下さったと聞きました」

 

 襲われていたのは、テルマの旅一座だった。偶然、数人の騎士を連れて通りかかったロフマン卿は、多勢に無勢であるにも関わらず、流れ者の弱い民達を見捨てなかった。

 そのまま見て見ぬふりをする貴族がほとんどなのに、たかだか旅の一座を守るために剣を振るってくれたのだ。


「随分昔の話ですな。私も忘れかけておりました」

 宮中でその話を知る者がいるとは思ってもいなかったロフマン卿は、面映ゆそうに苦笑し、ふと気付いたようにヴィアに問い掛けてくる。


「それにしても、王宮で暮らされていた姫君が、ミダスの街道の際日まで知っておられたとは。

 私にはその方が驚きです」


「私は母が庶民の出でしたから。 

 市井で暮らす民の事がどうしても気になるのです」

 高貴な血筋でない事を、ヴィアは恥じていない。

 言う必要のない者には言わないが、ロフマン卿なら気にしないだろうとヴィアは思った。


「民は為政者をよく見ております。

 五年前、ミダスに初めて救護院が作られた時、民は本当に喜んでおりました。

 街道についても、昔は狭くて薄暗い道を、旅の者は怯えながら行き来しておりましたでしょう?

 四年の歳月をかけて、広くて安全な街道に作り替えられて、ほっとした民は多かったと聞いております」


「その施策を行ったのはどなたか、ご存知ですか?」

「恩恵を受けた民が知らないとお思いですか?」

 茶目っ気たっぷりに返すと、ロフマン卿は笑い出した。

「民から噂を仕入れられたのなら、知らない筈がありませんでしたな」


 施策を行ったのは、アレク殿下だ。

 宮廷ではほとんど話題にも上っていないが、着実に民のための為政を敷いていた事は、ヴィアも知っていた。


「貴女のように、市井の民の暮らしに目を向けられる妃殿下はとても珍しい」

 ロフマン卿の言葉に、ヴィアは笑った。

「わたくしも、殿下の側近以外の方で、市井の暮らしに興味を覚えて下さる方とは、初めてお会いしましたわ」


 そして、笑みを消して正面からロフマン卿を見た。

「実は貴方が助けて下さった旅の一座は、ツィティー妃所縁(ゆかり)の者達でしたの」


 母はその事を知って、ロフマン卿に感謝していた。ロフマン卿はなかなか社交の場に出てこられないので、礼を言う事は叶わなかったようだが。


「ですから、卿には本当に感謝をしております。

 心よりお礼、申し上げますわ」



「随分ロフマン卿と親しくなったようだが」

 時間を惜しむようにヴィアの体を抱きしめたまま、ふと思い出したように、アレクは腕の中のヴィアに問い掛けた。


 長い指が優しくヴィアの髪を梳き、その感触にうっとりと瞳を閉じたまま、ヴィアは含み笑いする。

「わたくし達が何の話題で盛り上がっていたか、ご存じないのですか?」

「ロフマン卿とお前との繋がりが見えない」

 ヴィアの髪に顔を埋めたアレクは、少しくぐもった声でそう答えた。


「殿下の話をしていたのですわ。

 ロフマン卿は殿下とは疎遠なお方だと思っておりましたのに、思わぬところで信奉者を持っていらしたのですね」

「信奉者……?

 まさか、ミダスの事か?」

「ええ」

 アレクの香に包まれて、幸せそうにヴィアは吐息をついた。瞬く間に過ぎていくこの時間が、ただ口惜しい。


 こうしてアレクがヴィアを部屋に訪れるのは、月に一度か二度の事だった。


 公務の僅かな合間を縫って、アレクはヴィアの元を訪れ、この時間だけは護衛の騎士や侍女らを遠ざけて、二人きりで過ごす。

 侍女達が退室して扉が閉まるのを待ちかねたように、アレクがヴィアの体を抱き寄せるのはいつもの事で、ヴィアを腕に閉じ込めたまま、アレクは貪るようにヴィアの唇を奪う。


「会いたかった」

 何日もの飢えを満たそうとするように、アレクはヴィアをかき抱く。

 角度を変え、繰り返される口づけにヴィアは身をのけぞらせ、ただアレクの激しさに翻弄されるしかない。

 ようやく口づけから解放されても、アレクは片時も離すまいとするようにヴィアの腰を抱いたままだ。


 許された時はほんのひと時だ。 

 水晶宮の中で自分がどんな風に噂されようと、ヴィアは皇子の心が自分の元にある事を知っていた。


 毎晩のように寝所に呼ばれていた頃より、肌を合わせなくなった今の方が、更に飢餓が募り、ヴィアへの執着も激しくなっているように感じる。


 それとも殿下は、毎日自分が傍に侍る日が続いても、変わらぬ寵愛と執着を自分に落とすのだろうか。

 母ツィティーに狂った、皇帝陛下のように。


 ふとそう考えて、ヴィアは笑い出したくなった。

 いつまでも傍にいるわけにはいかないと分かっていて、こんな事を考えるのは愚かだった。


 セルティスの立ち位置が安定するまでと、最初から決めていた。

 母が望んだように、いずれ自分は市井に下るのだ。


 そっとアレクの胸を押すと、体を離されたアレクは不満そうにヴィアを見下ろした。

 その襟元に、ほっそりとした白い手を伸ばす。

 襟元の釦を外されたアレクが、訝し気にヴィアの名を呼んだ時、ヴィアは爪先立ってアレクの喉元に唇を押し付けた。


「……ッ!」

 我知らず、アレクの体が強張る。

 そのまま体を密着させてきたヴィアに、唸るようにアレクは呟いた。

「私が手を出せないと分かっていて、私を挑発するか?」


 苦しげな声にぞくりとする。

 もっと自分に酔わせて、惑わせてみたいとヴィアは思う。


「夜は娼婦のように振舞えとおっしゃいました。

 殿下が全て教えて下さったのですわ」

「すべて私のせいだと?」

「ええ」

 ヴィアは微笑んだ。

「もう、日が落ちますもの。夜だと言っても構いませんでしょう?」


 アレクが低く笑った気がした。

 再びきつく抱きしめられ、広い腕の中でヴィアがうっとりと瞳を閉じた時、しめやかなノックの音が部屋に響いた。


 アレクが苛立だしげに舌打ちし、渋々といった様子でヴィアの体を解放する。

 ヴィアは手を伸ばし、アレクの襟を丁寧に直した。

「入れ」

 ヴィアを見つめたまま、アレクが扉の外に向かって答える。

 入室した侍女は、気まずそうに立ち尽くす二人を見て、いたたまれないように瞳を伏せた。


「また来る」

 顔を上げたヴィアに、アレクは約束するように小さく頷いてみせる。


 無意識なのか、先ほどヴィアが口づけた辺りにふと手をやったアレクを、ヴィアは静かに見送った。

 毎晩寝所で休む時、自分を思い出してほしいと、ヴィアはただそれだけを切に願う。


「お待ちしておりますわ」

 踵を返すアレクの背に、ヴィアは呟くように声を掛けた。

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