第一皇子は、懊悩(おうのう)する
報せを受けたグルークが皇子の元に駆け付けた時、皇子は肩で息をするように卓子に両手をついていた。
傍らでは、ルイタスが難しい顔のまま、腕を組んでじっと床を見つめている。
「殿下…」
小さく呼ぶと、アレクは蒼白な顔をゆっくりとグルークに向けた。
「エイダム・フォークがヴィア妃殿下を刺したと聞きました」
「ああ」
「誰の命令ですか?
エイダムやアメリ女官長の背後を探っていましたが、疚しい繋がりは見えてきませんでした」
打ちのめされたような殿下の暗い眼差しが、一瞬揺れた気がした。
「セルティスを殺そうとしたのは、皇后陛下だ」
「皇后…陛下?」
グルークは言葉を失った。
まさか、という思いと、半面、それならすべての辻褄が合うと冷静に分析している自分がいる。
「動機はツィティー妃に対する憎しみでしたか…」
疲れた声でグルークは呟いた。
かつて皇后に仕えていた母は、皇后が呪詛を込めてツィティーを罵っていた姿を間近で見ている。
自分が皇子を産み落とした途端、義務を果たしたとばかりに正妃に見向きもしなくなった夫だった。
次々と母親の違う庶子を作ったまではまだ良かった。
皇帝の心をとらえた女性は一人もいなかったからだ。
だが、ツィティー妃は違った。
夫も子供もいるツィティーを皇帝は見初め、男児を産ませたばかりか、その後、子を産めない体となってからも、皇帝の寵愛は一身にツィティーに向けられた。
そのツィティーに生き写しの娘が再び皇帝の心をとらえ、更に父帝から奪う形で側妃に迎え入れた自分の息子までもが、その娘に夢中になった。
皇后にとって、これほど屈辱的な事はなかったに違いない。
憎いツィティーの息子であるセルティス。
この皇子さえ死ねば、皇位継承権を持つ厄介な存在もいなくなり、更に息子を虜にした女を悲しみに突き落とす事ができるのだ。
皇后にとって、これ以上ない復讐はなかっただろう。
「アモンは、エイダムやアメリ女官長を尋問している。詳しい事はこれからだ」
ルイタスの言葉に小さく頷き、グルークはアレク皇子に向き直った。
「妃殿下の具合は?」
「一度意識が戻った。このまま高熱が続かなければ、助かる可能性もあると…」
「妃殿下は丈夫な方です、きっと大丈夫です」
グルークは力強い口調で言った。
「どうしたらいい」
アレクは、自分を嘲笑うように唇を歪めた。
「表沙汰にはできない。皇后が第二皇子を殺そうとした事が公になれば、私は無事では済まない」
「おっしゃる通りです。表沙汰にはできません。皇后陛下は腹心のアメリ女官長の息子を使った。あの二人が口を割ることはないでしょう」
「では、なかった事にすると?」
確認するようにルイタスが聞いた。
グルークは頷き、主に向き直る。
「皇后陛下と話をつけておく必要はあるでしょう。ただし、皇后主催の晩餐会の後で」
アレクはぴくりと体を震わせ、苛烈な眼差しでグルークを見た。
「あの女と何事もなかったように笑って来いと言うか」
「そうなさるべきです。
妃殿下が急な病に倒れられ、セルティス殿下は姉君に付き添っていらっしゃると、先ずは皇后宮に使いを出すべきでしょう。
殿下は何食わぬ顔で宴に出席され、皇后とご自身の間に一切の溝がない事を、周囲に見せつけて来て下さい。
妃殿下の急な病について変な噂が流れたとしても、一切の疑いを払拭できるように」
「ヴィアは死にかけているのに、ヴィアを殺そうとした女と笑って来いとお前は言うんだな」
口惜しさに、体中の血が沸騰しそうだった。
「このくらいの猿芝居、ヴィア妃殿下なら訳なくなさいますよ」
主の怒りは百も承知で、グルークは素っ気なく言い捨てた。
「その後で、二度と妃殿下やセルティス皇子が害されぬよう、皇后と協定を結ぶべきです」
どうせろくでもないことだと、聞かずともわかる。アレクは歯噛みした。
「何をしろと言うんだ」
「二度とヴィア妃殿下を伽に呼ばないと、お約束なさって来て下さい」
「おい、グルーク!」
さすがに黙っていられなかったのか、ルイタスがグルークの腕を引く。
「今、そこまで踏み込む必要はない。妃殿下の容態も安定していないのに」
ヴィア妃は、華やかな孤独の中に生きていた皇子が、唯一安らぎを覚え、執着を露わにした女性だ。
それを知るルイタスは主の心を慮ってグルークを止めようとしたが、グルークは譲らなかった。
「一刻も早く手を打つべきです。お二人を守りたいと殿下が心底望まれるなら。
アメリ女官長は排斥できても、まだどこに、皇后の息のかかった侍女が残っているとも限りません。
皇后陛下は貴方にだけは手を出さない。
貴方の寵がヴィア妃から逸れたと皇后が思えば、皇后は満足されます。
あるいは、貴方の心が妃殿下の元にあると薄々感付かれても、貴方が妃殿下を伽に呼ばない事で妃殿下の面子が潰せるなら、皇后は二度と過激な行動には走られないでしょう」
アレクは感情を抑えるように瞳を閉じた。
「私に選択肢はないんだな」
抑揚のない声で低く呟く。
「今は我慢なさって下さい。
妃殿下を守れるのは殿下だけです」
光を落とした部屋で、ヴィアは昏々と眠っていた。
枕元ではセルティスが放心したように座り込み、その後ろには、エイミとセイラとルーナの三人が、沈痛な面持ちで控えていた。
皇后の息のかかった侍女が特定できていない以上、迂闊に水晶宮の侍女を、ヴィアの傍に配置する訳にはいかない。
事の顛末を知った侍従長は、ちょうど紫玉宮から訪れていたセイラとルーナの二人を、急遽、妃殿下の枕辺に付き添わせることにした。
すでに事情を知っているエイミとこの二人ならば、この重大な秘密を外に漏らす事なく、妃殿下の看病にあたれると判断したのだ。
「セルティス」
アレクが名を呼ぶと、十二の少年は肩を震わせ、静かにアレクを振り向いた。その目は真っ赤に腫れ上がり、今も必死で嗚咽を噛み殺している。
「大丈夫か?」
兄の優しい言葉に、我慢できなくなったのだろう。セルティスは大粒の涙を零した。
「姉上が目を覚ましてくれません。このまま姉上に何かあったら」
それ以上言葉にできずに、セルティスは俯いた。
細い肩が震えているのを見て、アレクはその頭を自分の胸の中に抱き込んだ。
「大丈夫だ。ヴィアは必ず助かる」
自分に言い聞かせるようにアレクは声を絞り出した。
「一人で泣かなくていい。私がお前を守ってやる」
肉親の温もりに触れて、セルティスは今度こそ、声を殺して泣き始めた。まだ大人になり切れていない小さな手が、アレクのジャケットを必死で握りしめている。
「済まない」
セルティスの体を両腕で抱きしめたまま、アレクは懺悔した。
自分が力がない事がこれほど悔しく感じられた事はなかった。
好きな女一人守れず、あまつさえ、その原因となったのは、自分の浅はかな行動だ。
嫉妬に狂った自分の母が、この弟を殺そうとし、庇った姉を刺した。
それを知っていながら、自分は母を断罪できない。この一件はこのまま闇に葬られるのだ。
「すべて私のせいだ」
アレクは俯けていた顔を上げ、寝台のヴィアを見た。
血の気のない蒼白なヴィアの顔に、心が引き千切られそうな気がする。
ヴィアを失うかもしれないと考えただけで、叫び出してしまいそうだ。
「許せ」
振り絞るような声に、セルティスは泣き濡れた面を上げ、兄上、と小さく呼んだ。
「兄上がつけてくれた護衛とエベックがいなければ、姉も私もあのまま殺されていました。
兄上が謝られるような事は何もありません」
床に押さえつけられたエイダムが漏らしたあの一言で、セルティスには全てがわかってしまった。
この一件が公になると、アレク兄上が苦境に立たされる相手。あの皇后ならばやりかねない、とセルティスは思った。
母は皇后に憎まれていた。母が望んだ事ではなかったが、母は皇帝の寵を永遠に皇后から奪ったのだから。
アレクは膝を折り、セルティスの目線に自分を合わせた。
聡明な子だと、アレクは思った。詳しい事情は話していないのに、何が起こったかを薄々察している。
このまま事がうやむやにされてしまう事も、おそらく気付いているのだ。
「もう二度と、こんな事はさせない。お前にも、お前の姉にも二度と手は出させない」
アレクは寝台で眠り続けるヴィアを見やり、誓うようにそう言った。
皇后に対して手が打てるのは、息子である自分だけだ。
そして今、木偶のようにここに突っ立っていても、自分がしてやれる事は何もない。
「ヴィアの、彼女の傍にいてやってくれ」
立ち上がるアレクをゆっくりと目で追い、セルティスは声を掛ける。
「皇后陛下主催の晩餐会に行かれるのでしょう?」
セルティスは頬をつたう涙を拳で拭い、僅かながら笑みを見せようとした。
「笑って来て下さい。私と姉を守るために」
「わかった」
アレクは頷き、セルティスの頭に手を置いた。
「ここで私を待っていてくれ」
「陛下のなされる事が私には理解できない」
皇后を前に、アレクはゆったりと足を組んだ。
気の遠くなるような長い宴の後、ようやく皇后と二人きりで話をする機会を得たアレクである。
「セゾン卿は、レイアトーの三女を嫡男の妻に迎えようと、動いています。
足場を固めるべき大切なこの時期に、私の庇護下に置いていたセルティスを傷つけて、一体何の得があると言うのです」
「エイダムは失敗したようですね。本当に役に立たない」
アレクの問いには答えず、皇后は嘲るように呟いた。駒が自分の思い通りに動かなかった事が、余程不快なのだろう。
「何故、失敗したのです?
直前になって怖気づいたのかしら」
セルティスが詰めていた部屋周辺では、すぐに戒厳令を敷いた。
新たに入室させたのは侍医と侍従長くらいで、それ以外の人間の出入りはない。
すなわち皇后は、あの部屋で何が起こったのか、まだ知らないのだ。
皇后が知っているのは、側妃とその弟が何らかの事情で宴を欠席せざるを得なかったという事実だけだ。
そして公式には、側妃が急な病に倒れ、セルティス殿下が付き添っているという事になっている。
「セルティスに用があって引き返したヴィアが、丁度その場に居合わせたのです」
嘘と真実を折り混ぜて、適当に話を作っておく。
「セルティスではなく、ヴィアが怪我を負いました」
「まあ」
その瞬間、愉悦の色を浮かべた皇后を、アレクは心底、嫌悪した。
「女官長を含め、フォークの一族は貴方にお返しします。私の弟を害そうとした人間達を、傍においてはおけません」
今、アモンは身内以外にこの計画を知る者がいなかったかどうか、エイダムらを尋問している。関わっているのが母親の女官長と妹のユリアだけなら、今回の一件が外に漏れる可能性は極めて少ない。
「容体はどうなの?生きてはいるようね」
つまらなそうに皇后は聞いてきた。
「その前にお答えください。何故、あのような事を」
「ツィティーの息子を殺して何が悪いのです!」
アレクの言葉を遮るように、冷ややかに皇后は吐き捨てた。
「あの女のせいで、わたくしがどれほど口惜しい思いを味わわされたか!
その上、あの女の面影を色濃く引いた娘が、今はお前の側妃となって我が物顔で宮廷を歩いている。
あの女を側妃にしてやったのは、セゾン卿と手を組むと厄介だからです。
それをお前は、あの娘にのめり込んで、自分が情けないとは思わないのですか!
貴方に代わり、皇位継承権を持つ邪魔な皇子を始末してやろうとした母に、何の文句があると言うのです!」
グルークから同じことを言われていなければ、自分は今頃、感情が制御できなかっただろうとアレクは思う。
予想していた答えでも、腸が煮えくり返りそうだ。
「私とセルティスの間に不協和音の噂が立てば、セゾン卿に付け込まれる。ヴィアを大事にしていたのは、それが一番有益な方法だったからです」
第一皇子としてごく当然のことだとアレクは反論する。だが、皇后は納得しなかった。
「皇帝がツィティーの体に溺れ込んだように、お前も篭絡されていないと何故信じられます」
皇后の瞳に浮かぶ憎悪は、この後もアレクが側妃を寵愛するなら黙っていないと告げていた。
この女ならばやるだろうと、アレクは思った。
次はセルティスでなく、ヴィア本人を手に掛けようとするかもしれない。
「貴方がそれでも不快だとおっしゃるなら、もう二度とヴィアを伽には呼ばない」
皇后は疑わし気にアレクを見た。
「その言葉を信じて良いのかしら」
「勿論です」
アレクは頷いた。
大事なのは、ヴィアの安全だ。
今、皇后と手を切ることができない以上、ヴィアが皇后に害される事がないよう、細心の注意をしていかなければならない。
だが、それは自分が確固たる権力を手中にするまでだ、とアレクは思う。いつまでも皇后の言いなりになる気はない。
「体が良くなれば、今まで通り公式の場には同席させます。必要があれば、部屋を訪れる事もあるでしょう。
だが、伽に呼ぶ事はしない。
お約束いたします」