側妃の弟は襲撃される
その衣装を手に取った時、ヴィアは何かひどく嫌な予感がした。
「こちらが、セルティスのために皇后陛下がご用意された服なのね」
「アレク殿下と色違いの仕立てになっております。この趣向は、今日の内輪の宴に興を添えると伺っております」
ヴィアは、じっと衣装を見た。豪奢かつ品の良い仕上がりで、襟や袖ぐりの錦糸の刺繍も申し分なく、言うまでもなく最高級の逸品だ。
「そのようね。皇后陛下にはくれぐれもよくお礼を申し上げて」
そう答えた後、手持ち無沙汰に入り口付近に立っているセルティスを、ヴィアは手招きする。
「確かに見事ですね」
護衛官から離れて近付いてきたセルティスは、明るい顔で同意した。
「貴方の着替えのために、紫玉宮からセイラとルーナを呼んでるの。懐かしいでしょう?」
セルティスならもちろん一人で着替えられるが、何かと格式を重んじる水晶宮でそれをやったら、後で何を言われるかわからない。
「少し待ってね。そろそろ来る頃だと思うわ」
だが、ヴィアの言葉を聞いたアメリ女官長は、細い眉を跳ね上げた。
「身元の不確かな者を、この水晶宮に近付ける訳には参りません」
それは紫玉宮に対する侮辱ではないかと、ヴィアは一瞬むっとしたが、かろうじて顔には出さなかった。
「では、第二皇子の着替えは誰が手伝うのです」
「この者が致します」
前に進み出たのは、女官長の娘のユリアだった。
「まさか、この者一人で?」
ヴィアは微笑み、暗に人数が少ないと女官長を責める。
今までアレクに忠実な女官長だと好意的に見ていたが、一昨日、彼女の息子を水晶宮で見てからは、アメリ女官長もユリアも、今は気が許せない。
「もちろんわたくしも」
「女官長自らが支度を手伝うなど、しきたりに反します」
ヴィアは穏やかな口調で一蹴した。
「エイミ、貴方が手伝ってくれる?」
ここ数か月を共に過ごすうち、この侍女は信頼がおけると感じていた。エイミが同じ場にいれば、女官長の娘も好きにはできないだろう。
苛立たしげな光が女官長の瞳に浮かんだが、理の通った側妃の言葉に表立って反対もできなかったのだろう。
一瞬の躊躇いの後、「かしこまりました」と、平坦な声で頭を下げる。
セルティスと侍女二人を残して、ヴィアは部屋を出た。
戸口のところで足を止めたヴィアは、同じく一緒について出て来たセルティスの護衛二人に向き直り、改めて言葉を掛ける。
「アントーレ副官が、あなた方の事を腕の立つ、信頼のおける騎士だと褒めていました。
名は何と?」
美貌の側妃ににっこりと微笑まれて、若い騎士二人は顔を赤くする。
美しさに気圧されて、とっさに言葉も出ない様子の二人に代わって、エベックが紹介した。
「セザク・マイヤー殿と、ベイブ・ギルバルト殿です」
「そう。セルティスをよろしく頼みます」
裾を軽く捌いて軽く頷き、ヴィアは自分の部屋へと向かう。
セルティスが到着したと聞いて顔を出したが、実のところ、セルティスよりも時間がかかるのは自分の方だ。
髪や爪の手入れはもう済ませたから、後はドレープのたっぷりととられたドレスを着つけ、ティアラ、ネックレス、イヤリングなどを、身に着けていくことになる。
角を曲がったところで、ヴィアは向こうの通りを歩く男を見咎めた。
「エイダム・フォーク」
気付けば、呼び止めていた。俯き加減に歩いていた男が、ぎくりとしたように歩を止める。
「一体何の」
不愉快そうに言い掛けて、その身なりからヴィアが誰であるか察したのだろう。
足早に近づいてきて、ヴィアの前に深く膝を折った。
「妃殿下。お初にお目に掛かります」
何故、自分を呼び止めたのか、そもそも何故自分の名を知っているのかわからぬまま、エイダムは胸元に手を当て、最上級の礼をした。
「アメリ女官長のご子息と聞きました。今日は何故こちらへ」
「母に呼ばれました。内輪の宴の後、皇后陛下にご挨拶するよう言われまして」
エイダムの服装を見ると、確かにジャケットには褒章をつけ、襟から覗くレースにもきちんと宝玉が留められている。貴族の正装と言えるだろう。
「何か、ご用なのでしょうか?」
問い返されて、ヴィアは返答に詰まった。
セゾン卿と何か繋がりがあるのかなど、真正面から聞けるものではない。
「何も。
呼び止めて悪かったわ」
ヴィアの答えにエイダムは一礼し、踵を返した。
その後ろ姿をエベックが不思議そうに見送る。
「あれがアメリ女官長の息子ですか。不幸を顔中に張り付けたような、陰気な顔つきの男ですね」
歯に衣着せぬ物言いに、さすがにヴィアは辺りを憚る。
「同感ですが、口を慎みなさい」
「否定はされないのですね」
一応声を潜めて、おかしそうにエベックは喉の奥で笑う。
実はエベックは、妃殿下のそういうところが気に入っていた。きちんとした公式の場では見事なほどの貴婦人を演じているのに、素の顔はまるで違う。
前向きな明るさと温もりのある優しさが、言葉の端々や眼差しから感じられ、傍にいるとこちらまで明るい気分になる。
今までどんな女性にも執着を見せる事のなかったアレク殿下が、この側妃殿下だけは殊の外大切に思われ、毎晩寝所にも呼んでいるというのも、理解できる気がした。
因みにこの情報は、エベックが姉から伝え聞いたものである。
宮殿内であった事を身元の確かな侍女達が漏らす事はないが、下女や下働きの者の口まで戸は立てられず、第一皇子が側妃を寵愛している事は、今や宮中で密やかな噂となっていた。
「これから妃殿下は、鎧兜を身に纏われるのですね」
エベックの軽口に、思わずヴィアは微笑んだ。
宝玉の散りばめられたティアラは、ずっしりと重く、ヴィアに言わせれば凶器である。首にも強く負担がかかるし、胸元を飾るネックレスの重量も馬鹿にならない。
「そうよ、エベック。これからわたくしは戦ですもの」
「でも、負けたりなさらないんでしょう?」
これからヴィアは、慇懃だが、嫌味の隠された応酬の中で、隙あらば恥をかかせてやろうと待ち構えている貴族らを相手に、へりくだりもせず、傲慢に振舞うことなく、側妃の存在を印象付けなければならない。
「大丈夫、常勝将軍になる予定だから」
にっこりとヴィアは笑い、それでこそ妃殿下だ、とエベックは楽しそうに笑った。
「それにしてもさっきの御仁は、悲壮とでも言っていい顔つきでしたね。
皇后陛下にお会いする事で緊張しているのでしょうが」
話を戻すエベックに、まるで今から人でも殺しに行くかのよう、とヴィアは冗談交じりに心の中で続け、ふっと何かが大事な事が脳裏に横切った気がして、歩を止める。
「濃紺のジャケットに、星二褒章……?」
「どうかされました?」
エベックの言葉も耳に入らない。自分が大変な見落としをしている事に、今になって気付いたのだ。
セルティスの衣装を見た時、自分はどうして嫌な気分になったのか。
あの時、もっと深くきちんと考えていれば…!
見覚えがあるのも当然だ。あの忌まわしい夢の中で、セルティスが着ていたのはあの衣装だったのに…!
回避された運命だと思い込んでいた。
警戒することを忘れていた自分にヴィアは歯噛みする。
何も変わってはいなかったのだ。あの衣装を着たエイダムに、これからセルティスは殺される…!
「セルティス!」
ヴィアはヒールの高い靴をその場で脱ぎ捨てた。
「妃殿下?」
返事をする間も惜しかった。
ドレスを両手で持ち上げ、ヴィアはそのまま身を翻した。
戸口には護衛がいるが、あの部屋は庭に面しているのだ。誰かがバルコニーに繋がるガラス扉の鍵を開けたら、簡単に外から侵入されてしまう。
殺されてしまう、セルティスが…。青いジャケットを着たエイダムに、剣で胸を一突きされ…。
「扉を開けて!」
血相を変え、髪を乱して駆け付けたヴィアに、護衛二人は呆気に取られて立ち竦む。一体何の事かわからないのだ。
「どいて!」
止めようとする二人を押しのけるように、ヴィアは扉を押し開いた。その時、主室に続く扉の向こうで、エイミの細い悲鳴が聞こえた気がした。
「妃殿下!」
その時になって、ようやく追いついたエベックが、ヴィアの肩に触れようとしたが、ヴィアはそれを躱し、控えの間を走り抜けて主室へと飛び込んだ。
「セルティス!」
立ち竦むセルティスに、男の剣が振りかぶられていた。
ヴィアは悲鳴を上げ、咄嗟に二人の間に体を差し入れた。
切り裂くような熱さを脇腹に感じた気がした。
「何をしている!」
次の瞬間、エベックの怒号が響き、血塗られた剣を握りしめたままのエイダムは、そのまま蹴り飛ばされた。剣が跳ね上がり、抜身の剣が床に叩きつけられていく。
「セルティス殿下!」
続いて駆け込んできた護衛二人がセルティスに駆け寄り、庇うように前に立ちはだかった。
エベックは体重をかけてエイダムを床に押さえつけ、背中に乗り上げて両腕を拘束する。
「兄さんっ」
もう一人の侍女がエイダムに駆け寄ろうとするのを見て、護衛の一人がとびかかるようにして手を捩じり上げ、力づくで侍女を床に跪かせた。
「お前がこの男を引き入れたのか!」
腹に響く声で怒鳴りつけられ、侍女は痛みに顔を歪ませたまま身を震わせる。
エイミがヴィア妃に駆け寄った。
「妃殿下、ああ、何て事……。しっかりなさって下さいませ」
ドレスの脇腹が血に染まっている。
エイミは自分のドレスの裾をとっさに切り裂き、ぐったりと倒れたヴィアの傷口に押し当てた。
細い呻き声がヴィアの喉から漏れる。
護衛の手を振り切って、セルティスが姉の許に駆け寄った。
「人を呼んで! 早く!」
悲鳴のようなセルティスの叫び声に、護衛の一人が駈け出そうとしたが、それを見たエイダムが、駄目だ!と大きく叫んだ。
「私を突き出したら、アレク殿下は身の破滅だぞ!」
場がしんと静まった。
信じがたい言葉に、エベックも護衛二人も愕然とエイダムを見つめる。
「馬鹿な事を言うな!」
我に返り、唸るように怒鳴りつけたのはエベックだった。
「妃殿下を害したばかりか、アレク殿下まで侮辱する気か」
だが、護衛に拘束されていた侍女までもが、兄の言葉を肯定するように、涙声で訴えてくる。
「扉を閉めて、妃殿下のために侍医だけを呼んで下さいませ。
どうか信じて下さいませ。
公になれば、困ったお立場に立たされるのは、他ならぬアレク殿下です!」
エベックは努めて平坦な顔で、王宮の廊下を小走りに歩いていた。
この一件に皇子殿下が関わっているかもしれないと知ったエベックは、事件が表沙汰にならないようすぐに扉を二重に閉め、エイミに命じて、すぐに侍医を呼びに行かせた。
水晶宮付きの医師だ。彼なら何があっても、秘密を守ろうとするだろう。
向かうのは、皇子の執務室だった。宴の前に書類を片付けると、アントーレ副官から聞いていた。
「殿下にご報告がある。開けてくれ」
尋常でない様子で声を荒げるエベックに、馴染みの護衛はすぐさま皇子と繋ぎをとってくれた。
「何事だ?」
殿下の傍らにはルイタス・ラダスも控えていて、顔を強張らせて入室したエベックを見て、目を丸くしてこちらを見ている。
エベックは震える手で慎重に扉を閉め、他に人がいないのを確認した。
「アメリ女官長の息子がセルティス殿下を殺そうとしました。庇ったヴィア側妃殿下が刺され、意識がありません」
「何だと」
アレクは顔色を変えて、エベックに詰め寄ってきた。
「どういう事だ!ヴィアは大丈夫なのか!」
声音に混じる驚愕と焦燥は、好きな女を心底案じるものだ。
だから余計にエベックには解せなかった。
「その前にお教えください」
エベックは高ぶる感情を抑えるように、大きく息をついた。
「今回の一件を公にされて困るのはアレク殿下だと、妃殿下を刺した男が言いました。人に知られれば、殿下の身の破滅だと」
アレクもルイタスも凍り付いた。
混乱を隠せぬまま、アレクは呆然と呟く。
「どういう意味だ…?」
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