側妃は、弟に会いに行く
「姉上」
ヴィアの姿を認めたセルティスが、嬉しそうに叫んで走り寄ってくる。
騎士団の一角にある面談室で、セルティスを待っていたヴィアは、破顔してセルティスを部屋に迎え入れた。
セルティスに会うのは、ヴィアにとって、あの晩餐会以来だ。もっともあの時は、ほとんど二人きりで話せなかったから、ゆっくり顔を見て話ができるのは、ヴィアが側妃に上がって以来となる。
「よく顔を見せて。三か月ぶり、いえ四か月ぶりになるのかしら」
騎士団では、入団してしばらくは、里心をつかせないために家族との面会が禁じられていた。
昨日ようやく、騎士団から面会の許可が下りたと聞き、ヴィアはすぐさまセルティスを訪れたのだ。
「騎士団での生活は慣れた?」
「はい」
同年代の少年達と切磋琢磨して揉まれながら過ごしているせいか、弟は顎の辺りが少し尖り、少し大人びたようにも感じる。
「いきなり生活ががらりと変わって、大変だったでしょう?」
確か、訓練生は四人部屋だと聞いたことがある。
今までほとんど同年代の子が周囲にいなかったセルティスに配慮して、温厚で面倒見の良い上の学年の子らと同部屋にしてあると聞いていたが、紫玉宮で隠れ住むように暮らしていた弟にとっては、やはり過酷なものであるに違いない。
だが、ヴィアの心配に反して、セルティスは楽しそうに笑った。
「確かに慣れないことは多いですけど、生活自体は楽しいですよ。こちらに来て、初めて友人もできましたし」
よく考えれば、セルティスも多分に母ツィティーの性格を引き継いでいる。
宮殿に引きこもるように暮らしていた時も、なるべく楽しい事を見つけては、始終笑っていた。
「困った事はない?」
セルティスは笑って首を振り、それに、と言葉を続けた。
「兄上も二度、私を訪れてくれました」
「兄上…?殿下が?」
ヴィアは驚いた。アレク殿下とセルティスはほとんど交流がなかった筈だ。
集団生活に馴染めるかと案じていたヴィアに代わって、様子を見に来てくれていたという事なのだろうか。
「はい、剣の手合わせもしていただきました。兄上はさすがに強いですね」
嬉しそうに答えた後、いたずらっぽく姉を見上げた。
「でも、目的は多分、姉上です」
「わたくし?」
「姉上の事をたくさん聞かれましたから。どのくらい猫を被っているのかとか、紫玉宮でどんな風に過ごしていたのかとか」
「貴方は何てお答えしたの?」
「勿論、ありのままです、姉上」
そしてセルティスは堪え切れなくなったように笑いだした。
「下町で変な物を食べてお腹を壊したこととか、子猫を捕まえようと庭を走り回った挙句、ドレスを破いたとか、パイを焼こうと火力を強くし過ぎて、釜ごと壊してしまった事とか」
「セルティス!」
後ろで控えていたエベックが、思いっきり噴き出した。
「そんな事をなさっていたのですか?」
自分の仕える妃殿下が少々お転婆らしいというのは、当然エベックも気付いている。
お忍びの時、自分より上手にネックレスを換金したり、平気で買い食いをしたり、自分よりもはるかに庶民っぽい。
晩餐会で楚々として微笑んでいる姿の方が信じられないくらいだ。
「いや、失礼いたしました」
涙を拭いながら謝られても、全く謝られた気はしない。
「いいじゃないですか。そんな型破りな姉上に兄上は夢中ですよ。
どう贔屓目に見ても、にやついているとしか思えない顔で、姉上の話ばかりされますし。
アントーレの騎士の方々も惚れ込む、精悍で男気のある皇子殿下だというのに、道を踏み外したとしか思えませんね」
言いたい放題である。
「もう、いいわ」
何だか、力が抜けた。
てっきり寂しがっているとばかり思ったのに、自分の知らないところで弟は随分楽しんでいるようだ。
そんな二人の姿を微笑ましく眺めていたエベックだが、姉弟の水入らずの語らいをいつまでも邪魔するのは、と考え、ヴィアに退出の許可を願い出る。
「妃殿下、騎士団の中なら安全ですし、お二人で積もる話もおありでしょう。
私は下がってよろしいですか?」
「ええ、そうして来て」
横目でセルティスを軽く睨んだままそう答えたヴィアだが、ふと気付いてエベックを振り返った。
「貴方は何をするつもりなの?」
「久しぶりの騎士団です。仲間と槍の手合わせでもしようと思いまして」
その途端、顔色が変わるのがヴィアは自分でもわかった。
「止めて!」
「姉上?」
驚いたセルティスが、ヴィアの腕を掴む。
「槍の手合わせなんてしないで!そんな事のために連れて来たのでは…」
水晶宮の中で、先ほど偶然見かけた男の姿が脳裏に蘇る。
血塗られた剣を下げ、床に転がった人間を青ざめた顔で見下ろしている三十代くらいの騎士。
その光景と、エベックが血塗れで倒れる姿が交錯する。
ヴィアは震える手をエベックに伸ばそうとして、不意に目の前が暗くなった。
「姉上!」
床に崩れ落ちようとするヴィアの体を、すんでのところでエベックが抱き留めた。
「妃殿下!」
額に脂汗が滲む。気持ちが悪い。
抱きこまれるようにしてソファに座らされた。
だが、背もたれに体を預ける体勢さえも息苦しく、ヴィアはそのまま崩れ込む。
「姉上、大丈夫ですか?」
震える手でセルティスの手を握り、大丈夫、と囁いた。
「エベック。姉上のために、何か飲み物を持ってきてくれ」
青ざめた顔で回廊を走るエベックにアモンが気付き、呼び止めた。
「どうした。妃殿下が来られているのではないか」
「アントーレ副官」
両手が塞がっていたエベックは声の方を振り返り、会釈だけを返す。
「お話の最中、妃殿下の気分が悪くなられて。
何か飲むものをと言われたので、先ほど厨房からもらってきたんです」
なるほど、手には水差しとグラスを持っている。
「気分が悪くなられた?」
アモンは首を傾げた。
風にも折れそうな儚げな容姿をしておられるが、ヴィア妃が存外、丈夫な事はアモンも良く知っている。
「一体、何の話をしていたのだ」
「話というか…。
弟君とお話が弾んでいましたので、場を遠慮した方がいいかと思い、仲間と槍の手合わせでもしてくるとお伝えしたのです。
そしたら急に顔色を変えて、行ってはダメだと。そのまま眩暈を起こされて」
「……そういう事か」
アモンは頷いた。
「アントーレ副官?」
「私が持っていこう」
アモンはやや強引に、エベックから水差しとグラスを取り上げる。
「少しお話ししたいことがあるので、お前は場を外してくれ。
いいか、エベック。しばらく槍は持つな。妃殿下が怖がられる。
妃殿下の警護なら、剣で十分だろう」
「わかりました」
「仲間と手合わせして来い。いいな。していいのは、剣の練習だけだ」
アモンが顔を出すと、ヴィア妃はソファに臥し、青ざめた顔で瞳を閉じていた。
「アントーレ副官」
アモンに気付いたセルティスが、立ち上がって敬礼した。
身分はセルティスの方が上だが、ここ騎士団の中ではアモンの方が序列が上だ。
アモンは、そのままでいいと目配せし、ヴィア妃の傍らに跪いた。水差しから水をグラスに注ぎ、ヴィアの口元に持っていく。
「どうぞ」
背を支えられて、ヴィアはゆっくりと半身を起こし、口元に押し当てられたグラスの水を飲んだ。幾分ぬるめの液体が、喉を滑り落ちていく。
二口、三口と飲んだ後、ヴィアはグラスをそっと押しやった。
しばらく横になっていたせいか、眩暈もおさまり、今はもう息苦しさもない。
「申し訳ありません。エベックが驚かせたようですね」
謝罪するアモンに、ヴィアは首を振った。
「エベックは何も知らないのですもの。仕方ありません」
その言葉に、姉がさっきの騎士に関わる夢を紡いだのだと、セルティスは悟る。同時に、アモン副官が、姉についてある程度の事情を知っているという事も理解した。
「さっきの騎士が、槍で怪我をするのかな?」
姉が再び顔を曇らせるのを見て、セルティスは大丈夫、と笑いかける。
「槍さえ取り上げておけば、心配いらないでしょう」
姉上は昔から血が苦手だからと軽い口調で続けるセルティスは、ヴィアの顔色がだんだん戻ってきた事に、内心ほっと安堵の息をついた。
「余程、血が苦手のようですね」
アモンの問いに、ヴィアは弱々しく微笑んだ。
「三つの時、目の前で人が殺されたのです。覚えている筈がありませんのに、その時の光景がこびりついていて。
思い出したらもう駄目なのです。
自分でも情けないですわ」
それから泣きそうな顔でセルティスを見つめ、その額に自分の額をつけてきた。
セルティスももう十二だ。上官の前でそんな事をされて気恥ずかしさの方が先に立つが、大人なので我慢した。
こういう時の姉は、まるで幼子のように無力で、寂しがり屋だからだ。
しばらくして、ようやくヴィアは落ち着いたようだった。
「そうだわ、セルティス。
明後日の皇后陛下の内輪の宴に、貴方も呼ばれていると聞いたわ。
ほんのひと時のことだから、皇后宮から遠い紫玉宮ではなく、水晶宮で簡単に支度をしてそのまま来るようにと、皇后陛下から貴方の衣装をお預かりしているの。
きちんと護衛官を連れて、水晶宮の方に来てくれる?」
「わかりました」
「アントーレ騎士団の方でも選り抜きの者を、護衛に回します。ご安心下さい」
アモンは言葉を添え、ヴィアは穏やかに頷いた。
「もう、面会時間はとうに終わってしまったわね。
また明後日には会えるし、もう皆の所へお帰りなさい」
「はい」
セルティスはちょっと不安そうに姉を見つめたが、ヴィアがちゃんと笑えている事がわかると、安心したように立ち上がる。
そのままアモンに一礼すると、踵を返し、部屋を出て行った。
セルティスが去った後、すぐにエベックを呼ぼうとするアモンをヴィアは制した。
「何か私に話が?」
向き直るアモンに、ヴィアはええ、と頷く。
アレク殿下に会える夕刻まで待とうかと思っていたが、ここでアモンに話が聞けるならその方が丁度いい。
水晶宮ではあまりしたくない話だったからだ。
「先ほど、アメリ女官長の元を、三十代くらいの若い男が訪ねてきておりました。女官長の息子だとか」
「エイダムですね。確か、ミダス騎士団所属です」
皇室の三大私設騎士団ではなく、領地に属する騎士団だとアモンは説明する。
「エイダムの事を、良くご存じなのですか?」
どう答えようかとアモンは迷い、その前に、とヴィアに質問してきた。
「私やルイタスが、皇后陛下の推挙でアレク殿下の傍に侍るようになったのはご存知ですか?」
ヴィアは頷いた。アレク殿下の口からそう聞いた事がある。
「私やルイタスは、おそらく家柄で選ばれました。けれど、グルークやアメリ女官長は違います。皇后の縁故で選ばれました」
「縁故?」
「名家とはいえ、没落していたモルガン家には、アントーレ騎士団に入団できるだけの財力はありませんでした。
その金を出し、アレク殿下と同期でグルークを騎士団に入団させたのは、皇后です。その頃から、グルークの才は際立っていましたから。
確か、亡くなった母がトーラ妃の侍女をしていた事があったと聞いています。
アメリ女官長もそうでした。女官長は、元々トーラ妃の侍女です」
「皇后陛下の元侍女。ならば身元はしっかりしているのですね」
「ええ。
ただ殿下は、皇后陛下の事を無条件で信頼されている訳ではないのです。
皇太子になるために絶対不可欠な後ろ盾ですが、何分、皇后は権力欲の強いお方ですから、下手をすれば殿下の方が傀儡にされかねない。
最初にそれに気付いたのはグルークです。
あいつはアレク殿下に傾倒してからは、皇后からの影響力を少なくするために、相当裏で動いたと聞いています。
投資しただけの恩は返しておかないと、どんなふうに弱みを突いて来られるかわからないと、あいつはそんな風にぼやいていました。
ですからグルークは、今や皇后の子飼いではなく、アレク殿下の懐刀です。
けれど、アメリ女官長は違う。
皇后の息がかかった女性ですし、おそらく息子のエイダムもそうでしょう」
「ならばエイダムが、セゾン卿と繋がっている事は考えられませんか?」
「セゾン卿と?」
アモンは険しい顔で考え込み、首を振った。
「接点が見当たりません。
それにそんなことになれば、エイダムは母親共々、皇后に消されるでしょう」
皇后の冷酷さには、アモンもとうに気付いていた。
「何故、そのような事を聞かれるのです?
エイダムが何かしましたか?」
「三、四か月前、夢の中でセルティスを殺したのはあの男です」
「まさか」
アモンは驚愕した。あり得ない、と呆然と呟く。
もしエイダムや、母親の女官長がセゾン卿に取り込まれているとすれば、大変な事になる。
掌に嫌な汗が滲んだ。アモンは我知らず、唇を嘗めていた。
自分を落ち着かせるようにゆっくりと瞳を閉じ、一拍の呼吸を置いて、立ち上がる。
「私はこれで失礼します。それが真なら、殿下のお命にも関わることだ。
エイダムやアメリ女官長の背後をできるだけ洗ってみます」
踵を返そうとする背に、ヴィアは思わず言葉を掛けた。
「わたくしにも経過を教えていただけませんか?セルティスの事が心配なのです」
「わかりました」
アモンは一礼し、足早に部屋を出て行った。
「止めて!その子を殺さないで!」
夕闇の中、母親の悲鳴が辺りに響き渡る。夫から流れる血で体を汚し、泣きながらその躯に縋り付いていた母親は、幼い娘に刃を突き立てようとする兵士の姿に、死に物狂いで娘の上に身を投げかけた。
「娘を殺さないで!何でもするわ!どこでも望むところへ行く!」
「ヴィア!ヴィアっ!」
肩を掴んで強く揺さぶられた。泣きながら逃げ出そうとしていたヴィアは、体を揺さぶられて、自分が夢を見ていた事に気付く。
「殿下…?」
「どうした。また夢を見たのか?」
広い胸に抱き寄せ、アレクはヴィアの髪を優しく撫でる。心配そうに覗き込まれ、ヴィアは両眼から涙を溢れさせた。
「怖い、夢を見ていて」
アレクはヴィアの乱れた前髪を指で払い、そっと額に口づけた。
落ち着かせようとするように片手で頭をかき抱き、もう一方の手でゆっくりと華奢な背中を撫でる。
「どんな夢だ」
また予知夢を見たのだろうと、アレクは思った。ヴィアは啜り泣きながら、アレクの胸に顔を埋めた。
「男の人が切り殺されるのです。その妻が狂ったように泣き叫んで、遺体に取り縋っていました。髪を振り乱し、獣のように咆哮して」
覚えている筈のない記憶なのに、脳裏から決して消える事がない。
「子どもは、いつも優しい母親の狂ったような姿に怯えて、血だらけで横たわっている父親の姿を呆然と見つめていました。
それから、剣の切っ先から血を滴らせている兵士が近付いてきて、その子供を殺そうとしました」
殺されかけたことが怖かったのではない。子供は、父親の惨い死にざまと母親の絶望の叫び声が、ただ怖かった。
自分の信じていた世界が崩れ、それからしばらく、喋ることも笑う事もできなくなった。
「子どもも殺されたのか?」
「いいえ」
ヴィアは力なく首を振った。
「母親が必死で命乞いをしましたから。
子供は助かりました」
「その兵士の軍服はわかるか。軍章でもいい。もし分かれば」
ヴィアは首を振った。
浮浪者崩れを装っていたと聞くが、そうでない事は父も母もわかっていた。
あれは皇帝の近衛だ。母と子は、そのまま皇帝の元に連れて行かれるのだから。
「何もわかりません。特定できるようなものは」
優しく背をさすってくれる皇子に、本当は皇帝が殺したのだと訴えたかった。
あの男は、わたくしの父を、母とわたくしの目の前で殺し、娘の命と引き換えに母を凌辱し続けたのだ、と。
皇帝の寵愛など、母は微塵も欲してなかった。
娘の命を守るため、夫を殺した男に抱かれ、それを寵愛などとありがたがらなければならなかった母の苦しみは、いかばかりであっただろう。
憎んではダメ、恨んではダメ、と母は繰り返し娘に言い聞かせた。
今になって思えば、そうやって自分に言い聞かせなければ、母は生きていけなかったのだろうと思う。
「ヴィア」
再び涙を零し、しゃくりあげ始めたヴィアに驚き、アレクはヴィアの体を抱きしめる。
「ヴィア、どうした?」
母はずっと耐えていた。娘の心を憎しみから救ってやろうと、一度もつらいと零さなかったのだ。
憎い男から毎晩のように伽に呼ばれ、母はどれほど口惜しかっただろう。何が皇帝の寵妃だ。辛くて、悔しくて、哀しくて、母はずっと苦しんでいたのに。
「ヴィア」
けれど、殿下には言えなかった。
叫び出したいほど思いは膨れ上がるのに、一番理解してもらいたい相手には、打ち明ける事すらできないのだ。
言えば、傷つけると分かっているから、思いを抑え込むしかない。
アレクは泣きじゃくるヴィアの頭を抱き寄せ、守るように腕の中に囲い込んだ。
「どうした。何が辛いんだ」
ヴィアを落ち着かせようとするように、何度も低い声で問いかける。
ヴィアは首を振り、ただ泣きじゃくった。言えない苦しみをぶつけるように、胸にすがり、声を上げて泣いた。
やがてアレクは、問い質す事は諦めたようだった。宥めるように、ヴィアの背中を軽く叩き、柔らかな口づけを髪に落としていく。
「大丈夫だ。ずっとお前の傍にいる」
ヴィアが何をそんなに悲しんでいるのかわからぬまま、アレクはただ、ヴィアをこの腕で安らがせたいと心から願う。
だから祈るように囁いた。
「もう、泣かなくていい」
慈しみに満ちたその低い声が心地よく、泣き疲れたヴィアは体から力を抜いてその温もりに身を預ける。
皇子の指が優しくヴィアの髪を梳っている。
その指の動きをぼんやりと追いながら、ヴィアは静かに眠りに落ちて行った。