あとがきと設定資料
「愚かしくも愛おしき」と、「知性がなしたものを見よ」にある「神の戒め」を整理して、それを中心にいじりまわしてみました。「愚かしくも愛おしく」と「知性がなしたものを見よ」では、ガジェットとしての「戒め」でしたが、「フリークス」では中心的なものとして扱ってみました。
なお、ここでの「天の書トリロジー」は、「愚かしくも愛おしき」では「天の書トリロジー」と、「知性がなしたものを見よ」では「教えの書トリロジー」という名称になっています。
「トリロジー」というのは、なんとなく馴染んでいる言葉ですし、三部作というのはけっこうあったりするからというのが、その言葉を選んでいる第一の理由です。具体的にはどういうものかというのは決めていません。それでももし、三部作の内容はと聞かれるのであれば、旧約聖書、新約聖書、コーランとなるか、仏教の経典の最初期のもの、旧約聖書+新約聖書、コーランとなるかもしれません。もっと古い経典を入れてもかまいませんし。
なぜ、このような「戒め」を、三作品にわたっていじっているのかというと、律法はなにも根拠を持たないからであり、かろうじて根拠と言えるだろうものは、結局ここでの「神の戒め」のような戒律にしか辿り着かないからです。
「あの頃の明日はどうであっただろう」や「愚かしくも愛おしき」にて触れたように、「論理法」というものは存在しえますが、すくなくともまだ存在しません。「法理論」というものは実際に存在しますが、それは律法をいじりまわすための屁理屈であるにすぎません。根拠がないところに作られた律法から、それをどう解釈するかなどの屁理屈をこねるための方法です。
ということで、ここにしか辿り着かない「戒め」を設定し、それをベースに社会をいじくりまわしてみました。結果、あたりまえですが、現実と大差ない社会ができあがりました。ただ、科学に対する規制を設定することで、ほんのすこし社会の特徴を強調してはいますが。
結果として私に見えたのは、そもそも「戒め」は理性によって作られたものだったとしても、社会はせいぜい類人猿のものを引き継いでいるにすぎないという事実でした。あるいは「戒め」としてまとまるとか整理したのは理性によるとしても、その根拠は結局それらから引き継いだものにすぎないという事実でした。狼や犬もアルファを頂点とした社会を持っているので、哺乳類と幅を広げてもいいかもしれませんし、もっと範囲を広げてもいいのかもしれません。
それであるかぎり、現行法をもとに論理法を構築しようとしても、できあがるのは意味のないものでしょう。「あの頃の明日はどうであっただろう」で触れたように、人間の都合を押し付けることにしかならないだろうからです。そこには「知性がなしたものを見よ」で触れた問題が存在しています。
ところで、すでに指摘されていることですが、以前は人間の特徴として「理性」が挙げられていました。すくなくともその指摘においては、人工知能という「論理」の塊が目の前に現われたことで、最近では人間の特徴としては「感性」が挙げられるようになっています。人工知能、あるいは計算機に計算の速さではかなわない。ならば、認識を変えて、「理性」から「感性」にシフトすればいい。それは人間の柔軟さであるとも言えるでしょう。それとともに、自分に都合のいいようにどうにでも解釈するという面でもあるでしょう。そして、それは人間の限界でもあろうと思います。
人工知能が発達し、いずれは人工知能の人権が問題になるでしょう。しかし、「無知性の凱歌」、および「無知性の凱歌 Revised 1」で触れたように、人間は簡単にそれらを「新しい奴隷」と定義するでしょう。
それらのようなことがらは「理性」なのか、あるいは「論理」であるのか、それともそれ以外のなにかなのか。あるいは人間に価値があるとしたらそれはなんなのか。「フリークス」では教院が議論の時間として200年を犠牲にしました。ですが、現実ではその議論をし、結論を今すぐに出さなければならない事態に直面していることを確認してみたいと思います。
なお、「フリークス」における「自由技芸」は「リベラル・アーツ」を歪曲したものです。ただし、あくまで基礎はできている上での応用についての歪曲です。作中に出てくるのは、応用の基礎のところあたりです。「概論」の段階というところでしょうか。あるいは、卒論指導の最初のあたりで、卒論指導を3年くらいかけてやる雰囲気と思ってもらえれば。卒論をやるわけではなく、その指導の部分で。その部分を歪曲と誇張してます。
ところで「リベラル・アーツ」ですが、「自由人」のための学芸でした。単純に言えば、個人として誰かに雇われるとか、自営業の一部とかのためのものです。時代的にそういう人が求められたという背景もあります。リベラル・アーツとは微妙に別経路も含みますが、「学校教育を受けた者」( マギステル)の社会進出も、教育を求める人々の後押しをしたとは言えると思います。なお、法律と医学については、リベラル・アーツとはすこし別の経路を辿ります。
またUniversityの語源にちょっとだけ触れます。まず、リベラル・アーツの教師、とくに教えることに対して授業料を取るという形は、12世紀ごろに遡ります。この段階だと大学と呼ぶにはちょっとこころもとないかと思います。法律と医学については微妙に違う経路を辿りますが、リベラル・アーツ関連では、12世紀をとおして、教師とそこに集う学生の「結社」でした。そういうありかたは古いといえば非常に古いものです。それが、学生が出身地をもとに集まり「ナチオ」(=ネーション≒同郷会)と呼ばれるものになります。それが発展し「ウニヴェルシタス」となります。この「ウニヴェルシタス」が「ユニバーシティー」のほぼ直接の起源であり、直接の語源です。この「ウニヴェルシタス」ですが、意味としては「同業組合」というようなものです。13世紀にはさらに組織化され、民法と教会法による根拠を持つものとしてボローニャ大学が設立されます。ボローニャ大学において、法律と医学とリベラル・アーツが一箇所というか一都市に集まり、名称だけでなく実質的に大学という形が形成されました。
設定資料を例のごとく挙げます。リンク先をご覧ください。
https://docs.google.com/spreadsheets/d/1jIy2hplEtglWoQBsOq8toZ21dgrg_hTt8e3R8TQV5-I/edit?usp=sharing




