5-1: 算術
朝六時すこし前。目覚しが鳴る前に目が覚めた。急いで身支度をし、念のために食堂に朝食はいらない旨のメモを残し、玄関の郵便受けから新聞を引き抜き、下宿を出た。
自由技芸大学の私の履修は二部であり、講義の時間はある程度は決ってはいるものの一部の学生のように昼間と決まっているわけではない。変更もある。今日は夕方からだったはずの算術と弁術が、朝になった。
市電の中で、新聞の見出しだけを眺めた。第三面に「教院今日にも重要事項発布か」とあった。日曜日に教院に視察か、それとも監視が来ていたことと関係するのだろうか。
教室に入ると、眠そうな学生もいた。すこしばかり離れたところから来ているのかもしれない。
ノートを出し、広げた。七時になると、教授がやって来た。前回の続きか、あるいは前回のように刺激的な講義なのかと期待した。
教壇に立った教授は言った。
「今日は書術とも関連することがらをやろう。前回のことがらをもっと追求するのは、また後だ。おいおいその準備もしていこう」
すこしばかりの期待と興奮は薄れてしまった。
「確率にせよ、あるいはむしろ統計においては、それをどう示すのかが重要になる」
そう言って教授は黒板に数字を書いた。
| A 90
| B 100
| C 110
「何かの調査で、こういう統計が得られたとしよう。数字を表にするのが簡単だが、数字の数が多くなるとわかりにくくなる。実際にこういうものを書くような場合、三つということはないだろうね」
教授が言葉を区切ったとき、「ふあぁ」という欠伸が聞こえた。
「昨夜、眠れなかったかな? この時間だと、早く起きないといけない人もいるだろうが」
教授は笑いながら教室を見渡した。
「それでも自主休講にしている学生よりはマシだが」
「すみません」
欠伸の聞こえた方向から、その言葉が聞こえた。
教授は右手の掌を見せ、上下にすこし揺らして見せた。
「場合によっては、個別の数字を書くのではなく、平均値や中央値、最頻値だけを書く場合もある。一緒に四分位数を書く場合もあるだろう。あるいは平均値を示す場合には、分散や標準偏差も書くかもしれない。よし、さっき欠伸をした君。個別の数字を書く場合の利点と、平均値などを書く場合の利点にはどういうものかねがあるだろう?」
「えぇと……」
小さなボソボソという声が聞こえた。近くの、もしかしたら友人に訊ねているのだろう。
「個別の数字を書けば、実際にどういう数字が得られたのかがはっきりします。ですが、それらの数字の性格はわかりにくくなります。平均値などを書けば、それが逆になるかと」
欠伸よりははっきりしているものの、自信のなさそうな声が聞こえた。
「うん、そうだ。だが、この三つの数字だけでも、実際に個別の数字を見ているかな? おおまかに『100前後』という見かたをしてはいないかな?」
教授は黒板を指で叩いた。
「しています」
さっきの声が答えた。
「うん。三つじゃさすがにすくないか」
そう言い、教授は数字を付け足した。
| A 90
| B 100
| C 110
| D 105
| E 95
| F 98
| G 107
「まぁ、これは並べかたの話もあるが、ここではこれで見ることにしよう。100近辺だろうとはわかるだろうが、正直に言えばこれだけでも数字が並ぶとすこし見難さを感じると思う。さて、それは問題だ。どうしたらいいと思う?」
さっきの学生の方に、教授は目をやった。
「グラフにするとか……」
「そうだ。ではグラフを描いてみよう」
教授は書かれた数字におよそ対応しそうな七本の線を描いた。
「さて、グラフを描いたが。どうかな?」
「えぇと、やはりわかりにくいような」
「それはなぜ?」
「それは…… 線の上のところが結局同じような高さにあるから…… だと思います」
教授はうなずいていた。
「どれも同じくらいだということを示したいなら、この描きかたが適している。だが、差があることを示したい場合にはこれは適していない」
黒板に向い、教授は七本の短い線と二十の波線を描き、その上に数字の差を強調したような七本の線を描いた。
「今は省略しているが、左側にでも、うん、80から115の目盛を書いておけば、数字も、そしてどれほどの差があるのかも伝わりやすくなる」
私はその図をノートに書き写した。
「おそらく素直にグラフを描くということは習ったことがあるだろう。だが、書術との連携において、伝えたいことを伝えるためには、このような技法もある。もしかしたらこの点ですでに失敗した経験がある人も、君たちの中にいるかもしれない」
そう指摘され、私は二ヶ月ほど前のことを思い出した。百貨店についての満足度のアンケートの報告書を出したときのことだった。項目ごとの百分率の表を書いてはみたものの、それでは読み難いと思い、棒グラフを素直に描いた。改善点や新しいサービスについて2,3個ははっきり見えたものの、それ以外ははっきりとは読み取れなかった。上司から、そこを強く指摘された。私は数字を書いた表を持っていたので、訊ねられれば答えた。だが、結局は「わかりにくい。データの示しかたがわかっていない」と言われた。通信販売は、求められているものとして、それでもはっきり見えたものの一つだった。
「こうすればよかったのか」
私はノートに何本も下線を引いた。




