第30話 人生の最期を彩るための戦
「ローマ王、ランツフートに迫る」
という報告を聞いた後も、ループレヒトは特に動揺を見せることなく、軍事訓練の視察をして将兵を励まし、市内の巡察をしながら市民たちに「戦争などすぐに終わるから安心しろ」と声をかけて朝から晩まで精力的に働いていた。
この血気盛んな貴公子は、帝国の君主であるローマ王と戦うことに恐怖を抱くどころか、今こそ我が武運が試される時と勇み立っていたのである。
家来の多くが英雄然とした若き主君を頼もしく思い、ランツフート陣営の士気は下がるどころか上がっていく一方だった。
クリストフもループレヒトを尊崇している騎士の一人であったが、
(近頃の殿は、働き過ぎのような気がする。言葉は悪いが、生き急いでいるような……)
そのような不安が頭をよぎることが時折あった。まるで、眼前に人生の終着点がすでに見えていて、そこに向かって突っ走っているようにたまに見えてしまうほど、ループレヒトは休まなかった。側近の騎士たちですら、ループレヒトが今どこで何をしているのか把握できなくなることがあるくらい彼はじっとしていないのである。しかも、市内を忙しなく動き回るため、供をたくさん連れて歩くことを嫌ったのだ。ループレヒトの妻エリーザベトも夫を心配して、
「暗殺が心配です。我が夫ループレヒト様は、自分は神に守られているから志半ばで死ぬはずがないと信じ切っている節があります。しかし、人は、死ぬ時はあっ気なく死ぬもの。私の父のランツフート公は、自分は百歳まで生きるだろうと自慢していたくらい健康な人でしたが、病にかかったら四十八歳で簡単に死にました。我が夫が敵の手にかかることがないよう、しっかりと護衛をしてください」
家臣たちにそう頼んでいたのである。
クリストフも、「少数の供でお出かけになるのは危険です」と何度も諌めたのだが、
「市内の巡察に、大人数の供を連れていたら、市民たちに迷惑をかけるではないか」
ループレヒトはそう言い、供を増やそうとはしなかったのである。
(俺が殿のそばに常にいて、お守りできたらいいのだが……)
クリストフはいつもそう思っているのだが、新参者のくせしてループレヒトから精鋭騎馬隊の指揮を任されているクリストフを妬み、いつか排斥してやろうと企む古参の側近たちが少なからずおり、彼らによってクリストフはループレヒトから遠ざけられていたのだ。
(主君におべっかを使うことしか能のない腰巾着どもに殿の護衛の任務が果たせるかどうか不安だ。……殿にもしものことがあったら、俺は再び寄る辺のない渡り鳥に逆戻りだ)
おのれの城、家族、愛する者。一度に全てを失ったクリストフは、ようやくループレヒトという新しい自分の居場所を見つけることができた。その唯一の居場所である彼に突然消えてもらっては困るとクリストフは強く思うのであった。
マクシミリアンとの戦に備えるためにランツフート内を動き回り、ほとんど城に帰らない夫ループレヒトに代わってトラウスニッツ城を取り仕切っていたのは、エリーザベトだった。
彼女は政務だけではなく、城の女たちに負傷兵の傷の手当のやり方をボヘミア傭兵隊に従軍している女たちから学習させ、自らも学んでいた。
この時代、軍隊に従軍している女は案外と多く、娼婦だけでなく兵士の妻や従軍商人の家族などが荒くれ兵士どもと命がけの戦場にいたのである。彼女たちは兵士の食事の準備だけではなく、怪我を負った兵たちの手当もした。
嫋やかな外見の内に勇猛な騎士にも劣らぬ闘志を隠し持っているエリーザベトは、本当は鎧を着て夫と共に戦いたいのだが、ループレヒトには「そなたを危険な戦場に出すわけにはいかぬ」と反対されている。だから、彼女は、兵たちの傷の手当も戦争における大切な仕事だと考え、少しでも夫を助けたい一心で学んだのである。
「ケヒリ。今日は協力してくれて、ありがとうございます」
エリーザベトと城内の女たちが傷の手当の仕方をあらかた学び、ボヘミアの女たちが城から下がった後、謁見の間にケヒリを呼んだエリーザベトは彼に礼を言った。ボヘミア傭兵隊の隊長ケヒリに、ボヘミアの女たちを城まで連れて来てもらっていたのだ。
「……ははっ」
ケヒリは無愛想に言葉短くそう言うと、すぐに退出しようとした。
エリーザベトは、ケヒリの記憶に残るある人物と不気味なほど容貌が瓜二つであったため、ケヒリはこの若い夫人と二人きりで会話をすることに戸惑いを感じていたのである。
「かあさまぁー! かあさまぁー!」
ケヒリが退出しようとしたちょうどその時、謁見の間によちよち歩きの男の子が入って来て、玉座に座っていたエリーザベトに抱きついた。その後すぐに侍女が赤ん坊を抱きながら現れ、
「も、申し訳ございません! 若様が、お母様がいないと寂しがられて……」
と、エリーザベトに謝った。この幼子たちは、ループレヒトとエリーザベトとの間に産まれた公子たちで、長男のオットー・ハインリヒは二歳、次男のフィリップは昨年誕生したばかりの一歳だった。
「ごめんね、坊や。母様は、まだお仕事があるの。あともう少しだけ辛抱していてね。今夜は昔話をたくさん聞かせてあげますからね」
エリーザベトは、母にしがみついて離れようとしないオットー・ハインリヒのおでこに接吻をして、侍女に抱かれてぐずっているフィリップの頬にも口づけをすると、愛する二人の息子を侍女に預けて謁見の間から下がらせたのであった。
「……あの子たちの将来のためにも、狡猾公に亡き父の領土は渡せない。息子たちは、命に代えてでも私が守らねば……」
エリーザベトは、侍女に連れられて行く子どもたちを、決意を込めた強い眼差しで見送りながら、そう呟いた。
(大貴族の娘のくせして、俺の倅のヘルゲから鉄砲を教わったりしてたくましい女だと思っていたが……この女の力の源は、あの子どもたちであったか)
退出しようとしていた足を止めて、美しいエリーザベトの横顔を見つめていたケヒリは、自分でも思いがけない言葉を発していた。
「エリーザベト様。この俺にできることならば、何でも力になりましょう」
と、わずかに熱のこもった声を出し、エリーザベトにそう誓ったのだ。老傭兵の眼差しに対してエリーザベトが微笑みを返し、
「その言葉、何よりも頼もしく思います」
と、言うと、ケヒリは気まずそうに目をそらした。
(俺らしくもない。他人の生死や幸不幸などどうでもいいと考えている俺が、この女に対してだけは、幸せになって欲しいとなぜか思ってしまった。齢六十を越えて、二十六歳の若い女に心動かされているというのか? …………いや、おそらく、エリーザベトが早死にした俺の母親に似ているせいで、余計な情が移ってしまったのだ)
ケヒリは、女手一つで自分を育ててくれた母のことを今でもよく思い出す。子を守ろうとするたくましさだけではなく、その美しい容姿もエリーザベトは母に似ていた。
(俺は、戦場を渡り歩く血に飢えた狼だ。人に愛情など感じたことはなかった。戦で両親を亡くした孤児のヘルゲを拾い、息子として育てたのも、あいつにボヘミアの戦士となる素質があり、俺の役に立ってくれるだろうと見込んだからに過ぎない。だが、母は……あの人だけは、幸せにしたい、守ってやりたいとガキの頃の俺は心から願っていた。しかし、戦士として未熟だった俺には、あの人を守るだけの力がなかった……)
神は、なぜ、老いて人生残りわずかの俺に、母と瓜二つの女と出会わせたのか。少年の頃に守れなかった母の代わりに、彼女を守れということなのだろうか。
(俺もそろそろ戦の前線に出られなくなる歳だ。神は、俺の人生の最期を彩るための戦を用意しようとしてくれているのかも知れない)
それが、エリーザベトを守るための戦なのではないかと、ケヒリは考え始めていたのである。




