第21話 ちっぽけな命ですが、お助けください
ランツフートの陣営が着々と迎撃の準備をしている頃、ミュンヘン陣営の連合軍はランツフートの間近にまで迫っていた。
「ゲオルク様。いつ敵の奇襲があるかも知れねえ。油断は大敵ですぜ」
「あ、ああ。分かっているさ、ゲッツ」
ゲッツとその傭兵隊は、ゲオルクの部隊を守りながら、行軍している。主人のゲッツに似て勘がいいトーマスと、常人離れした視力を持つハッセルシュヴェルトが、周囲の警戒をしていた。
「……しかし、敵地の奥深くまで侵入しているというのに、ここまで何の攻撃もなかった。何も仕掛けて来ないのが不気味だな」
「敵は何もしていないわけではありません。その証拠に、今も我らを見張っているようです」
そう淡々と言いながらハッセルシュヴェルトは弩を構え、街道脇の森に矢を放った。この用心深い傭兵は、常に弦を張っていつでも矢を発射できるように備えているのである。
森林から「わっ!」と悲鳴が聞こえ、森の中で二つの人影が動いた。
「トーマス! ハッセルシュヴェルト! ゲオルク様を頼んだぞ! 俺は曲者を捕える!」
ゲッツはそう怒鳴ると、愛馬シュタールを疾駆させ、森の中に飛び込んだ。しかし、木々が鬱蒼と生い茂った森の中では、木にぶつかる恐れがあるため、馬を全速力で走らせることはできない。
農民らしき二人の男はゲッツの「止まれ!」という制止の声を聞かず、死に物狂いで逃げている。だが、片方の男は右足の膝から下がなく、杖と左足を使って何度も転びそうになりながら歩いているため、すぐにゲッツに追いつかれてしまった。片足だけの農民は、自分を見捨てて走り去って行く仲間に、
「置いて行かないでくれぇーーー! 見捨てないでくれぇーーー!」
と、泣きながら呼びかけたが、仲間は一度も振り向くことなく木々の間を縫うように走り、消えてしまった。
(チッ。一人は逃がしちまったか。まあ、仕方ない。仲間に見放された、この気の毒な農民を尋問しよう)
そう思ったゲッツは、捕えた農民に、
「そこに立て。立っているのが辛かったら、近くの木にもたれていい」
と、声をかけた。片足と杖だけで必死に走って逃げようとした農民は疲労甚だしく、肩で息をしていたのである。
(こいつ、まだガキか)
ゲッツに怯えてガタガタと体を震わせ、杖を支えにして立っている片足の農民は、十六、七歳の少年だった。おそらく、敵軍の視察をして来るように命じられたランツフート近隣の農民なのだろうが、早く走れずにすぐに捕まってしまうような者がなぜこんな危険な仕事をやらされているのかとゲッツは不思議に思った。
「お前、名は何という」
「え……エッボです。村では片足エッボと呼ばれて馬鹿にされていました。あ、あの……い、命だけは……命だけはお助けを……」
「怯えるな。聞かれたことに大人しく答えたら、暴力は振るわない」
「ほ、本当ですか……?」
「ああ。だから、正直に答えろ。お前とさっき逃げた奴は、なぜ我が軍を森の中から見張っていた。ただの偵察か? それとも別に目的があるのか? そして、誰の命令かも教えろ」
「ええと……その……ミュンヘン公の軍を偵察して来いと命令されました。特に、ブランデンブルク辺境伯軍とランツクネヒト隊の装備を詳しく調べて来いと。……おいらたちの村にこの命令を下したお方は、ボヘミア傭兵隊の隊長です。名前は……すみません。おいら、物覚えが悪いから忘れちまって……」
「ふーむ。まあいい。だが、なぜお前が偵察に行くことになった。見つかったら、その足では捕まるに決まっているだろう」
「本当は屈強な男を二人選んで偵察に行かせろとの命令だったんですが、みんなは捕まるのが恐くて嫌がっていました。だから、村でのけ者にされていたおいらたちが村長の命令で行かされて……」
エッボは、ゲッツに自らの生い立ちを語った。
生まれてすぐに両親を亡くして、身寄りもなかったエッボはある家の下男として働いて生きていた。しかし、一年前、エッボの主人が財布をどこかに落としたのである。エッボにろくに食事を与えていなかった主人は、エッボがパンを買って隠れて食べるために盗んだに違いないと疑った。
犯罪者として捕えられたエッボは、刑吏によって右足を切り落とされ、家からも追い出されてしまったのである。この当時、罪を犯して、腕や鼻、耳など、体の一部分を切断された者は多くいた。中には目をえぐられて盲目になる者もいた。
「盗っ人の片足エッボ」と侮蔑されるようになったエッボを雇ってくれる者など誰もおらず、エッボは本当に盗みを働かなければ生きていけなくなったのである。
エッボと共に偵察をさせられて、自分だけ逃げてしまったあの男も村のあぶれ者で、彼は鼻を切り落とされていた。
「おいらたちは、敵に捕まって殺されても惜しい命じゃないと思われているんです。へ……へへ……。どうせ生きていても仕方ない命ですが、やっぱり死ぬのは恐い。どうか、騎士様。こんなケチでちっぽけな命ですが、お助けください」
エッボは涙声でそう言うと、ゲッツに懇願した。
(こいつも、俺の傭兵たちと同じように、世間から爪はじきにされた境遇なのか……)
不幸だからといって、誰かが優しくしてくれるわけではない。落ちぶれてしまったからといって、誰かが助けてくれるわけではない。孤独に苦しんでいるからといって、誰かが抱き締めてくれるわけではない。それが世間というやつだ。人間の社会というやつだ。無慈悲なのである。世界というくそったれは。
(傭兵として雇ってやってもいいが……。だが、こいつは足が……)
無言でエッボを見つめながら、ゲッツがそんなふうに考えていると、
「怪しい奴はどこだ!」
という怒鳴り声と馬の蹄の音が聞こえて来た。ゲッツが後方を見ると、ポーランド騎士のピオトルだった。相変わらず髪の毛に鶏卵を塗っているようで、頭髪がつやつやしている。
「おい、ベルリヒンゲン。こいつが我が軍を監視していた曲者か?」
(駆けつけるのが遅すぎるだろ。何しに来たんだ、この馬鹿)
ゲッツは心の中で悪態をついたが、「ああ、そうだ」と感情を押し殺した声で答えた。今は戦争中だ。こんな時に味方同士で喧嘩をするわけにはいかないとゲッツもいちおう思ったのである。
「もう尋問は終わった。こいつは素直に答えたから、解放する」
「何を甘いことを言っているんだ。敵方の農民だぞ。拷問をしないで本当のことを吐くはずがない」
ピオトルはそう言うと、エッボをいきなり鞭打った。
「ぎゃぁー! や、やめてください 痛い! 痛い!」
何度も鞭打たれたエッボは、泣き叫びながら倒れてしまった。
「おい、ピオトル! こいつは俺が捕えたんだぞ! 俺の捕虜に手を出すんじゃねえ!」
いつもなら口よりも先に手が出るゲッツだが、何とか我慢してそう抗議した。しかし、ピオトルはエッボを痛めつけて楽しんでいるらしく、エッボが杖で何とか立ち上がろうとすると、嗜虐的な笑みを浮かべて、またもやエッボを鞭打ったのである。ナルシストなうえにサディストとは、救いようのない変態だった。
ピオトルは、木に寄りかかって立とうとしているエッボに、さらに鞭打ち、アハハハと哄笑した。
「もうやめろ、ピオトル。貴様は、暴力に抗う力のない者を痛めつけて悦んでいるだけだ。それ以上やると、承知しねぇぞ!」
「うるさい! 盗賊騎士に落ちぶれた野郎が、偉そうに説教するな! ……さあ言え、クソガキ! 何が目的で我が軍を見張っていた! 本当のことを言わないと、今度はお前の顔がぐちゃぐちゃになるまでぶん殴ってやるぞ! アハハハハハ! ……げふっ!」
我慢の限界だった。ゲッツは、ピオトルの顔面をぶん殴っていた。
「き……貴様ぁ! いつもいつも俺の邪魔をしおってぇ!」
落馬したピオトルは、鼻血をだらだらと流しながら立ち上がり、剣を抜いた。ゲッツは(ああ、またやっちまった)と思いながらも、馬上からピオトルを威圧的に睨み、こう言った。
「俺たちは何十回と喧嘩しているんだ。力の差は歴然としていると思うが、それでもやるというのなら付き合ってやるぜ。ただし、昔とは違って、ガキ同士の喧嘩じゃないんだ。てめえが剣を抜いたからには、俺も殺すつもりで剣を抜く」
ゲッツの気迫に、ピオトルは「うっ……」と怯んだ。怒りで自分を抑えられなくなっていたゲッツは、剣を抜き放つ。
その時だった。突如、三十騎ほどの兵が駆けつけたのは。
騎兵を率いていたのは、ランツクネヒト隊の中隊長フルンツベルクだった。
「曲者が現れたと聞いて駆けつけてみたが……。貴殿たちは、なにゆえ味方同士で剣を突きつけ合っているのだ」
「……てめえには関係のないことだ。口出し無用だ」
ゲッツが剣の切っ先をピオトルに向けたままそう言うと、フルンツベルクは「そうはいかぬ」と頭を振った。
「決戦を前にして仲間割れを起こしていたら、勝てるはずの戦にも負けてしまう。早々に仲直りをして、剣を鞘に収めていただきたい」
「ふん! 何を偉そうに! 騎士にもなれない貧乏人が……」
ピオトルはそう罵ろうとしたが、途中でピタッと止まった。口調は丁寧かつ穏やかだが、フルンツベルクの瞳の奥底から言い知れぬ凄みを感じ、恐怖したのだ。自分でも気にしていることを言われて、フルンツベルクは怒っているのである。
「お互いに謝罪をするのだ。さあ、早く」
「わ……分かった。しゃ、謝罪する。ベルリヒンゲン、す、すまなかった」
フルンツベルクの気迫に圧されたピオトルは、偉ぶった態度をあっさりと捨てて、ゲッツに謝った。性根の座っていない男だぜとゲッツはピオトルを心底軽蔑した。
「ピオトル殿は謝った。貴殿も謝罪するのだ、ベルリヒンゲン殿」
フルンツベルクがそう言うと、ゲッツはペッと唾を吐き、
「やなこった! こんな野郎に謝るぐらいなら死んだほうがマシだ!」
と、拒絶したのである。すると、フルンツベルクが手をサッと振って合図をし、配下の騎兵たちがゲッツを取り囲んだ。
「私は、軍の規律を乱す者を許さない」
「けっ。民衆を襲って、略奪、放火、強姦のしたい放題なランツクネヒト隊の中隊長様にそんなことを言われても、説得力がないねぇ」
「私の指揮下の兵たちには、ローマ王の尊厳を傷つけぬように、帝国の兵士としてふわさしい振る舞いをさせている。貴殿こそ、騎士でありながらこのようないさかいを起こし、恥ずかしくはないのか」
(……正直言うと、恥ずかしい)
今回は我慢しよう、ピオトルと争うまい、と思っていたのに、結局は怒りに身を任せてピオトルを殴ってしまった。暴行を受けているエッボを放っては置けなかったということもあるが、ゲッツの荒々しい気性が騒動を起こさずにはいられないのである。
(このクソがつくほど真面目な中隊長が駆けつけてくれなければ、俺はピオトルを殺してしまっていただろう。フルンツベルクの実直な性格は、親友のクリストフに似ている。……こいつの言うことならば、聞いてやってもいいか)
フルンツベルクに諭されて少し冷静になったゲッツは、剣を鞘にしまった。
「……いいぜ、謝ってやろう。ただし、一つだけ条件がある。この農民は俺が捕えたんだ。だから、こいつの身柄は俺が預かる。ピオトルがそれでいいと納得するのならば、謝罪しよう」
「ピオトル殿、ベルリヒンゲン殿はこう言っている。どうなさる」
ギロッとフルンツベルクに睨まれ、ピオトルは「ひっ」と小さな悲鳴を上げた。
「あ、ああ。こんな農民なんて、どうでもいい。ベルリヒンゲンの勝手にすればいいさ」
「そうか。ならば、謝ろう。……悪かったな、ピオトル」
そう謝罪しつつ、ゲッツの目は血走っていて、(この野郎、いつか痛い目にあわせてやる)というゲッツの心の声が聞こえたような気がしたピオトルは、ぶるるっと背筋に悪寒が走った。
フルンツベルクは、ゲッツが謝罪したのを見届けると、配下の騎兵たちにゲッツの包囲を解かせた。
「私も二人に無礼を働いたことを謝ろう。どうか許して欲しい」
「いや、あんたは正しいことをしただけさ。気にするな。あんたは、たとえ騎士ではなくても、騎士の心を持った貴族だ。俺みたいな盗賊騎士よりは、ずっと立派だぜ」
フルンツベルクに行方不明の親友の面影を感じたゲッツは、彼のことを気に入り、そう言って褒めた。そして、機嫌良さそうに馬を降り、しくしくと泣いて倒れているエッボを助け起こしてやった。
力尽くで謝罪させられて、ゲッツは自分を恨んでいるだろうと思っていたフルンツベルクは面食らい、不思議そうな顔をしてゲッツを見つめた。
(最初は物分りの悪い荒くれ者だと思ったが、意外と爽やかな男なのかも知れない)
フルンツベルクはそう考え、騎士ではない自分に「騎士の心を持っている」と言ってくれたゲッツに好感を持つのであった。
「おい、大丈夫か、エッボ」
「あ、ありがとうございます。あの……。さっき、街道の方角から悲鳴が聞こえませんでしたか……?」
「え? そんな声、聞こえなかったぞ?」
「いいえ、間違いありません。おいら、人よりも耳がいいから、かなり離れた場所の小さな音もしっかりと聞こえるんです」
エッボがそう言った直後、ズダダーン! という銃声が聞こえてきて、ゲッツたちは「敵襲か!」と驚いた。
「しまった! ゲオルク様が危ねえ!」
ゲッツはそう叫ぶと馬に飛び乗り、エッボの小柄な体を片腕でひょいと持ち上げて自分の後ろに座らせ、「俺の背中にしっかりとつかまっていろよ」と言うと、愛馬シュタールを走らせた。
フルンツベルクも騎兵を率い、ゲッツに続く。ピオトルはというと、慌てて馬に乗ろうとしたらまた落馬して頭を打ち、うんうんと唸っていた。
ランツフートを目指して行軍中の連合軍を急襲したのは、プファルツ選帝侯が援軍として派遣した騎士の一人――ゲッツの兄たちが味方をした例のエーベルンブルク城の城主ジッキンゲンだった。




