23-③ 青い鳥の在処
ああ、これはいつの記憶だっただろうか。
ナイゼルは、スポットライトに照らされた兄の姿を見ていた。
周囲には沢山の人が居て、皆一様にセリウスを見ている。彼が何かする度に歓声が湧いて、あちこちで拍手が鳴る。
ナイゼルはそれを遠巻きに眺めていた。
賞賛される兄を誇りに思う一方で、どうしようもなく惨めな気持ちになって、その場から逃げ出してしまう。その背中を、人々の囁き声が追いかける。
「あれがセリウス様の弟?」
「弟の方は大したことは無いな」
「似ているのは顔だけか」
哀れみや嘲りを含んだ声が聞こえなくなるまで、ただひたすらに走る。
そうして逃げた先に、今度はロザリアの姿があった。
微笑みかけてくれる彼女にホッと息を吐いて、その手を取って歩き出す。
けれど、また同じように、彼女だけが照らされて、自分は日陰に呑まれてしまう。
強く握ってくれているその温かい手を、ナイゼルは振りほどいて逃げた。その名を呼ぶロザリアの声が、周囲の人々の声に埋もれて霞んでいく。
逃げて逃げて、誰かを照らすスポットライトの光が届かない暗闇に逃げ込んで、ナイゼルは一人その場に座り込んだ。
ここに居れば、比べられることも無い。もう傷付くこともない。
だからこれでいい。これでいいのに、閉じた扉の向こうから、新たに誰かの声がする。
やめてくれ。もう放っておいてくれ。
自分は、心優しい二人に何も返せない。与えてくれるその温かさと同じだけの価値ある物を、自分は何も持っていない。
才能、人格、地位、名誉、財産。
およそ人が欲しがるであろう物を、彼らは既に持っている。
そんな彼らに、彼らよりも劣る自分が、一体何を返せるというのだろう。
自分の存在は、彼らの重荷になるだけだ。自分のせいで、何度彼らに要らぬ心労をかけた事だろう。
せめてその心労を無くしてやりたい。
自分が居なくなればそれは果たせる、それで誰かを救えるのなら尚の事都合が良い。
だからもう放っておいてくれ、これでいいんだ。これでいいのに――
どうして君は、そうまでして僕を助けようとするんだ。
個室のベッドで一人眠っていたナイゼルは、聞き覚えのある音楽に呼び起されて目を覚ました。
真っ白な病室の窓際で、同じく白い髪を揺らしながら、フィアが囁くような声で歌っている。
歌い終わってくるりと身体を反転させた彼女は、そこで漸くナイゼルが起きていることに気付いた。
「あれ、起きてる。おはようナイゼル」
「……おはようございます、フィアさん。来ていたのなら起こして下されば良かったのに」
「寝てるのを起こすのは良くない。具合はどう?」
「問題ありません。フィアさんこそ大丈夫ですか?」
「平気、私は元々そんなに怪我してない、皆が大袈裟なだけ」
確かに彼女の言う通り、フィアの怪我の程度は手術を要したナイゼルのそれに比べれば無いようなものではあるのだが。
ナイゼルは元々傷一つなかった彼女の肌に巻かれた包帯に眉を曇らせた。
「……その傷は、僕が付けたようなものですね」
「ナイゼルが気に病むことない、ナイゼルはちゃんと私を護ってくれた」
俯きシーツを握りしめるナイゼルの傍に、フィアが寄り添うように腰掛ける。
「ナイゼルは私の従者じゃない、私を護る義務なんてない、それなのに必死になって助けようとしてくれた。ナイゼルが傷ついたのは嫌だったけど、私の為にそこまでしてくれた事は凄く嬉しい」
花が咲いたような微笑を向けられて、自責に駆られていたナイゼルも強張っていた表情を崩した。
「貴女は僕の〝鳥籠の中の鳥〟ですから」
「? どういうこと?」
「あの本は、僕の心の支えなんです。ただのフィクションだけど、だからこそ、あの本の世界に浸っている間だけは、僕は現実の嫌なことを忘れて居られた。……入学式で貴女を初めて見た時、まるでその本の中から出てきたかのような印象を受けたんです。浮世離れした美しさでしたから」
一目惚れ、と言えば、そうだったのかもしれない。
けれど実際にはそれとは少し違っているとナイゼルは思う。
あの時フィアに抱いた気持ちは、単純な恋心などでは無かった。
空想上のものだと思っていた世界が現実になったような衝撃。自分が恋焦がれたあの世界への入口を見つけたかのような錯覚。
「貴女と話している時だけは、僕はフォルワード家のナイゼルではなく、ただの一人の男として居られるんです。現実から抜け出して、何のしがらみもない夢の世界に居るような、そんな心地になれる。所詮それは僕の勝手な妄想に過ぎませんが、それでも、貴女の存在は僕にとっての救いなんです。だから、何としても守りたかった」
それなのに、と、少し浮ついていたナイゼルの声が再び沈む。
「結局、気持ちばかりで実力が伴わなくて、いざとなったらこの有様だ。僕はいつだってそうだ、大切なものを守り通せるような力も、何も無い。あまりにも無力で……本当に嫌になるよ」
静かにそれらを見聞きしていたフィアは、ナイゼルが語り終えるのを待ってから、口を開く。
「……私もね、そういう風に感じていた事があったよ。私はいつも誰かに守って貰うばかりで、ずっと安全な場所から大切な人たちが傷付くのを見てることしか出来なかった。皆は私の為に沢山のことをしてくれるのに、私は何も返せなくて……それがどうしようもなく苦しかった」
ああ、それはまるで自分のことのようだと、ナイゼルは思った。
フィアは四角い窓に切り取られた外の風景を、どこか懐かしそうに眺める。
「そんな風に迷惑をかける事しか出来ないのなら、いっそ居ない方がいいんじゃないかって思うこともあったの。でも、アルスやイアンに初めてそれを言った時にね、二人とも凄く悲しい顔をして、怒って、イアンなんて泣き出しちゃって……あの時は吃驚したなあ」
当時を思い出したのか、フィアは口元に手を当てて、フフっと笑いを零した。
「それからね、どうしてそれが駄目なのか教えてくれたの。私は、私が居なくなったら、それはそれで迷惑がかかるからかなって思ってたけど、そうじゃなかった。二人はただ、ずっと一緒に過ごしてきた私っていう存在が好きで、私はこの世界にたった一人しか居ないからだって。誰にもその代わりは出来ないから、だから必死に守ってるんだって言ってくれたの」
ナイゼルは目を見開いた。
ただそれが好きだから。
たった一人しか居ないから。
誰にもその代わりは出来ないから。
まるで、解けない問題の答えを見つけた時のような、目の前にかかっていた霧が唐突に晴れた時のような、そんな気持ちになる。
「私があの時ナイゼルを守ったのも、無茶なことしようとするのを怒ったのも、それと同じだったよ。私がナイゼルにとっての〝鳥籠の中の鳥〟なら、私にとってのナイゼルは、籠の外であの歌を一緒に歌って励ましてくれる鳥だから。居なくなると、凄く困る」
母が子を叱るような顔で、フィアはナイゼルにそう言った。
「だからもう、居なくなろうとしないでね」
ナイゼルはそれに何と返せばいいのか、今の感情を何と言い表せばいいのかがわからず、
「……フィアさん、貴方に見て貰いたいものがあるんです」
長い沈黙の後にそう言って、纏まらない感情を形にする代わりに、人差し指で宙をなぞった。
指先から星のような粒子が溢れて、空中に漂うそれはやがて四枚の羽根を持つ小人のような形になる。
本の中に書かれていた、実際には存在し得ない妖精の姿。それは魔術としては何の効力も無い、かつて父に「ただの子供騙し」と一蹴されたものだ。
ナイゼルはその評価を受け入れて、以来使おうとはしなかったが、フィアはそれを見て目を輝かせた。まるで、ナイゼルが本を初めて読んだ時と同じように。
(……そうか、この魔術は、これで良かったんだな)
この魔術も、自分自身も。
万人に価値を認められる必要などなく、認められないからとその意義を否定する必要もなかった。
誰の目にも留まらず棚に残っていたあの本が、自分にとってかけがえのないものになったのと同じように。
スポットライトが当たらなくても、他よりも劣っていても、その存在が必要だと言ってくれる誰かは居る。
自分もそうだと考えるのは都合の良い話かもしれない。
けれど、ナイゼルは今のフィアの言葉を信じたいと思った。
敬愛する兄や幼馴染が傍に居てくれるのは、友人が命懸けで助けに来てくれたのは、ただ彼らが慈悲深いからというだけではないのだと。彼らに、必要とされているからなのだと。
「有難うナイゼル。私、魔術でこんなに嬉しい気持ちになったのは初めて!」
滲む視界の中で満面の笑みを見せるフィアに、ナイゼルも同じように笑顔を返す。
「僕もです。……気づかせてくれて、有難う御座います」




