1-④ 日常の終わり、運命の始まり
もう、世間から爪弾きにされずに済むと、異端として扱われずに済むのだと、そんな楽園のような世界があるのだと聞かされた時の、あの夢と希望に満ちた気持ちはどこへやら。
ステラのすすり泣く声だけが響く静かな部屋の中の空気は、一転して地獄だった。
「え……? なに、パパが……、死んで……?」
ウォレアがわざわざ口に出して言ったおかげで、部屋に居る五人の認識は一致していた。それでもまだ、言われた事を素直に飲み込むことが出来ないらしいリアが、うわごとのように呟く。
「お前の父親は死んだ、もう居ねぇ」
「……うそ、うそだよ、そんなはずないよ」
「逆に、あの状況で生きてる奴が居る方がおかしい。あの場に居た人間は殆どが同じ結果だ、お前の親父さんだけじゃねぇ。助かった自分たちの幸運を神に感謝しろよ」
バレッドの言う事はもっともだった。あの現場の惨状がどんなものだったか、リアはその目で見て知っている。原種返りを起こす直前の記憶は、今も彼女の脳に鮮明に焼きついていた。
あの時、鵺族に踏み潰された者の中に父も居た。それが事実。
「うそだよ……、そんな、そんなはずないもん……」
既に確定している事実を受け入れられないリアは、周囲の言葉を、自分の記憶を必死に否定する。だが、その声は奮え、あまりにも弱々しかった。
「……では、我々はこれで失礼する。現場の処理はこちらで既に進めているが、残念ながら死体は損傷が激しく引き渡せそうに無い、諦めてくれ」
そのウォレアの言葉は、果たしてリア達の耳に入っていたのだろうか。
ウォレアは応えを待たず、呆けてしまっているリアとラクアを置いて、バレッドと共に部屋を後にした。
*
どれぐらい時間が流れただろうか。
窓の外はすっかり暗くなっていて、明かりの点いていない部屋は真っ暗だった。家の外に取り付けられた電灯の明かりだけが、リア達の姿を暗闇の中に浮かび上がらせている。
「……ごめんね、取り乱して。私が一番しっかりしていないといけないのに、これじゃ母親失格ね……」
若干枯れてしまっている声で、漸く泣き止んだステラが呟いた。ウォレア達が出て行ってから、この部屋の中で誰かが喋ったのはこれが初めてだ。
何か言わなければ、とラクアは思った。だが、何を言えばいいのか、全く浮かんでこない。
励ましの言葉も、慰めの言葉も、どれもきっと二人の心には届かないだろう。血の繋がっていない自分でも、暫くは食事も出来ないであろう程度にはショックを受けているのだ、肉親たる二人のダメージは計り知れない。
「リアとラクア君が無事で良かったわ、本当にそれだけは……」
今一度リアを抱きしめなおすステラ。一方のリアは泣きもせず、ただ静かにそれを受け止めるだけ。
彼女が涙を流さないのは、悲しくないからでも、我慢しているからでもない。
父親が死んで、そのせいで母親が泣いている。そのことを頭では理解していても、心が追いついていない。この状況に現実味を感じない。今のリアはそんな状態だった。
「……おばさんは知っていたんですか? 俺やリアが人間じゃないってことや、一段目に他の魔族や戦士族が居るってこと」
「……知っていたわ」
「知っていたならどうして……、自力で一段目に行く方法が無いからですか?」
「それもあるわ。でもそれ以上に……、私が貴方達と一緒に居たかったの。身勝手なエゴだってわかってるわ、ごめんなさい」
たったそれだけの理由で、この地獄に二人を閉じ込めていたのだとしたら、それは確かに身勝手な考え方だ。
だが、ずっと傍でサテライト家を見守ってきたラクアには、そのステラの気持ちを真っ向から否定することが出来なかった。
「それなら、皆一緒に一段目に行けば――」
「……それは出来ないの」
「どうして……っ」
ステラはリアを離して、ベッドに座る二人の間に座った。先程まで、ウォレアが座っていた場所に。
そうして自分を見つめる二人に、寂しげに微笑みかける。
「いつか話すわ。……ウォレア君達がラクア君を一段目に迎えに来たっていう話は本当よ、ラクア君にとっては突然のことで、半信半疑になってしまうのもわかるけれど、もうずっと昔から決まっていたことなの。リアについては、ちょっと違うけれどね」
「ずっと昔からって……、俺は、俺は何も知らないのに……、そんな勝手に……」
何もかもが、自分の意見を介さずに決められる。
それは自分の存在を軽んじられているように感じられて、ラクアは不快感を露に吐き捨てる。
何も今回に限ったことではない。彼の怒りには、何も言わずに己を捨てて消えた両親への想いも含まれていた。
「誰も彼も、俺のことを何だと思ってるんだよ……ッ!」
不意に、ラクアの服の袖口が引かれた。
見れば、心配そうに自分の顔を覗きこむリアの丸い両目と、ラクアの視線がかち合う。
「……ごめん、ちょっと、頭冷やしてくる……」
ふらふらと立ち上がり、ラクアは一人扉の向こうに消えた。
その後姿を、リアとステラが悲しげに見送る。
「……本当に、ダメな母親ね、私」
「そんなことないよ。それにラクアは、ママにそんなこと言わせたいわけじゃないよ」
娘に励まされて、落胆していたステラは苦笑を零す。
「本当に優しい子たちね、貴方たちは」
「パパとママの子供だもん」
即答したリアの言葉に、ステラはまた溢れそうになる涙を堪えた。
「……リア、一段目に行きたいんでしょう?」
「……うん、でも……」
「大丈夫よ、ウォレア君たちがきっと上手く取り計らってくれるわ」
「そうじゃないの。……あたしが行ったら、ママ、ここで一人ぼっちになっちゃうんでしょ?」
意表を突かれたステラは、驚いてから、困ったように眉を下げて笑う。
「私は大丈夫よ、もう十分、一緒に居させて貰ったもの。これ以上、私の我が侭で貴方達を縛り付けたら、罰が当たっちゃう」
「あたしだって、ママと離れたくなんてないし……」
「甘えんぼうさん、貴方にはラクア君が居るでしょ?」
「ラクアはラクアで、ママはママだもん」
ステラはリアを愛おしげに抱き寄せて、リアも力いっぱいに母親の身体にしがみつく。
「どうか覚えていて、私もパパも、貴方達が幸せになることを心から願っているって。……なんて、自分の都合で一段目のことを黙っていた私が言っても、説得力がないかしら」
「……ううん、わかる、わかってるよ」
母の腕の中でそのぬくもりを感じながらも、いつもあった筈のもう一つのぬくもりが無い事が、リアは寂しかった。
*
「ラクア、一緒に一段目に行こう!」
家から四方に伸びる、この場所では道代わりの橋の上。
そこに腰を下ろして、頭上にあるのだろう月明かりを遮っている灰色の雲を見上げていたラクアに、リアの陽気な声がかかった。
振り向いたラクアの視線を受けながら、リアはその隣に座る。
「……なんだよ急に」
「だって、一段目なら友達だってきっと沢山出来るんだよ! もう虐められたりもしないし、変な目で見られることもないし、良い事づくめだよ!」
「そんなのわからないだろ……、もしかしたら、此処より悪い場所かも」
「その時は、一緒に帰ってくればいいじゃん」
「それはそうだけど……」
「ママもその方が良いって言うし、パパもそう望んでるって言ってた」
パパ、という単語に、ラクアの表情が歪む。
リアは足元に転がっている石ころを拾い上げて、水面に放り投げた。
ぽちゃん、と音を立てて水の中に落ちた小石は波紋を広げ、その波紋が、リア達の座る橋の柱に当たる。
「……お前、大丈夫か?」
「なにが?」
「おじさんのこと」
他に良い聞き方もわからず、率直に問うラクアに、リアは僅かに眉を寄せた。
「……まだよくわからないや。ママやウォレアさん達が嘘吐いてるとは思ってないけど、あたしはパパが死んだのをちゃんと見てたわけじゃないんだもん。昼のことも、なんだか悪い夢だった気がしてるの。パパってお仕事で帰ってこない日もあったから……、だから日が経ったら、そのうち帰ってくるんじゃないかなって……」
「……そっか」
今はまだ、実感が湧かないのだろう。いつかその感覚が追いついてきた時に、リアがどうなってしまうのか、ラクアは不安でたまらなかった。
一段目に行く事で、少しでも、その衝撃を和らげることが出来るのなら。
この残酷な現実から、彼女を護れるのなら。
「――わかった、一段目に行こう、一緒に」
そんな想いを秘めて決心したラクアに、彼の考えを理解している訳ではないリアは、それでも無自覚に、彼を安堵させる笑みを見せた。
*
リア達の住む場所――ウォレア達の居る場所を一段目と呼ぶのであれば、二段目とでも呼ぶべきその場所では、葬式という習慣がない。というか、それをするのに必要となるあらゆる物が、二段目には足りない。
なので人が死んでも、僅かな陸地の一部に遺体を埋めて、墓標を建てる程度のことしか出来ない。
ウォレアの言葉の通り、遺体はサテライト家に帰ってくることはなかった。故に、粗末な墓の下に埋められているのは、生前の彼の私物だけ。
到底満足とはいえないそんな墓の前、たった三人の家族だけに見送られて、リアの父親は、その生涯に幕を下ろした。
瀕死の重傷を負いながらも、なんとか生き延びた鉱夫たちも居たが、彼らは事の詳細を語ろうとはしなかった。よほど恐ろしかったのか、早く忘れたいと言わんばかりに。
そのせいで事件は大した噂にもならず、鵺族が再び現れることはないとのウォレアの言もあり、鉱夫たちの怪我と荒れた坑道が元に戻ると、すぐに何事もなかったかのように作業は再開された。
皆、長い間父と共に働いていたというのに、誰一人として父の墓に手を合わせにくる者は居なかった。その理由は単純、リアの父親も、リアと同じく戦士族だからだ。
迫害されていたのは彼も同じなのだということを、リアとラクアは今更になって知った。家では、そんな扱いを受けている素振りを見せなかったからだ。
そうして、怒りや悲しみや寂しさを感じる日々を二人は過ごし、一ヵ月ほど経った頃、約束通り、再びバレッド達がやって来た。
「リア・サテライト、君の学院への入学が許可された。これでもう異論は無いな?」
「やったー! 有難う御座います!」
バンザイのポーズではしゃぐリアに、ウォレアとバレッドは豆鉄砲を喰らった鳩のような顔になる。
「まぁ、最初から乗り気だったのは知ってたけどよ……、あんな事件の後だってのに、タフだなぁ嬢ちゃん。こっちとしては助かるけどよ」
「いつまでもウジウジしてちゃダメなんですよ! 笑顔で前向きにっていうのがうちの家訓です!」
「おー、そりゃいい心がけだな」
わしわしと乱雑に頭を撫でられたリアは、嬉しそうにはにかんでそれを受け入れる。
その姿に安堵と危機感を覚えるラクアに、ウォレアが詳細の説明をする。
学院は寮制なので、入学後は基本的に一段目で生活することになること。生活に必要なものは全て用意して貰えること、等々。
「あとは実際に生活してみればわかるだろう。最初は戸惑うだろうが、一月もすれば慣れる筈だ」
「わかりました。……そういえば、お礼がまだでしたけど、坑道で助けてくれたことも、学院のことも、色々と有難う御座います。これから宜しくお願いします」
礼を述べて頭を下げたラクアに、バレッドとウォレアが揃ってバツの悪そうな顔をする。
「……礼は不要だ。最初に言った筈だぞ、〝仕事〟だと。この際だから言っておくが、君がもし一段目に来る事を拒否していたとしても、我々は力尽くで連れて行く心算だった。恨まれこそすれ、感謝される道理はない」
「それでも、俺達にとっては嬉しいことですから。……そういえば、ウォレアさんたちの仕事って何なんですか?」
「教師だ、新米だがな」
「えっ!?」
特に二人の素性について想像を膨らませていたわけでもないが、それでもラクアにとっては意外な解答だった。
慇懃なウォレアはともかく、バレッドは教師という雰囲気ではない。どちらかといえば生徒側だ。
「――って、学校の先生が、どうしてわざわざ俺を迎えに? 一段目では、教師が生徒をスカウトしに来るのが普通なんですか?」
「そんな風習はない。――それより、心残りのないよう、二段目でやっておくことがあるのなら、今のうちに済ませておけ。持って行きたいものがあるのなら纏めておくように」
「あっ、じゃあ、あたしぬいぐるみ持って行く!」
「それは邪魔になるから置いて行けって」
リビングでステラの紅茶とケーキを囲む輪から外れ、慌しく部屋に向かうリアの後をラクアが追う。
遠く聞こえる二人のやり取りを聞きながら、ウォレアは紅茶を一口啜って、
「……本当に、彼らに真実を伝えぬままで良いのですか」
先日、気絶した二人をこの家に運び込んだ時と同じ質問を、ステラに投げかけた。
「今は隠せていても、一段目に行けば、必ず真実を知る時は来ます。原種負けについての話は、一段目では既に周知の事実です。それを知れば流石に彼らも、今回の事件の真相に思い至るでしょう。隠し通すことは出来ません」
「俺達も正直、騙してるみてーで居心地が良くねぇしな。あいつらは、本来恨むべき相手に、そうとは知らず感謝してやがる」
ステラは紅茶の入ったティーカップを両手で握り締めて、「それでも」と呟く。
「もう少しだけ、あの子達の記憶に居るあの人を護りたいんです。少しドジで、でも頑張り屋で、あの二人を心から愛していた、優しい父親だった頃のあの人を。……それが例え、私のエゴだったとしても」
お願いします、と頭を下げるステラに、バレッドとウォレアは深く息を吐いた。
「極力、我々の口から伝えることは避けましょう。ですが、原種負けは彼らにとっても無関係の話ではありません。説明が必要だと判断した場合は、全て明かします」
「それで十分です、有難う御座います」
「……それにしても、そこまで家族を想ってる割に、アンタは俺らに恨み言は吐かねーんだな」
バレッドの疑問に、ステラは一瞬きょとんとして、それから微笑んだ。
「貴方達は、あの子達のことも、あの人ことも救ってくれた。……そんな恩人に聞かせる恨み言なんて、私は思いつきません」
「……そうですか」
ウォレアは笑い損なったかのような微妙な表情を湛えて、視線を窓の外に移す。
そこから見える景色は今日も変わらず、曇天の空と雨水に冠水した大地、木造りの橋と家々だけ。
だが彼の目はそれらを映さず、どこか別の、遠い場所を見ているようだった。
「心のどこかで、誰かにそう言って貰えることを期待していたような気もします。ですが……実際に耳にすると、あまり良い気分にはなりませんね。やはり、罪は正しく糾弾されるべきだ」
「そこは素直に〝有難う御座います〟つっときゃいーだろ、ただでさえ敵が多いんだからよ」
「お前も喜んでいるようには見えないが?」
「ほっとけ」
二人のやり取りに、ステラが口に手を当てくすくすと笑った。
それから一呼吸置いて、再び、二人に深く頭を下げる。
「――あの子達を、宜しくお願いします」
*
そして、事件からちょうど一ヵ月後の朝。
一段目へと続く崖の前に、五人の人影があった。うち二人はフードの付いた白いマント姿で、二人は使い古された雨合羽を纏い、残り一人は傘を差して、それぞれ雨を凌いでいる。
「挨拶は済んだのか?」
「はい! っていうか、そもそも挨拶する人なんてほとんど居ないっていうか……」
「寂しいなぁオイ」
言いながら、バレッドが停めてあったものに被せていた布を取り払った。
おおよその形は一般的な四輪自動車だが、車輪はかなり小さめ。運転席にはハンドルがあるだけで、ブレーキやアクセル、ギアレバー等は無い。
車道が存在しない二段目で育った二人は、普通の車でさえ実際に見たことはなく、リアとラクアは、その乗り物に釘付けになった。
「なんですかこれ!?」
「スカイモービルっつって、二段目と一段目を行き来する為の交通手段の一つだ。下りてくるだけなら身一つでもいいんだが、上りはそうもいかねーからな」
「身一つで平気なのは、戦士族の中でもお前のような数少ない筋力馬鹿ぐらいのものだろう。……真似はするなよ」
呆れて言うウォレアの言葉の末尾はリアに向けられていた。
言われなくともそんな危険なことをする気は毛頭ないとリアは素直に頷き、バレッドはつまらなそうに口を尖らせる。
「それじゃあ二人とも、気をつけてね」
「はい、おばさんも元気で」
ラクアは見送りに来ていたステラと軽く抱き合って別れを惜しむ。リアは順番を待っていられないとばかりに、二人に両腕で抱きついた。
「ママっ! あたし、手紙書くからね!」
「ありがとうリア。……でもその手紙、どうやって届けるの?」
「あ」
すっかり失念していたらしいリアの間抜けな声を聞いて、バレッドが笑い混じりに答える。
「手紙なら、暗行御史に頼めば届けて貰えっから安心しろ」
「あめんおさ?」
「簡単に言えば、二段目専門の見回り役だ。君たちのことも知っている筈だぞ」
「え、じゃあ今までにも、一段目の人が此処に来てたってことですか? でも、魔族や戦士族が歩いてたら目立つ気がしますけど……」
「暗行御史を担うのは人間だ。その上、彼らは周囲に溶け込むのが上手い。君たちが気付かなかったのも無理は無いだろう」
スカイモービルにリアとラクアの荷物を載せて、ウォレアが運転席に、その隣にバレッド、後ろにリアとラクアが座った。
エンジンが音も無くかかると、その車体がゆっくりと上昇して地面を離れる。リアは窓から身を乗り出してそれを目で確認すると、「本当に飛んでるー!」と嬉しそうにはしゃいだ。
「いってらっしゃい、二人とも。大きな怪我だけはしないように気をつけるのよ?」
「はーい!」
「行ってきます」
そうして地上に一人を残し、四人を乗せたスカイモービルは灰色の雲海の先へと向けて飛び立った。
やがてその姿が白いベールに覆われて消えるまで、ステラは四人を見送る。
その胸中に、他の誰も知らない、彼女だけの想いを秘めながら。