1-② 異形の化け物と二人の男
「ぐあっ……! ――げほっ、がはっ……、はぁ、はっ……」
ばしゃん! と盛大な水しぶきを上げて、ラクアの体は国境線の河へと落下した。
子供の腰ほどの水位の浅い河、そこに背中から入水したラクアは、魔獣に甚振られてボロボロになった身体を起こす。
僅かに見えた勝機は一瞬で葬り去られてしまった。坑道内から出てくる化け物を目で捉えながら、ラクアは顔を歪める。
今なら逃げられるだろうかと、ラクアは視線を坑道近くの階段へと移した。だがその為には、敵の攻撃を掻い潜り、かつ敵に追いつかれる前に階段を上りきる必要がある。
地上から居住地までの高低差はおよそ二十メートルほど、その距離を駆け上がるとなると、ラクアの足ではどう頑張っても十数分はかかる。敵がその間大人しく待っていてくれる筈がない。上っている途中で破壊されてしまえば地上へ真っ逆さま、恐らくは死ぬだろう。
それに、運よく上りきれたとしても、リアを置き去りにすることになってしまう。それだけはラクアには出来なかった。
(考えろ……どうすればいい……? 何か切り抜ける方法を考えないと……)
先程の鎌鼬のような現象、あれは自分が起こしたものだという確信が、ラクアにはあった。過去に同じ事が無かった訳ではないからだ。
ただ、自分でやろうとしてやったことではない。故に、再現しようとしても、その方法がわからない。
「グオォォオオォオォオオオオオオ!!」
化け物の咆哮がビリビリと大気を震わせて、その巨躯が迫る。
ラクアは一か八か河底の石を掴むと、それを全力で敵へと投げつけた。
見事その石は敵の顔面にヒットしたが、全く効いた様子はない。
化け物が勢いを殺すことなく接近し、腕を振り上げるのを見て、死を直感したラクアはたまらず両目を塞いだが――、
その腕がラクアを傷つけることはなかった。
「ああああああああああああっ!!」
甲高い雄叫びが聞こえたと思ったら、突然化け物の身体は前のめりになって、ラクアの頭上スレスレを飛んでいった。
そのまま河向こうの壁面に激突して、落石を伴って地面に落ちる。
化け物を追っていた目をぎこちなく元に戻すと、そこには肩で息をするリアの姿。
「リア……、今の、お前がやったのか……?」
リアは応えず、ぜぇはぁと荒い呼吸を繰り返しながら、じっとラクアを睨みつけていた。
否、正しくはラクアではなく、ラクアの背後でゆっくりと起き上がる魔獣を睨んでいた。
自分を心配そうに見つめてくるラクアには目もくれず、リアは身を僅かに屈めたかと思うと、撃ち出される弾丸のような勢いで化け物に飛びかかった。
「グオォアアァアアアアアアアアッ!!」
「アァァアアアアアアアアアアッ!!」
互いに雄叫びを上げながら、リアと化け物は己の拳を打ち出す。
どちらもその動きは獣じみていて、人と化け物の戦いというよりは、化け物同士の殺し合いに見えた。
殴り殴られ、交互にその身体を壁やら地面やらに叩きつけ合い、赤と紫の血が辺りを染めていく。
ラクアはその攻防を呆然と見ていることしか出来なかった。
先程まではリアのことを心配する余裕もあったが、今のリアを見ていると、湧いてくるのは心配よりも恐怖。
皮膚を裂かれ、肉を抉られても、リアは攻撃をやめようとしない。痛がっている様子すらない。
ラクアは震える声で呟いた。
「リア……、お前、何で笑ってるんだよ……?」
歯を剥き出しにして、目を爛々と輝かせるリアは、確かに笑っていた。
化け物と自分の血に塗れながら、玩具で遊ぶ子供のような無邪気さで化け物に襲い掛かるその姿は、狂気としか言いようがなく――
「もういいっ! やめろリア!」
リアがそのまま別人のように変わり果ててしまうのを恐れたラクアは叫んだ。
だが、依然としてリアはラクアを無視し、ただひたすら目の前の化け物に挑み続ける。
「やめろって……どうしたんだよお前……! 頼むからもうやめてくれ……!」
痛みと恐怖と困惑に思考が蝕まれていく。
ラクアはなけなしの力を振り絞って叫んだ。
「やめろって!! 言ってるだろ!!」
直後、風切り音と共に、化け物とリアの身体の至る所が裂けた。
痛みに呻いた両者はぴたりと殴り合いをやめて、ラクアを見る。
「え……、あ……、違……今のは……、リアを傷つけるつもりは……」
しどろもどろのラクアを、リアと化け物はただじっと静かに見つめて――どちらからとも無く駆け出した。
敵意が自分に向いたのを感じ取ったラクアは、無駄だと分かっていても、恐怖心に駆り立てられて逃げ出す。その頭上から、
「しゃがめ小僧!!」
見知らぬ男の声が降って来た。
ラクアはそれが誰なのか、何のための指示なのかわからないまま、それに従った。
倒れるように身を屈めたラクアの頭上を、猛スピードで何かが横切る。それはラクアに迫っていた化け物とリアの身体を吹き飛ばした。
残り一メートルほどまでに詰められていた彼我の距離はリセットされ、一人と一匹は遥か遠くで着水。
それより早くに、ラクアの傍に声の主が降り立った。
「よう、言いつけを守る良い子で助かったぜ。おめーは流石に骨がイッたらヤバいだろうからな」
リア達を吹き飛ばした正体――ピアノ用のハードケースのようなものを携えながら、笑い混じりに言ったのは、やはりラクアの知らない男性だった。
歳は二十歳かそこらだろうか、ワインレッドのジャケットとカーゴパンツ姿という、ラクアには見慣れない服装。鼻筋にはそばかすと裂傷の痕。そして、バンダナの巻かれた短くボサボサの〝赤髪〟。
「リアと同じ……」
「リア? あっちで喚いてる嬢ちゃんのことか?」
そう言う男の目は、再び自分たちに向かってくるリア達の姿を捉えていた。
男に吹き飛ばされたせいで、ラクアと同じく頭から水を被ってしまったリアは、元の赤に近い髪色になっている。
ラクアは自分の髪――黒い染色剤が落ちて僅かに青色が覗いている髪を一瞥して、今一度男を見た。
「あの嬢ちゃんは〝戦士族〟か? 聞いてた話と違うが……まぁどうとでもなるか」
男はピアノケースを下ろすと、留め金を外して蓋を開けた。
出てきたのはピアノ、ではなく、抜き身の大剣。
サバイバルナイフを巨大化したかのようなその大剣を片腕で軽々と持ち上げると、男は化け物に向かって駆け出した。
「えっ、ちょっ、待ってください! リアは――!」
「わぁってるから大人しくしとけ!」
互いに相手目掛けて突進していた男と化け物は、衝突の寸前で互いに腕を振るった。
化け物の鋭い爪が男の大剣を捕らえたが、男はそれをものともせずに薙ぎ払う。
体勢を崩した敵の懐に大剣を突き立てて、柄に付属している引き金を引き絞ると、発砲音と共に刃の先端から火花が散った。
血飛沫を上げながら数歩後ずさる化け物に男は追撃しようとするが、その脇からリアが飛びかかる。
「痛って! おいおい邪魔すんなよ嬢ちゃん」
「ウーッ! ウゥーッ!」
男に首根っこを捕まれたリアは、狂犬のように唸りながら宙吊りになって暴れる。
「バレッド!」
「おいウォレア! この嬢ちゃん何とかしろ!」
男、もといバレッドはリアを掴んだまま、振り下ろされる化け物の腕を躱すと、第三者の声の上がった階段の方へ向かってそんなことを叫んだ。
そこには、碧く長い髪を持つ、また別の男性の姿。
「一人で先走っておいて、状況の説明も無しにそれか?」
「んなもん見りゃわかんだろ!」
バレッドは三度突進してくる化け物を見据えながら、ウォレアと呼んだ男へ向かって、あろうことかリアを放り投げた。
放物線を描いて宙を舞うリアに向かって、ウォレアは腰に提げた鞘から細身の剣を抜くと、その切っ先をリアに向けて叫ぶ。
『 捕縛せよ! 』
「は?」
何て言った? と首を傾げるラクアにはウォレアの奇行の意味がわからなかったが、その足元が不意にボコボコと音を立てて、まるで沸騰した湯のように波打ち始めたのを見て目を剥いた。
そして地面を割って伸びてきた大量の蔓は、鞭のようにしなりながら、着地したリアの肢体に群がって、彼女を締め付ける。
自由を奪われたリアは当然暴れたが、蔓はぎちぎちと音を立てるだけで、千切れそうに無い。
「君を傷つけるつもりはない、だから大人しくしてくれ。あまり暴れると、君の身体に傷がつく」
相手を案じる声色でそう宥めるウォレアに対し、リアは聞く耳持たず、といった様子で、蔓の中でもがき続ける。
ウォレアは溜息の後、もう一度切っ先を向けて、
『 痺れろ 』
短く唱えた。すると、バチィ! という激しい音の後、リアが痙攣を起こして静かになった。
「りっ、リア!?」
リアを心配すればいいのか、ウォレアを心配すればいいのか決めかねていたラクアは、地面に伏して動かなくなったリアに慌てて駆け寄る。
遠目には完全に沈黙したように見えたが、意識はまだあったようで、リアは動かしづらそうな手で尚も抵抗を試みていた。
「彼女は君の友人か? ラクア・ベルガモット君」
傍らでその様を見下ろしていたウォレアに、突然名を呼ばれたラクアは驚く。
「家族ですけど、貴方は……? どうして俺の名前を?」
「家族?」
ラクアの疑問には答えず、ウォレアは怪訝な顔で問い返した。
何やら納得いかないところがあるらしい。顎に手を当てて潜考するウォレアを、ラクアは改めて観察する。
バレッドは雄々しい雰囲気があったが、ウォレアは線の細い美人――男にこの表現を使うのが正しいのかは知らないが――だった。髪と同じ澄んだ碧色の双眸は鋭く、青色のカラマニョールを崩さずに着ていることから、厳格な印象を受ける。キューティクルが痛み放題のリアやラクアと違い、毛先まで手入れの行き届いた長髪は、青いリボンで一つに纏められており、格式ばった口調や振る舞いからは、育ちの良さが窺い知れた。
まじまじと見つめるラクアの視線の先で、ウォレアは「なるほどな」と一人ごちる。
「君は、彼女の家に引き取られた養子の身――ということだな?」
「えっ!?」
「……違ったか?」
「い、いえ……、その通りですけど……何で……」
何の手がかりもなくどうしてそこまで分かるのだろう、というラクアの疑問に、ウォレアはやはり答えてはくれなかった。
「悪いが今は状況が悪い、私は先にアレを何とかしなければ」
「何とかって、あんな化け物相手にどうやって……」
「案ずるな、慣れたものだ」
ウォレアは抜き身の剣を携えて、交戦中のバレッドと化け物の元へ駆ける。
水を掻き分けて進むその足音を聞いて、バレッドはその視線を化け物に固定したまま、ウォレアの隣まで後退する。
「遅ぇよ」
「それは悪かったな、貴様があの少女を気絶させてくれさえ居れば、すぐに来れたんだが」
「鵺族相手にンな余裕あるか」
化け物の腕が振り下ろされ、二人はそれぞれ左右に跳躍して避ける。
「仕留められそうか?」
「……ちまちま斬ってりゃそのうち首が落ちるかもな」
「……非効率極まりないな」
「いちいち嫌味な言い方すんな! 囮役は買ってやるから、とっとと終わらせろよ!」
バレッドは再び特攻。風を切って大剣を振るい、先ほどから集中して狙っているらしい化け物の喉元に斬りかかるが、傷口から溢れた血はものの数分で止まり、裂けた皮膚も周囲の肉が盛り上がるようにして塞いでしまう。
その体格差故に宙を舞って攻撃していたバレッドは、痛みに暴れる化け物の攻撃を剣の腹で受け止めるが、衝撃は逃しきれずに、坑道がある方――自国側の岸壁へ叩きつけられる。
「ったく、そのめちゃくちゃな回復力は羨ましい限りだな。こっちも半分は同じはずなんだけど、よっ!」
息つく間もなく追撃してこようとする化け物に悪態を吐きながら、バレッドは跳躍し、大剣の切っ先を地面に向ける。そのまま数回発砲し、その反動で自らは上へ。
コンマ数秒後、先程までバレッドが背を預けていた岸壁に、化け物の拳が衝突した。
「ウォレア! まだか!?」
激戦から数メートル離れた場所で佇んでいるだけで動きの無いウォレアに、バレッドが叫ぶ。
「急かすなら貴様も少しは知恵を貸したらどうだ?」
「そりゃテメェの役割だろーが!」
身を翻したバレッドは、化け物の頭を足場にして更に跳躍。振り返った化け物の顔面に弾丸を撃ち込んで着水。一人と一匹の戦場は再び水場へと移った。
「蔓で動きを封じるのは難しいだろうな……、焼くにしても濡れている状態では火力が……、水を使ってどうにか……」
ウォレアは思考を纏めながら、陸に上がってラクアの近くへ戻る。
バレッドの人間離れした動きに口を半開きにして呆けてしまっていたラクアは、傍に膝をついたウォレアに目を瞬かせる。
「すまない少年、君の源素を貸して欲しい」
「源素……って、何ですか?」
「後で説明する。――手に意識を集中させて、目を閉じて数回深呼吸してくれ。吐くときはなるべく長く、ゆっくりと」
ウォレアは言うなりラクアの片手を取って、掌を重ねるようにして握り締めた。
「それって何の意味が……」
「頼む、あまり時間がない」
ウォレアの真剣な表情に、ラクアは疑問をぐっと飲み込んで、それに従った。
大きく息を吸い込んで、ゆっくりと時間をかけて吐き出す。吐ききったらもう一度。
三回ほど繰り返したところで、ラクアの視界が眩んだ。
「あ……れ……? なんだ、急、に……」
次いで、全身を襲う疲労感。そのまま前に倒れこんでしまったラクアを、彼の手を解放したウォレアが受け止める。
「借りた分は利子をつけて返そう、今は休んでいてくれ」
気を失ってしまったラクアを地面に寝かせると、ウォレアは立ち上がり、切っ先を化け物の頭上の空へ向ける。
「バレッド! 一度水場から離れろ!」
「やっとかよ」
化け物の振るう腕を掻い潜りながら、バレッドは河の中央からいち早く脱出する。
それを追おうとする化け物に向かって、ウォレアが数十メートル離れた場所から、剣を振り下ろした。
『 落雷 』
瞬間、空を覆っていた雲の一部が黒く染まり、稲光が地面に向かって伸びる。
それは化け物の身を焼き、爆発でも起きたかのような凄まじい轟音と共に、化け物の絶叫が響き渡った。
水に塗れていた化け物の身体に、雷撃の威力は絶大だったようだ。
黒コゲになった化け物は、それでもまだ心の臓を壊されてはいないようで、血走った両目を見開いてウォレアを睨む。
「……他の魔獣であれば今ので落とせただろうが、流石にしぶといな」
だが、ウォレアはそれを予見していなかった訳ではない。
ずしん、ずしんと重い足取りで向かってくる化け物に、ウォレアはどこか悲哀の混じる顔で、再び切っ先を相手に向けた。
「終わりにしよう。……どうか私を恨んでくれ、名も知らぬ御仁よ」
目を閉じて呟き、瞼を上げた頃には、元の険しい表情。
『 ――絶対零度 』
化け物の動きが止まった。否、強制的に止められた。
化け物を中心に、河はみるみるうちに凍りついていく。その凄まじい冷気は、岸壁に退避していたバレッドにまで届く。
「痛っっってぇ!! 範囲調整しろハゲ!!」
「誰がハゲだ。――これで首を落とし易くなった筈だ、任せるぞ」
「……別にわざわざ落とさなくても、そのままやってりゃ死ぬんじゃねーの?」
身体のいたるところから血を溢れさせる化け物の氷像を見ながら、バレッドが剣を構えた。口でそう言いながらも、ウォレアの言に従うつもりらしい。
「あまり長く苦しませたくは無い」
「わーったよ」
攻撃をやめたウォレアに代わって、バレッドは皮膚が凍るのを厭わず、化け物に歩み寄る。
「人殺し同士、機会があったら地獄で会おうぜ、恨み言はその時にな」
そして、今度は一撃で、化け物の首を切り落とした。