1.辺境の地の少年少女
分厚い雲に覆われた灰色の空の下を、少女が歩いていた。
彼女の足下には水に浸かった大地があり、彼女はその上に架けられた木造の橋を進む。後ろには、彼女の足跡を辿るようにしてついてくる少年の姿もあった。どちらもまだ、幼さの残る顔立ちだ。
今にも降り出しそうな雨を凌ぐ為なのだろう、二人は揃って雨合羽を着ている。ただし付属しているフードは被らずに、二人して黒く短い髪を曝け出していた。
暫し無言で歩を進めていた二人だったが、不意に後ろから駆けてきた少年たちが、
「やーい化け物コンビ! 人間に化けてないで、さっさと谷に帰れよ!」
すれ違いざまにそんな言葉を吐いたのをきっかけに、その沈黙を破った。
「うるさいっ!」
少女が叫ぶと同時に、彼女の足下の木板がバキィ! と音を立てて割れた。
正確には、彼女が踏み抜いたせいで、橋の一部が壊れた。
粗末な造りではあるが、それでも子供の脚力で壊れるような脆さではない。
少年達は目の前の光景に怯みつつも、冷やかすのをやめなかった。
「ほっ、ほらみろ、やっぱり化け物だ!」
「関わると殺されちまうぞ! 早く逃げよーぜ!」
言うだけ言って逃げ出す少年達を、少女が追いかけようとしたが、
「もうやめとけ、リア」
成り行きを静観していた少年に肩を掴まれて、悔しげに少年達の後姿を睨むだけに終わった。
そうして発散できなかった怒りをぶつけるように、リアと呼ばれた少女は少年に食いかかる。
「なんで止めるの!? ラクアは悔しくないの!? 腹立たないの!?」
「腹立つし悔しいけど、お前がそうやって怒ると余計に調子に乗るだろ、あいつらは」
「怒らなくても調子に乗ってるじゃん!」
「それでも放っておけば、そのうち勝手に飽きてやめるさ」
リアはむむむ、と頬を膨らませたが、やがて納得したようにそれを萎ませた。
「はぁ……。わかったよ、我慢するよ……」
「えらいえらい。――さてと、それじゃ雨が酷くならないうちに帰るぞ」
ぽつりぽつりと振り出した雨を見ながら、少年――ラクアはリアに言う。
「はぁい」と気落ちしたリアの返事を聞いたラクアは、彼女の手を引いて歩き出した。
*
リアが「随分と力の強い子だ」と初めて言われたのは、彼女がまだ生まれたばかりの赤ん坊だった頃。
最初は〝周囲に比べて逞しい〟という程度でしかなかった筈のそれは、彼女の成長と共に力を増していった。一つの長所として扱われていたのは、物心がつく前までの話だ。
やがて大人ですらも打ち負かすほどの怪力を得た彼女は、周囲に恐れられるようになった。同世代の子供も、その保護者たる大人も、誰も彼もが彼女を避けるようになった。
一方で、ラクアは生まれた時から、「随分と力の弱い子だ」と言われ続けてきた。
男児とは思えぬほどの力の無さは、リアはもちろん他の女児にすら及ばず、彼はずっとそのコンプレックスを抱えて生きてきた。
そのせいで虐められていた事もあったが、今の彼にとっては取るに足らないことかもしれない。
彼をより苦しめたのは、その後突然湧いて出た〝不気味な力〟だったのだから。
*
「ただいまー!」
ログハウス、といえば聞こえの良さそうな造りの簡素な平屋に駆け込んだ二人は、入り口で雨合羽を脱いで、その水滴を払い落とす。
リアが居間に向かって叫ぶと、ぱたぱたと駆けて来る音と共に、彼女の母親が顔を出した。
黒い髪をシニヨンに結い上げたエプロン姿の母は、二人の姿を見てにっこりと微笑む。
「おかえり二人とも、濡れてない?」
「大丈夫です」
水気を切った雨合羽をハンガーに掛けて吊るし、きちんと長靴を揃えて脱ぐラクアと対照的に、リアは服も靴も脱ぎ散らかして上がる。
脱ぎ散らかされたそれを何も言わずに整えるラクアをよそに、そそくさとリビングに向かうリアを、母が呆れた顔で見つめた。
「リア、なんでもラクアくんに任せてちゃだめよ?」
「だって、ラクアが勝手にやってくれるんだもん」
「貴方がやらないからでしょう? そんな事じゃ、ラクア君が居なくなった時に困るわよ?」
「えっ、ラクアどっか行っちゃうの!?」
母としてはもしもの例えだったのだが、真に受けたリアはその疑問をラクアにぶつける。
特に今そんな予定がある訳ではないラクアは少し考えて、
「……今すぐではないけど、ずっとここに居るかもわからないからな」
そう答えた。リアは「なんで?」と首を傾げる。
「この家嫌い?」
「いやそれはない。でも、何かの理由で一緒に居られなくなる事だってあるかもしれないだろ」
「何かの理由って?」
「大人になったら働かなくちゃいけないし、勤め先によっては遠くに行くことになるかもしれないし」
「えぇ~? あたしラクアがどっか行っちゃうの嫌だよ~、なんならパパと同じとこで働けばいいじゃん! あそこならここから通えるでしょ?」
「あ、そうそう、そのパパのことなんだけどね」
二人のやり取りを微笑ましく見ていた母親は、リビングのテーブル前に座った二人に、淹れたての紅茶を振る舞いながら切り出す。
「今朝、傘を持っていくのを忘れちゃったみたいなのよ」
「あちゃー、パパってば相変わらずそそっかしいなぁ。――熱っ!」
「お前が言うなよ」
紅茶に口をつけるなり顔をしかめたリアに、ラクアが苦笑交じりに言った。
彼女の二の舞にならないよう、ラクアは息を吹きかけて十分に冷ましてから飲む。
「帰ってくるまでにやんでくれるといいんだけど……、今日はまた一段と酷いわね」
「ならそれ、俺が届けてきましょうか?」
「あら、いいの? でもこの雨の中じゃ、ラクア君だって大変だわ」
「構いません。――あ、でも、これ食べてからでもいいですか?」
差し出されたフルーツケーキ――生ではなく、ドライフルーツを使っているタイプのもの――を見て、立ち上がりかけたラクアはそれを中断した。
ちなみに隣に座るリアは、早くも半分ほど平らげている。
「もちろんよ。でも、本当にいいの?」
「気にしないで下さい、いつもお世話になってるのは俺の方ですから」
「でも……」
「いいじゃんママ、ラクアがやるって言ってるんだから。おかわり!」
空になった皿を母親に突き出して、次を要求するリアに、母が再び溜息。
「リア、あなたはもうちょっとラクア君を見習ってね? お手伝いしない子にあげるケーキはありません」
「えぇっ!? なにそれー!」
「ラクア君、リアも一緒に連れて行ってくれる?」
「あたし行きたいなんて一言も言ってない!」
「わかりました」
「言ってないってば!」
――その後、結局リアの主張は通らず、ケーキを食べ終えた二人は再び外を歩いていた。
*
リアの父親の勤め先は、自宅からほど近い場所にある採掘場だ。
リア達の住んでいる場所は、大陸の端の切り立った崖の上。頻繁に降りすぎる雨と僅かに窪んだ地形のせいで、地面はほとんどが冠水していて、人々はその上に高床の家を建てて暮らしている。
道と呼べるのはその家々を繋ぐ木の板で出来た橋のみで、移動手段は徒歩か渡し舟。水に浸っていない一部の貴重な陸地は、田畑やグラウンドとして使われている。
採掘場があるのは、そんな暮らしの場がある崖の下。
そこは深く広い谷となっていて、向かい側にある隣国との国境線の役目がある。
谷にある大きな河を挟んで手前側は自国の領土なので、その河を越えない限り、何をしていても問題はない。谷では良質な資源が沢山採れることもあり、あちこちで採掘作業が行われている。
「はい、着いたよ」
雨が少し弱まった隙に無理を言って船を出して貰い、谷へ下りられる階段の近くまでやって来た二人は、あまりいい顔をしなかった船頭――その理由は、雨だけではないのだろう――に、きっちりと礼を言って船を降りた。
お世辞にも立派とは言えない柵の手前から、遥か下にある谷底を覗き込んだラクアがぽつりと漏らす。
「何度見てもおっかない高さだな……、落ちたらひとたまりもないんだろうな……」
「あれ? ねぇラクア、誰も居ないよ?」
リアに呼ばれて、ラクアは視線を谷底から階段の方へ移した。
「立ち入り禁止」の看板が掛けられたロープが、入り口を塞いでいる。いつもならその前に見張りが立っているのだが、今は無人だった。
「この雨だからな、下で休んでるんじゃないか?」
「そっかぁ、勝手に下りていいのかな?」
「確かめようもないからな。事情を話したら大目に見てくれるだろ、怒られたら素直に謝ろう」
塗れた階段で足を滑らせないように、鉄筋の手すりをしっかりと握り締めて、二人は慎重に階段を下りる。
やがて、河の畔に並ぶテントの中が見えるほどの距離まで来て、リアが再び、
「誰も居ないよ?」
「おかしいな……、今日休みなわけはないし……」
「途中で切り上げたんじゃないかな? 入れ違いになっちゃったのかも」
「いや、だとしたら途中で鉢合わせてるだろ」
階段はリア達が下りてきたものとは別に数箇所に設置されてはいるが、リア達の家に帰ろうとするのならば、リア達と同じルートが一番近い。わざわざ遠回りをする必要など無い筈だ。
とはいえ、いくつかあるテントのどれを見ても、やはり人の姿はなかった。
まるで作業の途中に人だけが消えてしまったかのように、道具などが中途半端に放り出されている。
二人が不思議な光景に頭を悩ませてると、
「だ、誰か……」
坑道の中から、そんなうめき声と共に男が現れた。
男は頭から血を流して、地面を這いずっている。ホラー映画のワンシーンのようなその光景に、
「ひっ!?」
その手のものが大の苦手であるリアが短く悲鳴を上げた。
ラクアも一瞬度肝を抜かれたが、すぐに我に返る。
「だっ、大丈夫ですか!? どうしたんですか!?」
「な……中で……、暴れて……」
男はそこでがっくりと力を無くして地面に伏した。
呼吸が止まっていないのを確かめてから、男の傍に膝をついていたラクアが立ち上がる。
「ら、ラララクア、その人……!?」
「多分ここの鉱夫さんだ。中で何かが暴れてるって言ってた……、熊でも出たのか?」
「えっ、じゃあ危ないじゃん! 他の人は!?」
「わからない……、もしかしたらまだ中に――」
居るのかもしれない、と続けようとして、坑道の奥から聞こえてきた衝撃音に邪魔された。
何かが衝突しような、爆発したような、低い大きな音。続けて、聞いたことも無い咆哮。
坑道内で反響したそれが、リアとラクアの鼓膜をビリビリと震わせる。
「これ熊なの!?」
「いや……違うかも……、何かもっとヤバい……」
ラクアが「とにかく一旦ここを離れて、誰かに知らせに行ったほうがいい」という提案を出す前に、リアは大事なことを思い出した。
「パパは!?」
「え? ――あ!」
ラクアも同じく嫌な可能性に思い至り、
「まだ中に居るかも!」
リアは言うが早いか坑道の中へと駆け出した。
「おい待てよリア! さっきの聞いただろ!? お前まで怪我したらどうすんだ!」
「あたしならどんな奴でも倒せる! 怪我だってすぐ治る!」
「すぐ治る程度の怪我で済む保障なんかないだろ!」
ラクアは止めようと必死に追いかけたが、本気で走るリアの速さについて行ける者など誰もいない。ラクアなら尚のことだ。
「リアーっ! 止まれっ、止まれって!!」
その叫びは、もうリアには届いていなかった。
リアはラクアを置いてきてしまっていることにも気付かず、道の途中に倒れている鉱夫たちの顔を、その中に父が居ないことを横目で確認しながら、一息に坑道の最奥まで駆け抜ける。
そして――
「あ……っ」
最奥に辿り着いたリアは、限界まで加速していた体に急ブレーキをかけた。
その視線の先に居たのは探していた父の姿でも、熊でもない。
見たことも無い〝化け物〟がそこには居た。
その身体はリアよりも遥かに大きく、オランウータンのように全身毛むくじゃらだった。
腕や脚は太く、掌や足先は熊とよく似ている。狼を思わせるような耳に、闘牛のような立派な二本の角もある。ゆっくりと振り返ったその目は猫のようで、口元から覗く歯はワニのそれだった。
リアはその姿から目を離せず、両者とも見つめあったまま棒立ちになっていると、
「リア!」
ようやくラクアが追いついてきた。すると、謎の怪物の視線はそちらへと移動する。
目が合った瞬間、ラクアは蛇に睨まれた蛙の如く身を凍らせた。
目の前に居るのが何であるのかを頭が理解するよりも早く、本能が身の危険を察知したのだ。
彼が全身から汗が噴き出してくるのを感じている間に、化け物はゆっくりと近付いていく。
彼の窮地に気付いたリアは、いつもそうしていたように、ラクアを背に庇うようにして立ち塞がった。
――だが、化け物はそんなリアの身体を容赦なく突き飛ばす。
背中から壁に打ち付けられて、リアの四肢が軋んだ。
「リ――」
その光景に金縛りが解けたラクアは、地面にずり落ちたリアに駆け寄ろうとしたが、その場から一歩動けたかどうかというところで、背中に強い衝撃を受けて転ぶ。
立ち上がる間もなく背に凄まじい重みを感じて、ラクアの口から音のない悲鳴が上がった。
なんとか上体を起こしたリアは、化け物の足に押し潰されそうになっているラクアの姿を見た。
助けようと地面を這って進むが、これでは間に合いそうもない。彼の胸骨がへし折られる方がきっと早い。
「ラ……クア、逃げ……っ!」
助けようとする意思に反して、体は地面から離れようとしない。
立ち上がろうと力を込めれば、電流を流されたかのような痺れと痛みが全身を駆け巡る。
――なぜ、引き留めたラクアの言うことに耳を貸さなかったのか。
――どうして、父に傘を届けに来ただけで、こんなことになっているのか。
リアの胸中に後悔や絶望が押し寄せたが、それで現状がどうにかなる訳でもない。
リアは咄嗟に近くにあった拳大の石を掴んで、痺れる腕を振って化け物の顔面に投じた。
化け物の視線がこちらを向いたのを見て、リアは続けざまに石を投げる。
リアの狙い通り、化け物は標的を再びリアに戻した。
ほっとしたのも束の間、体が自由に動かないことを思い出してリアは青ざめる。
一方で、圧迫から解放されたラクアは、咳き込みながらも肺に全力で酸素を送り、よろめきながらも立ち上がった。
蹴り倒された時に手から零れ落ちた折り畳み傘を握りなおして、化け物に殴りかかる。
「げほっ!! ――わるな、そいつに触るな……!!」
こんなものでは太刀打ちできないだろうことは理解していた。
それでも、大切な人に危害を加えようとする化け物を、ラクアは見過ごせなかった。
だが魔獣は見向きもせず、ラクアを羽虫のように振り払う。
手を振るうだけの単純な動作で、ラクアの体は5メートルほど吹き飛ばされた。
「……めろって、言ってるだろ!!」
それでも立ち向かおうとするラクアは、再び傘を大きく振りかぶって――魔獣に向かって投げた。
瞬間、ヒュと空を切り裂く音が鳴って――化け物の体に無数の裂傷が走った。
「グオォォオオォォォオオオオオオオオ!!」
「えっ!?」
攻撃をした側のラクアも、それを見ていたリアも、意図しない威力に目を点にする。
だが、やっと化け物にダメージを与える事が出来たという事実に、二人の顔が僅かに笑みが浮かんで――
それはすぐに消えた。
「グォァアアアア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!」
紫色の鮮血を辺りに撒き散らしながら、化け物はラクアの体を鷲掴むと、野球ボールの如く投げ飛ばした。
凄まじい咆哮を上げながら、魔獣は怒り狂った様子で、外に向かって飛んでいったラクアを追走する。
ズシンズシンと響き渡る足音は大地を震わせ、時折ぐしゃり、と嫌な音を立てた。何の音なのかは、魔獣の通った後に出来た死体の有様が物語っている。
坑道内は一瞬で地獄と化した。一瞬でも勝利を想像したリアは、その光景を呆然と見ていた。
つぅ、と、地面に伏せる自分の下に、誰のものとも分からない血が流れてくる。
袖口からじわじわと赤く染められていく自分の服から、目が逸らせない。
「……っあ、あぁ、ぁああぁあ……!」
心臓が早鐘を打っていた。鼻を衝く鉄の匂いと、生温かい鮮やかな赤色と、化け物が暴れる音がリアの五感を支配する。
その中で、微かにラクアの悲鳴を聞いたリアは――
「や……めて……、やめて……、やめてよおおぉぉぉおおおおおっ!!」
身体の痛みも忘れて、猛然と、その声の方へと駆け出していた。