プロローグ
雨が窓を叩く音に呼び起こされ、私は顔を上げた。
今、自分の意識がどこへ行っていたのか全く思い出せない。転寝でもしていたのだろうか?
視界にある木造の机の上には、手書きの資料や折り紙が置かれている。誰のものだろう? と首を捻ってすぐに、
「……ああ、私のものだ」
己の勤め先のものと、娘からのプレゼントであることを思い出して、そんな独り言を零した。
ここのところ、どうにも物忘れが激しい。それほど若くはないが、そんな悩みを抱えるような歳でもないというのに。まあ、抜けているのは今に始まったことではないのだが。
脳に悪い部分でもあるのだろうか、と私は一抹の不安を感じた。もしそうだったとしても、私の住むこの場所には、それを治療できるだけの施設はない。最悪死んでしまうようなことがあれば、妻や子供達はどうなってしまうのだろう。
険しい顔で考え込んでいると、雨音と重なって、部屋の戸をノックする音が聞こえた。
そして私が応えるより早く、扉が開け放たれる。
「パパ! 夜ご飯できたって!」
明るい声色でそう告げる娘の姿に、私の眉間に寄っていた皺は自然と緩和された。
「リア、ノックしたところまでは良かったけど、了承得る前に開けてたら意味ないだろ?」
「えー? いいじゃん別に、ラクア堅すぎ」
歳の同じ息子とそんなやり取りをする娘に、沈んでいた心が浮上していく。
私は二人に微笑みかけて、すぐ行くよ、と返した。娘は「すぐだからね!」と念押しして、満足そうに去っていく。
「邪魔してすみませんでした、おじさん。仕事中でしたか?」
「いや、気にしなくていいよ。ぼーっとしていただけだからね」
「こらリア、まだ食べないの!」
リビングから妻の声が聞こえて、息子は先んじてそちらへ向かった。つまみ食い癖の直らない娘を止めにいったのだろう。
私はドアノブに手をかけて、一度机を振り返った。資料も折り紙も、誰のものなのかちゃんと覚えている。
けれど、その光景がどうにも馴染みのないものに見えて、その違和感にぞくりとした。まるで他人の部屋に上がりこんでいるかのような気分だ。もう長いこと此処に住んでいるというのに。
……長いこと、住んで、いるよな?
「パーパー! まだ~?」
再びどこかへ引き摺り込まれそうになった私の意識を、娘の声が掬い上げた。
いい加減我慢の限界らしい。私は苦笑しながら、後ろ手に部屋の戸を閉めた。
とりあえず、今の仕事が一段落したら、一度しっかり休もう。脳の異常を疑うのはそれからだ。
子供達ももうじき年度末で学校が休みになる、久しぶりに家族サービスでもしようかなどと考えながら、私はリビングへと向かった。