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遠い手

 少し前を歩く彼の、歩様に合わせて揺れる手を見ていた。

 相変わらず、がっしりとしていて大きい。爪は綺麗に切り揃えられて、心なしか磨かれているようにも見える。

 初めて彼の手の大きさを実感したのは中学二年生の時。音楽会で、ピアノを弾く手を見た時だ。

 それまではイメージ的に、ピアノを弾く手はほっそりとしているものだと思っていた。

「すごく手が大きいんだね。それに、しっかりしてる」

 彼は笑いながら、

「ピアノの鍵盤って重いんだよ。お前の手じゃあ……エレクトーンのほうがいいな」

 私の手を見ていった。

 ただでさえ二十センチ以上私より背の高かった彼の手は、なんでも掴めそうに思えた。

 それも十五年以上前の事。

 再会は偶然。元同僚と行った地下にある、ちょっと大人っぽいバーで彼がピアノを弾いていた。

 すぐに彼だとはわかったが、様子はずいぶんかわっていた。

 ひょろ長い体からは肉がそげ、もやしみたいだったのが、貝割れ大根みたいになっていた。ピアノの前に座っていてもあの頃のうれしそうな、楽しそうな表情ではなく、どこか哀愁が漂っていて、バーの雰囲気に溶け込んでしまっていた。

 話し掛けると覚えていてくれたみたいで、仕事のない日に飲みに行こう、となった。

 で、今日にいたる。

「今、何をしてるの?」

「美容師だよ」

「へぇ……えらいね」

 まっすぐ見つめる目にどきどきしながら、私はガサガサの手をテーブルの下に隠した。

 実は別に全然偉くない。

 実家が美容院だから、美容師になった。学校を出て五年は、修業ということで勤めに出て、その後実家で働いている。

 おかげで出会いは一切なく、かといってなんだか焦る事もなく、のほほんと毎日暮らしている。

「結婚とか、してないの?」

「俺?してたよ」

 大きな手がジョッキを湯飲みのように見せる。

「へぇ……なんか意外だね」

「意外?」

「うん、添い遂げそう」

「添い遂げるって……なんか、古風だね」あんまりまっすぐ見つめる目と大きな手に、続きを聞く事ができなかった。

 ……今は一人なの?

「じゃあ」

「あ、うん」

 開いたタクシーのドアの前で、彼は振り返った。そして笑いながら、大きな手で私の頭を掴むと、くしゃくしゃと髪を撫で、

「また休みが合ったら飲もうぜ」といった。

 私はひとしきり騒いで、タクシーに乗り込み、見送ってくれる彼が見えなくなるまで振り向いていた。


「はあ……」

 リビングでねっころがり、自分の手を蛍光灯にかざして眺めていた。

 シャンプーや洗剤で荒れている。クリームやパックやいろいろ試してはみたが、頑固なまでにガサガサだ。柔らかい爪は、あまりにも薄くて磨く事もできない。

「何ため息ついてるの?」母がエプロンで手を拭きながらやってくる。

「お母さん、手、見せて」

「ほい」

 目の前に突き出された手は、歳をとって、しわがあるが、柔らかく手荒れしていない。

「なんでさあ、おんなじ仕事してるのにこうも違うの?」

「あんたの手はお父さんにそっくりだからねぇ。ねぇ、お父さん」

 母は壁にかかった遺影に話かける。

(そこが似てるんですか……)

 小学生の時に他界してしまった父の手を思い出せない。結構遊んでもらったはずなのに……

「ん……?」

 何か大切な事を思い出せそうだったのに、インターホンが鳴って飛んで行ってしまった。

 彼と会えたのは二週間後で、だいぶ秋らしい涼しい風が吹いていた。彼の勤めるバーの近くで飲んだ。


「秋らしくなって来たよね」

「ん?ああ……俺は寒いの苦手だなぁ。秋も好きじゃない」

 なんだか、元気ない。私はなるべく明るく言ってみる。

「でも、芸術の秋っていうじゃない。いいなぁ、ピアニストは」

「ふっ……俺レベルじゃあ、芸術なんて追究できないよ。食べる事のほうが優先」

 うっ。

 励まそうと思ったのに、失敗した。

「季節はいつが好きなの?」

「私は冬」

「なんで?」

「さぁ……なんでだったかなぁ」

「きっぱり言い切ったわりに理由ないの?」

「うっ」

 何かを思い出しそうだったのに、思い出せなかった。

「まぁ、それだけ裸でもお洋服着てたら寒くないよな……」

「裸でも……?」

「お肉……」

 私は騒ぎながら文句を言った。本当はあんまり腹がたってはいなかった。彼が笑うと、うれしかった。

 タクシー乗り場に向かう途中、彼はぽつりと聞いた。

「中二の時のさぁ、音楽会の前に、俺に大きな手だって言ったの、覚えてる?」

「うん。ピアノよりエレクトーン向きだって言われた」

「その後、俺に言った事、覚えてる?」

「覚えて……ない、かな。ごめん」

「あはは。謝らなくていいよ」

「なんて言った?」

「好きです、付き合って下さい」

「嘘っ?!」

「……ってほど深刻な事じゃないから」

 はぐらかされて、タクシーに乗せられる。

 彼はこの間と同じように、いつまでも手を振っていた。貝割れ大根が揺れているようだったし、口元が、

「バイバイ、ありがとう」と動いた気がしたけれど、元気になったみたいなので安心した。


「今年は灯油が高そうだ」

 母が新聞を遠ざけて読みながら、ぽつりと言った。

「冬……手荒れがひどくなるけど好きなんだよね」

 私もぽつりと呟くと、母は懐かしそうに笑った。

「全く同じ台詞をお父さんも言ってたわ」

「へぇ……お父さんはなんで冬が好きだったのかな」

「あんたと手が繋げるから」

「え?」

「手荒れを気にしないであんたと手が……」

 ――思い出した。

 見るからに引っ掛かりそうな程に荒れた手。

 小さな頃、父はあまり手を繋いでくれなかった。だが、冬の間だけは、手を繋いで歩いた。手袋越の大きな手。

 子供心にわかっていた。あのあかぎれやひび割れは、仕事をしている勲章なんだ。

「お父さんはどうしておててが大きいの?」

「それはお前やお母さんの幸せを掴むためだよ」

 安心だ。

 お父さんの手は、とっても大きい。私たちはずっと幸せでいられる……

「ああっ!!」

 母の回想話をそっちのけで、大声を出した。

「びっくりするでしょう!」

「思い出した、思い出した」

 私は慌てて彼に電話するが、電波が届かない。

「いかなきゃ。ちょっと出かけてくる」

「明日も店があるんだから、早く帰ってきなさいよ……」

 追いかけてくる母の言葉に生返事で、私は彼の仕事場へ向かった。

 地下への階段を下りていく。

 店に入ってもピアノの音がしない。少し嫌な予感がする。

「ああ、辞めましたよ」

「……」

 カウンターに力なく座り、お酒を頼んだ。

 ほんの十日程前に会ったのに。でもあの時、

「バイバイ」って口が動いた気がした。

 思い出した。中学二年生の私は彼に言った。

「それだけ手が大きいと、たくさんの人の分の幸せを掴んであげられそうだね」

 父に言われた言葉だと説明した時、彼は関心したように、

「へぇ……」といいながら自分の手を、見つめていた。少し笑って、誇らしげに。

 グラスを握りしめた手に、水滴が滲みて痛かったけど、そのままにしていた。

 もし、あの日に答えられていたら、思い出していたら、彼は今もここにいたのだろうか。彼にとっては、どちらが正解だったのだろう。

 答のない疑問は心の奥に生まれて、日常に埋もれていく。

 彼がどこに行ったのかもつきとめないまま、季節だけが流れて行った。


「なんか外国から小包来てるよ」

 仕事が終わって、ヘアカラーの着いたゴム手袋を洗っていると、母が包みを眺めながら言った。

「開けてみて」

「お母さん開けていいの?」

「うん、今手離せないから」

 かさかさと紙袋をひらく音。続いて母の歓声。

「まぁなんて綺麗な……」

 手を拭きながら見にいくと、テーブルに置かれた美しいレースの手袋が目に入った。

 同封された一枚の写真。

 大きな手を振っている、貝割れ大根のような彼と一台のオンボロのピアノ。それを囲むよく日焼けした掘りの深い子供たちも、みんなこちらに手を振っている。

 裏にはメッセージ。

『こちらには冬はありませんが、素敵な手袋をみつけたので送ります』

 続きを読み進めて、ちょっと涙が出そうになって、奥歯を食いしばった変な顔を、

「あんた、なんて顔してんのよ」とからかわれた。

「うるさいなぁ」

「ね、あの手袋、お母さんに……」

「あげません。さ、早くタオル干しちゃってよ。私も奥、片付けちゃうから」

 こっそりポケットに写真をしまった。

 メッセージはこう続く。

『僕はここで、子供たちの幸せを掴む。君の小さな手が僕の背中を押してくれた』

 お父さん譲りの私の手は、今日も頑固にガサガサしていた。


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