美しい手
この小説は完全なフィクションです
僕の彼女は手フェチである。
まず第一に自分の手を愛している。
顔に塗りたくる化粧品をあますところなく、手にも塗りたくっている。爪の手入れは怠りなく、
「今日、サロンで甘皮取ってもらったんだ」
と嬉しそうに見せる爪は綺麗に揃い、見事なピンク色で、マニキュアもしてないのにつるつると光っている。
が、ネイルサロンとは、こてこてと飾りつけするところではないのか。
「それでいくらくらいなの?」
「んん?二千円くらい」
高っ。たまにどうしても食べたくなる、とんかつより高い。とんかつは、ご飯も味噌汁もキャベツもお代わり自由だぞ。
女心はわからない。
まあ、彼女は彼女の稼いだ金でやってるんだし、普段豪快な分、そういう繊細さはかわいいな、と思わなくもない。
だが何故、手なのだろう。顔でも脚でも胸でもなく。手なんてあんまり見ないぞ。
ある休日。
久しぶりのデートで、飯を食った後、ふらりとスナックに入った。
暗い店内でカウンターに並んで座る。
「どういうご関係なんですか?」
なんて事から始まって、
「お似合いですね」とか、
「ラブラブですね」とか、ちょっと面映ゆいけど満更じゃない言葉がならぶ。
「で、彼女さんは彼氏さんの何処が一番好きですか?」
「んん……」
彼女の真ん丸い、アルコールで少し潤んだ目が僕を見つめる。
どんな事を言ってくれるんだろう。何を褒めてくれるんだろう……
「手かな」
「手?ですか?」
カウンターの中の女の子が素っ頓狂な声をあげる。
「うん、この手が好き」
そう言って僕の手をカウンターの上に持ち上げる。
女の子は言葉に詰まっている。
そりゃそうだろう。
特に指が長いわけでもなく、特に美しい形をしているわけでもない。指と手の甲の小指側には黒々と毛が生えている。若い頃につけたやけどの後や仕事で出来る豆、傷なんかで決して綺麗ではない。
「色々詰まってるんだ」
「はぁ……っていうか彼女さん、すっごく綺麗な手、してますね」
彼女の意味不明な発言に、女の子は話題をすり替えてしまった。
ふと目が覚めると見慣れない部屋だった。シャワーの音がする。枕元では照明やBGMの電源パネルが薄く光りを放っている。
そうだ、スナックを出て彼女とお泊りしてるんだった。
僕はうっすらと目を開けて自分の左手を見た。
手の甲には二カ所の根性焼き。中学生の時にやった。でも熱くて上手く出来ず、小指の爪位のツルツルした皮膚が出来上がっているだけだ。
ひっくり返して掌を見る。ひらがなの『て』とカタカナの『テ』を裏返して組み合わせたような皺。びっくりするような幸運が刻まれているとはとても思えない単純な手相。手首には縦に伸びる二センチ位の古い切り傷……
「何これ」
初めて彼女がこの傷に気付いた時、まるでいやらしい雑誌を見つけた理解ある母のように言った。
「……昔虐められっ子だったって言っただろ?」
「その時?縦に切ったら死んじゃうよ?」
「だから縦に切ったんじゃん。でも血が凄く出ただけだった」
彼女は手首をとってよく眺めた。
「本当だ。血管からずれてるね」
「だから今でも生きてる」
「ばっかじゃないの、虐められたくらいで逃げ出すなんて」
彼女は豪快に笑い飛ばした。それから優しい顔をして、
「でもよかった、逃げ切れてくれなくて。だから会えたんだもんね」と傷を撫でながら言った。
シャワーの音が止まると、バスルームからは出鱈目な鼻歌が聞こえた。僕は笑いながら、再び眠りにおちた。
再び目覚めた時は、コーヒーの香の中で、右手がマッサージされていた。
「目、覚めた?」
「うん……」
「なんか寝言で笑ってたよ」
「お前が風呂で変な歌、歌ってたから」
彼女が裸で出鱈目ソングを歌いながら踊り狂っている夢を見た。
「え、聞いてたんだ」
そういいながら、今度は反対の手をマッサージし始める。
「痛てててて」
「相当悪くなってますね」
まるで本物のマッサージを気取っていう。
「何処が?」
「彼女を甘やかす心が曇ってます」
僕が手を掴もうとするのをすりぬけて、伸びをする。
「朝ごはん食べに行こう」
僕たちは手を繋ぎ、駅に向かって歩いた。急勾配が息をあげる。彼女は平気な顔をしているが、一歩踏み出すたびに繋いでいる手に力が入っている。
「ちょっと休憩しよう」
坂の途中の自販機で立ち止まり、缶コーヒーを買う。ちょっと意地悪な気分になって、開けないで渡す。
「……開けてください」
「自分でチャレンジしてみろよ」
「やだ。爪が折れちゃう」
僕は彼女に缶を持たせたまま、クルトップを開けてやる。
「ありがとう」
缶コーヒーを持つ、彼女の手は確かに美しい。だけど、手にかける分の手間と優しさを、もうちょっと僕に回してくれてもいいんじゃないの?
「なんでそんなに手フェチなの?」
「手フェチって……手と首には年齢がでるっていうから」
ゴクゴクと飲み干し、缶をごみ箱に捨てる。
「それに」
「それに?」
「いくつになっても繋いで歩いてもらえる手でいたいから」
さらっと言って歩き出す彼女の手は、忌まわしい過去を持つ僕の左手の中にある。
「じゃあ僕はいつまでも君の手が美しいままいられるように、苦労をかけないように頑張るよ」……とは恥ずかしくて言えず、柔らかい彼女の手をぎゅっと握って
「腹減った、何食べたい?」と聞いた。
僕たちがヒィヒィいって昇っている横を、男子中学生が豪快な立ちこぎ自転車で風を切って行った。




