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四季は人を待たない

 人は誰しも、自分の上位互換を恐れている。存在価値を実際の価値にしか見出すことの出来ない人間ならば尚のことで、俺は典型的な愚者それだった。

 静香さんの新しいパートナーは、俺より四つ下の好青年で、最高学府を卒業し、誰もが知るような大きな企業に勤め、年収は俺の三倍あった。金にしか拘れなかった男には、彼の高い背丈がマウントフジが如し。

 見上げれば秋の太陽を背負うその男は、逆光の中でも精悍さを失わない男前だった。

 元甲子園球児で、エースピッチャーを務めていたと言う。

 俺が諦めた物と失った物を全て携えた、神の子ような男だった。


 ──────────・・・


 静香さんが【彼】のことを話す度に。その唇が彼を褒め称える度に。俺の頭の中にあったはずの展望とか希望とか、そういう未来の色で染めていけるはずのパズルのピースはバラバラに弾けて飛んでゆく。耳の中で金属が甲高く擦れた。全身が痺れて、暑い。恥ずかしくて恥ずかしくて仕方が無い。今直ぐ透明になりたかった。でも、俺の血は赤いままにドクドク回る。

 仕事にかまけて家庭を顧みなかった俺とは違って、【彼】は子育てや家事に疲れた静香さんに寄り添った。出会いは彼女が息抜きに訪れたカフェで、同じ小説を読んでいたことから始まったらしい。俺はその本のタイトルすら知らなかった。理解できなかった。あたまがわるいから。

 今俺たちが座っている席こそが、【彼】と【彼女】の指定席らしい。

 一時間程度の顔合わせという名の拷問を終えて、俺は先に店を出た。彼に全員分の会計を手渡して、追加で二千円を渡した。震える唇が虚勢で鳴いて、『コレで夕飯でも食べてください』と。わずかなプライドが俺に更なる出資を強いた。

 果たして平静を装えていたのか、今ではもう分からない。何せ十三年前のことだ。けれども多分、その時の俺の顔面というものは見れたものでは無かっただろう。

 俺は一度アパートに帰って、暗闇の中で妄想した。電気は点けなかった。部屋の壁という壁、床という床が俺を見ているように思えたからだ。視線に炙られて血管が細く縮んでゆく。脳内が白む。

 壁が迫ってくる。

 天井が降ってくる。

 熱病を振り切る為に、俺はこわれたバネの玩具みたいに唐突に家を飛び出した。夜の道を爆走する。何も考えずに走った。何も考えずに走りたかった、が、全然ダメ。荒い息を冷たく焦がしながら走る。夢遊病に浸れ夢遊病に浸れと、精神疾患のように──実際そうなのかもしれないが──呟き、わめき、遂には叫びながら地面を蹴り続けた。首を締め上げる悲鳴を、夜という壺の中で反響させて走った。

 充分離れた路地裏で座り込み、膝小僧を視線で焼く。何度も何度も妄想した。顔中の液体を垂らしながら鼻息を荒くして、野犬の威嚇みたいに歯をガチガチやった。【彼】を殺す妄想、殴る妄想、勝つ妄想。俺が【彼】を踏みつけ、背に光を浴びる。そんな勇敢なシルエットを見て静香さんは感涙する。熱い抱擁。甘い香り。キス。セックス。対面座位。無くせないドス黒い欲を叶える為に。あらゆる手練手管を尽くして脳内の【彼】を抹殺しに掛かる。殴る手順を変え、品を変え。思い付く残虐の全てを彼へと当て続けた。無限の凶器を切れ目なく差し込み、抉り、切り出し縫い合わせて砕き焼いて潰して酸に撒く。非現実的だと指摘する奴はいない。兎に角兎に角。兎に角兎に角兎に角兎に角。ヒュッと裂く度に首を振る。内臓を握るたびに指先が蠢いた。野蛮な言葉は狂獣の垂涎の如く零れて路地裏を汚す。

 俺にはそれしか出来なかった。

 そしてその永劫の妄想が【千回の敗北】という形で決着したとき。

 俺は翻って悲惨な妄想をした。嫁も娘も金も家も、全てをあの男に奪われる懊悩を頭蓋で煮込んだ。

 自分一人が不幸になることで、確実に三人以上の人間が幸せになるのならば、それを選ばない奴がいるだろうか。この世の幸福の絶対流通量は決まっていて、幸せな人間の裏で不幸な人が打ちひしがれ、飽食の社会の反対側の大陸で子どもが飢える。当然のことだ。当然すぎて、身近すぎて、意識もしたくないけれども当たり前のことだった。

 俺は思う。当然の事実に想いを馳せる。【自分の幸せの裏でも、誰かが不幸になっていたのだろうか?】

 その人は──その人たちは。

 俺が静香さんや恵美ちゃんと出会うことで手に入れた幸せの裏で、不幸になったり蔑ろにされてしまった人──

 思い当たる節はあった。

 ポケットから携帯を取り出す。番号を押す。指先に意志は無かった。ただ、惰性と怠惰に背中を押されて、俺は白線の向こうを目指している。

 父親は電話に出なかった。

 母親も出ない。

 弟には掛けなかった。

 色々なことを理解した。垂れ下がる腕、手離された携帯端末がかしゃんと軽い音をたてた。呆然と見上げた月は俺の真上で煌々と輝いた。中秋の名月がまるく世界を照らしていた。すべての人間に等しく降り注ぐ月光。

 断罪の灯台。

 身体の中で何かが千切れた。


 愚かさという苦しみは

 気泡だらけの身体を捻じってしまって

 人は小さく、矮小になってゆく。


 ──────────・・・


「懺悔は終わりましたか」

【天使】の声はよく通る。数多の罪で着膨れて、もこもこになったストレイシープを容易に諫める真っ直ぐな音。嗚呼コレが天使の吹き鳴らす喇叭のトーンなのだと理解する。

 彼の息は白くならないから、視界を曇らすこの霧は間違いなく、俺の口から零れた魂だ。呼気ばかりが熱く、湿る。

「願いは、貴方の中にある最大の絶望を覆す為に使うべきです」

 声色はやさしいグラデーションを経て、煌びやかな暖色へと移り変わってゆく。

 恐らく最期の問いかけなのだろう。

 腕時計の文字盤は、あと四十七分でクリスマスが終わることを示していた。

 集中治療室の扉は開かない。手術は失敗する。エミちゃんは死ぬ。

 親より早く死んでしまう。

【俺の中にある最大の絶望】

 天使の声が催眠術みたいに、ぐるぐる渦を巻く。

 目の前の天使は、俺の絶望を希望に変えてくれるらしい。

【俺の中にある最大の絶望】

 命よりも大切な娘の、残りの四十七分と引き換えに、俺は幸福と希望を手に入れる。愛した女性を取り返して、普通の生活を手に入れて。

 幸せに。笑いながら生きる。

【俺の中にある最大の絶望】

 これからは陽だまりの中で生きてゆく。極小の空間に閉じこもる必要は無い。高く飛び上がる為の足掛かりは、目の前にて微笑むのだから。

 俺は【天使】の力によって、この寒さも、熱さも。すべての苦痛を春風の彼方へと吹き飛ばして、新しく0からスタートするのだ。

 俺は最期に彼に訊く。念押しのダメ押しに確認する。

「執行の順番は、絶対に変えられないんだよな」

「ええ。それに関しては私に出来る事ではありません」

 天使は眉をひそめた。少々居心地が悪そうだが、別に俺は怒っていない。むしろ感謝しているくらいだ。幸せになる権利をくれるのだから。

 フェアな取引だと思う。

 条件は明瞭で、デメリットはわずか四十七分の娘の時間。そして例え、それだけの時間を生き残っても、彼女は手術の麻酔で目を覚まさない。エミちゃんが死ぬ事は覆せない。

 天使は言った。『意味が無い』と。

 ああ俺もそう思う。彼女の生きた笑顔は、どう足掻いても絶対に見られない。鮮やかに躍動する駿河恵美の生き様を拝むことは、これから、どれだけ生きたって叶わない。だったら全部意味が無い。

 天使は言った。俺はエミちゃんが死んだら、その後すべての人生で幸福を拒否してしまうと。

 無自覚に足先が床を叩く。自分の行動が抑えられない。

『幸せの無い人生に意味が在るか?』という問に、否定の声を挙げられる奴はいない。絶対に。だって、人は。命は。未来ある子どもたちは、幸せになる為に生きているのだから──

「決まったよ天使様」

「はい」

 彼はやさしく微笑んだ。それは【愛情】より、【憐憫】より、【安心】に属する無意識行動だった。ほっと、肩の荷が下りたような──まるで見えない大翼のせいで、医院の廊下は窮屈だったと言わんばかりの安堵の吐息は、まるで光明が如しごっどぶれすゆー。

 お返しにおっさんの口臭を吐く。

「俺を執行ナンバー0にしてくれ」






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