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三枚目の仮面

 人は願いを叶える為に生きている。

 些細な願い、大いなる願い。その大小は誰にも問われないし、大が小を兼ねることも無い。どれだけ小さくとも、例えわずか1カラットの宝石だとしても、人の願いに贋作はあり得ない。

 たった一つの掛け替えのない願いを、一つ一つ叶えて、積み重ねて人は生きる。

 けれども殆どの人は、大いなる願いを目指すその過程で疲れてしまって、目の前に転がる叶え易い願いで心の器を満たすのだ。合成着色料に塗れた青写真は、どれだけ食っても健康に害は無い。けれども虚しいことに、それでは腹は膨れない。だからみんな、不幸だなんだと喚くのだ。

 だが、どうだろう。

 長すぎる人生という過程に、自分だけのショートカットが──抜け道が在ったならば。

 それは残った人生を有効に使う時間の短縮になるだろうか?

 それとも、人生という道そのものを縮めることになるだろうか?

 その【答え】の在処は目前に笑う。


【天使】は笑う。

「願いを一つ叶えて差し上げます。どんな願いでも」

 無限のリフレイン。円環の迷路。

 思考停止なくらいの思考。笑えるくらいに真っ白な頭──

 考える力を失った人間はオウム返しになる。以下のように。

「願いって……」

「願いは願いです。貴方の望む物を与えますから、私を通してください」

 掠れた声を塗り潰して、凛とした声が轟く。

「ほとんどの願いは叶えられるはずですよ。ヒトの思考の範囲ならば」

 天使は俺を見ない。その深紅の瞳はひたすらに、文字盤と開かずの扉を行き来していた。見るからに苛立っていた。

 そして短い嘆息と共に【天使】が告げる。つまらなそうに、どうでもよさそうに。

「私としては奥さんとの復縁をおすすめしますが、如何でしょう」

 ぞっと心臓が眩んだ。こいつは、俺のことも知っているのだ。

 天使は笑んで続ける。篭絡の鍵を見つけたかのように。その鍵穴をしつこくほじくる。

「失った奥さんを取り返したいですよね。私は地球に来る前にヒトの常識を学びましたから、ヒトの抱く【愛】という自己欺瞞についても理解しています。その感情への執着がヒトの動力源だ」

 その言葉に【愛】への理解は欠片も感じられない。

 ただ、『その感情への執着』という表現は、何処かヒトの人中を射ているような、不思議な感覚だった。

【愛】がヒトを動かすのではない。【愛への執着】が突き動かす。だからみんな恋愛ドラマが大好きだ。例え作り話であっても【愛】は崇高だという共通の観念の元、俺たちは抱き合い涙を流す。

 誰かと共有したがっているのだ。感動と感想を。

 愛とは最早全員の共用物であって、特注品なんかではない。誰の心の中にも留まれない。そしてみんなで共有すれば、当然だけどそれは薄まってゆく。それでみんなが足りないと叫ぶ。だから恋愛ドラマが流行る──

 天使がヒトを見下した。彼は静かに返答を待っている。

 どうも、いきなりステージに上げられた観客のような気分だった。煌びやかなスポットライトに炙られながら、満席の聴衆に観察されて、喉は著しく乾いてゆく。

 俺は人類を代表して【天使】に愛を説かねばならない。

 咳を一つ打って、一節ご高説垂れてみる。

「……お前が知ってるほど、愛は悪いもんじゃない」

「そうでしょうか。あなた方ヒトという種族は個人間のチャンネルが開通していない種族ですから、交友が真の相互理解に繋がることは決して無いように思われます。【天使】は違います。お互いのチャンネルが開いていて、心を想うがままに伝えられます。ですから、悪人はいません。全員が正義の元に存在しています」

 相変わらずの早口が濁流となって、俺を頭蓋の淵へと追い込んだ。

 心が思うがままに通じ合っているから、想いを伝えることは簡単で、決して隠し事は出来ない。悪事の企みようがない。反乱分子や異端は発生しない。遺憾の種子は芽吹く前に除去される。ああそりゃあ、良いな。そういう機能が人間にもあったなら、人は初めから誰かに変な期待をしなくていいし、裏切りに傷つくことも──

「……いや」

 それでもきっと、人間は他人に期待をするし傷付きもするのだろう。

 俺は改めて思う。人間と【天使】は、別の生き物なのだ。

 社会道徳や倫理というものは、共有されて初めて意味と力を持つ概念だから、彼ら【天使】にとっての道徳は完璧に道徳で、倫理は完璧に倫理だ。だから疑うことも知らないのだろう。だって完璧なのだから。己たちの道徳倫理の欠陥を指摘する者がいない。

 天使が十万人の子どもを間引く理由が分かったような気がした。

 彼らは、間引きという慣習が根付いた種族なのだ。

「どうしますか? 奥さんを取り戻すのならば今すぐにも行いますが」

「願い事でエミちゃんを見逃してくれってのはダメなのか」

「不可能です。何せ……彼女は五十三分後に亡くなるんですから、私が見逃しても意味がありません」

「じゃあ生き返らせるとか」

「天定寿命は縮めることは出来ても伸ばすことは出来ません」

「俺の命を使っていいから」

「貴方は恵美さんが亡くなった以降の人生すべてで、あらゆる幸福を拒否してしまいますから、貴方の命を使ったところで幸福の流通量には全く影響を及ぼしません」

「融通の利かない力だな」

「何でも出来るんだったら、そもそもこんな問答なんてしていませんよ」

 如何に人智を超えた【天使】であろうとこの世の全てが思い通りになるわけではない。そうでなければ、俺の『待て』に律儀に従う義理など無い。心が通じ合う【天使】にとっては、約束は契約となり固く強い意味を持つのだろう。奴は俺の言葉を裏切れない。裏切りなんて知らないから。

 天使は細く息を吐く。唇が尖る。

「願いが決まらないのなら、やはり私は奥さんとの復縁をおすすめします。そうしたら、貴方はほどほどに健康になって天定寿命は残り五十二年。十分にやり直せる年月です。悪くない条件じゃありませんか。それに──」

 天使が上半身を屈めた。俺の耳元で囁く。

「私はね。【復讐】という感情も理解できますよ」


 ──────────・・・


 高校卒業と共に就職した工場で俺は働き続けた。心と身体を犠牲に、ひたすら金を稼ぎ続けた。

 苦痛の代償に舞い降りる【金】という紙切れは、俺にはまるで天使の羽のようで、同時に確かな生の実感でもあった。時間と労力の対価が、世界における確定した価値として手に入ることは──何も得ずに時間と労力を消費してきた俺には、眩しいくらいに美しく思えた。

 同時に、その時なってやっと、学生の季節を浪費してきた己の愚かしさに気付いたのだ。失って得るものが在るように、得ることで失うものも在る。

【過去とは所詮過去に過ぎず、今をどれだけ足掻いても取り返すことは出来ない】

【未来は自分で探すしかない】

 そういう、誰もが成長の過程で学んでゆくはずの当然の事実に、俺は今更になって気づいてしまった。

 気付いてしまったら、もう進むしかなくなった。

 時間は巻き戻らない。例え奇跡が起きて文字盤の針が遡ろうと、人の心は戻らない。

 俺は金の使い道は考えず、貯めることだけを考えて働いた。自分のことも他人のことも考えず、金のことだけ考えて働いた。夢遊病走法はこういう時にも役立った。思考を薄めて、薄めて。水のような気持ちで生きる。

 俺はそうやって、薄暗い孤独を頭蓋の鍋で煮詰め続けた。

 ──両親からの連絡で、父親が最近腰を痛めたこと、母は最近資格の取得にハマっていること、弟は立派に大学生をやっていることを知った。

 返信はしなかった。

 自分が惨めだから、とか、そんな感傷すらなかった。他人に関心を抱けなくなっていた。何よりも金が欲しかった。何も生み出せないハズの自分に、価値としての値札が付くという感覚が心地よかった。世界に必要とされている気になっていた。

 俺はごく自然に、思うところも無く家族と絶縁していた。

 そしてそんな風に無気力の有頂天にいたからこそ。

【藍染静香】さんは、俺の目には眩し過ぎるくらいに美しかったのだ。



 静香さんは俺の勤める工場にほど近い定食屋で配膳の仕事をしていた方で、明るい茶髪と、それに違わぬ明るい気質、声色で、周りの男の視線を独り占めにする掃き溜めのツル子さんだった。

 その相貌は、金、金、金と視野狭窄に陥っていた俺の瞳を丸きり焼いた。地中に住まうモグラは眼球が極端に小さい。光を前提に生きていないからだ。で、だからこそ光にとても弱い。俺がそれだった。俺はモグラだった。

「会智さんって言うですね。苗字は駿河? ほへー」

 初めての経験だった。

 話すだけで頭が真っ白になった。耳鳴りがきぃんと波形を尖らせる。緊張で岩の如く固まるばかりの俺には、何を言っても失敗するという確信が在った。俺は静香さんに、意見も好意も何も伝えられずに、永遠に隅っこでもじもじうじうじやっていた。端から見れば羽虫以下のウジ虫くらいの存在感だっただろう。

 だが彼女にはそれが面白かったらしい。店で俺を見つけるたびにちょこちょこ寄ってきて、反応を見てはケラケラ笑う。俺はそれが嫌じゃなかったから定食屋の常連になったし、彼女とも少し仲良くなった。

 工場に俺以外の若い男がいなかったことが起因すると思う。

 俺たちは密かにお付き合いを始めた。

 春が来ていた。ずっとずっと続いて欲しい、あたたかな春があった。


 ──────────・・・


 二人で住むには少し狭い、八畳1Kのアパートの一室で管を巻く日々は楽しかった。人生で一番、やるべきこととやりたいことのバランスが取れていた期間だと思う。生きることと生存の区別が付いていなかった若く青い俺に、静香さんは色々なことを教えてくれた。世間にはこんなイベントがあるんだぜ、こういう楽しみ方があるんだぜと、俺を引っ張り出しては心地よく乾いた日向に干してくれた。

 己を閉じ込めた殻というものは、自分で開くか他人に開いてもらうか、二択に一つなのだけれども、少なくとも俺は後者だった。そういう人間だった。

 何も生まない俺の人生のハイライトは、そういう丸い日々の中でささやかに訪れる幸福を指した。

 まだ涼しい夏の日に、狭いベランダで朝焼けを見た。秋には銀杏入りのご飯を初めて食べた。冬将軍が猛れば、お揃いの防寒具を身に着けて二人で小さな雪だるまを量産して写真を撮った。遠い春が待ち遠しくて桜の写真をくっついて眺めた。幸せだった。じんわりと噛み締めるような幸福が、最も実体を伴っていたのは間違いなくあの時間だ。

 こういう幸せが、ずっと続いてくれればいいと願った。やりべきことと、やりたいことのバランスの取れた日常が──例え細くても薄くても良い。続いてくれればいいなと思った。

 けれどもそのバランスは後に容易く崩壊する。


 子どもが。

 恵美が。駿河恵美ちゃんが。エミちゃん生まれた瞬間。

 我が子の声を聴いた瞬間。福音が鳴り響いた瞬間。

 あの刹那に巻き起こった竜巻のような感動。全身が沸騰して収まらない感覚は、無粋なことに恋の歓びなどというものを一瞬で過去にしてしまった。

 涙が止まらなかった。嗚咽を抑えられない。立っていられない。座ることも叶わない。生まれたばかりの子どもより泣いた。骨が全部煮えて、溶けて。けど全く全然苦痛じゃない。幸福、幸福、幸福──が南国のあたたかい波となって俺に降る。星よりも降る。しかも恐ろしいことに波の勢いは、この心臓を通り過ぎるたびに大きくなって、更に巨大な幸福へと進化しては前後左右から俺を責め立てた。全身を美しい女神の指先でくすぐられるようだった。この場でじっとしている自分が傲慢に思えるほどの高揚感、いや、高揚どころか、もう飛んでいるんじゃないかってくらいに感覚はくっちゃくちゃに砕けていた。視界は端から虹色に眩む。プリズムが渦を巻いて一説の詠唱へ。そうして神の光となる。全身を貫く歓喜の雄叫び。まるで獣。情けない、情けないかもしれないけど、そんなのどうだっていい。この瞬間は恥も外聞もかき捨てだ。だって人生は長い旅だから。長いながい旅路だからこそ、心から愛したい誰かと出会った時、その感動はこの世にまつわる全ての不幸と不浄と不条理を焼き尽くす劫火となるのだ。兎角、世界の平和と未来と光と、幸運と清潔と祝福を心底祈った。この子の生きる世界の美しさを希う。

『世界中の光のすべてがこの子に注がれればいい』と想う。

『形而下における万象の幸せがこの子に集まって、未来を照らして欲しい』と心から願った。

『誰よりもこの子が優先されればいい』と望んだ。

『他の誰が君の敵になっても俺だけは君の為に生きる』『命だって差し出せる』

『例え君に愛されなくとも』『俺は君の為に死ぬ』と。

 天に誓った。


 ──────────・・・


 エミちゃんが生まれたことで、仕事には一層身が入った。バランスなんてしったこっちゃない。やるべきことしか頭に無かった。

 静香さんは俺を救ってくれた。色々なことを教えてくれた。そういう日々は穏やかで幸せだった。

 けれども無意識の中で俺は──彼女への感謝と、謝意と、同時に無力感、罪悪感を覚えていたのだ。だって彼女は俺に色々な思い出をくれたのに、俺は彼女に新しいものをあげられなかったから。そういう禍根を捻じ切ってぶっ飛ばす為に、俺はやるぜやるぜやるぜ働いて働いて働いて、いつしか必ず、貰ってばかりの恩をノシ付けて返すのだ。

 俺はさながら暴走特急のように蒸気機関か火力発電か、知らないけどパワー・パワー・パワー。身体は一つの熱源となって世界を駆けた。男の育休なんて概念は当時無かった。が、むしろそれは追い風だと言わんばかりに働いた。残業に残業を階乗して今宵も朝日が昇る。職場と寝床の区別は最早溶解していた。しかし医者の診断も静香さんの心配も、最早俺を止めることは出来ない。湧き上がる気力。使命に貫かれた腕力。誰も俺を止められない。

 

 俺はそういう手段しか知らなかった。俺を愛してくれていた人は確かにいたのに、どうして俺は、俺に価値を見出すことが出来なかったのだろう。見てくれる人、優しくしてくれる人はいたのだ。俺が腐る道理は無い。俺を包む環境には一つの文句も付けられない。だからこれは全て俺の咎だ。責務の壺の底で眠る。去りゆく温度を身体に掛けて。

 静香さんは職場のこともあって料理が上手で、暴走する俺に呆れながらも毎日弁当を作ってくれた。

 本当に素晴らしい女性で、俺には勿体ないくらいの人だった。

 静香さんは美人で明るくて社交的で優しくって甘えるのが下手で。

 手先が器用で気立てが良くて。

 俺みたいなクズには到底見合わない女性だった、から

 彼女が

 産後疲れで苦しんでいるというのに、自分の仕事にかまけて碌に育児を手伝わないパートナーに見切りを付けて、新しくカレシを紹介してくれた時

 俺は想像よりも、案外落胆しなかった。






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