二軍の男
エミちゃんが生まれたのは十三年前の八月十二日だから、現在彼女は中学生として、青春と思春期の真っただ中であったはずだ。
部活を頑張っていただろう。勉強だってそうだ。そろそろ数学あたりが難しくなってきて、いらいらすることもあったと思う。けれども彼女は、その憂鬱と鬱屈を誰にもぶつけずに自分で抱え込んだだろう。何せ優しい子だ。親に似ず。
涼しくなってきた秋口に、人生で初めての冬服の制服に袖を通して、ちょっと暑いかもしれないなどと後悔したのも、もう数か月前のこと。今ではぶかぶか具合も愛おしいくらい、彼女には冬服が似合った。いいや多分、冬服や世界がエミちゃんに合わせたのだ。自明な事実として、この真っ暗な世界の中心は【駿河恵美】以外に在り得ない。
もしかしたら好きな男のためにお洒落を頑張ったり、プレゼントを考えたり、チョコレートを作ったりしていたのかもしれない。仮にも父親としては胃が痛い気分だ。だが、相応しい奴なら是非彼女をお願いしたい。
俺にはあげられない幸せを、君の彼女に。俺の娘に。
「なんていうのは中学生には重いか?」
へらっと。口元が緩む。
これらすべての言葉の解像度がモザイクの彼方であるのは、俺という奴がモザイクを掛けないと倫理機構にバッテンを喰らうロクデナシだからである。
事実として、俺はエミちゃんの制服姿なんて見たことが無いし、勉強している姿勢とか、使っている文房具が何かとか、何部に所属しているのかとか、そういう一切を知らないからだ。
エミちゃんは父と母から離されて育った。
彼女は、俺と元嫁の狭間で生きるには、あまりにも純真で無垢な白い花だった。
──────────・・・
俺という奴は、ずっと不器用な人生を送って来た。
赤字確定のロードショーが慰めのように幕を開ける。
駿河会智少年は、小学、中学と野球に打ち込んだが、成果はまるで振るわなかった。臆病で逃げ腰な姿勢は、全世界的にスポーツマンシップとは反抗精神に当たる位相にあったからだ。
俺という奴はスライディングがまるで出来なかった。空中へ飛び出すという行為が怖くて怖くて仕方が無い。人は地に足付けて歩いて生きるのが常識だ。何が悲しくて中空へと己が自重を投げ出さねばならんのか、俺にはさっぱり分からなかった。そして理解しようとしなかった。
自分という存在に諦めが付いたのは中学の卒業式のこと。野球部の打ち上げで最期に後輩とゲームをして、あっさりと普通に負けた辺りで、俺の球児としての熱意は枯れた。燃え尽きたわけでもない自分が虚しかった。
振り返れば、この辺りで俺の人生は決まっていたのだ。
高校に進んでからは陸上部に所属し、長距離走を選択した。初めは体力を付けたいという前向きな想いから入部したはずだが、そんな高尚な思考は五月頃には根腐れて、『走っている間は何も考えなくて良い』という後ろ向きな思考方法が俺のふくらはぎを支えていた。その走法を、俺は【夢遊病走法】と名付けて可愛がった。
毎朝、家の誰よりも早く起きて、太陽が昇る前の闇へとシューズをひっかけ飛び出すのだ。それは人々の息吹が目覚めるよりも早い時刻だから、その影の中を走る限り、世界は俺のものだった。誰もいない世界、熱の無い世界。夏の朝も冬の朝も、それは等しく冷たくって、俺は鼻腔を冷たく焦がすその匂いが大好きだった。
まるで命のすべては死んでしまって、誰も俺には語り掛けない、触れ得ない、追いつけない──だから何かと自分を比較する必要すら無くって、俺はその瞬間だけ比類なき存在として己を誇ることが出来た。統率された呼吸、過熱する筋肉、耳元を掠める風の音、蹴り飛ばせば返って来る衝撃。そのすべてが俺が持てる唯一の存在証明だった。
妄想で頭の中をぱんぱんにして、寝ぼけた世界を駆け抜ける。すると自己認識が曖昧になってきて、蹴る足が薄氷の世界を貫き砕く。うっと、俺はうめき声を上げた。砕けた世界の破片が舞い上がって、代償に俺が沈んでゆく感覚がするのだ。
そしてその砕けた現実をも蹴り飛ばし、俺は刹那宙に浮く。沈む前に足を上げるのだ。水の上を走るイメージ。あの頃の自分は空気の上でも、水の上でも夢の中でも何処でも走れた。嗚呼って、今になって気付く。俺は本心では空を飛びたかったのだと。スライディングだって上手いことやって、自軍を守って、黄色い喝采を浴びたかったのだ。
そんな取り返しの付かない諦念だって、走っていれば気になることは無い。
踏む瞬間と蹴る瞬間。そして浮く瞬間。その全てが交互に連続して、夢と妄想と、希望と現実が、絡み合う藻のように混ざってゆく。
それは清涼感というより虚無感だった。そして俺は、その区別が付かないほど子どもだった。
夢遊病に浸っている間、俺はすべての嫌な現実を忘れていた。
為すべき課題、取り組むべき学業、進学はどうする? これからも走り続けるのか? 俺の未来への展望は一体何処へ? ──悩みそうになるたびに俺は走った。悩んでいても始まらないが、走っていれば何処かに行ける気がしていた。だから走る。あらゆるごたごたを追い抜いて、彼方へと吹き飛ばして、最後に残るのは汗臭い自分だけ、というのがシンプルで好きだった。それは小規模な世界破壊のようで、俺はその瞬間だけおそろしき魔王だったのだ。
けれども走ることは生物的に【追うこと】にも、【逃げること】にも繋がる。
そして俺は完璧に後者だった。
駿河会知はそんな風に生きた。移り気な風のように、その場につむじを巻き続けた。
生きて、逃げて、走って──歪な楕円のサイクルを永遠のように続ければ、実際、こんな日々は永遠に続いてくれるのではないか? と。心の何処かで願っていたのだ。
けれどもそんなわけも無く。俺の魔王生活は卒業と同時に、勇者の到来を待たずして崩壊し、一人の遊び人だけが残った。いいや残されたと言うべきだろうか。残飯のような、敗残兵のような。汗臭い自分だけが残った。
焦りは無かった。ここが人生のゴールならば、それはそれで構わないと自惚れていた。俺は、今まで踏んで来た世界には価値があったのだと、本気で信じていたのだ。守りたいものも譲れないものも無かったから。
けれども当然のように周りの人々は俺に優しくって、同時に厳しくて。
勧めもあったので、進学は辞めて、生きていくために就職した。自分で生き方を決めるような高尚な精神は持ち合わせていなかった。
そしてそういう蒙昧な愚者に対して、社会は厳しく吹きつけた。
難解なシステムに右往左往し、毎秒上司にドヤされながら働いた。痛みと怒りとやるせなさを司る臓器が胃の真下辺りにあるとして、そこに強く、記憶を刻みながら仕事を覚えた。
初めは長距離走で身に着けた体力があれば、こんなもん余裕であるとタカを括っていた。けれども、一人で走り続けた長距離走とは違って、社会は一人じゃ回らない。俺は否応なく、持っていない部分の精神的な体力を擦り減らしながら、雑踏の中に溶けてゆく己を自覚しては頭の中身が上下反転するようで。ここで狂ったら面白いかな、いつブッ壊れてやろうか、とか常に考えながら、脳味噌の腐敗を促進させていた。今思えばバカだ。救いようの無いバカだ。
だから救えない。救われようとしない者に、救いの手は掴めないから。例え運命の出会いがあったとしても、俺を救うことはあり得ない。あり得なかったのだ。
つまりは【天使】を名乗るお前の作戦に乗ってやれるほど、俺は柔軟な人間ではない。
──────────・・・
「実際この計画自体は地球規模での救済に繋がるわけですから、是非強行したいのですけれどもね? そうは行かない事情がありまして……ほら、先ほど貴方は、私が集中治療室に入ろうとしたところ『オイ待てこのヤロウ』とおっしゃられたではないですか」
「……言ったか?」
「言いましたよ。怒鳴ってました」
おそらくは反射的な言葉だったので覚えていない。
堅く閉ざされた集中治療室の扉を恨みがましく見つめながら、【天使】はげんなりと肩を落とす。いい気味だった。
「貴方の『待て』という言葉に、私は反射的に『はい』と返してしまいました。地球に降りる時に、ヒトの中でも日本人の情報をインストールさせていただきましたが、まさかこんな躾けられた犬のような態度の国民性だとは思いませんでした。天使は人に嘘を吐けませんし約束を破れませんから、貴方の『待て』という言葉に『はい』と返してしまった以上、私は貴方の赦しが無いと、この部屋には入れないのです」
「バカみてえな生態だな」
「日本人の悪い癖です」
軽く嗤ってやる。天使は肩をすくめた。
思うにそれはジャパニーズに限った仕草ではないのではなかろうか、という当然の指摘は、しかし世界を知らない俺の舌には幾分か重い。
おそらく天使は世界中で仕事をしてきたのだろう。俺よりも広い世界を、当たり前だが持っている。明日の世界は今日よりも狭いだろうか? 広いだろうか? 俺という奴は、その程度のことも知りはしないし知ろうとして来なかった。
しかし【天使】は──違うのだろう。
大局的な思考で世界の平和を祈っている。自分の世界だけじゃない。最大数の人が幸福になれる仕事を頑張っている。今宵みたいな聖夜の裏でも変わらず人が死んでいるという事実を、こいつは誰よりも知っている。数として。量として。
果たして俺と【天使】は、どちらが上等だろう?
当然の思考だ。世界の平和と安定のためにと、命を奪う仕事にだって従事するこいつと
守りたいものを、何も。何一つ守れなかった俺とでは。一体どちらが上等で、世界から褒めそやされる存在なのだろう。
必要なのはどちらなのか?
待合のソファに沈む俺を腕時計越しに見下して、天使の片方の瞼が歪む。黙考は時間を忘れさせる。俺は夢遊病の最中でそれを知った。俺も慌てて時計を見る。文字盤上では長針が直角ぐらいに進んでいた。
「残り六十分です」
冷静な声は墓標の床へと沈んでいった。響くことも無く死んでいった。
だからこそ、その振動の威力は逃げ場を失って、俺の臓腑にひどく鋭利な刃物として突き刺さる。音も無く、深度を増してゆく。
血と体温がぼろぼろと剥がれてゆく。
「【天使】にも限界はあるんですよ。このまま恵美さんが亡くなるのを大人しく待っていても良いのですが、そうしてしまった場合には、今夜のクリスマスの内に、残りの九万九千九百九十九人に執行することは難しくなります。大多数が生き残って、これからも世界の幸福を奪い続ける」
【天使】は告げる。
「人は、生きているだけでも幸福を喰うのです」
生きる事が幸福ならば。
今、こうして息をしている俺は幸福らしい。けれどもこんな想いをするくらいならば、俺は幸福なんて欲しがらない。生涯要らない。
けれども恐らく【天使】の言う幸福という奴は、俺の思うような即物的な概念ではなくって、もっと大いなる存在──龍脈とか地脈とか星辰とか──そういう絶大な理の下で働く力なのだろう。
世界にはそういう流れが在って。で、それはすべての人類に等しく微笑むシステムで。けれどもこのままその力に甘んじては、世界のバランスが崩れてしまう。世界中の人間が不幸になる。この世は地獄と化し、苦しみが蛇のようにのたうつ苦界に変わる。
だが、俺が『待て』を解除すれば。
天使は進軍し、エミちゃんの命と、九万九千九百九十九人の子どもたちの命を滅ぼして、世界中の人間が少しだけ幸せになる。未来の地球では同じくらいの──いや、もっと多いのかもしれない。沢山の子どもたちが笑顔になる。
俺が世界の手綱を握っている。
指先が震えるのは寒さのせいじゃない。
【残り一時間で死んでしまう娘と、十万マイナス1の見ず知らずの命】
【人類の平和】
ああ、並べれば。こんなものはあまりにも簡単に不等号で示せてしまう。算数が苦手で良かった。正しい答えは今、俺を殺す。
けれども俺は国語も苦手だから、お前とは金輪際話さない。八方塞がりの局面に於いてバカは無敵だ。
黙秘権は天使にも有効だろう。何故こいつは俺を脅してまで扉を開けない? 簡単だ。天使が言葉で俺を籠絡するのは、それが天使の方法であり、武器であるからだ。これしか彼に方法は無いのだ。
ならば俺は取り合わない。語らない。我が子の命が、例えあと一時間にも満たない、僅かで、微かな篝火だったとしても。それで世界を優先するような存在に酸素の権利は許されない。
この世に不要な人間はいる。
ただしそれは、絶対に。エミちゃんではないのだ。
静寂の暴風の最中。俺は、かつての魔王の感覚を思い出していた。
自分の世界を思い通りにする一番簡単な方法は黙ることだ。
黙り込んで、嫌なこと、嫌な現実、嫌な決断から逃げていれば、世界は俺というちっぽけな一個に構うことが煩わしくなって、いつしか必ず、全ては俺の思い通りになる。
心の泉のほとりで笑う。水面は酷く凪いでいた。
俺はまるで英雄の心地で、【天使】に向かって嫌らしく微笑みかけた。己の正義感とかいう、誰にも報われず受け入れられないストレスの矛先を向ける対象が目前に降臨したことが嬉しかった。
滲み出すヒロイック性のしずくが、俺の判断を尖らせる。俺は詠う。詩う。
「報われない世界の不幸と引き換えに、俺は愛する娘の一時間を選ぶ。それが例え、何の意味も含有し得ずとも──」
けれどもそれは、その姿勢は。そして言葉も。
所詮は格好付けに過ぎなくって
だからそれは虚勢に過ぎなかった。
「私は貴方に一つの条件を提示したいのです」
静寂の暴風は一滴の詠唱に断ち切られた。
終末の喇叭が鳴る。
「……なに?」
【天使】が笑う。嫌らしく。俺の鏡写しに。
日の沈み切った十字路で至極の取引を持ち掛ける。
「人生をやり直したくはありませんか?」
人智を超えた光が笑う。




