プロローグ:崖の縁
足元の闇。
秋良・翔太は、ズルッと落ちた!
風がビュンビュン。
顔をバシバシ叩いてくる。
頭上の光。
どんどん小さくなる。
まるで「お前、終わりな!」って煽ってるみたいだ。
(マジか!?)
翔太の心が叫ぶ。
(これでオワリ!?)
今朝まで。
翔太はただの大学生だった。
ファンタジー小説にハマって。
ピザかじりながら、ダラダラしてただけ。
でも今?
この世界、ガチでヤバい!
魔法はリアル。
奈落は底なし!
たった一歩。
踏み外しただけなのに。
今、翔太は超スピードで落ちてる!
心臓がバクバク。
胸が締め付けられる。
だけど、なんか――
胸の奥で火花がパチッと!
(もし!)
翔太の心が吠える。
(ここから這い上がれたら!)
(俺、絶対変わるって!)
闇がぐいっと。
翔太を飲み込む。
でも、待てよ。
その闇の中で。
ちっちゃい光がピカッと光った!
下で待ってるのは?
死ぬようなピンチか?
それとも――
めっちゃカッコいい新・秋良翔太への第一歩か?
もう一人の転落者
月曜日。
秋良・翔太にとって、最悪の日だ。
一週間の始まりなんてものじゃない。
彼には、果てしない義務と期待の象徴でしかない。
教室の最後列。
秋良はなるべく目立たないように身を縮める。
だが、そんな努力もむなしく、鋭い声が講義室の空気を切り裂いた。
「さて、中間テストの答案を振り返ろうか。」
高等数学の講師――いつも不機嫌そうな中年男が、秋良を鋭い視線で捉える。
「秋良、前に出てくれ。」
冷や汗が背中を伝う。
秋良はゆっくり立ち上がり、数十の視線に刺されながら教壇へ向かった。
彼の答案は、赤ペンで埋め尽くされている。
右上には、でかでかと「10/100」の文字。
「さあ、みんなに説明してくれ。」
講師が答案の最も難しい問題を指さす。
声を低く、冷たく続けた。
「ここでどうやって、こんな間違いを連発したんだ? 基本中の基本だろう?」
(ああ、くそっ……なんで俺なんだよ……)
秋良の心は、奈落の底に落ちていくように縮こまる。
だが、この教室での屈辱は、ほんの前触れに過ぎなかった。
彼を待ち受ける運命が、すぐそこまで迫っていたのだ。
喉に何かが詰まったような感覚。
秋良・翔太は答案をじっと見つめた。
数字が並んでいるはずなのに、まるで泥のようにぐちゃぐちゃに滲んで見える。
背後からは、くすくすと抑えた笑い声。
「わ、わからない……です。」
秋良は小さな声で呟いた。
「わからない?」
講師の声が、毒蛇のように鋭く響く。
「わからないだと? こんな成績で、この先どうするつもりだ?」
講師の言葉は止まらない。
「退学でもされたら、少しは目が覚めるか?
親御さんはお前の『努力』の結果を知ってるのか?
高い学費を払って、こんな出来で……」
その先の言葉は、秋良の耳には届かなかった。
「親」「学費」。
その言葉が、鋭い矢のように心を貫く。
教壇の前に立ち尽くす秋良。
チョークを握る手が震える。
顔が熱く、燃えるように赤くなるのを感じた。
(なんで……なんで俺なんだよ……)
その後の授業も、状況は変わらなかった。
物理の授業。
秋良が勇気を振り絞り、手を挙げた。
だが、その瞬間、教授は彼の存在を無視するかのように他の学生を指名した。
秋良の手は中途半端に宙に浮く。
気まずさに耐えきれず、ゆっくりと下ろした。
周囲の視線が、チクチクと刺さる。
英語の授業。
グループの女子たちが、あからさまに嫌悪の目を向けてきた。
ひそひそと囁き合う声。
それは、まるでナイフのように秋良の心を切りつける。
「ねえ、あいつ、マジで使えないよね。」
「テストの点、見た? ありえないんだけど。」
秋良は俯く。
ノートに、意味もなく線を引き続ける。
どうせ何をしても、こうなる。
いつもこうだ。
授業が終わった。
秋良は廊下に出る。
そこで、同じグループのリーダー格、朝倉明日香と鉢合わせた。
彼女はクラスのムードメーカー。
誰よりも目立つ存在だ。
今、誰かと楽しげに話している。
どうやら、大手IT企業でのインターンシップの話題らしい。
「へえ、すっごいじゃん!
それ、受かったら将来安泰じゃん!」
明日香の声が弾む。
その時、彼女の視線が秋良に引っかかった。
「おっと、誰かと思えば!」
ニヤリと笑いながら、明日香が秋良に近づく。
「秋良じゃん!
ねえ、お前、将来どうすんの?
まさか、清掃員でも目指してんの?
あ、それなら高等数学いらないもんね~!」
一緒にいたグループの数人がクスクスと笑う。
秋良は一瞬で凍りつく。
言葉を返す余裕もない。
ただ、立ち尽くすだけだ。
(なんで……なんでいつも俺が……)
内心で呻きながら、秋良は視線を落とす。
足早にその場を離れた。
だが、心の奥では、別の思いが膨らんでいた。
どこか遠くへ――。
この現実から逃げ出したい。
その衝動が、じわじわと広がっていく。
秋良・翔太は黙って通り過ぎようとした。
だが、その瞬間。
グループの一人、太田大輝が、わざと肩をぶつけてきた。
「邪魔だよ、アウトサイダー。」
大輝の低い声。
まるで刃物のように、秋良の耳を切りつける。
嘲笑混じりの視線が背中に突き刺さる。
秋良は唇を噛む。
ただ、足を速めた。
(なんで……いつも俺が……)
廊下を抜け、男子トイレに逃げ込む。
個室のドアをガチャリとロック。
ようやく息をつく。
ポケットからスマホを取り出す。
通知が一つ、点滅していた。
父親からのメッセージだ。
「母さんが学部事務に電話したぞ。
いい加減、真面目にやれ、翔太。
俺たちはお前を信じてる。
でも、この無気力な態度はなんだ?
俺たちがお前の将来に投資してるのに、
お前は努力する気もないのか?」
メッセージを最後まで読まず、秋良は削除ボタンを押した。
手が震える。
視界が、まるで粘つく絶望の膜に覆われたようにぼやける。
(もう……うんざりだ……)
心の奥で、焼け焦げたような声が響く。
それは一時的な感情ではない。
彼の存在そのものを定義する、不変の事実だった。
秋良はもはや人間ではなく。
誰かの期待、誰かの非難、誰かの軽蔑。
それらを詰め込まれた器だった。
そして、その器は今、ひび割れの限界を迎えようとしていた。
秋良・翔太の唯一の逃げ場。
それは、街の郊外にある古びた森の公園だった。
誰も寄りつかない、半ば放置された場所。
彼にとって、そこは隠れ家そのものだった。
最後の講義を終えた秋良。
寮には戻らず、コンビニに立ち寄る。
財布の中の小銭をかき集めた。
一番安い炭酸飲料と、しわくちゃのパッケージのチーズサンドイッチ。
それらを握り潰しそうな勢いで手に持ち、川沿いの道を歩いた。
彼の「聖域」は、鬱蒼としたヨモギと柳の茂み。
その中に隠れた小さな崖だった。
眼下には、ゆっくりと流れる暗い川の水面。
秋良はそこに腰を下ろす。
背中をゴツゴツした老松の樹皮に預け、目を閉じた。
静寂。
木の葉のざわめき。
遠くの街の喧騒。
川の水が囁くような音。
それだけが聞こえる。
ネットの怪しげな自己啓発記事。
「心を無にする」瞑想を試みようとした。
だが、平穏なんて訪れない。
頭の中には、数学の公式の断片。
講師の嘲るような顔。
父の電話越しの声。
朝倉明日香のニヤついた笑み。
それらが次々と押し寄せてくる。
(頼む……黙ってくれ……一分だけでいいから……)
秋良は心の中で呻いた。
だが、頭の中の声は止まない。
それどころか、ますます大きく、しつこく響き合う。
まるで耳をつんざくような轟音に変わっていく。
圧力が限界に達する。
「みんなくそくらえ!
黙れよ、みんなくそくらえってんだ!」
秋良は突然立ち上がる。
心の底からの叫びを吐き出した。
声は森の静寂に吸い込まれる。
川面に小さく反響して、消えた。
だが、その叫びは、どこか遠くの「何か」に届いたかのようだった。
彼の知らないところで。
運命の歯車が、カチリと音を立てて動き始めた。
秋良・翔太の視界が揺らめいた。
徹夜の疲れ。
空腹。
神経のすり減り。
全てが重なり、頭がぐらりと傾く。
ふらつく足。
雨で削られた滑りやすい斜面の端。
それを、踏み外した。
恐怖を感じる暇すらなかった。
ほんの数秒。
宙を舞うような無重力の感覚。
背中を空に預け、急速に落ちていく。
――ガシャン!
氷のように冷たい衝撃。
全身を貫き、息を奪う。
そして、闇。
冷たく、無関心な闇。
それが彼を飲み込んだ。
その先で――静寂。
本物の静寂。
秋良が追い求め、けれど決して手に入れられなかったもの。
それが、そこにあった。




