メディアの覇者たち ―20年後に明かされる買収劇の真実―第3章~第5章
日本のメディア史に刻まれた買収騒動。その背後では、表に出ることのなかった人間の欲望と正義がぶつかり合っていた。
本作は、若き起業家とテレビ王国の守護者、そして影の投資家たちが交錯する、激烈な権力闘争を描いた超フィクションです。史実を下敷きにしつつ、あえて虚構を重ねることで、当時語られなかった“もしも”の物語を紡ぎます。
第3章 テレビ王国の守護者
第1節 悲願の人
都心・台場にそびえるフェニックステレビ本社ビル。青白い外壁にガラスが輝き、象徴的な球体展望室が朝の光を反射していた。業界の「王国」と呼ばれるその建物の最上階で、ひとりの男が静かに窓外を見つめていた。
氷室久遠。フェニックステレビ会長であり、グループ再編の象徴的人物である。長身をやや丸め、両手を背に組んで立つ姿には、二十年に及ぶ重責が刻み込まれていた。
彼が胸に抱き続けてきたのは、ただ一つの悲願だった。——親会社である東邦ラジオと、子会社であるフェニックステレビの逆転した関係を解消すること。
売上高は十倍以上の差がありながら、株式構造の歪みが続いてきた。氷室はその矛盾を解きほぐし、フェニックスを名実ともにグループの頂点に据えるべく奔走してきた。融資先を口説き、政治家に頭を下げ、数え切れぬほどの会議を繰り返した。その過程で敵も味方も入れ替わり、信頼できる部下も去った。それでも彼は歩みを止めなかった。
「あと一歩……ここまで来た。」
会長室の机には、最新の資金調達計画が置かれていた。総額一七〇五億円。これは東邦ラジオの株式を完全に取得するための資金であり、彼にとって二十年の労苦の結晶であった。
書類に視線を落としながら、氷室は静かに息を吐いた。重みは確かに感じる。だが、それは彼を押し潰すものではなく、むしろ彼の背を支える使命のように思えた。
窓外では、朝日を浴びて首都高速の車列が動き出していた。時代は変わりつつある。ネット企業の台頭、外資の進出——だが、氷室にとって「テレビ」という砦は揺るがない正義だった。
「守らねばならぬ。」
その言葉は、誰に向けたものでもなく、己自身への誓いだった。
氷室久遠にとって、この戦いは単なる企業買収ではなかった。二十年をかけた人生の総仕上げであり、自らの存在意義そのものだったのである。
第2節 王国の論理
フェニックステレビの役員会議室。壁一面のモニターには株価の推移や広告収入のグラフが映し出され、幹部たちが緊張した面持ちで席に着いていた。議題はただ一つ——親会社・東邦ラジオの完全子会社化計画についてである。
氷室久遠会長は、資料を手にゆっくりと口を開いた。
「諸君、このいびつな構造を正すときが来た。フェニックスが実際の経済的規模を持ちながら、法的には子会社である現状は、グループの発展を妨げてきた。我々の正義はテレビを守ることにある。」
幹部の一人が口を挟む。
「しかし会長、すでに外資や新興IT企業が我々を狙っているとの噂も……。」
「だからこそだ。」
氷室は声を強めた。
「外からの干渉を許さぬために、我々が自ら主導権を握らねばならぬ。」
会議室には重い沈黙が広がった。二十年にわたる会長の悲願を誰も否定できなかった。銀行からの資金調達は完了し、一七〇五億円という巨額の弾薬はすでに整っている。残るは実行のタイミングだけであった。
別の幹部が慎重に問う。
「もし買収に失敗すれば、グループ全体が揺らぎかねません。」
氷室は即座に答えた。
「失敗は許されない。これは悲願であると同時に必然だ。親子関係を正し、フェニックスを真の王国とする。それが私に課せられた責務だ。」
役員たちはうなずき合い、議論はやがて実務的な段取りへと移った。株主への説明、監督官庁への届け出、メディアへの発表の順序。細部まで詰められていく過程に、氷室は静かな満足を覚えた。
窓の外に目をやれば、東京湾の水面が光を反射していた。遠くに見えるタワーは新時代の象徴のようでもあったが、氷室にとっては揺るぎないテレビ王国を示す灯台であった。
——守るべきは王国の論理。
そう心に刻み込み、彼は席を立った。
第3節 資金の城壁
フェニックステレビ本社の地下二階、一般社員の立ち入らない特別会議室に、重役と銀行団の代表が顔をそろえていた。分厚い木製の扉が閉じられると、室内は静寂に包まれ、ただ資料をめくる紙の音だけが響いた。
氷室久遠会長は、正面に座る銀行頭取に視線を向けた。
「一七〇五億円。これが我々に必要な弾薬です。すでに調達は約定済みと理解してよろしいですね。」
頭取は無言で頷き、横に並ぶ幹部が契約書の表紙を机に置いた。金融機関にとっても、この案件はリスクを伴う巨大投融資であった。しかし、それでも資金が集まったのは、氷室の積み上げた信頼と、フェニックステレビというブランドの重みゆえだった。
「これで、いつでも仕掛けられる。」
氷室は小さく呟いた。
重役の一人が声を潜めて問う。
「会長、もし新興のネット企業が予想外の動きを見せた場合は?」
氷室は視線を動かさず、淡々と答えた。
「外様に王国を荒らさせるわけにはいかぬ。彼らが仕掛ける前に、我々が囲いを完成させる。それが最も確実だ。」
会議室の空気は硬く張り詰めた。金融機関の人間も、テレビ局の幹部も、氷室が抱く執念を肌で感じていた。二十年かけて積み上げた資金と人脈は、もはや一企業の域を超え、「テレビを守る」という大義のもとに城壁を築き上げていた。
契約書に次々と署名がなされる。ペン先が紙を走る音が、氷室にとっては剣の鍔鳴りにも聞こえた。
会議が終わり、全員が退出したあと、氷室はひとり残って机上の契約書を見つめた。書類の束は、紙にすぎない。だがそこに込められた数字は、王国を守るための防壁そのものだった。
——これで、準備は整った。
氷室久遠は深く椅子に腰を下ろし、静かに目を閉じた。
第4節 揺れる幹部たち
フェニックステレビ本社の重役会議は、いつになく重苦しい空気に包まれていた。長いテーブルの両側に並んだ幹部たちは、机上の資料を手にしながらも互いに視線を合わせようとせず、沈黙が支配していた。
氷室久遠会長は正面に座り、手元の資金調達計画書を軽く叩いた。
「一七〇五億円。すでに資金は整った。あとは実行あるのみだ。」
その言葉に幹部のひとりが意を決したように口を開いた。
「しかし会長……。この規模の資金投入は、グループ全体にとって大きなリスクです。もし外部からの妨害や、予期せぬ市場の変動があれば……。」
別の幹部がすぐに反論する。
「いや、むしろ今を逃せば二度と好機はない。ネット企業が力を増している今、テレビの独立性を守るには、我々が主導権を握るしかない。」
会議室の空気は一気にざわめき、賛否両論が交錯した。慎重派は財務の健全性を憂い、強硬派はテレビ王国の主導権を死守せよと主張する。
氷室は静かに両手を広げ、議論を制した。
「諸君、これは単なる買収ではない。二十年来の悲願であり、我々の未来を守る戦いだ。王国の礎を揺るがすものがあれば、必ず外から侵入してくる。だからこそ、我々が自ら手を下さねばならない。」
その言葉に、反論していた幹部たちも押し黙った。会長の声は低く抑えられていたが、そこに宿る執念は誰の心にも届いた。
会議の終盤、氷室はあらためて宣言した。
「我々の正義はテレビを守ることにある。時代がどう移ろおうとも、この使命は揺るがない。」
会議室に沈黙が戻ったとき、幹部たちの胸に去来していたのは、不安と同時に、会長の覚悟に巻き込まれていく予感だった。
第5節 王国の誇り
その日の午後、フェニックステレビの本社ロビーには多くの来客が行き交っていた。巨大な吹き抜けに響く足音、受付の前で交わされる挨拶、番組出演者を待つ若者たちのざわめき——すべてが、この放送局が「王国」と呼ばれるゆえんを示していた。
氷室久遠会長は、来客の視線を浴びることなく、専用エレベーターで最上階へ上がった。エレベーターの扉が閉まると、静寂が戻り、彼は小さく深呼吸した。二十年の執念が、今まさに結実しようとしている。
会長室に戻ると、机上には新しい業界紙が置かれていた。見出しには「テレビ王国の未来は揺らぐのか」とあり、ネット企業の台頭を不安視する論調が並んでいた。氷室は一瞥し、すぐに紙を伏せた。
「外野の声などに耳を貸す必要はない。」
彼の視線は窓の外へ向かった。東京湾の水面が夕陽を反射し、その先にはフェニックス本社のシンボルである球体が輝いていた。あの建物は、彼にとってただのオフィスではなく、守るべき「王国」の象徴であった。
思えば若き日にラジオ局の一社員としてスタートしたときから、この歪んだ構造を正すことが使命だと感じてきた。テレビは時代を映す鏡であり、国民の文化そのものを形作る力を持っている。その根を外資や新興の企業に委ねてはならない。
「テレビを守る。それが私の正義だ。」
口にした瞬間、胸の奥に燃えるような熱が走った。もはや迷いはなかった。資金は整い、幹部の議論も収束しつつある。残されたのは、実行の時を決めるだけだった。
机に置かれた資金調達計画書に手を置きながら、氷室は静かに目を閉じた。二十年の執念と誇り、そのすべてがこの戦いに注ぎ込まれるのだと改めて心に刻んだ。
第6節 静かな決意
夜、フェニックステレビの会長室には誰もいなかった。昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、窓の外には東京湾を行き交う船の灯りが点々と浮かんでいた。氷室久遠は背広を脱ぎ、シャツの袖をまくったまま机に座っていた。
机上には数冊のバインダーが重ねられ、そこには資金調達計画、株式取得スケジュール、監督官庁への届け出に関する準備書類が整然と並んでいた。二十年かけて積み上げた努力の集大成。その一枚一枚に、自らの人生が刻まれているように思えた。
「ここで立ち止まれば、すべてが無になる。」
氷室は低く呟き、手にした万年筆でバインダーの余白に日付を書き入れた。実行の日は、もう目前に迫っていた。
ふと、過去の記憶が胸をよぎった。若いころ、地方のラジオ局でスポンサー獲得に奔走していた自分。夜通し机にかじりつき、広告主に頭を下げ続けた日々。あのとき抱いた「テレビこそ時代を導く媒体になる」という確信が、今も消えてはいない。
窓辺に立ち、夜景を見下ろした。高速道路の車の列は絶え間なく流れ、人々の生活はテレビを通して映し出される。フェニックステレビは、ただの放送局ではなく、この国の文化を背負う器だと氷室は信じていた。
「守るために戦う。それだけだ。」
彼の声は小さかったが、確固たる響きを持っていた。外からの干渉、新興勢力の挑戦、予期せぬ妨害——すべてが来るだろう。だが、自分は揺らがない。
机に戻り、書類の束を閉じた。会長室の時計は深夜を告げていた。静かな決意が、氷室久遠の胸に深く沈み込んでいた。
第7節 守護者の誓い
翌朝、フェニックステレビ本社のロビーには来客が溢れ、報道陣のカメラが並んでいた。新番組発表会見を控えた華やかな雰囲気の裏で、重役専用エレベーターは静かに最上階へと上がっていた。
会長室に姿を現した氷室久遠は、窓辺に立ち、都心を覆う薄曇りの空を見上げた。机上には昨夜確認したばかりの資金調達計画と株式取得スケジュールが整然と置かれている。すでに準備は整った。残されたのは、引き金を引くその瞬間だけである。
「二十年、長かったな……。」
小さく漏れた言葉は、執念と誇りが混じった独白だった。東邦ラジオに従属する構造を解消し、フェニックスを名実ともに王国の頂点に据える。その悲願を果たす日が目前に迫っている。
ドアをノックして入ってきた秘書が一枚の資料を差し出した。業界紙の最新号には「テレビ王国を狙う新興勢力」という特集記事が踊っていた。氷室はそれを黙って受け取り、机の端に置いた。
「騒がせておけばいい。」
短い言葉の奥に、彼の揺るぎない自負が滲んでいた。
会議室に移ると、幹部たちがすでに揃っていた。氷室は正面に座し、静かに口を開いた。
「諸君、準備は整った。あとは我々が一丸となり、必ず成し遂げるだけだ。外の勢力に王国を荒らさせてはならない。守るべきは、テレビの誇りである。」
その言葉に、幹部たちは重々しく頷いた。慎重派の胸中には依然として不安が残っていたが、会長の意志に抗うことはできなかった。二十年の執念に引き寄せられるように、彼らもまた「守護者」としての覚悟を固めていくのだった。
会議が終わり、氷室は再び会長室に戻った。窓の外に広がる曇天は、嵐の前触れのように見えた。しかし彼の瞳には、不思議な静けさが宿っていた。
——王国を守る。それが自らの宿命。
氷室久遠は、誰に聞かれることもない誓いを胸に刻んだ。
第4章 水面下の暗闘、奇策の浮上
第1節 公開買付けの衝撃
新年を迎えた都心の証券街には、なお正月気分の残る穏やかな空気が漂っていた。だがその裏で、フェニックステレビの会長・氷室久遠は、静かに総仕上げに向けて動き始めていた。二十年の悲願を実現するため、すでに一七〇五億円もの巨額な資金を調達し終えていたのである。
「ついに仕掛ける時が来た。」
会長室でそう呟いた氷室の眼差しは冷徹そのものだった。これ以上の遅延は許されない。親会社である東邦ラジオの株式を一気に買い集め、フェニックスを名実ともに王国の頂点に据える——そのための作戦は、公開買付け、すなわちTOB(Take Over Bid)だった。
公開買付けの情報が証券関係者に流れるや、市場には緊張が走った。テレビ業界の頂点を担う企業が、自らの親会社を取り込むという前例のない試み。株式市場にとっても、国家的な影響を及ぼす重大事件にほかならなかった。
東邦ラジオの株主たちにとって、提示された買付け価格は破格であった。長年停滞してきた株価に比べれば、まさに「僥倖」と言える水準。多くの株主は即座に応じる姿勢を見せ、市場の空気は氷室の勝利を予感させた。
一方そのころ、ライブリンク社の鳳谷隆真もまた、この動きを知ることとなる。氷室が満を持して仕掛けたTOBは、彼にとって想定以上の脅威だった。
「これでは、先に五割を握られる……。」
鳳谷は資料を睨みながら、焦燥を隠せなかった。外資からの資金調達は進んでいたが、氷室の一七〇五億円という圧倒的な資金力を前にすれば、その一歩一歩が追い詰められるように感じられた。
市場はすでに大きく揺れ始めていた。買い気配が殺到し、株価は急騰。新聞各紙は「フェニックス、東邦完全子会社化へ」「テレビ王国、悲願の成就か」と一斉に報じた。
だが、この公開買付けの衝撃こそが、鳳谷と紫垣義道に奇策を練らせる契機となるのだった。
第2節 追い詰められる若き経営者
公開買付け開始の報が流れた翌朝、ライブリンク社のオフィスは騒然としていた。社員たちはニュースサイトや経済紙を食い入るように見つめ、廊下では不安げな囁きが飛び交っていた。
「フェニックスが動いたらしい……。」
「これじゃ、もう勝ち目はないんじゃないか。」
噂は瞬く間に広がり、社内の空気は重苦しさに覆われた。
役員会議室では、鳳谷隆真が報道各紙を机に並べていた。見出しはどれも氷室会長のTOBを称賛し、既成事実化しているかのようだった。
「これで五割を取られたら、すべて終わりだ。」
財務担当役員が青ざめた表情で言うと、別の幹部も声を重ねた。
「資金の規模が違いすぎます。正攻法では到底かなわない。」
沈黙が流れる中、鳳谷は唇を噛み、資料を睨みつけていた。氷室の資金力、世論の流れ、株主の心理——そのすべてがこちらに不利に働いていた。
午後、紫垣義道が秘書を伴って姿を現した。彼は落ち着き払った様子で席に着き、新聞の見出しを指先で軽く叩いた。
「予想通りの手を打ってきたな。だが、あれはあくまで表の戦いだ。」
鳳谷はすぐに食いついた。
「表の戦い……? じゃあ、裏はあるのか。」
紫垣は静かに笑った。
「法律にも、市場にも、必ず盲点はある。公開買付けで世間を騒がせている間に、我々が動けばいい。勝負はまだ終わっていない。」
会議室の空気がわずかに揺れた。幹部たちは互いに顔を見合わせたが、誰も言葉を発しなかった。氷室の巨額な資金力に追い詰められた今、この男の提案だけが唯一の突破口に思えたからだ。
「……奇策があるのか。」
鳳谷の問いに、紫垣は短くうなずいた。
その瞳には、長年市場で戦い抜いてきた投資家特有の冷徹な光が宿っていた。
第3節 盲点を突く提案
夕刻、ライブリンク社の会議室。窓の外は暮れなずむ都会の光で染まり、机上の蛍光灯だけが冷たく輝いていた。鳳谷隆真と数名の役員、そして紫垣義道が向かい合って座っていた。
紫垣はゆっくりと資料を取り出し、机の中央に差し出した。そこには「ToSTNeT-1」という聞き慣れない文字が躍っていた。
「時間外取引の仕組みです。」
紫垣の声は低く落ち着いていた。
「市場を通さず、相対で株式をやり取りできる。相手さえ見つければ、証券取引所の枠内で堂々と売買できるのですよ。」
役員の一人が怪訝そうに眉をひそめた。
「そんな方法が……許されるのですか?」
「法の盲点だ。」紫垣は即答した。
「公開買付けのように派手に宣伝する必要もない。氷室が資金を投じ、表の市場で株を集めている間に、我々は静かに大量取得を進める。気づいたときには、すでに遅い。」
会議室に沈黙が走った。鳳谷は資料を凝視し、指先でページをめくった。証券取引所の規定、時間外市場の取引条件、そして過去の実例。すべてが合法の範囲内で成立していた。
「……確かに、これなら氷室に知られずに株を積み上げられる。」
鳳谷の言葉に、役員たちがざわめいた。資金調達の難しさは残る。だが、奇襲を仕掛けられる唯一の道が目の前に示されていた。
紫垣は小さく笑みを浮かべた。
「勝負は時間です。彼らが世論を味方につけている間に、我々は沈黙のうちに形を作る。鳳谷さん、これはあなたにしかできない挑戦だ。」
鳳谷は長く息を吐き、椅子の背にもたれた。氷室の圧倒的な資金力に押し潰されかけた胸の奥で、再び炎が灯るのを感じた。
——奇策。
それは確かに、閉ざされた扉をこじ開ける鍵のように思えた。
第4節 密やかな準備
ToSTNeT-1という奇策を知った翌日から、ライブリンク社の内部は静かに、しかし慌ただしく動き始めた。表向きは通常業務を続けながら、限られた幹部と信頼できる証券会社の担当者だけが、秘密裏に株式の買付け計画を進めていた。
「この件は社内でもごく一部に留める。外に漏れれば即座に潰される。」
鳳谷隆真はそう言い、関与する人間の名を一枚の紙に記した。そこには十人にも満たない名前しかなかった。
証券会社の担当者は、時間外取引の枠を使い、売り手となる機関投資家や金融機関と接触を始めた。表の市場では氷室会長のTOBが派手に報じられていたが、その陰で静かに取引条件の擦り合わせが進んでいく。
ある夜、鳳谷は証券会社の一室で、厚いカーテンの閉じられた会議机に座っていた。担当者が示すリストには、売却に応じる可能性のある機関投資家の名が並んでいた。
「ここを押さえれば、一気に二%は積み上げられます。」
「残りは……。」
「数は少なくとも、合わせれば臨界点に届く。」
鳳谷は無言で頷いた。胸の内では焦りが募っていた。氷室が動く速度は速く、公開買付けは順調に進んでいるとの報道が連日流れていた。対抗するには、この密かな作戦を一刻も早く実行に移すしかない。
深夜、オフィスに戻った鳳谷はホワイトボードに数字を書き込んだ。二〇%、二五%、二八%……。赤いマーカーで囲った「三〇%」の文字を何度もなぞりながら、拳を強く握りしめた。
「必ず間に合わせる。」
誰に聞かせるでもない声が、静かな部屋に響いた。水面下の準備は確実に進み、ついに奇襲の時が近づいていた。
第5節 迫る刻限
氷室久遠による公開買付けが本格化し、東邦ラジオの株価は急騰していた。市場では連日「フェニックスによる完全支配が近い」と報じられ、株主たちは競うように応募の意思を示していた。
ライブリンク社の執務室で、その記事を広げた鳳谷隆真は深く眉を寄せた。
「このままでは、五割を取られる……。」
財務担当役員は焦燥を隠せず、机上のシミュレーションを指差した。
「公開買付けが進むスピードは想定以上です。残り時間はわずか。奇策を実行するなら今しかありません。」
沈黙が重く垂れ込める会議室に、紫垣義道がゆっくりと口を開いた。
「刻限は近い。市場が開く前の一瞬、ToSTNeT-1を用いれば一気に三割を押さえることができる。重要なのは、氷室に気づかれる前に走り切ることだ。」
「だが、資金繰りは限界に近い。」
幹部の一人が反論する。しかし紫垣は微動だにせず、静かな声で言った。
「勝負は資金の多寡ではない。速さだ。」
鳳谷は机上の数字を見つめた。外資からの融資はすでに手配済み、証券会社との調整も整っている。あとは決断するだけ。だがその一歩を踏み出せば、もはや後戻りはできない。
夜更け、鳳谷は再びホワイトボードに「三〇%」と書き込み、その下に赤い線で「刻限」と記した。数字の下に小さく書き添えたのは、「二月八日」。
——残された時間は、わずか数日。
都会の夜景を背に、鳳谷は立ち尽くした。秒針の音がやけに大きく響き、迫り来る刻限を告げているかのようだった。
第6節 静かな決行前夜
二月七日の深夜、ライブリンク社の会議室にはわずか数名の幹部と紫垣義道が集まっていた。外の街は眠りについていたが、ここでは誰ひとりとして瞼を閉じようとしなかった。
テーブルの上には厚い封筒が積まれ、その中には外資銀行からの融資契約書と証券会社との取引確認書が収められていた。鳳谷隆真はその一枚一枚を指で確かめるように撫で、深く息を吐いた。
「明日の午前八時二〇分。そこで全てが決まる。」
紫垣は淡々と告げた。声は小さいが、その響きは鋭かった。
「氷室の公開買付けが派手に世間を騒がせている間に、我々は時間外取引で一気に三割近くを握る。彼が気づいたときには、勝負は終わっている。」
幹部のひとりが震える声で問いかけた。
「失敗したら……どうなる。」
「失敗は許されない。」鳳谷が即答した。
「我々は退路を断った。やるしかないんだ。」
会議室に沈黙が落ちた。外の闇が窓に映り込み、そこに座る全員の顔を青白く照らしていた。
午前零時を回り、鳳谷は立ち上がった。ホワイトボードには大きく「三〇%」と赤字で書かれ、その横に「八時二〇分」と刻まれていた。彼はその数字を見つめながら、心の中で自らに言い聞かせた。
——これは博打ではない。必然だ。
氷室の二十年の悲願に挑むには、奇策しかない。その奇策を成功させるのは、他の誰でもない、自分だ。
窓の外、夜明けの気配がわずかに広がっていた。決行の刻限は、すぐそこまで迫っていた。
第7節 嵐の前の静寂
二月八日、午前七時半。冬の冷たい空気が都心を包み、通勤客が足早に駅へと向かっていた。その喧騒を背に、ライブリンク社の役員フロアは異様なほど静まり返っていた。
会議室には鳳谷隆真と数名の幹部、そして紫垣義道が集まっていた。テーブルには分厚い契約書類と端末が並べられ、スクリーンには取引開始を告げるカウントダウンが映し出されていた。
「あと五十分……。」
誰かが呟いた声が、広い部屋に反響した。
鳳谷は椅子に深く腰掛け、視線を一点に集中させていた。前夜までに全ての準備は整えてある。外資銀行からの資金、証券会社との取引条件、そして売却に応じる機関投資家のリスト。すべてが揃った。あとは引き金を引くだけだ。
紫垣は落ち着いた口調で言った。
「この二十八分がすべてです。氷室が気づく前に、我々は筆頭株主になる。」
幹部の一人は冷や汗を拭いながら問う。
「もし取引が途中で露見したら……。」
「露見しても構わん。終わった後なら、もう止められない。」
紫垣の答えは冷酷なほど明快だった。
壁時計の針が刻む音が、やけに大きく響いた。鳳谷は胸の奥で熱い鼓動を感じながらも、表情には出さなかった。彼にとってこれは、博打ではなく必然。二十年の悲願に挑むための、ただ一つの手段だった。
外の空は次第に白み始めていた。市場が開く瞬間が迫る。
会議室に漂う緊張は、嵐の前の静寂のように張り詰めていた。
第5章 運命の28分、怒りの反撃
第1節 取引開始
二月八日午前八時二〇分。証券取引所のシステムが静かに動き出し、鳴りを潜めていた数字が一斉に点滅を始めた。取引開始の合図とともに、ライブリンク社の端末には待ち構えていた発注が次々と走り込んだ。
鳳谷隆真は深く息を吸い込み、モニターを凝視した。緊張で背筋に汗が滲むのを感じながらも、声は揺れなかった。
「始めろ。」
証券会社の担当者が素早く操作を進め、時間外取引専用の画面に売買注文が流れ込んでいく。ToSTNeT-1──その仕組みを利用した電撃作戦は、まさにここで発動した。
午前八時二五分、最初の大口取引が成立。瞬時に数百万株がライブリンク社の名義へと移動した。幹部の一人が声を上げた。
「成功です! 第一弾、確保!」
紫垣義道は眉一つ動かさず、次の注文を促した。
「まだだ。三割に届かなければ意味がない。」
秒針が刻むごとに、市場外での巨額の取引が成立していった。鳳谷の胸は早鐘のように打ち続けていたが、その目は鋭く画面の数字を追っていた。
八時四八分、全ての注文が完了した。端末に浮かび上がった数字は、二九・六三%。
その瞬間、会議室に押し殺したような歓声が広がった。
鳳谷は拳を握りしめた。
「これで……俺たちは筆頭株主だ。」
しかし、静かな勝利の余韻は長く続かなかった。すでにその頃、氷室久遠の執務室へ緊急の電話が入ろうとしていた。
第2節 緊急報告
同じ二月八日午前八時四八分。
都心の高層ビルにある放送局本社の会長室。その重厚なドアが荒々しく叩かれた。
「会長! 一大事です!」
秘書が駆け込むや否や、氷室久遠は椅子からゆっくりと立ち上がった。窓の外には朝の陽光が差し込み、静かな都会の景色を照らしていた。しかし室内の空気は一瞬にして緊張に包まれた。
「どうした。」
氷室の低い声に、秘書は息を整える暇もなく報告した。
「ライブリンクが……日本放送株を時間外取引で大量に買い集めました。取得割合は二九・六三パーセント。……筆頭株主になりました。」
その言葉を聞いた瞬間、氷室の表情が凍りついた。
二十年にわたって温め続けてきた悲願を目前に、背後から突き刺されたかのような衝撃だった。
「……何時にだ。」
「午前八時二〇分の取引開始直後です。二十八分間で一気に……。」
秘書の声は震えていた。氷室の眼差しは窓の彼方、薄く霞む街並みを捉えていた。
「二十八分……。」
彼は低く呟いた。長年積み上げてきた努力が、わずか半時間にも満たぬ間に覆された現実。
怒りが腹の底から込み上げてきた。握りしめた拳の爪が手のひらに食い込み、血が滲みそうなほどだった。
「徹底的に反撃する。」
会長室の空気は一瞬にして嵐の前のように張り詰めた。秘書は息を呑み、氷室の言葉を待った。
「法も契約もすべて総動員だ。彼らにこの代償を思い知らせてやる。」
その声は冷酷で、容赦がなかった。
長年「テレビ王国」を守り続けてきた男が、ついに怒りに震え、剣を抜こうとしていた。
第3節 反撃の号令
氷室久遠は会長室の机に両手をつき、重々しい声で幹部たちを呼び集めた。
「至急、全局の経営幹部をここに集めろ。財務部も、法務部もだ。」
数分後、慌ただしい足音とともに幹部が次々と会長室へ駆け込んできた。皆、先ほどの速報を耳にしていた。表情には不安と緊張が刻まれていたが、氷室の顔を見た瞬間、誰もが口を閉ざした。
「ライブリンクが筆頭株主になった。だが、我々の手にはまだ切り札がある。」
氷室の声は低く、しかし一点の曇りもなかった。
彼は矢継ぎ早に指示を出した。
「まず、系列各社へのシステム提供契約を停止せよ。彼らに依存している部分はすぐに打ち切る。次にリース契約を凍結だ。サーバーや通信回線に関わる取引は一切止めろ。」
財務担当役員が躊躇いがちに口を開いた。
「それでは、数十億単位の損失がこちらにも……。」
「構わん。」氷室は一刀両断に言った。
「失うもの以上に、守るべきものがある。」
重苦しい沈黙が会議室を包んだ。氷室はさらに言葉を続けた。
「この二十年、我々は日本の放送を守るために戦ってきた。外から来た新興勢力に踏みにじられるわけにはいかない。彼らが血を流すまで、徹底的に抗戦する。」
その瞳には、長年の悲願を阻まれた怒りと、絶対に譲れぬ決意が宿っていた。
幹部たちは互いに顔を見合わせた。氷室の指示は苛烈であり、同時に明快だった。彼らは覚悟を固めるしかなかった。
こうして、ライブリンクに対する「報復」は静かに始まった。
第4節 襲いかかる報復
同じ日の午後。ライブリンク社の執務フロアに、次々と異常事態が報告され始めた。
「サーバー更新が止まりました!」
「系列からのデータ回線が遮断されています!」
「リース契約が一斉に凍結され、機材が使えなくなりました!」
報告を受けるごとに、鳳谷隆真の表情は険しくなっていった。前日の夜まで入念に整えた体制が、わずか数時間で崩れ去ろうとしていた。システム障害は取引先への業務遅延を生み、広告収益に直撃する。被害額は瞬く間に数十億円規模へと膨らんでいった。
「氷室か……。」
鳳谷は低く呟いた。背筋を伝う冷たい汗が止まらなかった。
紫垣義道が冷静な口調で言った。
「想定通りだ。彼らは徹底抗戦に出た。問題は、こちらが耐えられるかどうかだ。」
幹部のひとりが声を荒げた。
「このままでは資金繰りがもたない! 追加融資を確保しなければ……。」
鳳谷は椅子から立ち上がり、拳を机に叩きつけた。
「弱音を吐くな! 我々は筆頭株主だ。ここで引けば全てが水泡に帰す!」
声は震えていたが、瞳には必死の光が宿っていた。
ライブリンクは確かに歴史的な瞬間を手にした。しかしその代償として、氷室の怒りという嵐が容赦なく襲いかかってきた。
オフィスに鳴り響く警告音と電話のベル。誰もが胸の奥で感じていた。
これは勝利ではなく、新たな地獄の始まりにすぎないのだと。
第5節 余波と孤立
ライブリンク社の執務フロアには、張り詰めた空気が淀んでいた。各部門から届く報告はどれも暗い内容ばかりだった。
「金融機関が追加融資の検討を凍結しました。」
「広告主が相次いで契約条件の見直しを求めています。」
「系列局の一部が、取引関係の再考を始めました。」
鳳谷隆真は、報告を受けるたびに奥歯を噛みしめた。
筆頭株主という栄冠を得たはずの彼が、実際には包囲網に追い込まれつつあった。
「我々が二九%を握っている事実に変わりはない。だが、このままでは……。」
紫垣義道が言葉を濁す。氷室による反撃は、資金面だけでなく世論操作にまで及び始めていた。新聞やテレビは一斉にライブリンクを「異端の侵入者」として報じ、社会の空気までも敵に回していた。
幹部たちは互いに視線を交わしたが、誰も口を開こうとはしなかった。
鳳谷はその沈黙を痛いほど感じ取った。味方であるはずの人々の心が、次第に遠のいていく。
「孤立か……。」
鳳谷は心の中で呟いた。彼が夢見た「世界一の会社」は、今や氷室の怒りに晒され、土台ごと揺らいでいた。
窓の外では冬の空が曇り始めていた。厚い雲の切れ間から、淡い光がわずかに差し込む。その光を見上げながら、鳳谷は自らの胸に問いかけた。
——俺は本当に勝者なのか。
第6節 攻勢の拡大
氷室久遠は会長室で幹部たちを前に、次の一手を淡々と告げた。
「系列金融機関に圧力をかけろ。ライブリンクへの貸出枠をすべて見直させる。さらに、我々に理解ある株主を糾合し、共同戦線を張るのだ。」
法務部長が頷きながら言葉を添える。
「すでに信託銀行筋には連絡を入れております。株式の議決権行使で、ライブリンク側を封じ込められるでしょう。」
氷室は表情を崩さぬまま続けた。
「彼らが得意とする奇策は長くはもたない。最後に物を言うのは、資金力と組織力だ。」
その頃、ライブリンク社ではさらなる打撃が報告されていた。
「新規の取引先がすべて契約を保留しました!」
「証券会社が担保差し入れを追加要求しています!」
鳳谷隆真は机に身を乗り出し、報告書を睨みつけた。指先が白くなるほど拳を握りしめても、事態を変えることはできなかった。
紫垣義道が低く言った。
「これは包囲網だ。氷室は一歩も引かない。我々に残された道は……。」
鳳谷は答えを返さなかった。返せなかった。
胸の奥ではまだ闘志が燻っていたが、現実は容赦なく彼を締め付けていた。
テレビ王国の守護者が振り下ろした一撃は、確実にライブリンクの息の根を止めようとしていた。
第7節 決定的な打撃
午後遅く、ライブリンク社の会議室には重苦しい沈黙が漂っていた。朝の快挙からわずか数時間で、状況は一変していた。
「追加融資、すべて見送りです。」
財務担当役員の報告は、死刑宣告のように冷たかった。
「銀行各行が一斉に貸出枠を引き揚げました。資金繰りは……一週間もたないかもしれません。」
鳳谷隆真は椅子に沈み込み、天井を見上げた。朝、筆頭株主となった歓喜の瞬間が遠い幻のように思えた。
——二十八分で掴んだ栄光は、半日で崩れ去るのか。
紫垣義道が低く告げた。
「市場は氷室側に傾いた。彼は銀行も、世論も、株主も取り込んだ。奇策で勝ち取った優位は、すでに風前の灯だ。」
オフィスの窓の外では夕闇が迫り、街の灯がともり始めていた。だが鳳谷の胸の内は、光を失った深淵に沈んでいた。
幹部の一人が恐る恐る口を開いた。
「……ここで退くという選択肢も。」
鳳谷は顔を上げ、鋭い眼差しでその言葉を遮った。
「退く? 俺はここまで来たんだぞ。負けを認めるくらいなら——。」
言葉は最後まで続かなかった。唇が震え、声が喉に詰まった。
彼の視線の先にあったのは、朝には勝利の象徴だった株式取得リスト。しかし今は、それが鎖のように彼を縛り付けていた。
こうして、二十八分の勝利は氷室の報復によって打ち砕かれた。
残されたのは、膨れ上がる損害と、鳳谷の胸に残る深い絶望だけだった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。今回公開した内容では、テレビ王国を守るために動く冷泉の決意、株式市場の裏で繰り広げられる駆け引き、そして時間外取引という奇策による逆転劇までを追いました。
理想と現実、正義と正義がぶつかり合う場面を、少しでも緊張感を持って感じていただけたなら幸いです。