メディアの覇者たち ―20年後に明かされる買収劇の真実―第1章~第2章
かつて日本社会を揺るがした「放送局買収騒動」から二十年。テレビとネットが激しく衝突し、正義と正義がぶつかり合ったその時代は、今もなお私たちの記憶の底に残響を残しています。
本作は、若きIT経営者、テレビ王国の守護者、そして影の投資家たちが織りなす権力闘争を、史実を下敷きにしつつも大胆にフィクション化した物語です。
事実は小説より奇なり。しかし小説だからこそ描ける真実があります。読者の皆さまに、メディアの未来を考えるきっかけをお届けできれば幸いです。
序章 2025年の残響
二〇二五年、東京。
かつて日本中を揺るがせた「放送局買収騒動」から二十年の歳月が流れていた。街の至るところに設置された大型モニターは、もはやテレビ局の専売特許ではなく、ネット配信と巨大プラットフォームが日常を支配している。だが、あのとき「テレビを守る正義」と「ネットとテレビを融合させる正義」とが正面から衝突した記憶は、今なお社会の底に残響として響き続けていた。
都心の雑居ビルに間借りした小さな編集室。ジャーナリストの浅野誠一は、古びたファイルを机に広げていた。黄ばんだ資料の表紙には「二〇〇五年 二月八日」の文字が記されている。
「二十八分間の奇襲……。」
彼は独り言のように呟いた。
当時、IT企業の若き経営者が、時間外取引を駆使して老舗放送局の親会社株を一気に買い集め、筆頭株主となった。二十年の悲願を目前にしていたテレビ界の重鎮は、その報せを聞いた瞬間、怒りに震え、反撃へと舵を切った。
浅野は、インタビュー用のノートをめくりながら、取材先の名前を一つひとつ確認した。
「氷室に仕えた幹部、紫垣と行動を共にした投資家、そして当時の政財界関係者……。まだ口を開いていない者は多い。」
窓の外には、かつてのテレビ塔が沈黙を守るようにそびえていた。
——あの騒動は本当に「経済事件」だったのか。
——それとも、権力の意志が未来をねじ曲げたのか。
浅野は記録用のペンを握りしめた。真実を追うには、二十年前の当事者たちの胸中に迫らねばならない。表に出なかった「怒り」と「陰謀」、そして「もしも」の可能性を掘り起こすために。
ファイルを閉じた瞬間、彼の耳に確かに響いたのは、あの時代の残響であった。
それは、メディアという巨大な力をめぐって繰り広げられた、壮絶な権力闘争の記憶にほかならなかった。
第1章 ITの寵児、野望の萌芽
第1節 四季報の余白
夜明け前の都心は、ガラスの壁面にまだ色を持たない。高層の一角にあるライブリンク社の執務フロアでは、清掃用ワゴンの音も遠く、空調の吐息だけが規則正しく続いていた。
鳳谷隆真は、自席のデスクライトだけを点け、分厚い業界年鑑——四季報を横に倒すように開いていた。背表紙は何度も折り返され、余白には黒と赤の二色の書き込みが層をなし、ところどころに付箋が飛び出している。ページの端、親会社と子会社の欄が上下に並ぶところで、彼の手は止まった。
「……親が三百八、子が三千五百八十一。」
口の内側で数字を転がすとき、鳳谷の目は冷めたように静かになる。彼にとって数字は抽象の記号ではなく、循環する血液の流量に等しかった。多すぎればむくみ、少なすぎれば壊死する。企業の階層における血流——その逆転した流れは、常識的には長くはもたない。
東邦ラジオ。親会社。売上高三百八億。
フェニックステレビ。子会社。売上高三千五百八十一億。
細い赤線が、上下の欄の間を斜めに結んだ。赤は鳳谷が異常の印に使う色だった。さらに、欄外に短く「親<子」と書き、二重線で囲む。余白の隅には、矢印だけが静かに増えていく。東邦からフェニックスへ、フェニックスからグループ各社へ、広告・制作・コンテンツ配信の流れ。紙面の上では矢印だが、裏側では資金と意思決定の方向を意味する。
世の中はすでにブロードバンドの常態化に向かっていた。鳳谷は、回線速度が生活の速度を決め、生活の速度が産業の速度を変えることを、肌で知っている。大学を離れて四年で上場にこぎ着けたという経歴は、美談にする気はなかった。必要な時に必要な資金を得て、必要な人材に必要な課題を投げる。その繰り返しが、結果としてそう見えているだけだ。
デスクの端で、スマートフォンが小さく震えた。午前四時五十二分。スケジュールのリマインダーには「四季報、放送欄再点検」とだけある。
「再点検」という言い回しを鳳谷は好んだ。一度見て終わりにしない。前提が変われば読みは変わり、読みが変われば打ち手も変わるからだ。四季報のページは数日にわたって繰り返し開かれ、その都度書き込みは増え、余白は痩せていく。
東邦ラジオという親会社は、戦後から続く歴史を背負っている。電波は公共のもの、という前提が意思決定の速度に制約を与える一方で、テレビという巨大な受像器の帝国は、今もなお広告の王である。
鳳谷はページをめくり、持株比率の欄を指先で追った。法定開示の数字は正確である。正確であるがゆえに鈍い。鈍いがゆえに、そこに速度を差し込む余地が生まれる。彼が繰り返し学んできたのは、この時間差の使い方だった。
メモ帳を引き寄せ、二本の直線を引く。
——東邦ラジオ(親)
——フェニックステレビ(子)
両者の間に小さな×印を置き、「上下逆転」と記す。
さらに、親会社の欄に小さく鉛筆で「統制」「議決」の二語を書き込み、子会社の欄には「事業規模」「収益源」を並べた。紙の上に置かれた四語は、裸の名詞でしかない。だが、それらの重みの違いこそが、組織の現実を形づくる。
「子を押さえるには、親を押さえる。」
声は小さいが、言葉は具体だった。企業の支配に至る経路は幾つかある。正面からの提案もあれば、合意の上での再編もある。だが、株式の比率が決定するものを、最終的に否定できる権利はない。
四季報の別ページの端に、鳳谷は三つの丸を描いた。資金、時間、法。資金は調達の価格、時間は競合の呼吸、法は手段の限界。三つの丸はどれ一つ欠けても前に進まない。丸と丸の間に、細い線で矢を走らせる。矢の先には「東邦」とだけ書き、横に小さく「→フェニックス」と注釈を付けた。
窓の外がわずかに青くなり始めていた。
鳳谷は一度だけ椅子から立ち上がり、背を伸ばす。壁際のホワイトボードには、前夜までに書かれた別案件の図が残っている。EC、決済、動画配信。どれもライブリンクの基幹であり、目の前の数字遊びが気分転換に過ぎないことを、彼は十分に自覚していた。
「そんな金は、ない。」
自嘲ではない。現状の資金繰りで、東邦ラジオの過半を狙うのは現実的ではない。手元資金、時価総額、信用枠。列挙していけば、答えは明瞭になる。
しかし、明瞭な答えは、しばしば正解ではない。
四季報の余白に、鳳谷はもう一度だけ赤い線を引いた。今度は親と子の欄のあいだに、弓なりの曲線を描く。矢印は付けない。意味を確定させないためだ。線だけが、紙の上で静かに弧を閉じる。
執務フロアの奥、機械室の扉の隙間から、サーバーラックの青いLEDが規則正しく瞬いているのが見えた。点いては消え、消えては点く。その無機質な明滅は、都市の心拍のようでもあり、彼の思考のクリック音のようでもあった。
大学を去ってからの四年、鳳谷は、人が信じる物語よりも、機械が吐き出すログを信じてきた。ログは言い訳をしないし、疲れもしない。だが、人を動かすのは、結局のところ物語である。テレビが背負ってきた物語の重さを、彼は軽んじてはいない。軽んじてはいないが——変えられないものとして受け入れるつもりも、ない。
机上の四季報を閉じかけ、思い直して、もう一度だけ該当ページを開いた。
欄外に、短く書く。
「親を見よ。子が揺れる。」
書いてから、自分の文字を見つめる。言葉は、言葉になって初めて輪郭を持つ。輪郭を持てば、反論もまた生まれる。
「親を見よ。子が——守る?」
赤い線で「守る」の二字に薄く斜線を入れ、横に小さく「支配/保護」と分けて書き足す。意味の差異は、のちのち論点になる。自分の中に反論を育てておくのは、彼の癖であり、用心でもあった。
時計の針が五時を回った。東の空が白むにつれて、フロアの蛍光灯は相対的に色を失っていく。
鳳谷は四季報を閉じ、背表紙を手のひらで軽く叩いた。冊子の厚みは、情報の厚みを示さない。必要なのは、厚みの中から「いま使える一枚」を抜き出す作業だ。
その一枚が、偶然このページに挟まっていたに過ぎないのか。彼はまだ、そう思っているふりができた。ふりができるうちは、衝動は衝動のまま飼いならせる。
デスクライトを消し、外の光に任せる。青いLEDの点滅は変わらない。都市は起き、会社は動く。人は、考える。
鳳谷は四季報とメモ帳を脇に抱え、執務フロアの奥、まだ誰もいない会議室に向かった。白いボードの前に立ち、マーカーのキャップを外す。
まず、二本の線を引く。
——東邦ラジオ
——フェニックステレビ
そして、線と線のあいだに、小さな点を打つ。
点の横に、ただ一語だけ、記した。
「時間。」
第2節 若き経営者の歩み
鳳谷隆真の生い立ちは、一般的な成功物語の枠には収まらなかった。地方都市の平凡な家庭に生まれ、幼少の頃から数字や機械に異常なほどの執着を示した。算盤を習い始めれば指の速さで周囲を驚かせ、パソコンを与えられれば一晩で組み立て方を覚えた。親が心配して「外で遊べ」と叱っても、彼は基盤に向かうのをやめなかった。
進学した名門大学では、鳳谷は授業よりもベンチャーサークルの活動に熱を入れた。ゼミに出ず、講義にも顔を出さず、それでも企画書や事業計画の作成となると誰よりも熱心だった。教授たちには「落ちこぼれ」と見られ、同級生からも距離を置かれた。だが、彼自身は一向に気にしなかった。教室で得られる理論よりも、現実の市場で生きた金を動かすことに価値を見出していたからだ。
大学を離れたのは、ほんの思いつきに近かった。ある朝、教務課で退学届を提出したとき、彼は友人にも家族にも何の説明もしなかった。ただ「時間がもったいない」と言い残しただけだった。親は仰天し、親戚は失望したが、鳳谷は気にも留めなかった。その決断の裏には、すでに小さなインターネット関連の会社を立ち上げる計画が進んでいた。
ライブリンク社の設立は、同世代の若者たちにとって衝撃だった。二十代半ばの青年が、わずか数人の仲間を集めて企業を興し、インターネットバブルの波を巧みに乗りこなした。広告事業、ポータルサイト運営、オンライン取引——次々に手を広げ、資金調達の手腕も群を抜いていた。銀行は警戒しながらも、彼の持つ先見性に惹かれた。投資家たちは、短期間で株価を跳ね上げる彼の手並みに喝采を送った。
やがて、わずか四年で株式上場を果たす。若き経営者が鐘を打つその姿は、新聞やテレビで繰り返し取り上げられた。世間は彼を「ITの寵児」と呼び、彼の一挙手一投足を追いかけた。だが、鳳谷自身は熱狂を冷めた目で眺めていた。人々が称えるのは、あくまで株価という数字の結果であり、その背後にある論理や執念に目を向ける者はいない。彼は次の一手を、さらに大きな舞台で打とうと心に決めていた。
社内でも、鳳谷の独特な経営哲学は浸透し始めていた。「数字は裏切らない。だが、人間は裏切る」と。彼の口癖は社員に恐怖と期待を同時に抱かせた。合理と速度を極端に重視する姿勢は、彼を敬う者には「指導者」として映り、嫌う者には「独裁者」と映った。だが、そのどちらの見方も、彼の進軍を止めることはできなかった。
こうして二〇〇四年夏、ライブリンクは国内有数の急成長企業として注目の的になった。鳳谷は日課のように四季報を読み込み、株式市場の動きを追い、投資家との会合に姿を見せた。彼の視線はすでに、次なる標的を探し求めていたのである。
そのとき彼の眼に飛び込んできたのが、親会社よりも巨大な子会社を抱える奇妙な放送グループ——東邦ラジオとフェニックステレビであった。
第3節 上場後の熱狂と虚ろ
ライブリンク社が上場を果たした直後、証券取引所の一角には異様な熱気が漂った。鳳谷隆真が鐘を打つ姿は、若き経営者の象徴として幾度となく新聞の一面を飾り、テレビのニュース番組でも繰り返し放映された。革新的な企業、時代の寵児、未来の旗手。形容は華やかだったが、その実態は数字に裏付けられた評価の反射に過ぎない。
証券会社の営業マンはこぞって「鳳谷銘柄」を顧客に勧め、投資雑誌はこぞって成功の秘訣を分析した。だが、鳳谷自身は浮き立つような気分にはならなかった。株価が跳ね上がるたびに、彼は机上の電卓を叩き、資本調達の可能性を冷静に見積もった。市場の興奮は刹那の幻であり、残るのは集められた資金と、それをどの速度で回すかという冷徹な課題だけだった。
若手社員たちは、社長を「英雄」と仰ぎながらも、その冷徹さに畏怖を覚えていた。ある会議で、事業報告を誤魔化そうとした担当者に対し、鳳谷は即座に数字を突きつけて訂正させた。淡々とした口調だったが、同席した者には冷汗を禁じ得なかった。彼の視線は人ではなく、常に数字の方を向いている。そう思わせる瞬間が何度もあった。
一方で、鳳谷の周囲には華やかな人物も集まり始めた。投資家、メディア、広告代理店、若手起業家。彼らは「ネットこそ未来」と声高に語り、鳳谷を担ぎ上げた。パーティー会場では「時代はテレビからインターネットへ」と唱える声が飛び交い、マスコミも面白半分に取り上げた。だが、当の本人は派手な酒席を嫌い、早々に切り上げてはオフィスに戻った。彼が欲しているのは称賛ではなく、次の挑戦だった。
「テレビを越える存在になる」。
その言葉を、鳳谷は公の場で口にしたことはなかった。だが、社員に向けた非公式のミーティングでは、度々この表現を使った。ネットの中に蓄積される情報量、拡散される速度、視聴者が選び取る自由。これらを組み合わせれば、テレビが築いてきた巨大な城壁に亀裂を入れられる。彼はそう信じていた。
上場によって得られた資金は、次々とM&Aに投じられた。地方のプロバイダ、コンテンツ制作会社、EC事業者。小さな企業がライブリンクの傘下に収まり、社内のホワイトボードには次々と新しい社名が書き加えられていった。だが、拡大の速度に見合うだけの統合は追いつかず、組織の歪みは少しずつ膨らんでいった。
それでも鳳谷は迷わなかった。
「速度が全てを凌駕する。」
それが彼の信念だった。たとえ内部が整わずとも、先に規模を押さえれば後から秩序は付いてくる。合理の果てに、そうした考えに至っていた。
そして、ある夜。再び四季報を開いた鳳谷の目に、親会社より巨大な子会社を抱える奇妙な数字が飛び込んだ。東邦ラジオとフェニックステレビ。そのいびつな親子関係の構造こそ、彼が次に目を向けるべき扉であるように思われた。
第4節 矛盾する親子構造
深夜のオフィスに、鳳谷隆真はひとり残っていた。机の上には四季報、決算短信、業界誌、そして手書きのメモが散らばっている。その中央に、ひときわ赤線で囲われたページがあった。
親会社・東邦ラジオ——売上高三百八億円。
子会社・フェニックステレビ——売上高三千五百八十一億円。
数字は冷徹に並んでいる。にもかかわらず、経営権は依然として親会社にある。電波行政の歴史が作り上げたこの構図は、表向き「伝統」と呼ばれていたが、鳳谷の目には単なる歪みとして映った。
「……親が子に支えられている。」
彼は鉛筆を走らせ、「親<子」と記した。東邦ラジオの議決権構造を追うと、フェニックステレビは完全に支配下に置かれている。だが実際の資金の流れは、子会社から親会社へ吸い上げられる格好だ。まるで、巨大な体躯の人間が、細い竹馬に乗っているかのような不安定さ。
鳳谷はホワイトボードに二本の縦線を引き、左に「親:東邦ラジオ」、右に「子:フェニックステレビ」と書いた。その下に「収益」「資産」「影響力」と項目を列挙し、矢印で子から親へと結ぶ。次に「議決権」「人事」「株式比率」と並べ、今度は親から子へと矢印を引く。二つの矢印は互いに逆方向に伸び、ボードの中央でぶつかり合った。
「事業は子が支え、権限は親が握る。」
つぶやいた声は低く、だが確信を帯びていた。
合理性を信奉する彼にとって、こうした逆転構造は「攻略可能なパズル」にしか見えなかった。どちらかを押さえれば、必然的にもう一方が従う。しかも規模が大きい方ではなく、小さい方を握れば、より大きな果実が手に入る。
鳳谷は胸の内に高揚を覚えた。だが、それは決して表情に出さない。社員が残っていれば無造作な指示を飛ばすだけで、思考の核心は決して口にしなかった。彼の性格は、未来を語るよりも数字の裏に潜む「歪み」を示すことにあった。
窓の外には夜明け前の街が広がっていた。高層ビルの群れの中に、フェニックステレビの塔屋が小さく光を放っている。親会社のラジオ局舎は目立たず、古びた建物の影に隠れていた。その対比は、鳳谷にとって何より雄弁だった。
「この矛盾は、いずれ誰かが突く。」
そう考えたとき、自分こそがその「誰か」であるべきだという直感が胸を支配した。金がないことは承知している。それでも、構造そのものが攻略の可能性を示している以上、考えないわけにはいかなかった。
夜が白み始める頃、鳳谷は机上の四季報を閉じ、ホワイトボードに残した二つの矢印を見返した。そこに記されたのは、いびつな親子の関係。そして、自らの未来を変えるかもしれないひとつの問いだった。
「親を動かすか、子を揺さぶるか。」
第5節 直感という種子
その夜、鳳谷隆真は長机に肘をつき、何度も同じページを開いては閉じた。東邦ラジオとフェニックステレビ。紙に並ぶ数字の逆転は、彼の頭から離れなかった。
「東邦ラジオを押さえれば、フェニックステレビが付いてくる。」
その直感は、一瞬の閃きにすぎなかった。だが、鳳谷にとって直感は単なる思いつきではなく、しばしば未来を切り拓く種子となった。
メモ用紙に彼は走り書きをした。
——フェニックス:三五八一億
——東邦:三〇八億
その差は十倍以上。子会社が親を圧倒しているにもかかわらず、議決権の多くは親会社に残る。この構造は「常識」で説明されてきた。だが、鳳谷は常識を疑うことで成長してきた。常識がひとたび崩れれば、その隙間を埋めるのは誰か。彼はその誰かになりたいと感じていた。
しかし、現実は冷酷だ。
「そんな金はない。」
口に出して自らを制した。時価総額から見ても、手元資金から見ても、東邦ラジオを買収できる規模には到底及ばない。外資を頼るか、大手金融にすがるか。それはまだ想像の域を出なかった。
それでも、鳳谷の胸の奥で「もしも」という声が消えなかった。もし資金が集まるなら。もし機会が巡ってくるなら。もし、この歪んだ構造を突くことができるなら。彼はその全てを現実に変える覚悟がある。
窓際に立ち、夜明けの空を仰いだ。都市はすでに動き出し、新聞配送のトラックが通り過ぎていく。新聞の一面には、別の企業の大型買収計画が報じられていた。世の中は今、資本の論理で動いている。ならば、放送という旧来の牙城もまた、その波に呑まれる日が来るはずだ。
机に戻り、四季報を閉じながら彼は小さくつぶやいた。
「これは……まだ種だ。」
思考を強引に断ち切るように背筋を伸ばした。夢想に耽るのは簡単だ。だが、それを現実に変えるには、資金、戦略、そして運が必要になる。まだ何ひとつ揃ってはいない。
だが、芽吹く前の種子が確かに心の中で息づき始めたことを、鳳谷自身がいちばんよく知っていた。
第6節 野望を抱えた日常
数日後の午前、ライブリンク社の役員会議室では定例の経営会議が開かれていた。壁一面のスクリーンに次々と資料が映し出され、若い幹部たちが緊張した面持ちで説明に立つ。広告収入の推移、EC事業の伸び率、提携サイトのユーザー数。どの数字も前年を上回っており、会社としては順風そのものだった。
鳳谷隆真は、報告を静かに聞いていた。彼の眼差しは一見無表情に見えるが、数字の一つひとつを頭の中で組み合わせ、利益の裏に潜むリスクを探していた。社員の多くは「社長が喜んでいるかどうか」を気にしていたが、鳳谷は心の底では別のことを考えていた。
——東邦ラジオとフェニックステレビ。
会議で語られる事業計画の裏側に、その構造が常にちらついていた。誰も気づかぬよう、彼は机の下で手帳を開き、小さく「東邦→フェニックス」と書き足した。
昼休み、社員食堂で仲間と談笑する声が響く中、鳳谷はひとり窓際の席に座っていた。トレイの上にはほとんど手を付けていない定食が置かれ、彼は携帯端末で株価の動きを追っていた。画面に映る数値の小さな変動に、人々の生活や巨大な企業の命運が連動している。それを思うと、昼食の味はどうでもよかった。
夜、オフィスに戻ると、机の上に投資銀行からの封書が置かれていた。融資条件の概要が記された数枚の紙をめくりながら、鳳谷は眉をひそめた。数字は現実を突きつける。いかに可能性を夢見ても、資金が伴わなければ何も動かない。彼は苦笑しながらペンを走らせ、「不十分」とだけメモした。
その頃、メディアでは「ネット企業の寵児」「若きカリスマ経営者」といった見出しが躍っていた。だが本人は、称賛の言葉を一つも信用していなかった。人々の視線は移ろいやすく、株価が下がれば同じ口で「過大評価だった」と言い出す。結局、信じるべきは数字の裏側にある構造と、自分の直感だけだ。
その夜も、帰宅せずにオフィスの一角に籠もり、ホワイトボードに矢印を描き続けた。赤と青のペンで何度も書き換え、親会社と子会社の位置を入れ替えてみる。矛盾する構造をひっくり返せるか。その問いが、日常のすべてに入り込んでいた。
「テレビを変えられるのは、俺たちかもしれない。」
声は低く、誰にも聞かれないほど小さかった。だがその言葉は、彼の胸の奥でゆるぎない決意へと変わりつつあった。
第7節 未来を射抜く視線
深夜の会議室。壁一面のガラス窓には、街のネオンが点滅していた。社員たちはすでに帰り、残っているのは鳳谷隆真ただひとりだった。白いボードには「東邦ラジオ」「フェニックステレビ」の文字が赤と青で幾重にも書き殴られ、矢印や数字が交錯している。
机の端には、昼間から飲みかけのコーヒーが冷めきっていた。鳳谷はそれに手を伸ばすこともなく、ひたすら数字の配置を入れ替えていた。子会社が親会社を上回る売上高。だが権限は逆。常識の裏に潜むその矛盾は、彼にとって挑発そのものだった。
「……ここを突けるのは、今しかない。」
独り言はガラスに吸い込まれ、夜の都会に溶けていく。資金が足りないことは重々承知している。だが、金融市場には無数の資金が流れており、それを動かせるだけの構想と速度があれば、現実は変わり得る。鳳谷はその可能性を見逃すことができなかった。
彼は椅子に深く腰を下ろし、窓の外に目をやった。眼下を走る幹線道路には、トラックやタクシーが休むことなく行き交っている。人も企業も、眠らずに動き続ける。その流れを捉えた者だけが次の時代を支配できる。
手帳を開き、最後のページに一行だけ書いた。
「親を制すれば、子を得る。」
書いたあと、しばらく黙って文字を見つめた。墨痕は濃く、力がこもっている。まだ単なる直感にすぎない。だが、その直感は芽を出し、やがて彼自身をも飲み込むほどの野望へと成長していく。
窓の外、東の空がうっすらと白み始めていた。新しい一日が始まろうとしている。
鳳谷隆真の未来を決定づける種子は、この夜、確かに植えられたのであった。
第2章 影からの誘い、運命の出会い
第1節 割烹の密談
秋雨がぱらつく夜、鳳谷隆真は赤坂の裏路地に佇んでいた。表通りの喧騒から一本入った先に、木格子の奥からほのかな明かりが漏れる小さな割烹がある。看板も控えめで、常連以外は足を踏み入れることのない店だ。指定された場所は、奇しくも彼が普段は足を運ばないような静けさに包まれていた。
暖簾をくぐると、店内には十席ほどのカウンターと、奥に小さな座敷があるだけだった。年配の女将が一礼し、鳳谷を奥へ案内する。障子を開けた先の座敷には、すでにひとりの男が座っていた。
紫垣義道。投資ファンドの代表であり、物言う株主として市場では恐れられる存在だ。切れ長の目と細身の体躯は一見穏やかに見えるが、口を開けば数字の刃が飛んでくると評判だった。
「よく来てくれましたね、鳳谷さん。」
紫垣は低い声で言った。言葉遣いは丁寧だが、目は笑っていなかった。
卓上には小皿が二つと徳利が置かれていた。勧められるままに座布団に腰を下ろすと、女将が静かに酒を注ぐ。鳳谷はグラスを持ち上げ、軽く口を湿らせた。酒の味よりも、この男が何を切り出すのかに神経を集中させていた。
「実はもう、東邦ラジオ株を二割ほど押さえている。」
唐突な言葉に、鳳谷はグラスを置いた。紫垣の声音は抑えられていたが、その内容は衝撃的だった。二割——それは単なる投資ではなく、経営権への影響を狙える水準だ。
「もし、あなたがさらに三割を買い進めれば……どうなると思いますか?」
紫垣は懐から紙片を取り出し、卓上に広げた。そこには株式の比率と議決権の計算が記されている。五割を超えずとも、三割台を確保すれば、筆頭株主として実質的に支配権を握れる。フェニックステレビを抱える東邦ラジオを押さえることは、すなわちテレビの頂点に立つことを意味する。
「……そんな資金はない。」
鳳谷は即座にそう返した。だが紫垣は肩をすくめ、盃を口にした。
「資金なら、調達できる。外資も動く。大事なのは誰が動くかです。あなたならできる。」
卓上の蝋燭の炎が揺れ、二人の顔を照らし出す。鳳谷の胸の奥に眠っていた直感が、再び呼び覚まされる。矛盾した親子構造を突く、その可能性。夢想に過ぎなかった計画が、今まさに現実の入口を示された気がした。
紫垣の声はさらに低く、だが確信を帯びていた。
「時代は変わります。テレビとネットの融合は、もう避けられない。その主役に、鳳谷さん、あなたが立つんです。」
外では、秋雨が一層強くなっていた。雨音が遠くの雑踏を消し、座敷の空気は張り詰める。鳳谷は盃を見つめながら、心の中で言葉を繰り返した。
——テレビを押さえる。
その夜の密談は、彼の未来を大きく転換させる第一歩となった。
第2節 株式比率の魔法
翌朝、鳳谷隆真はオフィスの自室にこもり、前夜紫垣義道から手渡された紙片を広げていた。そこには整然と並ぶ株式比率のシミュレーション。二〇%、三〇%、三三%——数字が一段階ごとに色分けされ、議決権の支配力がどう変わるかが細かく記されている。
「三割を超えれば、実質的な支配権……か。」
声に出すと、数字が現実味を帯びて迫ってくる。二〇%ではまだ牽制の範囲だ。だが三〇%を手にすれば筆頭株主となり、株主総会の議題を左右する力を持つ。三三%を超えれば特別決議を阻止できる。その意味は、すなわち親会社の経営方針を実質的に縛ることを意味した。
机の上の電卓を叩き、資金調達の見込みを試算する。自己資金だけでは到底届かない額だ。外資系投資銀行からの融資、国内証券会社の信用枠、そして私募増資——複数の可能性を組み合わせて初めて届くかどうかの水準だった。
「現実離れしている、か……。」
苦笑しながらも、心のどこかで否定できない。数字は嘘をつかない。常識がどう批判しようと、比率の線を一本超えるだけで構図が変わる。企業経営の世界は、しばしば紙一枚、数字ひとつで未来を反転させるのだ。
午後、財務担当役員と打ち合わせを行った。鳳谷は、あくまで「仮定」と前置きしながら、三〇%取得のシミュレーションを提示した。役員は目を見開き、口元を引き結んだ。
「……正気ですか? 額が額ですよ。」
「額は問題じゃない。やるか、やらないかだ。」
会議室に沈黙が落ちる。鳳谷の声は冷静だったが、その奥には熱が宿っていた。
その夜、再び四季報を開いた。東邦ラジオとフェニックステレビの欄外には、既に何本もの赤い線と注釈が書き込まれている。そこに新たに「三〇%」とだけ記し、二重線で囲った。
数字は単なる記号にすぎない。だが、その記号がひとつ動くだけで、世界が変わることを彼は誰よりも知っていた。
第3節 法務との応酬
ライブリンク社の会議室。ガラス越しに見える街は夕闇に包まれ、室内の照明が白々と光っていた。テーブルの中央には株式比率のシミュレーション表が置かれ、鳳谷隆真と数名の幹部、そして法務担当の顧問弁護士が向かい合っていた。
「三〇%を取得すれば、筆頭株主の地位は揺るぎません。しかし同時に、メディア関連企業の買収については厳格な規制が存在します。特に放送免許を持つ親会社に対しては、審査が入る可能性が高い。」
弁護士の声は穏やかだが、言葉は重かった。紙の上では可能でも、現実には法律の壁が立ちはだかる。
「……法律は絶対か?」
鳳谷が問い返すと、弁護士は少し間を置いた。
「絶対ではありません。条文の解釈には余地があります。けれど、買収を仕掛ければ確実に政治や業界団体が反発するでしょう。その時、あなたは正面から批判を受け止める覚悟が必要です。」
役員の一人が不安げに口を挟んだ。
「ここまで急成長してきたのに、わざわざ敵を増やす必要があるのか。」
鳳谷はその言葉を遮るように、机上のシミュレーション表を指で叩いた。
「見ろ。三〇%を握れば、子会社のフェニックスを事実上支配できる。これが数字の力だ。敵を増やすかどうかではない。勝負に出るか、出ないかだ。」
法務顧問は黙ってメモを取っていた。やがて眼鏡を外し、鳳谷をまっすぐに見た。
「あなたが本気なら、私たちは方法を考えます。ただし、どんな盲点を突いても怒らせる相手を間違えれば、必ず反動が来る。それを覚悟してください。」
会議室に再び沈黙が流れた。
鳳谷は椅子にもたれ、天井を仰いだ。頭の中で、赤い線と矢印が何度も交錯する。資金、時間、そして法。三つの輪の中心に、自分の名前が浮かんでいるように思えた。
——法の壁は絶対ではない。
そう確信したとき、彼の胸中には静かな炎が灯った。
第4節 外資からの便り
数日後の夕刻、鳳谷隆真のデスクに一通の封書が届いた。差出人は外資系投資銀行の東京支社。厚手の紙に印字された英文のレターには、要点だけが簡潔に記されていた。
——一定の条件下であれば、数百億規模の資金調達が可能。
——ただし、迅速な決断と明確なリーダーシップが前提。
鳳谷は手紙を読み終えると、深く息を吐いた。文字数にすればわずか数行。だが、その意味するところは重い。夢物語でしかなかった「三〇%」の数字が、現実の射程に入ってきたことを告げていた。
夜、役員数名を集め、非公式の打ち合わせが開かれた。
「外資は本気か?」と問う幹部に、鳳谷は封書を差し出した。
「資金はある。だが、期限が短い。こちらが迷えば、資金は別の案件に流れる。」
財務担当役員は眉をひそめ、慎重な声を上げた。
「外資は利益が第一です。支援と同時に、経営の自由を奪う要求が突き付けられる可能性が高い。」
「それでも構わない。」
鳳谷の返答は即座だった。会議室にざわめきが走る。彼にとって重要なのは、フェニックステレビを支配する構造を手に入れること。そのために一時的に束縛を受けるとしても、構わなかった。
「スピードだ。」
鳳谷はホワイトボードに「時間」と一文字だけ大きく書き記した。
「法律も資金も、すべては時間に従う。動くのが早ければ勝てる。遅ければ、何も残らない。」
静まり返る会議室で、役員たちは互いに顔を見合わせた。賛否はまだ明確に分かれていたが、鳳谷の視線には揺るぎがなかった。
窓の外では秋の雨がガラスを叩いていた。雨音の奥で、彼の耳には数字の音が鳴り響いていた。三〇%、三三%——それはもはや紙の上の計算ではなく、手を伸ばせば届く現実の座標になりつつあった。
第5節 決断の前夜
秋も深まり、オフィスの窓から見える都心の空は早々に暗く沈む。ライブリンク社の執務フロアでは、深夜を過ぎても数人の幹部が残っていた。机の上には株式取得シミュレーションと融資条件の資料が広げられ、蛍光灯の下で数字が無機質に光っている。
「三〇%に踏み込むなら、返済スケジュールはこの形になる。」
財務担当役員がホワイトボードに棒グラフを描き込む。返済額は膨大で、資金繰りは一歩間違えば破綻に直結する。
「リスクが高すぎる。」
役員の一人が吐き捨てるように言った。
「ここまで積み上げた会社を、博打で危険にさらす気か。」
鳳谷隆真は無言で資料を見つめていた。外資からの資金協力、紫垣義道の株式保有、そして法の盲点を突く可能性。全てが彼の手元に並びつつある。しかし、その先に待つのは「成功」か「破滅」か、どちらかしかない。
「これは博打じゃない。」
長い沈黙ののち、鳳谷が口を開いた。
「市場の矛盾を突く。数字が示す必然だ。」
声は低かったが、幹部たちはその言葉に押し黙った。
鳳谷の眼差しには、恐れよりも明確な光が宿っていた。それは未来を射抜く視線。彼がすでに腹を決めていることを、誰もが悟った。
会議が終わり、社員が帰った後、鳳谷はひとり会議室に残った。ホワイトボードには「三〇%」と赤く大きく書かれている。その数字を見つめながら、彼は静かに椅子にもたれた。
窓の外には街の灯が瞬き、遠くにフェニックステレビ本社の塔屋が浮かんでいた。
「ここから始まる。」
その呟きは誰に聞かれることもなく、夜の闇に溶けていった。
第6節 眠れぬ夜
その夜、鳳谷隆真は自宅に戻ってもベッドに横たわることができなかった。机に広げられたままの資料を前に、何度も同じ計算を繰り返した。必要資金、調達の方法、返済の見込み。電卓を叩く音だけが部屋に響く。数字は冷静に現実を告げる。成功の確率は五分と五分、いや、それ以下かもしれなかった。
窓の外には首都高速の光が流れていた。車列は途切れることなく、夜も昼もなく都市を循環する。鳳谷はその光を眺めながら、胸の内で問い続けた。——自分は本当に踏み出すのか。
机の端には、紫垣義道と交わしたメモが置かれている。そこには「二〇%確保済」「三〇%で支配権」と殴り書きのような字が並んでいた。紫垣の言葉が耳に蘇る。「あなたならできる」。その響きは甘美であると同時に、危険な毒を含んでいるようにも思えた。
「勝てば、歴史が変わる。」
呟きは小さく、自分を鼓舞するようでもあり、戒めるようでもあった。
壁に掛けられた時計は午前二時を指していた。眠気は訪れない。むしろ頭の中は冴え、矛盾した親子構造の図が繰り返し浮かんでは消えた。東邦ラジオを押さえることでフェニックステレビを手にする——それは単純な理屈だが、誰も実行しようとはしなかった。だからこそ、自分がやる意味があるのだと彼は信じた。
明け方、ようやく電卓の上に手を置き、鳳谷は深く息を吐いた。眠らぬまま迎える朝。だが、その瞳には決意が宿っていた。資金、時間、法。その三つを味方にすれば、道は必ず開ける。
「やるしかない。」
夜明けの光がカーテンの隙間から差し込むころ、鳳谷はそう呟いた。決断はまだ口に出していない。だが、彼の胸中ではすでに答えが固まりつつあった。
第7節 揺るぎ始める均衡
翌日、鳳谷隆真は早朝から役員室に姿を現した。前夜ほとんど眠れなかったにもかかわらず、その眼差しには不思議な冴えが宿っていた。机上には株式比率の資料、融資条件の試算表、外資から届いた手紙が整然と並べられている。
午前十時、紫垣義道が秘書に伴われて来訪した。細身のスーツに身を包んだ彼は、相変わらず冷ややかな笑みを浮かべていた。
「決める時が来ましたね。」
紫垣は椅子に腰を下ろすと、卓上に指先で軽く触れた。まるでそこに置かれた資料の重みを確かめるようだった。
「二割はすでに確保済み。あとはあなたが三割を取るだけです。数字は揃いました。残るのは……踏み出す勇気だけです。」
その言葉に、役員たちの表情は固まった。資金繰りに懸念を示す者、外資依存を恐れる者、そして夢を追いたいと願う者。意見は真っ二つに割れていた。
「会社を守るのが先だ!」
「いや、ここで動かなければ二度と機会は来ない!」
会議室には激しい応酬が響いた。だが、鳳谷は静かに手を上げ、全員を制した。
「勝つか負けるかじゃない。時代を掴むかどうかだ。」
その声は決して大きくなかったが、全員を圧倒する力を帯びていた。彼の視線は誰にも揺らぐことなく、窓の外の遠景を射抜いていた。
紫垣はその様子を見て、口元に薄い笑みを浮かべた。
「いいですね。その眼だ。あとは進むだけです。」
鳳谷はゆっくりとうなずいた。法の壁、資金の重圧、業界からの反発——全てを呑み込んだうえで、それでもなお進む覚悟を固めつつあった。
その瞬間、社内の空気は確かに変わった。慎重論と拡大論が拮抗していた均衡は、わずかに鳳谷の決断の方へと傾き始めていた。
——種子は、芽吹きつつある。
ここまでお読みくださりありがとうございます。第1章から第2章までは、主人公・鳳谷隆真が直感から野望を抱き、影の投資家・紫垣との出会いによって一歩を踏み出す過程を描きました。
史実の事件を知っている方も、初めて触れる方も、フィクションとして楽しみながら、あの時代の熱気や緊張感を感じ取っていただけたらと思います。