雪融け
日差しを遮る曇天が、祝日の人で溢れかえった駅前を覆う。
優れない天候を、誰も気にする様子はなく、賑やかな声があちこちから聞こえてくる。
葉を芽吹く準備をしている寒そうな木の下で、友人を一人で待つ私に、冷たい風が肌を突き刺すように吹いてくる。
マフラーに顔をうずめ、腕時計を見ると、待ち合わせの時間まであと五分だった。
「ごめーん、待った?」
遠くから咲希が大きく手を振りながら、小走りでこちらにやってきた。
「待ってないよ、まだ時間ある」
「あ、ほんとだ。あれ、でも、亮ちゃんはまだだね」
咲希がロングコートのポケットからスマホを取り出し、時間を確認する。
「久しぶりだね、杏。元気だった?」
「うん、元気。咲希は?」
「まあ、ぼちぼちかな」
数ヶ月ぶりに会う咲希は相変わらずな様子で、少し崩れた前髪を、鞄の中から取り出した、小さい鏡を見ながら丁寧に直している。
もうすぐで三十代だと言うのに、化粧はいつでもバッチリで、綺麗に着飾っている。
咲希と亮ちゃんは、高校からの友人だ。
仲が良く、三人とも部活動に所属していなかったため、放課後はよく、学校近くのショッピングモールや公園などに遊びに行った。
入学した大学も同じで、学部は違えど同じサークルに所属していたため、一緒にいる時間はたいして変わらなかった。
そして、大学卒業後、咲希は事務員、亮ちゃんは車メーカーの営業マン、私は文房具メーカーの企画職に勤めて、今年で八年目になる。
社会人になってからでも半年に一回ほど、集まることが恒例になり、今日も昼から食事をする約束をしていた。
「まだまだ寒いね、ああ春が待ち遠しい」
咲希が少し崩れたマフラーを、首に巻き直しながら言った。
「でももうあと一ヶ月もすれば四月じゃない? もうすぐだよ」
咲希との世間話で、ソワソワしながら時間を潰していると、人混みをかき分けるようにして、待ち合わせの場所に亮ちゃんがやってきた。
「すまん、遅れた。久しぶり」
私達を見つけると、焦るように顔の前で手を合わした。
「遅いぞ」と、咲希が亮ちゃんの体に肘を当てる。
私はその後ろで、少し気恥ずかしくなりながら、「久しぶり」と小さく手を振っていた。
「いやぁ、マジで、子育てって大変だわ」
咲希が一杯目に頼んだ生ビールのジョッキを片手に、愚痴をこぼす。
咲希と夫の彰さんは、大学時代から付き合い始め、三年前に子供ができたことにより、結婚した。
こうして昼からお酒を飲んでは、毎回のように文句を垂れるほど、よく喧嘩する話を聞くが、言いたいことを言い合える良い関係性で、子育てにも真面目に向き合っているのは、私達も知っていた。
「でも二人、仲良いじゃない」
熱くなる咲希を宥めるように、言葉をかける。
「まあね、でも付き合ってた時は気にならなかったこととか、結婚してから大変なことの方が多いよ。そういえば、杏も恭介さんともう長いよね。結婚の話とか出ないの?」
話を逸らすかのように、話題の矛先は私に向いた。
「ああ、まあそのうちかな……」
少し俯き、グラスに注がれた梅酒を口に運びながら、返事を濁す。
恭介さんは、入社当初に教育係としてお世話になった、職場の先輩だ。
よく食事にも連れて行ってもらっていたため、当時は後輩思いなんだと思っていたが、彼は私に好意を寄せてくれていたらしい。
人柄はよく、頼れる性格だったため、好きな人がいるにも関わらず、告白の返事を承諾し、付き合いは今年で五年ほどになる。
「ふうん、そうなんだね。亮ちゃんは? いい人いないの?」
「まあ、俺は今は仕事かな。結婚したい願望とかもないし、縁があればって感じかな」
「つまんない男だねぇ」
咲希が冷やかすように、目を細めながら言う。
亮ちゃんは、大学生時代に三ヶ月ほど付き合った彼女と別れて以来、恋人がいない。
本人曰く、恋愛は向いていないのだとか。
背は高く、容姿も整っている。
それに、気遣いもできる優しい性格だから、周りの女性はほっとかないんじゃないか。
そう思いながら、彼の方を見ていると、不意に目が合った。
恥ずかしくなり、慌てて目を逸らし、つまみに手を伸ばす。
その後も、仕事の話や、大学時代の昔話などをして盛り上がり、みんなそれぞれ明日も仕事があるという理由で、十七時前には店を出た。
酔っ払った咲希をタクシーに乗せ、見送った後、帰る方向が一緒になった亮ちゃんと、駅の方へ向かった。
「また半年後だね」
風に靡く髪を整えながら、会話を切り出した。
「そうだな、久しぶりに二人に会うとやっぱり楽しいよ。咲希は相変わらずだし、杏も元気そうでよかった」
「うん」と小さく返事をし、少しの沈黙の後、私は勇気を出し、言葉を振り絞った。
「亮ちゃん、私結婚するの」
彼の足が止まり、後ろを振り返ると、少し驚いたようにこちらを見ていた。
「ああ、そっか。よかったな、おめでとう」
返す言葉に戸惑ったのか、ぎこちない祝いの言葉をかけてくれた。
その様子を見て、思わずクスッと笑ってしまい、「ありがとう」と返した。
彼の言葉に少し寂しさを覚えたが、その理由は探らなくても分かっていた。
電車に乗ると、座れそうなところがないくらい混んでいて、扉にもたれかかった彼の顔は、どこか儚く見えた。
降りる駅が近づき、「またな」と手を振る彼に、出かかった言葉が喉に詰まる。
名残惜しそうに電車を降りるその背中は、なぜかいつもより、少し小さく見えた。
最寄駅に着く頃、辺りは薄暗くなり始めていた。
スマートフォンを開くと、恭介さんから、帰りの時間を尋ねるメッセージが届いていた。
[17:02 帰りは何時くらいになる? 迎えに行かなくて大丈夫?]
そのメッセージに対し、[もうすぐ着きます。大丈夫です、ありがとう]と返し、鞄に仕舞う。
帰り道、ふと横を見ると、昼の曇り空はどこへ行ったのか、綺麗なグラデーションを描いた空と、その下にひっそりと、雪の積もった河川敷の景色が広がっていた。
手すりに手を置き、その景色を無心で眺める。
そして、ポケットに入れていた婚約指輪を取り出し、左手の薬指にそっと通した。
宵闇の中、手元でシルバーが小さく輝く。
彼を高校生の頃から好きだった。
臆病な私は、この気持ちを伝えることができず、違う人との人生を選んだ。
妥協ではなく、諦めだった。
そして、いつかはそれが当たり前になると信じた。
けれど、あなたを想う気持ちが、この薄暗い景色の雪のように、私の心の奥底にまだ積もっている。
それでも、いつかはこの雪も融けるように、あなたへの想いも消えて無くなってゆくのだろうか。
遠くの空へ、届かない想いを馳せる。暖かい春を待つように。