8.私が子どもだったのだ
国境を過ぎまた暫く列車で揺られたが、大きな都市でやっと蒸気機関車を降りた。久し振りに地面を踏んでも、まだ体が揺れている様だった。
夜でもこの都市が栄えているのがよく分かった。駅から宿まで馬車で揺られながら、兄が少し教えてくれた。
「ここは貿易で栄えた都市だ。大きな港があって外国船が頻繁に出入りしている。王室もここに別荘があって夏になると来るらしい。大きなカジノがあって、もうすぐ大聖堂が完成するって話だ。劇場も建設予定らしいぞ」
馬車の中から沿道の店の明かりで町の人の多さが分かる。店の奥には暗闇の中ぼんやりと大きな建物の影が見えた。どれが何の建物かは分からないが。
でも列車での疲れからか馬車の揺れも体に堪え、異国の景色を楽しむ余裕は無かった。
宿に着いて食事もそこそこに寝台で眠りについた。陸の揺れない寝台、肌触りの良い寝具、全てが安心出来て久し振りにぐっすりと眠った。
◇◇◇
アダン卿からプロポーズをされ、一週間私なりに考えた。勿論家族にも相談をした。
兄は元々肯定的だったしアダン卿の事情も知っているから、もう私がアダン卿について行くものだと思っていた。
父は最初驚いたが、「モンブラン伯爵の御子息なら申し分無いだろうな」と言っていた。
母は隣国に行ってしまう事に寂しさを抱いた様だったが、「貴女が好意を抱いた方からの申し入れなら、こんなに喜ばしい事は無いわ」と言っていた。
結婚と隣国に旅立つまで一ヶ月しか無い事も、三人はどうにか準備をするし協力すると言ってくれた。
私は家族に愛されているのだと思えて、目の奥がジーンとした。この家族にそうそう会えなくなるのかと思うと少し寂しく不安に思った。
でも兄が、「俺や父上は隣国へは仕事でよく行くからセリーヌの顔を見に行けるな」と言っていた。「何かあれば大叔母様を頼れば良い」とも。そう聞けば不安も少し和らいだ。
あとは私の覚悟だけだ。結婚する覚悟。
アダン卿は優しい人だ。無理強いはしない。この結婚話も考える時間をくれた。私の意思を尊重しようとしてくれている。貴族なら親同士が決めた結婚をするのが一般的だ。もしくは家格の上の人が見初めてとか。前国王陛下の時の様に、下の者は断れずに受け入れるしかない。
彼は伯爵家の三男だけれど、家を通して縁談を進めて来なかった。自由恋愛の体を取った。自身の意思を押し通さないし、私を蔑ろにしない姿勢に好感が持てた。
それに私を“セリーヌ”としてちゃんと見てくれている。そして“セリーヌ”と一緒にいるのが楽しいと、そして心地良いとも。離れるのが惜しいとも。
“貧乏伯爵家の娘”とか“絶世の美女カトリーヌの孫”とか“アンティーク令嬢”とか“前国王陛下のお気に入り”とか“公爵夫人のお気に入り”とか“婚約期間三日で解消”とか、そんな噂を知ってか知らずか彼は全く気にする様子もなければ話題に出された事も無かった。
良い人なんだ。本当に。
不安に思う事と言えば、どんな暮らしになるのかだろうか。どんな家に住むのか、貴族では無くなるけれど使用人はいるのか、隣国へは何年位暮らすのか。外交官だから他国に赴任する可能性もある。私は隣国の言葉なら多少分かるが、他の言語はさっぱりだ。隣国の言葉も流暢とは言えないから暮らすとなるとやはり不安はある。言葉だけでなく文化風習も違うだろう。歴史的背景から私の国を好まない人もいるかもしれない。
長い歴史の中、領地拡大を狙って攻め込んだ支配欲の強い君主も居た。それも一人では無かった。隣接する国同士諍いは常にあっただろう。今でこそ国際法のお陰で落ち着いてはいるけれど。
いつだったかアダン卿が言っていた。
「他国の言葉や文化風習を知り理解を示し尊重する。外交官は交渉で血を流す事無く平和的解決が出来る方法を示せる。だから他国の言語を学ぶ事に興味を持った。戦争は町を破壊してしまう。町の人の暮らしも、町の人が大切にしていた歴史的建造物も。自国の国民を守る事は相手国の国民を守る事でもある。言葉は守る為に必要不可欠だ。まだ外交官としては経験が浅いけど、守れたら良いよな」
国と国を繋ぎ、母国の人間をサポートし、国の利になる様に尽力する外交官。アダン卿の考え方も仕事も尊敬する。私なんてアンティークが好きなだけの令嬢だ。
そんな彼を妻としてサポートしながら暮らしていくのだ。私に出来るのだろうか。そんな不安を上回る愛があればやっていけるのだろうか。離れたくない、そばに居たい、支えたい。そんな気持ちがありさえすれば、強くいられるのだろうか。
一週間は気がつけばあっという間で、アダン卿が我が邸を訪れた。家族皆で彼を出迎えた。
隣国に赴任すると聞いた父が、隣国から仕入れた茶葉でもてなし、隣国の伝統工芸品を飾っている部屋を案内したりした。我が家は今隣国の工芸品を多く取り扱っており、それが一番の収入源になっていた。隣国の工芸品は色鮮やかで美しい。お客にこの部屋を見せるのは毎度の事だった。鮮やかな見た目に感嘆の声を上げ、お客は吟味して漠然としていた欲しい物のイメージを明確化し、売買へと持ち込んでいく。
まあ、彼にはそのつもりで見せているのでは無いだろう。
邸に飾られている骨董品や絵画も美術館にでも居るかのように鑑賞すると、アダン卿は私の部屋も見てみたいと言った。男性を部屋に入れて良いのかとも思ったが、二人でゆっくり話を、この間の返事を求めているのかとも思い承諾した。父や母も何も言わなかった。
ちょっとドキドキしながら私の部屋に通した。プライベートの空間を他人に見せるのはこんなにも緊張するものなのかと、床を見つめがちになってしまった。
「落ち着いた部屋だね」
アダン卿はぐるりと部屋を見回してそう言った。
他の令嬢の部屋がどんな物かさっぱり分からないが、確かに私はアンティーク好きなのもあり、家具から大人びた落ち着いた印象を受けたのかもしれない。
「これは古い花瓶だね」
チェストの上に飾っている祖母から譲って貰った真鍮の花瓶を見て言った。今日はスズランを一輪飾っていた。
「あ、それは……」
「緑青が付いてるね。もう処分した方が良いんじゃないか?新しいのをプレゼントするよ」
その瞬間、やけに自分が冷静になって行くのを感じた。私は何かの魔法にでも掛かっていたのだろうか。魔法が解けた様だった。それは恋の魔法だったのかもしれない。
「……いいえ。プレゼントは結構ですよ」
「そうか?」
「先日の件のお返事ですが」
「ああ」
「お断り致します」
「え」
アダン卿はもしかしたら断られるとは思わなかったのかもしれない。そうだろう。私も断るとは思わなかった。さっきまでは。
「結婚は出来ません」
「……それは、理由を聞いても?」
「アダン卿とこのままお別れになるのは寂しく思います。一緒に居て楽しかったのは私も同じなので。ですが、一緒に隣国に行って共に暮らしていける自信がありません」
「出来うる限りのサポートはさせて貰うよ。仕事で寂しい思いをさせてしまうかもしれないが、使用人は雇うし苦労はかけさせない。そばに居てくれるだけで良いんだ」
「いいえ。何を置いても貴方のそばに居たいと想う程の気持ちや覚悟が持てなかったのです」
アダン卿は溜め息をつくと「そうか」と言った。
「申し訳ありません」
「謝らなくて良いよ。余計に悲しくなるよ」
「……じゃあ、プロポーズありがとうございました。嬉しかったです」
「……ああ。最後に握手をしても?」
アダン卿は手を前に出してきたので、私も手を前に出した。そしてアダン卿に優しく握られた。この人は本当に優しい人だ。
「元気で」
「……お元気で」
手を離すと部屋を出て行った。私はその場から動けなかった。
父や兄がアダン卿のお見送りをしてくれた。それが終わると廊下を激しく走る音がして、勢い良く兄が部屋に入って来た。
「セリーヌ!プロポーズ、断ったのか!?」
兄も断るとは思わなかったらしい。そうだろう。兄はずっと肯定的だった。
「……はい」
「アダン卿が断られましたって言って帰って行ったから……何で?良い話だったじゃないか」
何で、か。
大切な花瓶を処分したら良いと言われたからだ。
「私が子どもだったのです」
自分が大切にしている物だった。
一言言えば済んだ事だったかもしれない。「それは私の大切な物です」と。そうすればアダン卿も理解してくれただろう。
でも、魔法が解けてしまったのだ。その一言を伝える気持ちが湧き上がってこなかった。結局それまでの想いだったのだ。恋ではあったかもしれないけれど、愛では無かった。
きっとそれはアダン卿も似た様なものだったかもしれない。本当に私を愛していたのなら、こうもあっさり引き下がらなかったのではないだろうか。
お互いに都合が良く居心地の良い恋をしていただけ。
彼は私が隣国の言葉も話せ、気の合う相手だったからプロポーズをしたのではないかと思う。あくまでも私の憶測だけれど。
私はまだ愛を知らない子どもだったのだ。
愛は知らないけれど、アダン卿のお陰で恋は知った。彼には感謝しかない。