7.いきなりのタイムリミット
蒸気機関車で寝るのは簡単では無く、体は痛くなるし揺れや音で寝付けなかったり、寝ても熟睡は出来ず頻繁に目を覚ましていた。朝が来ても眠気が取れない為ウトウトとし、なかなか体を起こせなかった。
そのせいか食事もあまり喉を通らなかった。それは母も同じだった様で、顔色の悪い母を見て私もきっと同じ顔をしているのだろうなと思った。列車の旅はやはり大変らしい。
列車で一泊して、父にそろそろ起き上がるように言われた。頭がクラクラしたけれど起き上がると、着替えるように言われた。着替えて簡単に身なりを整えて座席に座ったけれど、クラクラしていた頭が頭痛を感じる様になった。少しでも気を紛らわせようと車窓から外の景色を見た。
「あら、海……?」
田舎の風景の奥には青いキラキラとした海が広がっていた。それは左右にずっとずっと広がっていた。綺麗だった。
「少し前から海沿いを走っているよ。もうすぐ国境だ」
父の言う通り、列車が国境駅で停まった。ここで入国審査が行われるらしい。暫く待っていると客室に入国審査官がやって来た。口周りの髭や眉が濃く堀も深い為、眉と目が暗くて鋭い眼光がやけに怖く光っている強面の審査官だ。彼に父が家族分のパスポートをまとめて手渡した。鋭い眼光が左右に動き、その刺すような視線に思わず背筋が伸びた。
「──家族旅行?」
「──娘がこちらに嫁ぐ事になり式に参加する為さ」
父がこれから入国する国の言葉で返すと、入国審査官はジロリと私に視線を向けて来た。その威圧感のある眼差しに、さらに背筋が伸ばされた。これ以上伸びたら胴長になってしまう。
「──結婚おめでとう」
入国審査官がこの国の言葉でそう言った。呆気に取られてしまった。
一見怖そうな見た目で睨まれているのかもと思ったけれど、疑うのが仕事なのだろう。怖い顔とは反対に柔らかい声での祝福の言葉に、私はじわりと照れが広がっていった。
「──ありがとうございます」
私もこの国の言葉でそう返した。
◇◇◇
私はアダン卿との交流を楽しんでいた。夜会で会えば一緒にダンスを踊って沢山お喋りをした。パーティーに誘われて一緒に行った事もある。美術館にも一緒に行った。
「様々な国から収集され各国の歴史や文化も知る事が出来るのが美術館の好きな所だ。金持ちの収集という娯楽がこうして一般に公開される事で知識も深められ国民が世界に目を向ける機会を持たせられる。美術館を最初に始めた人を尊敬するね」
そんな事を熱く語っていた。生まれた故郷の国だけで無く、外国へ、世界へと目を向け広い視野を常に持とうとする姿勢は凄いなぁと思った。
私なんて初めてのデートに浮かれていたというのに。
兄にもデート前にからかわれた。アダン卿と親しくしているのを一番近くで見ているから、デートに行く事も私は教えていないのに知っていた。
「アダン卿ならいいんじゃないか、婚約相手として。伯爵家の三男で爵位や領地の譲渡は無くてもエリート外交官だ。暮らしに困る事は無いだろう。戦争が起きても徴兵される心配も無い。外国で暮らす事もあるだろうが、セリーヌなら隣国の言葉は問題ないだろう?それにモンブラン伯爵家と繋がりが持てるのは我が家としても有り難い。家格も釣り合いが取れている。なによりアダン卿は男から見てもスマートで格好良い」
惹かれてはいるが婚約結婚とまでは考えていなかった。でも本来社交界デビューは結婚相手を探す為だ。惹かれたのなら考えるべきだ。
ハッキリ言葉にした訳では無いけれど、こうしてデートやパーティーに誘って貰い、私以外の令嬢と親しくしている様子も見ないから、少なからず私に好意は持っているのだと思う。
そして誘われたデートやパーティーに喜んで来る私の気持ちもきっと察しているのだろう。
美術館を見た後、近くの川沿いを散策した。絵を描いている人、楽器を演奏している人、船に乗って遊んでいる人と、様々な人がいた。川にはどこからか飛んで来た花弁が浮かんでいる。
なんて穏やかな春の一日なのだろう。
アダン卿は「疲れただろうからちょっと日陰で休もう」と行って、木の下のベンチに誘導してくれた。日陰だからと日傘を閉じて座った。日傘も祖母のもので、石突にタッセルが垂れ下がっているデザインが気に入っている。
アダン卿は兄が言う通りスマートで格好良い。外国製のジャケットを着こなし、すらりと長い手足。外交官なだけあり三か国語を話せ頭の回転も早い。
そんな彼が突然隣に座る私の手を取った。ドキリとした。その拍子に立て掛けた日傘が倒れてしまった。
「来月から隣国に行く。一緒に来てくれないか。結婚しよう」
トントントンと言われて理解が追いつかなった。間抜けにも口が開いていたかもしれない。
現実の事?私に言ってる?
隣国に行く事は知っていた。最初に出会った時に兄から紹介された話の中で「今度隣国の総領事館勤務となるらしい」と聞いていた。その今度が来月だったのだ。
それに一緒に、行く?
結婚?
結婚を考え出したのも兄に今日言われてからだった。
「驚かせた?すまない」
「いえ……驚き、ました」
彼はまだ私の手を持ち上げたままだ。それが余計に私をフワフワさせた。現実感が無く色々と飲み込めない。
「まだ数える程しか一緒の時間を過ごしていないけれど、セリーヌ嬢と一緒にいるのが楽しいし心地良い。離れるのが惜しいんだ。だから一緒に来て欲しい。君は隣国の言葉も話せるだろう」
私も一緒に居て楽しい。
でもそう言葉に出来なかった。
結婚とは、突然目前に現れても簡単に選択出来る訳では無いらしい。
隣国に一緒にと言う事は家族とも離れるし、それも来月だ。家族と暮らすのも来月まで。いきなりのタイムリミット。その短い期間に結婚の準備に隣国への入国の手続き……いや、ビザが必要になるのか?初めての事に何をすべきでどうしたら良いのか分からず、余計に混乱してしまう。
倒れた日傘を拾う事はすっかり頭から消えていた。
アダン卿は唖然とする私を見て、少し申し訳無さそうな表情をした。
「困らせてしまったな。良かったら少し考えて返事を聞かせてくれないか?来月には赴任するからあまり猶予が無いけれど……一週間。一週間後に伯爵家を訪れるから、その時返事を聞かせてくれ」
そして私の指先を持ち上げて軽く口づけをした。そして「良い返事を期待している」と言った。上目遣いで私を見る顔に申し訳無さは無くなり、春の様な優しげな表情だった。触れている指先から熱が広がっていく様だった。