433話〜無い。無い〜
カランッ…。
リビングの中央で、小さな音が静かに響く。
私は汗をかくそのグラスを手に取り、小さく一口だけ口の中で転がす。途端に、芳醇な麦の香りが鼻を抜ける。
楽しみに取っておいただけはある味わいだ。心の中の幸せが、より膨らんでいくのを感じる。
「あら?良い時間ね」
私はリモコンを取り、テレビを付ける。その途端、スポーツキャスターの興奮した声と、2人の選手が対峙する映像が目に入る。
柴黒の選手と、かなり背の高い選手だ。
『試合が始まると同時に攻め込む紫電選手。滑り出しは順調。相手が世界一位でも、紫電選手は臆さずに攻め続けます。素早く鋭い攻撃に、圧倒される清麗選手。しかし、試合開始から3分…紫電選手の大振りな攻撃が外れて、大きな隙が出来てしまいます』
紫黒のフルアーマーが、大ぶりな攻撃を外してよろける姿がアップになる。それを見て、観客は悲鳴を上げ、対戦相手は長い手足でくるりと舞う。そうすると、紫電は空中に投げ飛ばされ、背中から地面に叩きつけられた。
『ここから流れはチャンピオンに傾きます。紫電選手も反撃を試みますが…すべて空振り。試合開始から7分11秒、攻め続けた紫電選手でしたが、ここで力尽きてしまい、決勝戦進出を逃しました』
『いやぁ、惜しい。本当にあとちょっとで勝てた試合でしたね』
スタジオのコメンテーター達は挙って、惜しい惜しいと連呼する。
でも、本当にそうかしら?私にはどうも、紫電が弄ばれていた様にしか見えないけれど?
あの清麗という選手の異能力種は分からないが、紫電が攻撃を”ズラされた”のは、恐らく彼女の異能力。そして、投げ飛ばされたのは彼女の戦闘技術だと思う。流れるようなあの身のこなしは、アクアキネシスに似た何かを感じる。
『しかし、3位決定戦は見事に復活した紫電選手です』
気を持ち直したキャスターが、満面の笑みで語り掛ける。
彼女曰く、3位決定戦は辛勝した紫電選手は、何とか日本にメダルをもたらしたらしい。
その途端、スタジオはコメンテーター達の拍手と喝采に包まれる。
『あっぱれよ!これはあっぱれを与えるべきざます!』
『異能力戦でメダルを取れるなんて、今までなかった快挙ですねぇ』
『剣聖選手が準々決勝で清麗に敗れた時はどうなるかと思ったけど、いやぁ見事に巻き返してくれた。ありがとう、紫電選手』
異能力戦。それもシングルでメダルを取れたことはとても大きな事だ。今までのオリンピックでは、入賞すら難しい状況が続いた。銅メダルとは言え、表情台に日本人が上がる姿は誇らしい。
私はそう思い、グラスを持ち上げて少しだけ中身を飲む。グラスを置いて再び画面に視線を戻すと、そこには若干俯きながら立つ紫電の姿があった。
何か、思う所がありそうね?
『だけど、紫電選手は悔しそうな顔をしていますねぇ』
『それは勿論ですわ。私だって、悔しくてなりませんもの。結局、日本の有力候補は全部、中国の清麗選手に倒されてるのですから。トーナメントの組み合わせ次第じゃ、銀も狙えるポテンシャルを持っていたのですよ!本当に、惜しい』
中央で叫ぶ厚化粧のおばさんが、頬肉を振るわせて悔しそうに拳を握った。
それに、隣のコメンテーターが渋い顔で首を振る。
『それを言うんでしたら、黒騎士選手が参戦してくれていたら金を狙えたかもしれませんねぇ』
『それざます!全日本を制した黒騎士君が出場していたのならきっと、清麗も倒してくれたはずです。なのにどうして、彼はファランクスに出場したのでしょう?そこは甚だ疑問ですわ!』
『まぁまぁ』
ヒートアップするスタジオを、中央の司会者が柔和な笑みで抑える。
『その黒騎士選手ですが、同じく快挙を成し遂げたそうですね』
『はい!そうなんです!』
司会者から振られたキャスターが、張り切りながらモニターを示す。
『シングル戦決勝戦と同時刻に行われた、ファランクス準決勝。日本の相手は強豪中国。シングル戦だけでなく、異能力戦全てで金メダルを狙う中国は、前半戦から中国のエース、王選手が強力なSランク技を放ち、日本選手達を苦しめます』
ああ、その場面はテレビで観た。観始めたばかりだったので、私のせいでこうなっているのかと思い、一旦テレビを消したのだった。
そして、暫く経ってからテレビを付けると、蔵人達が無双している場面だった。
『最後は、黒騎士選手の巨大ドリルが王選手を押し潰し、脆くなっていたスタンドへめり込ませて場外ベイルアウト。これで日本は、中国を相手に見事パーフェクト勝利を達成。明後日の決勝戦に駒を進めました』
『あっぱれですわ!これこそあっぱれです!もう1個あっぱれを付けてくださいまし!』
試合の映像が終わると、厚化粧おばさんが叫ぶ。
でも、今回はうるさく感じない。寧ろ、誇らしさが込み上げてくる。
『いやぁ〜強いですね、黒騎士選手。Sランクを相手にしても、全く引けを取らない。しかも、今回は殆ど一騎打ちですからね。彼がまだ中学生とは信じられませんよ』
司会者がシミジミと感想を述べると、厚化粧横のコメンテーターが大きく頷く。
『彼の技能は本物ですねぇ。試合後のインタビューでも発言していましたが、技術力が魔力ランクを上回っているんですよぉ。だから、CランクでもSランクを倒せる。本当に彼は、我々低ランクの希望の星だ』
その通りだ。あの子は我々の希望の星。あの子がこうして魅せてくれるから、みんなが元気になっていっている。魔力だ異能力種だと雁字搦めな考え方が、火蘭ちゃんを傷付けて、姉さんを狂わせた。
その鎖を見える様にしてくれたのが、あの子だ。
私は、モニターに映ったあの子の姿を観てそう思う。画面の中の蔵人は、必死に訴えていた。
魔力ではなく技能を。どんなランクも異能力種も、可能性を持っていると。
そう言って指し示す彼の指先が、光り輝いて見えた。
「地上に天井はない、ね」
堂々と宣言する蔵人の姿が、とても大きく見えた。
いえ。あの子は会った最初から大きかったわ。常識にハマらない大きさを、最初から持っていた。
きっとあの子はこれからも、私達の常識を超えて…いえ、貫いて行くのね。
蔵人の姿が歪み出した時、急にドアがノックされた。
なに?こんな時間に。もう寝る前なんだけど?
私は慌てて目元を拭い、ドアを開けた。
そこには秘書が立っていた。
「大変です!社長。緊急事態が!」
「何が起きたの?」
ただならぬ様子に、私が気持ちを入れ替えて聞き返すと、秘書は青い顔のままに言う。
「事務所の電話が鳴りっぱなしです!相手はアメリカとか中国とかドイツとか、とにかく海外からの国際電話がひっきりなしにかかってきていて…」
「それって…今日の試合で?」
嫌な予感がしてそう聞くと、秘書はしっかりと肯定した。
「内容は殆ど一緒です。巻島の異能力スクールに、自分の子供を入れてくれと。定員いっぱいだと断ったんですけど、講師だけでも出張公演してくれって聞かなくて…。中には、費用は全額持つからこちらに支部を建ててくれなんて言う猛者も居て」
そうでしょうね。
私は目を瞑る。
黒騎士と巻島を結び付ける事が出来る時点で、電話を掛けてきている人達はそれ相応の権力を持つ者ばかりでしょうから。
つまり、下手に無視することも出来ない人達だらけ。
「ああ、もう、分かったわ。今すぐ会社に戻ります」
私は持っていたグラスを煽って、秘書の背中に付いていく。
蔵人。あんた、オリンピックが終わったら覚悟しておきなさいよ。
〈◆〉
「うん?」
ホテル裏の庭園で柔軟体操をしていたら、急に寒気を感じた。
なんだ?風邪か?いや、何処も痛くないし、気だるい感じも全くしない。という事は、これは何か良くない予兆だろうか?
どちらにせよ、ここで切り上げた方が良いだろう。明後日には大事な決勝戦があるのだから。
そう思ってホテルの入口へと戻ると、駐車場で誰かが空を見上げいるのが見えた。黒髪を靡かせて、自分に負けない鋭い目付きで空を睨みつける少女に、蔵人は声を掛ける。
「日向さん」
その少女は、日向華瑠羅さん。紫電を2つ名に持つCランク王者。
そんな2つの名前を持つ彼女が相手だから、なんて呼べばいいか一瞬戸惑ったけど、フルフェイスじゃないから名前で呼んでみた。
でもそれは、間違いだったのかもしれない。彼女の鋭い目が、そのままこちらをギロリと睨みつけてきた。
「てめぇ。喧嘩売ってんのか?」
うぇ?
「カルラで良いっつっただろうが!」
え?
…あっ、そう言えば、全日本の開会式前にそんなやりとりをしていたな。あれから顔を合わせる機会がなかったから、昔の呼び方で声掛けしてしまった。
「ごめん。忘れてたよ」
「ちっ。ったく、てめぇは」
舌打ちをするカルラさんだが、目は少しだけ優しくなった。
怒りを鎮めてくれたかな?
「それで?星を見ていたのかな?」
こんな明るいところで見ても、一等星が辛うじて見える程度だろう。ホテルの屋上にでも行けば、少しはマシになると思うのだが…。
そう思ったが、カルラさんは「ちげえよ」と自虐的に笑った。
「ただ考え事をしていただけだ。今日の試合、どうしたら勝てたのかってな」
ふむ。ということは、今日の試合で負けてしまったと。
彼女が参戦しているシングル戦は、確か今日で準決勝から決勝戦までやると聞いていた。だから、彼女はその何処かで負けてしまったということか。
「相手は誰だったんだい?」
そう聞くと、また少しだけ目が怖くなるカルラさん。
でも、直ぐに目を伏せて小さく零す。
「中国の清麗だ。準決勝で当たって、そこで負けた。手も足も出なかったぜ」
マジか。カルラさんであしらわれるレベルって、あいては相当の手練れなのか。
これは、是が非でも試合の映像を見なければと、蔵人は部屋に帰った後の予定を立てる。
だが、そんな蔵人の前に、カルラさんが仁王立ちとなった。
「なぁ、黒騎士。ここであったのも何かの縁だ。少し俺に付き合っちゃくれねぇか?」
「おいおい。待てよ。ここでやり合おうってことじゃないだろうな?サポートゼロだぞ?」
冗談キツイよと、蔵人は両手を上げる。
だが、カルラさんの表情は変わらない。変わらず、真剣な目で訴えて来る。
「堅いこと言うな、黒騎士。今、俺が頼れるのはお前しか居ねぇ。中国Sランクの王華を倒したお前なら、あの清麗だって倒せる筈だ。頼む黒騎士。俺はこのまま、負けたままでなんかいられねぇんだよ」
「ふむ。そうか」
彼女は本気らしい。
本気で、世界王者に勝つ方法を探しているみたいだ。
もしかしたら、彼女は自分を待っていたのかもしれない。彼女の言動から、今日のファランクス戦の結果も知っているようだし、もしかしたら我々の戦いを見ていたのかも。
Sランクとの一騎打ちも、全部。
「分かった。相手をしよう」
「よっしゃ!行くぜ!」
「待て、待て、待てぇいっ!」
飛び掛かってきたカルラさんを、蔵人は盾で押さえ込む。
全く、気が早いと言うか、荒々しいというか。
「良いかい?カルラさん。相手をするのは明日だ。明日の昼前くらいにでも、トレーニングセンターでやり合おう。その方がサポートも充実していて安全だ」
「明日の昼か。それだと、チーム戦の決勝戦を控えた中国とアメリカの選手達とも鉢合わせそうだな」
おや?そうなのか?
「それに、お前は良いのかよ?ファランクス決勝戦の前日だぞ?」
おお。そんなことも把握しているのか。やっぱり米田さんが選手でいるから、そこらへんも気になっているのかな?
「構わないよ。俺はCランクだから、魔力回復も早い。寧ろ、ここで怪我する方が問題だ」
それにと、蔵人は続ける。
「一晩明けてくれた方が、より効率的に君の相手が出来る。今晩で清麗選手の試合を見て、彼女の動きを把握しよう。そうしたら、より具体的な清麗対策が出来ると思うよ?」
「なっ、お前、そんなことまでしてくれるのか?」
カルラさんは驚いているが、当然のことだ。やるからには徹底的に調べねば。
「今日の君達の試合をじっくりと見させてもらって、対策を考えてみるよ」
だから、大船に乗ったつもりでいてくれ。
そういう思いで、蔵人は胸を叩いた。
でも、カルラさんはそれを、怪訝そうに見上げてきた。
うん?どうしたの?
「俺の試合じゃなくて、剣聖と清麗がやり合った試合を見ろ。昨日の朝一、準々決勝の3試合目だ」
「ああ、そうなの?じゃあそっちも見せてもらって…」
「そっちもじゃない!そっちだけ観ろ!いいか?俺の試合は見るな!」
何故だ?
蔵人が肩を竦めると、カルラさんはバツの悪そうな顔で俯く。
「俺の試合は、アレだ。そんなに参考にならない。剣聖は時間いっぱいまで戦っていて、有効打もいくつか取った。だから、そっちの方が参考になるぞ」
ふむふむ。なるほど。
カルラさんはどうも、納得できる試合が出来なかったみたいだ。それだから、こんなに試合を見るなと言っている。そして、星を見上げていたのは後悔が募っていたからか。
「分かった。剣聖選手が戦った方を見させてもらうよ」
「本当だろうな?」
「勿論さ」
勿論、君の試合も見させてもらう。じゃないと、対策の立てようがないからね。
蔵人は心の中だけでそう呟いて、カルラさんと明日の予定を立てるのだった。
そして、翌日。
蔵人はトレーニングセンターへと向かっていた。
その足取りは、重い。
何故か。
それは、良い笑顔の敏腕記者が帯同していたからだ。
「…本当に来るのか?若葉さん」
「勿論だよ。こんな最高のスクープを逃したら、一生後悔することになるだろうからね」
そんな期待の籠った目を向けられても、俺達はただトレーニングをするだけだ。明日は試合だし、君が期待している程の激闘は見られないと思うが?
蔵人がそういうニュアンスで伝えても、若葉さんの目の色は変わらない。
これは来るなと言っても来るパターンだ。そもそも、来るななんて言えない。彼女のお陰で、清麗選手の試合映像を観れたのだから。
「でも驚いたなぁ。蔵人君と紫電選手の間に、特別な関係があったなんて」
「なぬ?特別な関係?」
「だってそうでしょ?態々ファランクス決勝の前に蔵人君を呼び出す程、紫電選手は君のことを信頼しているってことだし、蔵人君だって昨日、あれほど一生懸命に清麗選手のことを調べていたからね。2人がそんな間柄だったなんて」
「おいおい。まさか君、そんなことを探る為に着いて来ているのか?」
紫電VS黒騎士の絵を撮りたいから着いて来ているのかと思ったが、まさかの色物欲しさだったか。
蔵人が眉間に深い溝を作ると、若葉さんはケラケラ笑いながら「両方だよ~」と走り出してしまった。
全く。そんなことの為なら連れて来るんじゃなかった。
蔵人はため息を一つ吐いて、彼女が去って行った方へと走り出した。
そうして暫く走っていたのだが、彼女の姿は全然見えない。
もしかしたら、強制送還されることを危惧して、先に会場でスタンバっているのかもしれない。手ぶらのように見えたが、忍者若葉は何処から道具を取り出すか分からない。今頃一番いい席で複数のカメラをセッティングしていても、なんら不思議じゃない。
やはり、若葉さんじゃなくて鶴海さんを頼るべきだったかと、蔵人は肩を落として歩き出す。
すると、何処からか唸り声が聞こえた。
周囲を見渡すと、向こうの方に自動販売機と睨めっこをしている少女が見えた。
何をしているのだろうか?
【無い。無い。コイツ…でもないな。くっそぉ〜…本当にあるのか?そんな物…】
何かをお探しの様子。
蔵人は少女が気になった。何せ、鶴海さんに似た紺色の長髪を持っているから。加えて、アジア人の容姿でありながら、流暢な英語を喋っていたから。
不思議な娘だ。
【失礼。何かお探しですか?】
蔵人も英語で話しかけると、少女は飛び上がってこちらを向く。その背中を丸めて構える様は、まるで猫の様だ。
【シャァアア!】
あっ、いや。猫だったわ。
【驚かせてしまい、済みません。何かお手伝い出来るかと思ったのですけど…】
蔵人が頭を下げると、少女は構えを解いて目を大きく開いた。
【えっ?男?】
漸く気付いたみたいだ。
今回蔵人は、サングラスに帽子と簡易的な変装しかしていない。
選手村はセキュリティも万全だし、他選手を襲ったりしたらレギュレーション違反で失格である。ここまで来て、棒に振る奴はそうそう居ない。
だけど、襲う手前まで来る人は居る。執拗に連絡先を聞いてきたり、ストーカー行為をされる事もあると聞く。
もしも彼女がそのタイプであったら、すぐに龍鱗で逃げてしまおう。
そこまでを考えて、心構えをしていた蔵人。
でも少女は近付く所か1歩引いた。
加えて、
【いえ、その…お手伝いとか、結構なんで…】
凄く困った顔で、完全拒否してきた。
これは、増々面白い少女だ。
いよいよ決勝戦!
と、思ったのですが…。
「寄り道か。それもまた一興」