325話〜大きくなられましたね〜
「(低音)分かってはいたつもりなのだがなぁ…」
湯船に入り、何度目になるか分からない言い訳を吐きながら、蔵人は本日の失態を振り返る。
老人になったものだから、何処か気持ちの隙間が出来てしまったのかも知れない。もうこの体に欲情する者は居ないだろうと、高を括っていたのかも。
そんな事はなかった。
確かに、男性は歳を取るだけ性欲が減退し、若い頃の様には元気に立たない。だが、出来ない訳では無い。
通常の世界であれば、相手が特殊な趣向を持ち合わせているでもなければ、彼女達の選択肢には到底上がらない年齢層である。だが、高ランク男性が希少なこの世界では、その常識が当てはまらない。
現に、彼女達の様子からは、こちらを異性として見ている雰囲気も感じられた。
勿論、今まで向けられてきたような、射殺されそうな鷹の目に比べたら弱弱しい物だ。でも、あまりに過剰な接触を繰り返すと、万が一という可能性もある。
気を引き締めねばなるまい。
「(低音)と、頭では理解していた筈なのだがなぁ…」
蔵人は再び零す。
そして、そんな後悔を洗い流す様に、勢いよく湯船を顔にかけて立ち上がった。
くよくよしても仕方が無い。次に活かすぞ、と。
風呂から出た蔵人は、自身に割り当てられた部屋へと向かう。
大野さん部屋の近くだ。男性は2階で、女性陣が1階という割り振りみたいだ。
そう言えば、関東大会のホテルもそんな割り振りだった。きっとそれが、この世界のスタンダードなのだろう。
蔵人が部屋に入ろうとしたら、大野さんの部屋のドアが開き、そこから大野さんが顔を出した。
「出たか。少し時間をくれ」
そう言って、こちらの返答も待たずに引っ込む大野さん。
なんだろうか?さっきの事?
掴んでいたドアノブを離し、蔵人は大野さんの部屋へと入る。
「爺さん、先ずは謝らせてくれ。着いて早々に驚かせちまって、悪かったな」
蔵人が部屋に入ってすぐ、大野さんが頭を下げてきた。
彼の言う驚かせたとは、玄関での戦闘を指しているのだと思う。
「(低音)謝罪頂く必要はありませんよ、大野さん。確かに、少々驚きはしましたが、良い運動になりました。それに、あれは私に適性があるかを見極める為に行った試験。違いますかな?」
黒騎士としての戦闘能力を把握したかったのだろう。メディアや運営は持ち上げているが、それが本物の力なのか、はたまた作られたものなのか。
後者であれば、匿う必要性が薄れると言うもの。
それ故に、大野さんはテストした。
そう考えた蔵人の返しに、大野さんは表情を曇らせた。
「ああ、そうだ。あれは爺さんをテストする目的だった。偽物なら、そのまま玄関から放り出すつもりでな。その後にやってた嫌がらせも、似たような意味だ」
「(低音)…うん?嫌がらせ…ですかな?」
そんな事されたっけ?
蔵人が必死に思い出そうと眉を寄せると、大野さんは「おいおい、爺さん」と首を振った。
「玄関を1人で掃除させたり、キッチンでも色々とこき使っただろうが。あんな事、普通の男だったら憤慨するか駄々をこねるかするもんだ」
「(低音)ああ、なるほど」
あれは嫌がらせだったのか。普通に、使用人としての業務かと思ったが。
だが、良く考えれば彼の言う通りかもしれない。今の自分は家政夫という身分だ。だが、その身分は偽りの物で、本当は護衛対象の中学生。お忍びの人間がいきなりこき使われたら、そりゃ反感を覚えもするだろう。
蔵人が納得していると、大野のさんの目が細まる。
「何度も聞くが。爺さん、あんた本当に特区の男なのか?俺の命令は素直に聞くし、その上、求めた以上の成果を出しやがる。俺の調理スピードに着いて来れる奴なんざ、そうそう居ねぇ。特にヤバいのが、さっきの食卓での事だ。たった数十分喋っただけで、あのクソガキどもと打ち解けちまったじゃねぇか。あいつら、今じゃ完全に爺さんの事を家政夫として認めていやがるぞ。あんたのその物腰の柔らかさ、加えてその話術は、とても中学のガキに出来るもんじゃねぇ。まるで長年良家に仕えていた使用人かってくらい、あんたの言動は洗練されてる。本当はお前さん、年齢と経歴を相当誤魔化してんじゃねぇか?」
「(低音)はっはっは。何を言われています。私はこのとおり、歳だけ重ねた年寄りですよ?」
いやぁ、流石は大野さん。特殊部隊の兵隊さんは恐ろしい。
蔵人は、大野さんの慧眼に内心でヒヤヒヤして、表層では笑顔を取り繕う。
その笑みを、暫く訝しそうに見つめる大野さんだったが、やがてふっと笑った。
「まぁ、確かに。年相応の危うい面もあったか。なんの警戒も無しに女を褒めるなんざ、正気の沙汰とは思えねぇぞ、全く。もしかして爺さんは、これまでずっと箱入り息子だったのか?」
「(低音)世間知らずという面では、間違いではありませんね」
ここではない世界を箱と例えるなら、正解ですらある。
「ふんっ。まぁ、兎に角だ。あんまり気安く接し過ぎて、ボロを出したりはするなよ?ガキどもは、普段はああやって学生の振りをしているが、中身は士官候補生だからな。ちったあ目も鼻も聞くからよ」
「(低音)ああ、やはり軍の施設なのですね。私の聞き間違いではないかと思い始めていましたよ」
あまりに、普通の日常が広がっていたからね。何かの手違いで、違う物件にでも連れて来られたのか不安に思い始めていた。
蔵人が安堵すると、大野さんが片頬を引き上げる。
「そいつは誉め言葉と取らせて貰うぜ。何せ俺達は、一般人にそうやって思って貰うために、こんな事をしてんだからよ」
「(低音)なるほど、敢えて一般的な生活を送っていると」
という事は、これは一般人に成りすます為の訓練みたいなものか。軍人とは、どんなに気を付けていても、仕草や言動からきな臭さが滲み出てしまうもの。そういうのを消すために、ここで一般家庭の学生生活を送っていると。
そうすると彼女達は、スパイか工作員の卵なのかもしれない。
「ああ、そうだ。特に美来と恵美には気を付けろ。美来の奴は純粋そうに見えるだろうが、その実、人の事を良く見ている。未来視異能力者だからかも知れねぇけど、人の事を良く見てんだ。それで、態度とか表情とかから人間性を見極めようしてくる。記憶力もいいから、ポロッと漏らした情報が、後でとんでもない形で返ってくる事もある」
「(低音)それは恐ろしい」
まるで体験した事があるかの様な大野さんの言い様に、蔵人は重々しく頷く。
大野さんも、何か痛い目を見たのだろうか?
美来さん。小さいながらも、中身は立派なスパイの道を歩んでいるという子とか。
「恵美の場合は、頭や人間的な能力は残念な奴だが、扱う異能力が厄介だ。アクアキネシスで作り出すあいつの眷属が、遠くの音まで拾って来やがる。この部屋は防音防視だからまだいいが、爺さんの自室や他の部屋での発言は聞かれていると考えてた方がいいぞ」
「(低音)ほぉ。アクアキネシスで盗聴ですか」
何処となく、鶴海さんを思わせるアクアキネシスの使い方だ。もしかしたら、ここにいる人達って覚醒者、もしくは覚醒しかけている人達なのでは?
もしもそうだとしたら、自分をこの寮に入れた、ディさんの考えが分かる気がする。
あわよくばここの人達を、完全に覚醒させてくれと言う彼の目論見が。
「ああ、いや。脅すつもりはもうねぇぞ?家政夫としての腕前も十分。さっきのやり取りで、あいつらもそれなりに爺さんの事を認めただろう。俺としちゃ、このままここで住んで欲しいと考えているんだが、爺さんはどうだ?」
「(低音)ええ、喜んで。明日にでも荷物を持ってきたいと考えております」
蔵人が即答すると、大野さんは目元を緩めて手を差し出してくる。
蔵人が握手に応じると、しっかりと硬く握り返して来た。
「そいつは嬉しいねぇ。やっとまともな同性が入って来てくれてよぉ」
「(低音)おや?その口ぶりから察するに、私の前にも家政夫をお雇いに?」
「ああ、そうだ。3人程雇ったんだが、どいつもこいつも使えねぇポンコツばかりでよ、すぐに独身寮に逃げ帰っちまった」
ああ、だからレオさんは「どうせ直ぐに居なくなる」と言っていたのか。恵美さんの冷たい目の正体も、きっとその3人の男達に愛想を尽かせた結果なのだろう。
握手を解くと、蔵人は明日からの予定を大野さんから聞き、彼の部屋を退室した。
と、そこで。
「ねぇねぇ。お爺ちゃん」
ニコニコ顔の美来ちゃんが、大野さんの部屋の前で待ち構えていた。
「(低音)おや?こんな時間にどうされました?美来さん」
大野さんに注意を促された事で、余計に彼女との会話に緊張を覚える。
大丈夫だよな?彼女の異能力は未来視だから、心の中までは読まれない。この表情さえ気にしていればいい筈だが…緊張が表情に現れていたりしないよな?
蔵人が笑顔で構える先で、美来さんは小さく首を傾げた。
「お爺ちゃんが寮長さんに呼び止められてるのを見たから、気になったんだ」
「(低音)そうでしたか」
見たって、何処から見ていたのだろうか?もしかして恵美さんにでも会話を拾われていたのかもしれない。
蔵人が余計に心を硬くしていると、美来ちゃんは蔵人が背負う大野部屋の扉を指さす。
「寮長との面接だったんでしょ?どうだった?」
「(低音)え?ええ。合格を頂けましたよ。明日からもよろしくと、握手までして貰えました」
蔵人が誇らしく右手を見せると、美来ちゃんは「すっごーい!」とその手を取って、その場でぴょんぴょん飛び跳ねた。
「じゃあ、明日からも一緒だね!お爺ちゃん」
「(低音)ええ。よろしくお願いしますね?美来さん」
「うん!よろしくね、お爺ちゃん!」
美来ちゃんは満面の笑みでそう言って、スキップをしながら1階へと降りて行った。
なんと言うか、孫娘を見ている気がして、とても心がほっこりする。
これが純粋な彼女の好意なのか、はたまた表面上で見せているだけの演技なのか。
そう思いかけて、蔵人は首を振る。
いやいや。ここで変に勘ぐってしまうと、余計にボロが出る。彼女達に怪しまれない様に、ここは素直に受け取っておこう。
蔵人はそう結論付けると、自室へと戻っていった。
翌日。
日曜日。
蔵人は橙子さんと共に、巻島本家に来ていた。
目的は、特区外の家からここに運んだ私物を回収する為だ。あの家に戻ってしまうと、パパラッチや野次馬などがまだまだ大量に居るらしい。その為、流子さん達が事前に運び出してくれていた。
本当に、彼女には感謝しっぱなしだ。事前に、柳さんを逃がしてくれた事についても。
その柳さんだが、今、蔵人の目の前に立っていた。
荷物の引き取りを蔵人と同日にする事で、再会する時間を作ってくれたのだ。
この配慮は、蔵人の横に立つ瑞葉様がしてくれた物。
本当にこの2人には、頭が上がらない。
「坊っちゃま」
柳さんが、ゆっくりとこちらに歩いてきた。
何処か浮かない顔でこちらを見て、その瞳がウルルと揺らぐ。
柳さんはこれから、一条家に行くらしい。そこで、ディさんの補佐を任されるのだとか。
勿論、彼女は軍属では無いから、陸軍大佐としてのディさんではなく、一条家の彼の補佐をすることになる。
軍属である彼だが、一条家の一員として、色々と事業も手掛けているらしい。それらをサポートするための一職員として、柳さんは採用されたのだ。
柳さんはハイスペックだからね。家事だけでなく、英語やフランス語などの通訳も出来るらしい。
ディさんの目的は、技巧主要論を世に広める事。きっと、彼の進む道に彼女が必要となるのだろう。
だがそうなると、蔵人との接点は激減する。
ディさん繋がりで会うこともあるだろうが、今までみたいに毎日顔を合わせることは出来ない。
それを理解しているから、彼女の瞳は今、揺らいでいるのだろう。
その目を見せまいと、柳さんは横を向いた。
彼女の視線の先では、巻島の使用人達がせっせと動いて、我が家から持ち出した私物を並べていた。
2週間前には一波乱あった宴会場に、次々と並んでいく蔵人達の荷物。まるで、警察が押収品を陳列する様に、理路整然と並べられていく。
ああ、パンツをそんな風に並べてしまうと、まるで下着泥棒を働いたみたいに見えるじゃないか。やめてくれ。
「凄い量ですね。家電や家具は含まれていないのに」
「ええ。僕らのだけでなく、頼人や元母親のもありますからね」
一面に並べられていく物品に、蔵人達は目をあっちこっちに迷わせる。
これを全て持っていく事は出来ないから、ここから選りすぐりの精鋭達をピックアップせねばならない。
先ず必要なのは、トレーニング用のチューブだろ。着替えに、日用品、あとトレーニングウェアと腹筋ローラー。プロテインはどうしようか?今回買った奴、味が好みじゃなかったんだよな…。
蔵人が必要品のピックアップで目を忙しなく動かしていると、蔵人の隣に並んでいた柳さんが、何かを拾い上げた。
「色々とありましたね。楽しい事ばかりではありませんでしたが」
そう言う柳さんが両手に抱えたのは、半分に切られた姿見であった。断面は綺麗に修復されているが、半分になってしまったそいつは、以前の様な働きは出来なくなっていた。
そう言えば、ずっと部屋の端で潜んでいたな、そいつ。
蔵人が姿見を見下ろしていると、柳さんがこちらを見上げてくる。
「覚えていますか?蔵人様。この鏡」
「ええ。頼人が本家に引き取られて、そのショックで暴走した母親の被害者ですね?」
ヒステリーを起こした母親が、あろう事か我々に向かってウォーターカッターを放ってきたあの事件だ。
何とか防御が間に合ったから良かったものの、玄関は滅茶苦茶に荒らされてしまった。その被害者1号が、この子だ。
「もしもあの時、蔵人様が守って下さっていなかったら、こうなっていたのは私の方でした。それを思うと、今でも恐ろしく感じます」
そうだろうな。実際、原作で柳さんは死んでいる。この世界ではそれを防ぐ事が出来たが、恐怖までは拭えなかったみたいだ。
特に、それをしでかした相手は元親友。蔵人で言えば、頼人や慶太から牙を剥かれる様なものであった。その恐ろしさは、黒戸も経験したことがあった。
震える手で、姿見を持つ柳さん。
そこに、緊張気味の使用人の青年が近づいてくる。
「あっ、えっと、もしも要らない物がありました、お申し付け下さい。こちらで処分致しますので」
「ええ、ありがとうございます。ですが、これは大切な物なので」
柳さんはそう言って、姿見を大事そうに抱える。
「確かに、今でもあの時を思い出すと、震えが止まらなくなります。でも、それと同じくらいに、とても嬉しくもあるんです。坊っちゃまが私を守って下さったという事が。蔵人様と共に過ごしたあの日々が、確かにあったのだと証明してくれるみたいで…」
柳さんの目から、一雫の涙がこぼれ落ちる。
その涙が落ちる前に、蔵人はそれを掬い上げる。
新たな道へと踏み出すことに震える彼女に、そっと声を掛ける。
「柳さん。僕達はこれから、新しい道を歩みだそうとしています。貴女に守られていた僕は、僕自身を守り、そして、仲間達を守っていきます。柳さんも、僕を守る執事という立場から、ディさんを、そして彼が目指す理想を支える立場になっていくと思います。きっとお互いに、大変な道になるでしょう。でも、僕らにとってその道は、確かに前へと進む道だと思います。貴女はこれから、柳綾子という物語の主人公になるんです」
「蔵人様…」
柳さんが、こちらを見上げる。
蔵人はそれに、力強く頷く。
「それでも、これまで歩んできた道は無くなりません。振り返れば、貴方がいます。貴女と過ごした13年という月日は、僕を強くしてくれます。貴女に育てて貰ったこの掛け替えのない思い出が、僕の背中を押してくれます。だから僕は、この思い出を忘れません」
「坊っちゃま!」
柳さんが、蔵人の胸に飛び込んできた。
蔵人が彼女を受け止め肩を抱くと、柳さんの涙声が胸に響く。
「私も、坊っちゃまと過ごした日を、忘れません。それを胸に、糧にして、新しい人生を歩きます」
「貴女なら出来ますよ。だって、特区の分厚い壁も突破出来たのですから」
「はい。坊っちゃまの、見よう見まねですが」
そう言って、柳さんは蔵人を見上げる。
赤くなった瞳からは、もう新たな涙は溢れていなかった。
真っ直ぐに輝く瞳が細まり、小さな笑みを作る。
「大きくなられましたね、蔵人様。少し前まで、私が抱き抱えていましたのに」
見上げる柳さんが、手をかざす。彼女と蔵人との差を楽しむ様に、背比べをする。
蔵人もそれに、微笑む。
「本当ですね。きっと、柳さんのご飯が美味しかったからですよ」
蔵人は、目の前にかざされていた柳さんの手を取る。
彼女を、真っ直ぐに見る。
「今まで育ててくれて、ありがとうございました。僕に取って柳さんは、かけがえのない家族で、大切な人で、そして、僕のお母さんです」
「蔵人、様」
柳さんは、また泣き出してしまった。
だから蔵人は、彼女を抱き寄せて、涙を見ない様にした。
胸の中で震える彼女の背に、そっと手を添える。
「行ってきます。お母さん」
「はい…ええ…。行ってらっしゃい、蔵人様」
いつの間にか2人だけになっていた部屋で、蔵人達は暫くの間、抱擁し合っていた。