301話〜分からねぇだろうさ〜
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今話は他者視点です。
東京特区台東区、アメヤ横丁。
通称、アメ横。
ここでは、真冬の深夜であるにもかかわらず、多くの店が煌々と明かりを照らして、道行く酔っぱらいを誘っていた。
そこを良く誰もが楽し気に声を上げ、本日何度目になるのか分からない乾杯を響かせていた。
「「かんぱ~い!」」
お店の一角で、スーツ姿の女性3人組が真っ赤な顔に陽気な声で、大きなグラスを勢いよくかち合わせていた。そして、一気にそのグラスを煽り、中身が半分くらいまで消えたグラスをテーブルに置いた。
「いやぁ!寒い夜に飲むビールは、また違った風情があるねぇ!」
「外は寒いけど、店の中は暑いくらいだからね。最高の贅沢って奴さ!」
「気持ちも昂ってるし、キンキンに冷えたビールが丁度良いねぇ!」
「ホントそれ。私はまだ、昨日の試合が目に焼き付いてるよ。いやぁ、何度思い返しても凄い試合だったねぇ。まさかCランクが王者を倒すなんて」
「今日だって凄かったよ。試合ではAランクの選手を全く寄せ付けなかったし、終わった後も空を飛んで手を振ってくれたんだ。めっちゃ優しい人だよ、黒騎士君は」
黒騎士の試合を観た2人は、少し遠い目をしてその時の試合を思い出している様だった。
それを、2人より少し幼い容姿の女性が羨まし気に見つめる。
「いいなぁ。私も先輩達みたいに、黒騎士君の試合を観たかったです…」
「何言ってんだよ。あんただって明日の試合、チケット当たってんだろ?」
「そうですけど、Bブロックの試合なんですよ。延沢選手は強いですけど、一瞬で勝負が決まっちゃうから詰まらなくて…。黒騎士君みたいに、空を飛んでくれたり、甘い声で語り掛けてくれたらなぁって」
「ってか。黒騎士君が男の子だから観たいんでしょ?」
「当り前じゃないですか。男の子が頑張っている姿を同じ空間で眺めるなんて、小学生以来ですよ?」
「あんたは分かってないね。黒騎士君は男の子ってのもあるけど、CランクでAランクをぶっ飛ばすんだよ?そんな熱い試合、早々見られない奇跡だよ」
拳を高々と上げる女性に、童顔の女性は少し憤慨した様子で頷く。
「勿論、分かってますよ。だから、明日の試合も生で見たかったんですよ。でも無理なんで、大人しくテレビの録画を見ることにします」
「それが良いよ。私も、明日は黒騎士君の特番の為に、仕事を速攻で終わらせて定時で帰る!」
「よぉし。じゃあもう一回乾杯しよう!明日の黒騎士君の勝利を祈って!」
「もう日付も変わっていますから、正しくは今日の試合、なんですけどね」
愚痴も時折漏れ聞こえるが、煌々と照らされる飲み屋の明かりに負けないくらい、そこにいる人達は陽気な笑い声を上げ続ける。
彼女達の多くは、直ぐ近くで開かれている全日本の話題で持ち切りだ。
その誰もが、数時間後に始まる試合を楽しみにしており、特に黒騎士がまた凄い事をしてくれると期待を膨らませていた。
当の本人が、今現在も苦しんでいる事とは露知らず。
〈◆〉
東京特区の山奥。
東京都心とは打って変わり、人口の明かりが一切消え、真っ暗な闇夜が世界を支配していた。
シンッと静まり返った山林の中で、低いフクロウの声が山間を木霊する。
そんな中、闇を割く人間の奇声が、突如として響いた。
「キッシャァア!」
「くっ!」
木の上から飛び掛かってきた杏樹の一撃を、黒騎士がランパートで受け止めた。だが、受け止めた衝撃で、黒騎士は耐えきれずに半歩後退した。その彼の表情は暗く、全員倒すと豪語した時の勢いは完全に失われていた。代わりに浮かんでいるのは、少しの後悔と、深い疲労感による濃い影だけだった。数時間にわたる杏樹の奇襲に、黒騎士は体力と精神を大きくすり減らされている様子であった。
襲撃当初であれば、黒騎士は杏樹の攻撃を完全に受け止めてしまい、加えて反撃をするまで威勢が良かった。だが今は、ただ防衛するだけで精一杯であり、とても前に出てくる様子は無くなった。
これだけ黒騎士を追い詰められたのは、杏樹の後ろに控えるサポート部隊の恩恵も大きい。幾ら黒騎士からダメージを受けても、後に下がってしまえば直ぐに回復出来る。1対1で戦えないのは心残りだが、これで長い間黒騎士とヤリ合える方が大事だ。
黒騎士も、後方のサポート部隊には気付いているみたいで、下がる杏樹を必死に追いかけて来た。
だが、そこは杏樹のテリトリー。幾重にも張り巡らせた蜘蛛の糸が、黒騎士の接近を阻害する。糸は、一部をミスリルで白く輝かせ、ワザと見えやすいようにしていた。そうする事で、半透明の糸が見えにくくなり、黒騎士の足を絡めとっていた。
加えて、後方の妨害チームが作り出す障壁が、黒騎士の飛行を妨害している。木々よりも高い所に
作り出されたバリアのせいで、黒騎士はそれより上空を飛ぶことが出来ない。
これでは、高速で木々を飛び回る杏樹に追いつける筈もなく、黒騎士は地面を這いずり回り、悪戯に体力を消耗するだけであった。
そうしている内に時間が過ぎ、真冬の夜が深まる。
山を登って来た北風が吹きつけて、木々の枝に生い茂る葉が煽られる。その隙間から、僅かな冷気が杏樹の元に届く。
だが、その量は微々たるものだ。それよりも、目の前で盾を構える黒騎士の方が寒そうである。
山肌を撫でるように吹き上がる北風は、地面近くを走り去り、黒騎士には直で当たっていた。
真冬の山中。雪こそ降っていないが、気温はとうに氷点下を下回っている。その北風を直に受けた黒騎士は、ガードがズレるのもお構いなしに、盾で風を受け止めていた。
余程寒かったのだろう。こちらに問いかけて来た声が寒さで震えていた。
「寒くないのですか?そのような薄着で」
黒騎士はこちらを見上げながら、敵である杏樹の心配をしている。
いや、ただ共感して欲しいのかもしれない。
黒騎士の格好は、杏樹と同じ薄いジャージ姿。
いくら木々に守られていても寒いですよね?良ければエリアチェンジしませんか?
とでも言いたそうに問いかけて来た。
だから、杏樹は笑った。とんでもないと首を振りながら、黒騎士を見下ろした。
「何を言ってるんだい。こんなに血が沸くような楽しいデスマッチの中で、体を冷やしている暇なんてありゃしないよ!」
杏樹はそう言いながら、黒騎士を目掛けて木の枝から飛び降りる。黒騎士の盾に巻き付けた糸を手繰り寄せ、渾身の一撃を黒騎士へと叩き込む。
だが、黒騎士はその一撃を難なく受け止めた。
分かっている。流石に、まだまだ攻撃を受けるだけの体力は残っている事はね。
杏樹は盾の上に乗り、内側から膨れ上がる感情を空へと解き放つ。
「ああ!やっぱり楽しいねぇ。死と隣り合わせの戦いってのはさぁ。お膳立てされた試合が、幼児のおままごとに思えちまうよ。なぁ、あんたもそうは思わないかい?」
三日月に照らされた星々を見ながら、杏樹は恍惚の表情を浮かべる。
今まさに、足元で黒騎士が反撃してくるかもしれない。それすらも、杏樹にとってはこの殺し合いを彩るスパイスでしかない。相手を殺せるか、自分が死ぬか。その瀬戸際の攻防にこそ、一瞬の輝きがある。仮令、この感情が壊れた物でも、不治の病だとしても気にしない。これだけの快楽を得られるのなら、それが蛇の道だったとしても、ただ進み続けるだけだ。
そう思っていた杏樹の足元で、黒騎士が返答した。
「そうですね。死の緊張感がより感じられるという意味でしたら、同意しますよ」
「へぇ~…」
杏樹はつい、素の反応を返していた。
興味がそそり、その殆ど透明を失ったシールドの裏を見透かすように、目を細めた。
「なんだい?適当な事を言って、あたしの気を引こうって魂胆かい?」
そうではない事を祈りながら、杏樹は期待の籠った声で問い掛ける。
すると、黒騎士は寒さに震える声で打ち返してきた。
「異能力戦は確かに、死の危険があります。ですがそれは、あくまで競技の範疇での危険です。クロノキネシスやヒーラーが直ぐに回復してくれるので、そこまで恐怖は無いでしょう」
ああ、そうだ。クロノキネシスが余計な事をしてくれるから、死へのスパイスが味気なくなっちまうんだ。
スポーツとしての異能力大会では、それが当たり前なんだろうけど、そいつらが余計に、試合を形だけの物にしていると杏樹は思っていた。
「ですから、貴女が言う死と隣り合わせという言葉が、死への緊張感と同意であるならば、分からなくもないと思います。実戦経験でその感覚は、とても大事…だと思いますので」
まるで、実戦経験がある兵士の様な事を言う黒騎士。
なるほど。黒騎士は実戦を模して戦うのなら、死闘も一つの手と言いたいのだろう。あくまで彼の考えは、訓練の延長線上。決して、私と同じように死を捉えている訳でも、ましてやそれに対して快楽を感じる訳でもない。
似て非なる存在。
杏樹はそれが分かってしまい、膨らんでいた胸の中に冬の木枯らしが舞い込んできた様に感じた。
自然と、低い唸り声が漏れ出た。
「分からねぇだろうさ、あんたら多数派な奴らにはねぇ!」
杏樹は感情のままに盾を蹴りつけ、宙へと体を浮かせる。
足元では、黒騎士が回転する盾を飛ばしてくるのが視界の端に映る。それに、杏樹は糸を近くの木に結び付けて、更に上空へと逃げた。
杏樹を捉えられなかった盾が木々の向こう側へと飛んで行き、しかし、直ぐにこちらへとUターンをかましてきた。
まるで、フリスビーみたいだね。
杏樹はふっと笑って、着地するつもりだった木の枝を蹴って、再び黒騎士へと襲い掛かった。
黒騎士の目が大きく見開かれ、慌てて盾を構え直した。
逃げると思ったのかい?甘いよ!
杏樹は水平方向に糸を出して、近くの木の幹に巻き付ける。それを少しだけ引っ張り、体を斜め前に移動させて、黒騎士が突き出した盾の横をすり抜ける。
盾を構えていた黒騎士の横顔が、直ぐ近くに現れる。彼の黒い瞳だけが、杏樹の方へと向いた。
不安そうに揺れる瞳。子犬の様に動揺する男の子を相手に、しかし、杏樹は手を緩めない。黒騎士に向かって素早く糸を飛ばし、彼の体をグルグル巻きにする。
拘束、完了。
「そぉらよぉ!」
杏樹は、黒騎士を拘束した糸を思い切り振りかぶる。サイコキネシスの腕も使った力いっぱいの遠投に、黒騎士は糸を切るのも間に合わず、強力な遠心力を体に受けながら、ハンマー投げの様に振り回される。
そして、その勢いが最高潮に達したところで、黒騎士の体を大木の幹に思い切り叩きつけた。
「がぁっ!」
背中を強打した黒騎士は、衝撃に短い悲鳴を上げるだけで、受け身も取れずに地面へと頭から落ちた。
そのまま、仰向けで地面に倒れる黒騎士。だが、奴のタフさは先ほどの絞首刑で味わった。この程度で気絶する程、軟な男じゃない。
杏樹は再び、糸を手繰り寄せて思いっきり振り回した。
「何時まで耐えられるかねぇ!」
渾身の力で振り回す糸。だが、途中でふっと軽くなった。
見ると、糸の先端に付けていた黒騎士の体が、いつの間にか無くなっている。そこにあったのは、切られた先端を寂しそうに揺らす、金剛の糸だけだった。
あの状況で糸を切ったのか。奴は何処に?
杏樹は忙しなく周囲を確認するも、黒騎士の姿は闇に溶けて見えない。
足音も…ない。もしかして、飛んでいるのか?
「逃げられるとでも思ってるのかい?」
杏樹は目を瞑り、意識を集中する。
探るのは、糸の動き。この山林中に張り巡らせた糸達の微細な振動を感じ、黒騎士が何処にいるのかを把握する。
走っているにしろ、飛んでいるにしろ、奴が通れば糸に振動が加わる。そこを辿ればすぐに分かる。黒騎士と言う、獲物の在処が。
そうして、意識を尖らせる事、数秒。
杏樹の手のひらに、微細な動きが伝わって来る。
大抵は、北風が通過する弱い反応だが、中に1つだけ、しっかりと一定間隔を刻む反応があった。
この空間に、白百合共は足を踏み入れていない。ならば、この足取りは黒騎士の物だ。
「みぃつけた」
杏樹は振動の方へと糸を手繰り寄せ、高速で木々の間を移動する。
すると間もなく、黒騎士の後姿を捉えた。
頭を低く下げ、小さな歩幅で走り回る姿は、さながら天敵に狙われるネズミの様だ。木々の間をジグザグに走っているのは、後ろから追って来る杏樹の存在に気付いたから。
大方、先程の糸攻撃を喰らわない為に、必死になって逃げ回っているのだろう。
その彼の姿を見ていると、先程失いかけた熱が、再びお腹のそこから膨れ上がってくる。脳が刺激され、えも言えぬ快感が体の内を走る。
彼の動きが、命のやり取りを彷彿とさせ、
「キッシィイイイ!!」
堪らず、声を上げて襲いかかってしまった。
それに、黒騎士は少しこちらを伺う素振りを見せただけで、進行方向を変えて回避してしまった。
過ぎ去る獲物の背を見ながら、杏樹は涎を拭く。
なるほど。なかなかキモの座った獲物だ。だけど、私もそれなりの狩人だよっ!
杏樹は彼が逃げた方向に糸を飛ばし、彼が今通り過ぎた先の木に巻き付けた。そして、それを手繰り寄せて高速移動する。
それを繰り返す事で、また直ぐに黒騎士の背後に迫った。
「ほらほら。追いついちゃうよ?」
煽る杏樹の声に、黒騎士はまたも小さくこちらを振り向くだけで、足早に先を急ぐ。
その素っ気ない態度に、杏樹は些か苛立ちを覚えるも、直ぐに気持ちを落ち着ける。
彼の思考を、先読みする。
きっと奴は、出口を探しているのだろう。この蜘蛛の巣から出て、麓に避難しようとしている。
だが、甘い。白百合の包囲網が出来上がった今、麓までは逃れられない。
それに、
「あたしの糸から逃れるなんて、そもそも無理なんだよっ!」
杏樹は黒騎士の頭上を飛び越え、彼の進行方向に糸を張った。
堪らず、黒騎士は急停止し、別の逃げ道を探るように、来た道を戻って行った。
…しぶといね。まだ諦めないなんて。
苛立ちが顔を覗かせたが、直ぐに無視して木々の間を飛び移る。逃げる黒騎士の姿を見て、快楽によって負の感情に蓋をする。
それでも、なかなか折れない黒騎士の姿に、少しづつ焦りに似た感情が湧き出す。
そこに、
『ウィドウ!何をしている!黒騎士を追い込め!もっと体力と魔力を使わせなさい!』
イヤホンから、無粋な声が割り込んでくる。それを聞いた途端、押し殺していた負の感情が、フッつと突沸した。
「黙れ。自分でガキ1匹殺せねぇ腰抜け共が。邪魔すんなら、てめぇらから始末してやるよ」
黒い感情を詰め込んで放った言葉に、無線の向こうは暫し沈黙する。そして、
『最終地点で待つ』
逃げるように言い放ち、無線が切れた。
余程殺されたくないみたいだ。最初からそうしてりゃ良いんだよ。
静かになった山林の中を、杏樹は黒騎士の足振動を頼りに飛び回る。寒々とした空気を吸う度に、ささくれだった心が落ち着き、冷静になっていく。
白百合の馬鹿どもの言う事も一理ある。あまり悠長に構えている場合じゃなくなってきた。視線の遙か先では、真っ暗だったシルエットだけの連山の頭に、薄らと明かりが広がりつつあった。
朝日だ。
タイムリミットが近づいて来ている。楽しい時間と言うのは、あっという間であった。
出来ればもう少し楽しみたかったが、仕方がない。黒騎士程ではないが、こちらも余裕が無くなってきた。
杏樹は木の上で背中を伸ばし、ふぅと重い息を吐く。
一晩中の鬼ごっこによって、杏樹も酷く消耗していた。さっきまでは、獲物を追う楽しさで誤魔化せていたが、太陽の片鱗を見た瞬間、疲労感が一気に押し寄せて来た。
そろそろ終わりにしようか。
杏樹は木の上で構え直し、黒騎士に向けて一気に飛び掛かった。
それを、黒騎士はいち早く察知して、杏樹から逃げるようにルートを変更した。
そのキビキビとした動きを見て、地面に着地した杏樹は目を見開いた。
…こいつの体力は化け物か。
驚きを超え、呆れに似た感覚を覚える杏樹。
このままでは、本当に作戦が失敗するかもしれない。
癪だが、あいつらが言っていた最終地点に向かうしかない。
「シャァアア!」
杏樹はワザと声を出しながら黒騎士に襲い掛かり、彼をその”最終地点”へと誘導した。
その”最終地点”とは、彼が自慢げに紹介していた展望スペースだった。
そこには、黒騎士にトドメを刺す為に、白百合の伏兵が待ち構えていた。
筈だったのだが、
「…どういうことだい?」
そこには、黒騎士以外に誰もいなかった。
今登ったばかりの太陽が、朝焼けに萌える山々を照らし、彼の背中も温めている。
作戦では、ここに来た黒騎士を無力化するために、複数の高ランク達が林の中で隠れている筈だった。
だが、その場所には誰もいない。糸からは、黒騎士と杏樹自身の振動しか伝わって来なかった。
既に、黒騎士にやられたか?
そう思って彼を見るが、彼は切り立った崖を背負い、こちらを警戒しているばかりだ。
その様子からは、彼が伏兵をどうこうした様には見えない。
では、伏兵は何処に行った?まさか、怖気づいて逃げ出したのか?
杏樹は、呆れて笑いがこみ上げそうになりながらも、ピンマイクに向けて声を吐き出す。
「リリー。居るなら返事をしな。居ないなら、好きにヤらせてもらうよ」
白百合共がその気なら、こちらは思う存分に暴れるだけだ。
契約上、殺すなら絞首と条件を付けられていたが、約束を違えるならこちらも同じことをするまで。
とは言え、魔力量も残り僅かだから、崖から突き落とすくらいしか出来ないけどね。
そう思っていた杏樹の耳に、奴らの声が返ってきた。
しかも、予想外の言葉だった。
『た、すけ、で…』
「あぁ?」
助けて?
杏樹は、黒騎士から目を離さないようにしながら、無線の先へと声を荒らげる。
「巫山戯るのも大概にしなっ」
『たずけ…首が…息が…にん、ぎょう、が…』
「人形だって?おままごとでもしてるのかい?」
杏樹の皮肉に、しかし、向こう側からは何の返答もなく、やがてノイズも聞こえなくなってしまった。
やはり逃げたか。これだから、群れるだけの奴らは…。
杏樹がイヤホンを地面に叩きつけていると、目の前から小さな吐息が聞こえた。
黒騎士だ。
まるでこちらを蔑むように、彼はため息を吐いた。
杏樹の中で、赤い感情が渦巻く。
「何だい?何か言いたそうだねぇ」
「おっと、失礼。どうも知人が無茶をしたみたいで、困ったものだと」
「知人?」
まさか、そいつが白百合の腰抜け共を倒したってのかい?
いや、ハッタリだ。
黒騎士の仲間がここに来られる筈がない。麓の街には、白百合の別働隊が控えていて、この山に誰も近付けさせない様にしている。
あのオンボロ小屋にでも住んでいない限り、ここには来られない。
ハッタリの筈。
それなのに、黒騎士は力強く構えて、こう言った。
「これは、僕も本気を出さないとですね」
そう言った途端、黒騎士は、
消えた。
ふっと、まるでテレポートでもしたみたいに、一瞬でその場から消えてしまった。
まさか、本当に援軍が来たのか!?
確か、黒騎士には遠隔でテレポート出来る仲間が居ると、白百合の情報にはあった。そいつは抑えているから大丈夫とも言っていたのに、嘘だったのか?
いや、テレポートならまだ良い。1番不味いのは、黒騎士がまだこの辺に潜んでいるパターンだ。
ドリルで穴を掘った形跡はないし、周囲に逃れた振動もない。この近辺30mは既に蜘蛛の巣エリアにだから、彼が動いていない事は明らか。
では、やはりテレポートで逃げたか?
杏樹は周囲を見回し、崖に目をやる。
もしかして、この先に落ちたのか?
そう思い、慎重に崖を隔てるロープから身を乗り出し、下を見る。
すると、
そこには、底冷えしそうな絶景が広がるばかりだった。
黒騎士は…居ない。
では、何処に?
そう思った、次の瞬間。
蜘蛛の巣に反応があった。
踏み込んだ振動。誰かが糸を踏んづけた。
黒騎士だ。でも、
反応は、杏樹の真後ろから。
あまりにも、近過ぎる。
そう思いながら振り返った杏樹の目には、
目と鼻の先に迫る、黒騎士の姿が映った。
回転する拳を振りかざした黒騎士の姿が、直ぐ目の前にあった。
「どうして、そこに!?」
黒騎士は、消えた筈の場所に、再び現れた。
一瞬で移動した?やはりテレポート?
頭の中で、疑念が渦巻く。
だが、それを吐き出すよりも先に、黒騎士のドリルが腹部に深く刺さり、
「ぐぁあっ!!」
杏樹の口からは、汚い声と物が先に飛び出した。
人形…やはり、彼女が…。
「あ奴も、何やら仕掛けたみたいだぞ?」
ディさんが助けてくれたのでしょうか?でも、延沢中将が彼を自由にさせない筈ですし…。
「兎に角、襲撃は回避出来たみたいだな」
でも、まだ試合がありますよ?
どうなるのでしょう…。




